アジアの身分制と差別 編著者 沖浦和光・寺木伸明・友永健三 
発行 社団法人 部落解放・人権研究所
 発売元 株式会社解放出版社 2004930日初版第1刷発行 ISBN4-7592-6330-6

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まえがき

総論 身分制成立史の比較研究 日本の賎民差別とアジアの身分制 沖浦和光

1「国際身分制研究会」を起動させた三つの契機/2 アジアにおける身分制度の三つの源流/3 中国の身分制思想-荀子と韓非/4 インドのヴァルナ制とカースト制差別/5 なぜ身分制は解体されていったのか

第Ⅰ部 中国・朝鮮の賎民制

1章 中国の被差別民 山西楽戸をめぐって 好並隆司
はじめに/1 明・清代までの賎民・楽戸/2 楽戸の近・現代/3 楽戸の解放/4 日・中賎民の性質/5楽戸以前/6 後漢以降の音楽/むすび
2章 近世朝鮮の「白丁」と「奴婢」 『経国大典』を基に 梁 永厚
はじめに/1 白丁部落の形成-「才白丁団聚」条/2 白丁の生活/3 公賎と私賎-「奴婢法制」/4 奴婢身分の得失-金玉均の妻女/むすび

第Ⅱ部 インド・ネパールのカースト制差別

第1章 インドのカースト制度と不可触民差別 小谷汪之
はじめに/1 四ヴァルナ(種姓)社会理論の形成/2 カースト制度・不可触制度の形成/3 インド中世のカースト制社会と不可触民/4 イギリス植民地支配の影響/5 独立インドにおける留保政策(リザヴェーション)
2章 ガンディーと被差別カーストの解放 加藤昌彦
はじめに/1 ガンディーの中のハリジャンの位置/2 ガンディーとカースト制度、反近代/3 ハリジャン・ツアー/4 独立インドの中で-ダリットの政界進出/5 その後のガンディー主義者/おわりに
3章 ネパールのアンタッチャブル 桐村彰郎
はじめに/1 カースト制度の浸透・拡大/2 専制支配に利用されたカースト制度/3 ネパールにおけるカースト差別の現在-アンタッチャブルとは誰なのか?/4 ダリットの受ける差別の諸相/おわりに

第Ⅲ部 日本の部落差別

1章 インドの「不可触民」差別と日本の部落差別 その比較史的考察のための試論 寺木伸明
はじめに/1 被差別身分の起源/2 身分と結びついた職業/3 被差別身分に課せられた役務/4 差別を支えてきた宗教・ケガレ観念/5 祭祀へのかかわり/6 インドの「不可触民」差別と日本の部落差別の共通点と相違点/おわりに
2章キリシタン弾圧と部落差別 柳父 章
はじめに/1 キリシタンを恐れた権力者たち/2 殉教-想像を絶する「異文化」/3 キリシタン類族-幕府が作った血族というフィクション/4 キリシタンへの民衆の誤解と無理解/5 「境界人」としてのキリシタンと被差別民/6 平人、類族、賎民
3章 日本近世儒教における差別と解放 穢多身分をめぐって 三宅正彦
はじめに/1 海保青陵と『善中談』/2 千秋有磯と「穢多を治むるの議」/むすび

第Ⅳ部 現代と「身分」差別

1章 部落差別における人種主義 「人種」から「民族」へ 黒川みどり
はじめに/1 「天理人道」による「旧習」の否定/2 「人種」による線引き/3 人種主義の定着・浸透/4 「日本民族」への包摂/5 「国民一体」論と人種主義の併存/おわりに
2章 国連と「身分差別」問題をめぐる動向 友永健三
はじめに/1 国連の人権関係の会議での議論/2 若干の理論的問題/3 現代における身分差別/4 差別問題を考える基本的視点/5 差別撤廃の基本方策/6 差別撤廃の具体的方策/おわりに

執筆者紹介


まえがき

 部落差別は、日本における身分(的)差別の一形態であり、前近代に存在した身分差別に淵源を発するものであるが、従来、身分(制)は、古代や中世・近世の、つまり前近代における社会の固有の産物であると考えられてきた。しかし、日本を含めて諸外国の歴史と現状をみると近現代の社会にも身分制や身分が存在したし、また存在していることが明らかである。
 現在、世界には30カ国近くの王制・君主制国家が存在しているが、王・君主・天皇は明らかに身分である。また、インド・ネパール・スリランカなどの南アジアには身分制度の一形態であるカースト制度が残っている。最近では、国連人権小委員会において西アフリカや北東アフリカなどにも、職業と世系に基づく社会集団の存在が指摘されている。これらも身分集団であると考えられる。
 前近代の身分に関する研究は、相当の蓄積をもっていることはよく知られているが、近現代社会の身分制または身分の研究は、きわめて乏しいのが現状である。
 現在、日本社会においてなおさまざまな形態で存在している部落差別問題を解決するためには、近現代社会における身分制及び身分の問題を、その発生の起源から、また、国際的な比較社会史的な視野から研究していくことが、ますます重要になってきている。
 こうした問題への関心から、1995年4月より部落解放・人権研究所(1998年までは部落解放研究所)の調査研究事業の一環として、国際身分制研究会が立ち上げられたのである。
 第Ⅰ期3カ年で、14回の研究会を行い、のべ26人の研究報告を得ることができた。その成果は『国際身分制研究会中間報告書』(全204頁)として98年3月に刊行された。
 しかし、テーマの重要性に比して3カ年という研究期間はあまりにも短く、①時代的には近現代の身分(制)の前提をなす前近代の身分史の報告が多くなってしまったこと、②地域的にはアジアに限定されてしまったことなど、今後の課題として残ることとなった。
 そのため98年4月から2001年3月までの3カ年、第Ⅱ期国際身分制研究会を発足させ、メンバーも拡充し、継続して研究活動を行うこととなった。この3カ年で15回の研究会を行い、のべ17人の研究報告を得た。その成果は『第Ⅱ期国際身分制研究会報告書』(全175頁)とし2001年3月に刊行された。これによってインド・中国・韓国及び日本の近現代に関する報告も得られ、地域的にもアフリカや中近東に関する研究報告も収録されることとなった。
 しかし、なお①身分集団と職業の結びつきを国際的に比較検討する必要性が明らかになってきたこと、②インド・ネパール・韓国などの被差別民衆と日本の被差別民衆の、さらに詳細な比較研究が必要となってきたことなどにより、2001年4月より2003年3月までの2カ年計画で第Ⅲ期国際身分制研究会を発足させることとなった。この2カ年で14回の研究会を実施し、のべ18人の研究報告を得た。これらの成果は、『第Ⅲ期国際身分制研究会報告書』(全167頁)として2003年6月に発刊された。
 本書は、3期8年間の調査研究事業の集大成をなすものである。
 研究会のメンバーの研究領域を超える分野については、それぞれの分野の専門家である小谷江之さん(インド史)、好並隆司さん(中国史)、そして黒川みどりさん(日本近代史)のご協力を得ることができた。三氏はともに国際身分制研究会で研究報告をいただいた方々である。そのご協力によって、本書はいっそう充実したものになったと確信する。ここに記して心よりお礼を申し上げる次第である。
 本書が多くの人びとによって読まれ、この分野の研究がさらに深められて、こうした差別の一日も早い解決に資することがあれば幸いである。
2004年7月  沖浦和光・寺木伸明・友永健三

