マキノ雅裕      マキノ マサヒロ

旧名:マキノ雅唯(14歳子役当時?)/マキノ正博(助監督・俳優の何でも屋時代-18歳前後。1929年正博20歳、キネマ旬報ベストワン作品「首の座」を作る。)/マキノ雅弘(『映画渡世 天の巻・地の巻』の著者)

 「チャンバラ」、こんな言葉が映画ファンのお子様たちから立ち回りの表現語になったのは、私の十四、五歳の頃からだ。私は父(省三)が映画作家だったから、チャンバラゴッコはやらなかったが、よく町の空地で子供らのやっているのはみた。
「俺は目玉の松ちゃんやで-」「俺は阪妻や-」「わいは月形やぞ!」役名をいわないで俳優名での名のり、その子らがまねる形や姿がほんとうによく似ていたのに驚いたものだった。
 私がまだ役者に引っ張り出されない頃に父に聞いてみたことがある。父は笑いながら、
「松ちゃん(尾上松之助)は、歌舞伎のケレンからきた立ち回りやね。妻やん(阪東妻三郎)は楽隊屋はんの音にようあうのんや、チンチリトチチリ、こんな具合にや。ほんでチャンバラいうのはその楽隊聞いて、子供はんが作った言葉や。月形(竜之助)のはたしかに剣道から作り出しよった立ち回りや。正公(まさこう-私)、チャンバラの立ち回りがこんなに受けて、わしらは大助かりや、こりゃあ続くぜ……」
といっていた。

大正14年に私は役者になった。(「ちゃんばらグラフィティー」より

ちゃんばらグラフィティー      マキノ雅裕・監修  浦谷年良氏・編著  講談社 1981年4月刊