総論 身分制成立史の比較研究-日本の賎民差別とアジアの身分制 沖浦和光

1「国際身分制研究会」を起動させた三つの契機
身分制とはなにか
 古代のヤマト王朝の賎民制が、随・唐時代の律令に定められた「良賎制」を下敷きにしていることは早くから指摘されていた。そして近世の穢多・非人制が、インドの不可触制によく似ていることは、1922年の水平社結成の頃から指摘されていた。だが、「差別の様態の酷似性」と「職能の類似性」が現象的に指摘されるだけで、なぜそうなったのかという根本要因については論じられていなかった。
 身分制とは、国家を構成するさまざまなヒトの集団に序列を付けて分類し、それを支配の系とするシステムである。そして、その集団ごとに社会的地位(位階)と職分を定めて、「身の程」「分際(ぶんざい)」をわきまえさせて、権力が命じた役務を果たさせる。もちろん、そのような身分制を制度化するためには、それぞれの集団を格差付けるなんらかの価値基準が必要である。
 古代の身分制は律令に規定されているが、ほぼその原文が残っているのは718年に編纂された「養老律令」である。儒教・仏教・道教など中国・朝鮮から導入された宗教的観念を援用して、あたかも天与のものであるかのように装いながら身分に関わる諸問題が叙述されている。神聖な「血統」とされる天皇家を中心に、「家柄」「品格」に基づく序列が法制化され、それぞれの地位にふさわしい装束とその色まで細かく規定されている。まだ色濃く残っていた呪術的思考もあちこちにちりばめられている。
 ところが、よく考えてみると、生まれながらにして「貴い」、あるいは「賎しい」という属性を身に帯びているヒトや集団はどこにもない。にもかかわらず、それぞれの家系に位階を付けて区分し、その品格に応じて上下・尊卑の関係を定めているのである。
 このような身分制は、オモテ側からみれば、王・貴族となった支配権力を中心に、政治的に作為された統治システムである。しかしウラ側から照射すれば、特定のイデオロギーによって巧妙に操作されたフィクション(=虚構)である。
 例えば中国の律令制では、皇帝を頂点に<貴-良-賎>という価値序列が制定され、インドのカースト制では<聖-俗-穢>というまことに手の込んだ宗教的イデオロギーによって裏付けられている。
 一見して明らかなように中国の「良賎制」とインドの「カースト制」とでは、身分を価値づける観念体系そのものが異なっていたのである。しかし、そのような身分観念の発生の起源と歴史にまで立ち入って、法制度として体系的に比較研究されたことはなかった。
 この二大身分制の骨格となっている観念体系(イデオロギー)の比較研究を抜きにしては、法制史的な比較そのものが成り立たない。それを成し遂げるためには、さまざまな分野にわたる学際的研究が前提となる。そういう事情が背景にあったので、身分制の比較研究に関する論究はほとんどなかったのだ。
「職業と世系に基づく差別」
 このような背景を踏まえ、身分制の国際的な比較を視野に入れながら、日本の賎民差別の起源と歴史を研究しようというのが、この「国際身分制研究会」発足の第一の目的であった。
 第二は、90年代に入って、国連の人種差別撤廃委員会と人権の促進と保護に関する小委員会で、「職業と世系(門地<descent>)に基づく差別」が新たに取り組むべきテーマとして浮上してきたことである。「人種差別」「民族差別」をはじめ、「女性差別」「障害者差別」などは積極的に取り上げられてきたが、血統と家柄に基づく差別である「職業と世系に基づく差別」が正面から論じられたことはなかった。
 この「職業と世系に基づく差別」は、インドではカースト制として存在し、日本ではその骨格部分は解体されながらも、明治維新以降も部落差別として現存してきた。この「世系に基づく差別」が国家レベルで論じられ、第二次大戦後も、その差別をなくすための法的措置が国会で定められたのはインドと日本だけである。
 ところがインド政府は、独立後の1950年に施行された憲法によって、「不可触民」差別は法的には解消したという建前でもって、カースト制差別が国際的に問題化されることを極度に忌避している。これまでカースト制の実態調査という名目で報道機関や研究団体がビザを申請しても、すべて拒否されてきた。
 インドでは、大学や研究機関のメンバーも、ヒンドゥー教徒の上位カーストが圧倒的に多数なので、不可触制についての学問的な蓄積は研究誌にもほとんど発表されていない。その問題を学問的な対象とすること自体が、タブー視されていたのが実状である。
 このような事情が伏在しているので、国連の人権に関する委員会で「職業と世系に基づく差別」が取り上げられるようになっても、インド政府、それに直属している研究機関の側から積極的な発言を期待することはできない。
 したがってこの問題に関しては、日本の研究者の果たすべき役割が極めて大きい。本書において、カースト制と部落差別に関わる問題がかなりの比重を占めているのは、このような状況が背景にあるからである。
旧憲法下の日本帝国は身分制国家
 ITの分野をはじめ世界の産業経済市場でもトップクラスに位置するこの日本において、なぜ今日まで「職業と世系に基づく差別」である部落問題が存在しているのか。私もいろいろな国際交流の場で人権問題を討議したが、外国人研究者からまず問われるのはこの問題だった。この研究会の第三の目的は、その根本要因を歴史・社会・文化・宗教の各分野の学際的研究によって明らかにすることであった。
 古代から近代に至るまで、歴史的段階とそれぞれの地域の特殊性に基づいて、その形態と内容にかなりの差異があったが、王権を中心とした身分制度は、世界の各国で普遍的にみられた統治システムであった。しかし17世紀からの西洋における市民革命の勃発、その世界的な波及とともに身分制度は急速に崩壊していった。21世紀に入っても、王権が残っている国がいくつかある。だが、近代以前のような強力な統治主権は持たず、その実体は形骸化されて、今では単なる儀礼的存在にすぎない。
 近代に入って、資本主義による世界的な統一市場の形成という新しい経済システムが成立すると、王権を中心とした「血統」「家柄」に基づく旧来の身分制は、むしろ資本主義の発展を阻害する要因になってきたのである。
 すなわち、それぞれの個人が労働力商品として市場に出てくる段階に入ると、身分制そのものが、生産=交通の諸関係と社会的分業の発展を妨げる閉鎖的なシステムであることがはっきりしてきたのである。
 そのような近代化の道筋は、日本でも維新後の文明開化政策で基本的に方向付けられ、幕藩権力を握っていた武士身分は解体された。いわゆる解放令によって、近世賎民制も法制的には廃止された。にもかかわらず、帝国憲法第一条には「大日本帝国ハ 万世一系ノ天皇 之(コレ)ヲ統治ス」、第三条には「天皇ハ 神聖ニシテ 侵ヘカラス」と明記され、古代ヤマト王朝と見紛(みまが)うような神聖天皇制が復活・再生された。それを取り巻く旧上位身分は、皇族・華族制度によって実質的には温存強化された。
 つまり、世界の法制史からみれば、第二次大戦後に新憲法が制定されるまで、「大日本帝国」は、近代史では類例をみない極めて特異な身分制国家であったと言えよう。<聖-俗-穢>というカースト制差別思想に類似した部落差別観念は、維新後も学校教育や社会教育の場では、ほとんど手つかずのまま根深く残存した。その結果、職業・居住・通婚・教育などにおける苛酷な差別は実質的にはそのまま存続し、その影響は新憲法が制定された戦後にまで及んだのであった。
『アジアの聖と賎』での問題
 このような三つの目標をなんとか達成するためには、本来ならば比較法制史や比較宗教史の専門家を中心に学際的な学会を立ち上げねばならない。だが、部落差別問題を起点として、各国の身分制の比較研究に関心を寄せる研究者はきわめて少ない。
 それで10人ほどのメンバーで「国際身分制研究会」を発足したのだが、8年間で43回の研究会を重ね、発表者はのべ61名である。よく続いたものだと思う。実質上の運営は寺木・友永の両氏にお任せして、私がまとめ役に回ったのだが、今回8年間の総まとめを書くことになって大変難渋している。
 どの報告も、長年にわたる研究調査や文献史料の収集に基づいた成果である。個別の専門領域に立ち入って、まとめて論じることは私の手に余ることであり、労作に対して礼を失することにもなりかねない。そこで、それぞれの報告にアプローチする橋渡しの範囲で総論をまとめることにした。枚数も限られているので、アジア史でみられる三つの身分制の成立史と、それぞれの身分制の根幹となった観念体系の比較研究に重点をおいた。
 私は比較文化論を専攻しているので世界各地方へ数多くのフィールドワークを重ねているが、歴史学や法制史の専門家ではない。身分制に関してまとまった著述があるわけではないが、比較社会史と比較思想史の視点から包括的に身分制差別を論じた著作がある(野間宏・沖浦『アジアの聖と賎』、『日本の聖と賎』全三巻、人文書院、198292年)。
 これらは<差別・被差別の新座標を探る>という副題のもとに「朝日ジャーナル」に連載したのだが、中国・朝鮮はもちろん、インドや東南アジアも視圏に入れて、日本の身分差別問題を検討した。そして結論として、アジアの二大身分制度だった中国の「良賎制」とインドの「カースト制」-この二つの制度が、古代からの日本の身分制度に及ぼした影響を、歴史的段階を追って考察することの必要性を説いた。
 古代のヤマト王朝から近世の幕藩体制に至る被差別民の歴史は、弥生文化を基盤に成立した倭国以来のこの列島の社会体制の推移だけではとらえられない。中国と朝鮮から新たに渡来した文化は、この列島の縄文時代からの在来の文化に、決定的ともいえる影響を及ぼした。古代の身分制は、そのような渡来文化の影響を大きく受けて成立した。しかし、中世に入ってからの身分制度の変容はそれにとどまるものではなかった。例えば、密教を主たる媒介項としてのケガレ観念の導入である。このように、全アジア的視座から多角的に究明されねばならない諸問題が、日本の賎民差別史の根底にあることを指摘したのであった。
 当時としてはそれまでになかった問題提起だったこともあって版を重ねたが、それから20余年が経過した。今からみると、インドと中国・韓国へのフィールドワーク、そして現地での研究者との討論を中心に編集したので不十分なところが目立つ。当時は未見だった史料や調査報告もそれ以降数多く紹介されており、私もさらにフィールドワークを重ねた。
 古証文を出すようで恐縮であるが、『アジアの聖と賎』の第一章の骨格部分は次の四点だった。この指摘はまだ生きていると思うので、本論に入る前提としてまずその四点を掲げておく。
北東アジアの中国文化圏と西南アジアのインド文化圏-それぞれが古代世界の中でも大きい政治的版図と広い文化圏を保持していたのだが、それが「良賎制」と「カースト制」という身分差別体系を創出し、周辺世界にも大きい影響を与えた。
②両者とも紀元前後の頃に、そのような社会秩序の原型が形成された。中国の良賎制は、渤海・遼・金といった北方系の騎馬民族の国家から朝鮮半島の高句麗・百済・新羅へ、さらに東はこの列島のヤマト王朝、南は安南と呼ばれたベトナムまで広がった。
③インドのカースト制は、ヒンドゥー教徒の移動と共にネパールをはじめスリランカなど東南アジアの一部まで広がった。インドネシアでも小スンダ列島のバリ島には今もカースト制度が転移されて残っている。この日本にも、密教の導入とともにその流れが入ってきた。
④この二つの文化圏には、社会秩序を定める法典として、ほぼ同時期の紀元前2世紀ごろから作成され始めた『律令』と『マヌ法典』があった。前者は国家的秩序を中心とし、後者は宗教的儀礼を中心に編纂されており、法制史的には同じ性格のものではない。『マヌ法典』は、支配身分であるバラモンの宗教儀礼を基軸とした道徳的秩序法・宗教的規範であり、『律令』は「王-臣-民」の国家体制と<貴-良-賎>という身分秩序を定める法体系であった。
2 アジアにおける身分制度の三つの源流
日本文化の源流と二大身分制度
 1970年代からの自然人類学・民族学・考古学・神話学・古生物学・地誌学などの著しい進展によって、この列島に住むいわゆる「日本人」は、アジアの各地からやってきた<数系列からなる複合民族>であって、その渡来してきた道筋や年代もかなり明らかになってきた。そして、日本人単一民族説は学界や論壇からほぼ完全に消えていった(この問題については、沖浦編『日本文化の源流を探る』<解放出版社、1997年>を参照)。日本列島の文化は、海のルート・陸のルートを通って、東南アジアや東アジアをはじめ、北アジアや西アジアなどの各地方から入ってきた諸文化の複合体として生成されてきたのである。したがって『魏志』「東夷伝」倭人条に記されている倭国以来の、この列島に成立した身分制度の歴史も、アジアの各地から入ってきた文化複合の所産としてとらえねばならない。
 この列島の弥生時代にあたる今から二千年前の頃には、北東アジアの中国文化と西南アジアのインド文化が、二大文明圏としてアジアの中でも屹立しており、先にみたように法制史上でも、この二大文化圏が他の諸地域に先駆けて身分制を確立していた。『律令』に明記された「良賎制」と、『マヌ法典』などの法典類にみられる「ヴァルナ制」という身分制を生み出していたのである。このヴァルナ制を根幹にしてカースト制度が形成されるのだが、この二大身分制は、7世紀以降における日本国家の社会と文化のあり方、特にイデオロギーとしての差別観念の生成に大きな影響を与えることになる。
≪貴・賤≫観念と≪浄・穢≫観念
 古代国家のヤマト王朝は、随・唐時代の律令に明記されている身分制度をほとんどそのまま下敷きにして、「大宝律令」「養老律令」として日本の律令体制を完成させた。律令制では、儒教思想による≪貴・賤≫観念がその身分制度の背骨になっていた。いわゆる「五色の賎」と呼ばれた奴碑(ぬひ)制、朝廷に隷属する職能民を「品部(しなべ ともべ)・雑戸(ざっこ)」とした制度は、その多くの部分は中国の良賎制のコピーだった。
 ヒンドゥー教の≪浄・穢≫思想が背骨になっているカースト制は、日本へは直接的には導入されなかったが、大乗仏教の一系列であってその変種ともいうべき密教を媒介にしてこの列島に入ってきた。バラモン教→ヒンドゥー教の思想的影響を強く受けている密教は、6~7世紀のインドでその教義体系を整えていった。呪文や儀式による祈祷を重視し、釈迦が説いた<四姓平等>の原始仏教と違って、ヒンドゥー教が説いた「施陀羅(せんだら)」差別を肯定していた。そして、平安期からの密教を支柱とした<神仏習合>は、中世の差別思想の特質となったケガレ観念の強力な源泉となった。
 したがって中世以降は、大雑把に言って二系列の差別観念が併存していた。日本の古代社会では、天皇を頂点として≪貴・賤≫観による<貴-良-賎>の身分制度が確立された。ところが中世に入ると、ヒンドゥー教的な≪浄・穢≫観が持ち込まれてきて、<聖-俗-穢>に基づく新しい中世的身分観念が広まっていった。
 近世に入ると、穢多・非人という呼称に示されているように、カースト制的≪浄・穢≫観念がさらに強く表面に出て、≪貴・賤≫観は一歩後退した。この背景には、天皇王権の形骸化、貴族勢力の弱体化があったことは改めて言うまでもない。
 荒っぽくまとめて言えば、古代の「賎民」→中世の「非人」→近世の「穢多」という被差別民の包括的な呼称の変化にも、歴史的段階による差別観念の推移が投影されていたのである。
東南アジア系文化と日本列島
 このような中国とインドの二大身分制の歴史については、『アジアの聖と賎』でその概略を述べておいた。だが、律令制が入ってくる以前の邪馬台国の身分制については言及していなかった。次節でみるように、私は邪馬台国の住民は、中国南部の江南地方を原郷とする人びとであったと考えている。つまり、大陸の北方に住む「漢人」の史料では、「倭人」とみなされた民族である。
 2~3世紀頃のこの列島の社会状況を記した『魏志』「東夷伝」倭人条には、<大人-下戸-生口>という身分制についての叙述が見られ、「尊卑の序あり」と明記されていることはよく知られている。この倭人伝には、239(魏・景初3)年に倭の女王・卑弥呼が大夫・難弁米(なしめ)らを帯方郡に遣わし、魏の明帝に朝貢を求めたとある。その使節は無事に魏の都に着いたが、その時に男生口四人、女生口六人を明帝に贈ったとある。
 私はそのような身分制は、律令制の<貴-良-賎>型の変形ではないかと考えていた。だが、改めて考えてみると、魏と通じる以前に邪馬台国では<大人-下戸-生口>という身分制は成立していたのである。したがって、この身分制は古代中国の良賎制のバリエーションではない。
 80年代に入って、私は東南アジアの諸地方のフィールドワークを重ねた。それにつれて、東南アジアに特有の、シャーマン系の王を頂点とする<貴族-平民-奴隷>という身分制がその原型ではないかと考えるようになった。
 『後漢書』「東夷伝」にも倭国王が「生口」160人を後漢に献じたとあるが、この生口はたんなる賎民ではなく、奴隷的な身分だったと私は考える。なぜなら、この生口が、中国の賎民に類似した身分だったとすれば、モノとして贈与されることはない。律令制のバックボーンとなった儒教では、賎民にも人格は認めており、法制的にも良民になる道がひらかれていたのであって、決して「人外の人」ではなかった。
「倭人」文化圏の形成
 そこで改めて取り上げておきたいのは、東南アジアから南太平洋海域にかけて広がっている南方系文化圏である。大陸部から島嶼部まで地球の三分の一をカバーする広い領域で、一つの文化圏としてまとめることは難しく、多様な民族によって織りなされた複合的な文化圏である。主としてアウストロネシア語(Austronesian)が話されていて、西はインド洋のマダカスカル島から東はイースター島、そして北は台湾の先住民族まで広がっている。そして南太平洋の島嶼部では、インドネシア・メラネシア・ポリネシアの三大語派に大別されている。
 この広域に散在しながらアウストロネシア語を母語とする諸民族の原郷は、「スンダランド」と呼ばれていた地域だったと考えられている。現在の大陸は、最終氷河期の頃までずっと南太平洋海域に張り出していて、今日の島嶼部も大陸の一部だった。もともとそのスンダランドで生活し、そこで進化しながら東南アジアの各地に拡散していたヒトの集団がいた。しかし、この広域に住んでいたヒトについての人類学的研究がまだ十分になされず、また考古学資料の発掘もあまり進んでいないので、はっきりしたことは言えない。
 今から約一万二千年前ごろに氷河時代が終わると、スンダランドの海位が150メートル以上も高まって、かなりの部分が海没して今日の島嶼部ができたのだが、そこに住んでいた集団は東南アジアの各地方に拡散していった。そして、その中の有力な集団は、中国大陸沿岸にそって長江周辺まで進出して、のちに「倭人」と呼ばれるようになったのではないか。さらにその一部は黒潮に乗って沖縄の諸島からさらに北上して、南九州に定住するようになったが、彼らが「隼人」と呼ばれたこの列島の先住民族である(この問題については沖浦『竹の民俗誌』、<岩波書店、1991年>、『瀬戸内の民俗誌』<同、1998年>を参照)。
 北へ進出するにつれて自然環境では北方的要素が加わってくるが、倭人は南方系モンゴロイドの形質を残していた。今日の漢民族である北方系の「漢人」とは、皮膚色・体型・容貌はもちろんのこと、文化や民俗もかなり異質であった。長江南部で栄えた「呉」「越」の文化は、この倭人系の文化だった。彼らはやがて東北アジアから南下してきた「漢人」によって大陸の奥地や東南アジアの島嶼部へ追われ、再び拡散の危機に追い込まれた。今日では雲南省を中心に分布している多くの少数民族も、もともとこの倭人系であった。
 そのルートについてはいくつか考えられるが、「倭人」の一部は海沿いの道を北上してきて、朝鮮半島の南部と日本列島の九州へその独自の文化を持って入ってきた。
第三の系列-東南アジアの王制と奴隷制
 私はこれまで島嶼部を中心に30数回も東南アジアの諸地方を訪れて、主として先住民族の文化について調べてきた。その問題については『インドネシアの寅さん』(岩波書店、1998年)で詳しく述べたのでここでは言及しない。
 インドネシアの島々では、多少の異同はあるが、20世紀前半までかなり類似した身分制が広範囲に存続していた。共同体の長である王を中心として<貴族-平民-奴隷>という三層の身分制から成り立っているのが共通の特徴であった。
 いずれも無文字社会で古い時代の記録を欠いている。もちろん成文法ではないので、その起源や形成過程を文献史料でたどることはできないが、私なりに次のように考えた。
 狩猟・漁撈・焼畑などの自然採取経済を基盤とした先住民族の各地域では、19世紀まで首狩りの習俗が残っていた。これは頭部には霊的な力が宿っているというアニミズムに基づいている。そして大自然の神々を崇敬するシャーマニズムによる呪術的信仰が、その共同体の習俗であった。自分たちの小さなクニの安全を祈願し、絶えずやってくる悪霊の侵入を防がねばならないので、それぞれの共同体の長はシャーマン的祭祀王であった。このような古くからのシャーマンの系譜をひく王を中心に、19世紀頃まで<貴族-平民-奴隷>という身分制が存続していた。奴隷は、部族間の争いで捕虜とされた者、交易の代償として売られた者であった。彼らには人格は認められず、王・貴族に隷属的な奉仕を強制され、その私有物として売買・譲渡された。重大な神事に際しては生贄として神に捧げられていた。
 私が実地に調査したところでは、スマトラ島のバタック族、スラウェシ島のトラジャ族、ニアス島のニアス族などは、すべてこのような共同体を基盤にして小さなクニを形成し、前述のような身分制が形成されていった。そして西洋列強による植民地化とそれに伴うキリスト教の流入につれて、18世紀頃からこの身分制はしだいに解体されていったのだが、今日でも王が住んでいた木造の宮殿が各地に残っている。特に村境にあった旧奴隷身分の居住区の住民は、今でも賎視されている。
邪馬台国の身分制
 南方系文化圏の先住民族に見られたこのような身分制は、中国の良賎制、インドのカースト制とも異質であって、アジアの身分制としては第三の糸列である、
 その影響が先史時代の日本列島にまで及んでいたのかどうか、そのことを文献史料的に明らかにすることはできないが、「邪馬台国」の<大人-下戸-生口>という身分制は、この東南アジアの<貴族-平民-奴隷>の三層より成る首長制と類似している。
 そして邪馬台国の女王卑弥呼は、「鬼道」をよくするとあるように、やはりシャーマン系の巫王(ふおう)だった。儒教では、広義の道教を含む巫覡(ふげき=シャーマニズム)が「鬼道」と呼ばれ、「人を惑わす」呪術とみなされていたのであった。
 倭人の風俗に関する記述は、『魏志』「東夷伝」の韓条や弁辰条にもあるので、江南地方の「倭人」が、朝鮮半島南部から九州地方にかけて、弥生時代の頃にはかなり広く移住していたと考えられる。その首長がシャーマン系であったことも共通している。中国から律令制を導入する以前に、これらの小さなクニでは巫王を中心に身分制が成立していたと考えられる。
 「邪馬台国」の所在地については諸説があり、今日も近世以来の論争がまだ決着していない。末盧(まつら)国・伊都国・奴(な)国などの小さなクニは、いずれも北九州にあった。私は邪馬台国も、九州から大和への東遷説が有力だと思う。そしてこれらのクニの住民は、在来系の縄文人ではなくて、江南など南方から北上してきた倭人系が主流であったと考えている。『魏志』倭人条を民俗誌的に読んでみても、そこには江南から東南アジアにかけての民俗と文化が色濃く投影されている。邪馬台国の身分制が、黒潮の道に沿って遠く江南の倭人の世界から運ばれてきた可能性は否定できない。
 なお朝鮮半島南部と北九州に分布する「倭人」文化の共通性については、稲作農耕・鉄器製造、さらには呪術的道具を用いた祭儀儀礼などさまざまな分野での考古学的資料によって明らかにされ、それを実証する著作も数多い。文献史料を基本とした「倭人」研究では井上秀雄『倭・倭人・倭国』(人文書院、1991年)、宗教文化の領域では福永光司『馬の文化と船の文化』(人文書院、1996年)、比較神話学では大林太良『北の神々 南の英雄』(小学館、1995年)などを参照されたい。
3 中国の身分制思想-筍子と韓非
筍子の身分制統治論
 戦国時代(前403~前221)に入ると、儒教の中からたくさんの流派が出てきた。諸子百家の「百家争鳴」の時代としてよく知られている。秦・漢時代に律令体制の原型が形成されるのだが、身分制思想史からすれば、儒家の筍子(じゅんし)から法家の韓非(かんぴ)へと連なる系譜が最も重要である。人倫の道を定める倫理学が主流だった儒教を、人民統治のための政治学へ転回させたのはこの二人であった。
 儒学の祖とされる孔子は、前5世紀の人だった。筍子(前298~前238頃)は、孔子以来の儒学の思想を大きく転換させた画期的な学者だった。韓非(?~前233)はこの筍子の弟子筋にあたり、儒家(じゅか)と法家(ほうか)の両説を総合して、新しい律令制国家の統治学を完成した戦国期の政治学者である。
 孔子は、仁と礼を根本において、「修身・斉家・治国・平天下」の道を説いた。そして、<仁>と<礼>による道徳を根源的に価値づけるものとして≪天≫をおいた。すなわち、天と人は連なっていて、天命をうけた聖人・君子が治国・平天下の任に当たらねばならぬと説いた。
 ところが筍子は、孔子のこの説を批判して、「天→人」という関係を否定した。≪天≫は自然現象の法則に基づいて動くもので、あくまで自然としての≪天≫である。それに対して人間の社会は、特定の秩序によって支えられている人為的な構築物だと主張した。性善説を説いた孟子と、性悪説で知られている筍子はほぼ同時代人である。孔子の説を基本的に継承した孟子は、人間は生まれながらにして≪天≫からうけた天性としての道徳心を潜在的にそなえていると考えた。しかし、「天→人」という図式を否定している筍子は、俗世を見据えながら、孟子のような楽観的な性善説を否定し、儒教で最も重要な道徳的観念とされた<礼>は、天与のものではないと説いた。
 すなわち、儀式・制度・文物のあり方など社会の秩序を保つための<礼>は、人為的に定められるべき生活規範である。そして、法的な制度を定めて人間をいくつかの集団に分け、貧富貴賎の等級をつけて、上の者が下の者を支配しやすいようにして<礼>を守らせる。これが天下国家を治める根本であると主張した。
 彼の思想は『筍子』(全20巻)で詳述されているが、身分制については、「人生まれて群なきこと能わず。群して分なくば争う」と言っている。すなわち、人間はもともと群生して生きる動物である。人間の本性には自己中心的な欲望があって、そのまま放置しておくと互いに争いあって、統制がとれなくなる。それぞれが自分の「分限」を守って生きるように規制しなければ、群れとしての秩序は保たれなくなる。
 この「分」は、「分限」「分際」の分であって、全体の秩序の中で自分の地位・立場を知ってそれを守っていくことを指した。すなわち、身分の「分」である。その社会の序列の中で、それぞれがおのれの分際に基づいて、その身の程をわきまえ、分相応にふるまうことが<礼>である。
 このように筍子は、人間の欲望を規制し、アナーキーな競争を統制する社会システムとして、身分制を提唱した。教育や法的規制によって人間の本性を矯(た)め直し、社会の秩序を保っていくことは可能だと考えたのである。そして次のように言う。「故に礼義を制してもってこれを分かち、貧富貴賎の等あり、もってあい兼ね臨むに足らしむるものは、これ天下の本を養うなり」。一口で言えば、貧富貴賎などの差をつけて、身分として分類していく統治法が天下を治める根本だと主張したのである。
法家思想と専制官僚政治
 この筍子の説は、孔子や孟子が説いた<仁>や<礼>による道徳的統治論を否定した画期的な学説だった。さらに重要なのは、百家争鳴の戦国時代に台頭してきた法家思想である。彼らは孔孟流の文人政治、仁や礼に基づく徳政を排して、厳格な法治主義を提唱した。人の本性はもともと悪であって、すべて利害打算で動く。したがって、道徳的教化主義ではダメだと、法制度に基づく専制官僚政治を主張した。
 そのような筍子から韓非に至る系列が、律令制の骨格的思想となった。なかでも韓非の哲学が非常に大きな役割を演じた。秦帝国ではこの学説を積極的に取り入れて、それに反対した儒家を押さえ、焚書(ふんしょ)の大弾圧を加えた。『韓非子』(全20巻)はその学派の集大成であるが、かいつまんでまとめると、「人民とは権威に服するものであり、義によって動かされることはまれである」「民衆はもともと愛情をかけられるとつけあがり、脅されると服従するものである」「賢明な君主は、民衆の労力は用いるけれども、その言葉には従わない、民衆の手柄は誉めるけれども、その無用の行動は厳重に取り締まる。だから民衆は、全力を尽くしてお上(かみ)に従うのである」と説いた。
 その前提になっているのは愚民論であって、孔子の説く聖人君子論では、とても戦国動乱の世を統治することはできないと主張した。君主はその権力を行使し、厳格な法による統治を行うべしと実定法の確立を唱えたのである。
韓非の農本主義思想
 筍子の場合は、抽象的に貧富貴賎を区分して身分制の必要性を説くにとどまっていたが、韓非の主張はさらに具体化された。明君の政治は、商人、職人、無為徒食する者の数を減らし、彼らの身分を低くすることである。それによって、農業を捨てて無益の業につく者を減らさねばならないが、そのためにはまず「五蠹(ごと)」を排撃せよと厳しく主張した。
 五蠹とは五種類の害虫、国に巣くう五つの木食い虫を指す。儒家・墨家(ぼっか)などの学者、国家の利益と矛盾する遊説者、ブラブラしている遊侠の徒、君権を阻害する近御(側近)、それと商工の民である。この有名な「五蠹」論が、秦の始皇帝の目にとまって、韓非は宮廷に招かれた。
 「それ明王治国の政は、其の商工遊食の民を少くして名を卑しくし、以て本務を捨てて末作に趨(はし)るを寡(すく)なからしむ」と主張するのだが、きわめて農本主義的な考え方である。商工の民に対する差別意識が露骨に語られている。
 韓非が重視したのは、国家の基幹としての農業と、国家を安泰にさせる軍事力である。この二つを軸にして、君主の絶対的権力による中央集権的な国家体制を構想した。この考え方が秦の始皇帝の目にとまった。韓非は、始皇帝に仕えていた弟子の李斯(りし)にねたまれて最後には毒殺された。その李斯が宰相となって、秦帝国の専制政治の政策を立案した。
 農業に従事しない商工の民を無為徒食の徒とみて、「百官が法を行えば、遊民は農耕に従事し、遊士は戦陣の危険に身をさらすことになる」と『韓非子』で述べている。商工の民は、生産力的な価値観からみて、賎に近いものとされ、商工に従事する者は農民より下の身分とみなされた。唐の時代の身分制をみれば、この考え方が律令で定められた「良賎制」の根底にあったのであって、『韓非子』の思想が大きく投影していることは明らかだ。
中国では血統による世襲制を否定
 古代中国では、仁と礼による徳政を説いた儒教の教えが基礎にあった。だが中国で初めての統一王朝として成立した秦の時代からは、孔子が説いたような、天命をうけた徳の高い皇帝による仁政という思想は吹っ飛んでしまった。
 前漢→後漢→魏・蜀・呉の三国時代、さらに西晋・東晋と五胡十六国時代へと王朝はめまぐるしく変わった。その多くは武力によって権力を纂奪(さんだつ)した王朝だった。北方からは騎馬民族が万里の長城を越えて侵攻してきた。そのような大動乱の段階に入ると、血統や家柄に基づく世襲制を説くこと自体が空文になった。
 よく知られているように孟子は、その≪易姓革命≫論で、「仁徳のない王権はひっくり返してしまえ」と説いていた。身分制度の根幹である「血統による世襲制」は原理的にも否定されていたのであった。
 つまり、古代中国では、万世一系の皇帝制は是認されていなかったのである。孟子は「民を尊しとなし、
 社稜(しやしょく)これに次ぎ、君を軽しとなす」と断言した。そして、徳のない王朝の交替は当然であると説いて、「禅譲」(=世襲によらず徳のある者に天子を譲ること)と「放伐」(=徳のない天子を武力で倒すこと)の二つの方途があると述べていたのである。
 だが、秦の時代からはまさに「放伐」一辺倒の世となり、しかも徳があるかないかは二の次になって、武力で権力を握った覇王が皇帝となったのである。
 随・唐の時代に入ると、身分の世襲制の弊害を指摘する合理主義的な思想がますます強まっていった。良・賎を定める身分制そのものがしだいに弛緩(しかん)し、<賎民>が<良民>になり、さらに<貴族>になる者が出てきた。国家体制における身分を決める基準は、「家柄」「血統」ではなくて、個々の人間の人格と能力とされたのである。その身分を問わず広く有能なる官吏を試験で選抜する「科挙」の制度も、そのような新政策の一環であった。
 すでにみたように<仁>や<礼>による徳政は否定され、官僚による専制政治に転換していった。そして実際に国家の官僚機構を動かしていたのは「士大夫(したいふ)」であった。随の時代まで、旧士大夫は世襲的貴族がそれを担った。だが世襲制の弊害が目立つようになったので、「科挙」が制定された。それからは、皇帝のもとで<貴-良-賎>の三層に区分された身分制社会の編成原理もしだいに崩れていった。この難関の国家試験に合格した官僚群が新士大夫とされて、彼らが国家統治の第一線で活躍した。もともと「士」は、学徳を修めて官位・俸禄を有する者の呼称であって、武士を指したわけではない。いわゆる「士農工商」の士を武士と解したのは、鎌倉期以降に覇権を握った日本の武士階層の手前勝手な解釈である。
 そのような職能による身分制は、大枠としては清王朝の崩壊まで続いたのだが、二千余年にわたる中国の身分制度史を通史的に叙述することは極めて難しい。元や清に代表されるように漢人ではない異民族が支配した王朝時代もあった。進攻してきた他民族の首長が皇帝となって漢民族を支配したのである。
 そのような千余年にわたる大動乱の世をくぐり抜けて、特定の血統や家柄に基づく身分制が、果たして持続されたのかどうか。仮にあったとしても、その血脈の一貫性を実証的に明らかにすることは容易ではない。本書の好並論文で指摘されているように、山西楽戸・九姓漁民、さらには寮民・柵民・堕民などと呼ばれた賎民集団が清朝時代まで残存し、今日もその痕跡が残っていることは史料的にも明らかである。つまり、各地方では古代賎民制の残滓(ざんし)がみられたとしても、国家レベルでは王家・貴族を中心とする身分制は解体されていたのであった。律令制という建前はともかく、実質的には<貴-良-賎>という血脈による身分制は解体していたのであった。
 わが国の中国身分制史研究では、仁井田陞(のぼる)『唐令拾遺』(東方文化学院、1933年)、『支那身分法史』(東方文化学院、1942年)、濱口重国『唐王朝の賎人制度』(東洋史研究会、1966年)が開拓的労作であるが、いずれも唐の時代が中心となっている。
ヤマト王朝の身分制
 随唐時代の律令制をモデルとして、ヤマト王朝は律令体制を法制化した。やはり統治政策の基本としては韓非が説いた「農本主義」がそのまま導入された。国家の生産力を支える根幹となる農耕に従事する者は、日本の律令でも平民=公民=良民として位置づけられ、ヤマト王朝では「百姓(ひゃくせい)」「大御宝(おおみたから)」と呼ばれた。
 そして商・工・医・巫・芸能などを専業とする部民(べみん)は、中国の律令にならって「品部」「雑戸」とされ農民より下の身分とされた。そして最下層に賎民層があった。
 だが、日本の律令制では、「科挙」は制度化されず、≪易姓革命≫論は危険思想として黙殺された。日本の律令では、身分制度の根幹である「血統・家柄による世襲制」は原理的に持続されたのである。そして、万世一系を自称する天皇制のもとで、世襲貴族を中心に官僚政治が続いた。「天皇」という呼称に示されるように、天に坐(いま)す神々に連なる名称で君臨したのである。
 このようにみてくると、同じ律令体制であっても、本家本元の中国とこの日本では、かなり異なった道筋を歩んできたことが分かる。高句麗・百済・新羅の三国時代から、統一新羅、高麗を経て、朝鮮王朝に至る歴史的過程も視野に入れねばならない。
 ヤマト王朝は、国家儀礼としてさまざまの祭祀を執り行い、呪術的信仰や宗教を援用して<祭政一致>の体制をとった。古くから伝わる神話や伝承をないまぜ、内外から寄せ集めた材料を下地にして、皇祖による国土創世神話が作られた。次いで巧妙に作為された王統譜が作成され、≪王権≫の神聖化と正統化がはかられた。天武天皇によって編纂を命じられた『古事記』『日本書紀』が、大筋でそのような経過を辿っていることは改めて述べるまでもない。
 かくして世俗的権力と宗教的権力をあわせ持った王権は、さまざまの「しるし」(三種の神器)によってその血脈の神聖性を民衆に誇示した。国土を鎮護し護国豊饒を祈願する<祭祀王>として立ち現れ、武力による<征服王>としての実体をできるだけ隠蔽しようとしたのであった。
 特に高位身分は、血統による家柄(家格)の世襲制が原則とされたが、万世一系の皇統そのものが虚構であることは今日ではよく知られている。平安期に作成された『新撰姓氏録』には畿内豪族1,182氏の家系図が載っているが、その家譜の多くは、やはり仮冒(かぼう)であり偽造であった(仮冒とは、<貴>とされる他氏の血統に連なる為の系図を作成して世間をだますことである)。
4 インドのヴァルナ制とカースト制差別
アーリア人の侵攻とヴァルナ制の成立
 カースト制社会において、それぞれのカーストを決める価値基準になったのは、≪浄・稼≫観念であった。ヒンドゥー教の祭祀をつかさどるバラモンは清浄な血統の家柄とされ、その対極にケガレの処理にかかわる不可触民がおかれたのである。<死><産><血>、そして<排泄物>-これらが忌避すべきケガレとされた。
 このようなカースト制の原型は前10世紀ごろからの『べーダ』文献に現れていたのであるが、古代インドではヴァルナ制と呼ばれていた。サンスクリット語の「ヴァルナ(varna)」は、「色」を指したのだが、もつとはっきり言えばこの色は「皮膚の色」であった。皮膚色を中心に背の高さや容貌など形質的な差異に基ついて、種姓的な差別制度が形成されたのであった。
 しかし、アーリア人が信仰していたバラモン教が≪浄・穢≫というイデオロギーを教義の正面に押し出して、在地の土俗的信仰を吸収して、ヒンドゥー教として体系的に整備されてくるのは5~6世紀に入ってからであった。
 そのような身分制を、15世紀末にインドの西南海岸にやってきたポルトガル人が、「カスタ」(casta)と呼んだ。これは「血統」「家柄」「種族」を意味するポルトガル語である。西洋から最初にやってきたポルトガルはカトリック教国であった。アーリア人によるヒンドゥー教の影響力がまだ十分に及んでいないゴアを中心としたマラバール海岸に進出したので、カースト制の実態をよく把握できなかった。彼らは、インドの社会集団には差別的な秩序と構造があることに気付いて、それをカスタと呼んだ。つまり、血統・種族の違いによって、集団ごとに格差づけられた制度がカスタなのだが、これを後から入ってきたイギリス人が「カースト」と英語読みしたのだ。
 このようなヴァルナ→カースト制の歴史的経過を明らかにする前に、まずインドの民族構成についてみておかねばならない。
多様な民族構成
 インド亜大陸は旧石器時代から大規模な民族移動の主要な経路であり、数多くの民族集団が相次いで渡来してきた。自然環境も北部と南部では大きく違っていたが、定住した人びとも実に多様であった。
 現在は10億を超える人口であるが、コーカサイド系のアーリア族と、アフリカの地中海方面からやってきたとされるドラヴィダ族が二大民族である。それぞれ全人口の五分の一程度と推定されているが、自然人類学による科学的な形質調査はなされていないので大まかな推定でしかない。
 前15世紀の頃、アーリア人がヒンドゥークシュ山脈を越えて西北インドに侵入してきた。彼らは背が高くて色の白いコーカサイド系の騎馬民族だった。先住諸民族を制圧して、しだいにその版図を拡げていった。ドラヴィダ系の先住民が築き上げてきたインダス文明が滅んだ頃だった。インダス文明の崩壊は、自然災害説などさまざまあってその原因は明らかではないが、アーリア人の進攻によるとする説もある。主としてガンジス河流域地方を中心に、アーリア系がインド北部を拠点とした。それに対して、北部から追われたドラヴィダ系はしだいに南部に集住するようになった。
 言語集団で分類すれば、第二次世界大戦後すぐの1961年度の国勢調査(センサス)では母語として挙げられた言語の数は約1,500だった。先住民族系とされるのは中部・東部の山岳地帯のオウストロアジア語族とヒマラヤ山系のチベット・ミャンマー語族であるが、いずれも人口の1%程度にすぎない。
 言語系統からからみれば、ヒンディー語・ベンガル語・マラーティ語などのインド・アーリア語系が人口の約75%を占めている。いわゆる印欧語族であって、ヨーロッパの古い言語と全く同一の系統である。その古形がヴェーダ語で、それがサンスクリット語となった。第2位がタミル語・カンナダ語・テルグ語などのドラヴイダ語系で、人口の約25%を占め南部地方の主要な言語である。アーリア語系が全人口の約75%を占めているが、この数字は三千年以上に及ぶアーリア人の政治的な支配が他民族に及んだ結果であって、カースト制の上位三身分をほぼ占有しているアーリア人の比率は全人口の20%以下であろう。バラモンだけなら数%程度である。
 アーリア系と非アーリア系の混血の問題があるが、その実数は多くないとみられる。血統の純粋性と家柄の保持を第一義としてきたアーリア系の上位力ーストは、低力ーストとの混血を極度に忌避し、混血の子が生まれた場合は、その子はカースト外に追放された。
アーリア人と「ヴァルナ制」
 アーリア人は、自らを<高貴な人(アーリアン)>と称し、先にみたドラヴィダ系をはじめ、チベット・ミヤンマー系などの古モンゴロイド系先住民族を<敵(ダーサ)>と呼んでその支配下においた。
 なぜ「ヴァルナ=色」が、差別的指標になったのか。背が高く色が白かったアーリア人が、背が低くて色の黒い先住民族を征服したのだが、それがヴァルナ制成立の大きい契機になったと考えられる。アンベードカルもさまざまなインドの古文献を読みながらカースト制の歴史的な起源について考察したが、アーリア系による先住民征服がその契機になったと結論している。
 つまり、<征服-被征服>に基づく政治的な支配体制が、そのまま<差別-被差別>の社会システムに転換されたのだ。はっきり言えば、ヴァルナ制は、支配権力を握ったアーリア系の被征服民に対する差別、すなわち種族的・民族的な差別が根本にあった。文化習慣や宗教的教義の違いを基本にして、ヴァルナ制という身分差別体系を構築したのではなかった。
 アーリア人は迅速な移動性を備えた強大な騎馬軍団でインド北部を席巻した。彼らは中央アジアを根拠地にしていた遊牧民族であって、もともと農耕民ではなかった。肉食を常食にしていたのであるから、もともとは肉食や皮に関わるケガレ観念とは無縁だった。
肉の常食から肉食の禁忌へ
 定住農耕生活を営まない遊牧民は、肉とミルク・バターが常食であって、皮革は交易に用いる最も重要な産品であった。獣肉を常食としていたアーリア人が、なぜ肉食を禁忌(タブー)とし聖牛崇拝の習俗をとり入れるようになったのか。
 司祭身分であるバラモンはずっとアーリア系で占められていたが、彼らは菜食主義で建前上は動物食を一切とらない。そして、牛を<聖なるもの>のシンボルとして、その屠畜をタブーとする民俗儀礼に転じていったのである。このことは、遊牧民族としては180度の転換であった。その問題はヒンドゥー教成立史の根本に関わる問題である。それについては「インドの文化文体とカースト制度」(『季刊クライシス』9号、社会評論社、19818月)で詳しくみておいたのでここでは立ち入らない。
 定住農耕生活を営んでいたのは、ドラヴィダ系などの先住民であって、それらの在地習俗を巧妙に取捨選択しながら、アーリア系は移住してきた新天地に適応した支配体制を造り上げていったのである。もちろん武力による暴力的支配だけでは権力保持は難かしい。そこでバラモン教に基づく文化体系を補整しながら、新しい統治システムを考案した。それがヴァルナ制だった。
 つまり、<支配-被支配>という事実をストレートに表現するのではなく、宗教的な粉飾によって、このヴァルナ制は、宇宙の最高神によって定められた秩序であると説いたのである。まだ呪術的思考が色濃い時代であったから、それを援用しながら宗教的な外皮を被せていったのである。
 インド全土にわたって、低カースト地区を数多く訪れて、私なりに考察を重ねてみた。バラモン階層はアーリア系が圧倒的に多く、その逆に被差別民地区に入ると、そのすべてが非アーリア系であると言っても過言ではない。高地に追われていた少数の先住民族は、依然としてアニミズム的信仰に拠っていてヒンドゥー教徒にならなかったから、最初からヴァルナ外の存在、すなわちアウト・カーストとみなされていた。
 結論として私はこのアーリア系による征服説に賛成だ。私が実見した限りでは、それ以外にヴァルナ制成立の決定的な要因を抽出することはできない。
釈迦の説いた<四姓平等>
 前10世紀頃には、アーリア人が主として居住する北インド地方を中心にカースト制の原型であるヴァルナ制が成立した。紀元前1001000年ごろに成立したバラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』の「原人(プルシャ)の讃歌」で、太古の原人から四つのヴァルナ、すなわち口から「バラモン」(司祭)、両腕から「クシャトリヤ」(王族・戦士)、両腿から「ヴァイシャ」(庶民)、両足から「シュードラ」(隷属民)が産まれたと述べている。そして、上位の三つのヴァルナは再生族であるアーリア人が独占し、一生族である先住民系がシユードラとされた。また、前5世紀頃には、バラモン教のコスモロジーの集大成ともいうべき『ウパニシャツド』が成立した。
 この段階ではまだ「不可触民」が出てこないが、文献上でもシュードラの一部が神々の恩寵の及ばぬ穢れた者とされているので、その萌芽はすでにあったと言える。紀元前の法典類にはさまざまな被差別民が姿を現すが、それを集大成したのが『マヌ法典』である。
 『マヌ法典』の第10章では、人間の最下級なるものとして、スータ、チャンダーラ、マーガタなどを挙げている。彼らの職業は、馬・戦車の取り扱い、治療技術、後宮の護衛、商人、大工、屠畜業、皮革職、漁師、芸人と指定している。第3章をみても、バラモンが避けるべきものとして、芸人、高利貸、医師、売肉業、弓矢製造者、賭博師、飼鳥者、製油者、占星術師、大工、植木屋をあげている。『マヌ法典』に次いで重要な『ヤージュニャヴァルキヤ法典』では、賎視されている職業として、上記の職業以外に織師、洗濯屋、酒造屋、竹細工師、舞台芸人、鍛冶屋、木地師、金銀細工師、民間祭祀人、染物屋などをあげている。
 この中の大半の職業は、近代に入っても、不可触民のジャーティ(後述)の仕事とされてきた。一例を挙げると、私が2002年に訪れたゴア州の被差別地区で、今はイスラムに改宗しているが、先祖の仕事は贋金づくりというジャーティがあった。その資料も見せてもらったが、恐らく古代の金銀細工師の系譜に連なるのだろう。もちろん、死・産・血・排泄物などのケガレに直接触れる死牛馬の処理や皮革製造、そして清目(清掃)と葬送に関わる集団は、最も卑賎なジャーティとされたことは改めて言うまでもない。
 『アーユル・べーダ』は伝統的な医学書として有名だが、そのような古い治療技術による医者も、インドでは被差別地区に多い。1981年にムンバイの一地区を誇れたとき、軒並みに「ドクター」の看板が出ていたので驚いた。「何の博士ですか」とたずねると、みな医術だと答えられた。日本の近世でもそうであった。彼らが野巫(やぶ)医者と呼ばれたのであった。
 私は海民の出身なので、漁民がどのような身分にされているのか特に関心をもっていた。大陸の西南部であるマナバール海岸でいくつかの漁村を訪れたが、その多くはシュードラの下層とされ、一部は不可触民であった。ムンバイの人口1万人を超える大きい漁村は後者だった。
 前5世紀頃にネパールのルンビニに生まれた釈迦は、悩み苦しむ多くの衆生と共に生きる道を選んで、生まれ育った王家を出て、その生涯を乞食として生きた。そしてバラモン教の説く霊魂の不滅と輪廻や業の思想に疑問を抱いて、個々人の自覚と社会的実践によって悟りを得ることができると考えた。すなわち、その人のヴァルナや家系とは関係なく、誰でも仏の道に目覚めて修業すれば、すべての煩悩に打ち克って「覚者(ブッダ)」になれると説いて、<四姓平等><万人成仏>を唱えたのである。この<四姓>は四つのヴァルナを指している。付言しておくと、ヴァルナの漢訳が「種姓」であるが、この段階ではまだ不可触制が成立していなかったので四つの種姓だった。
 6、7世紀の頃から、下層のシュードラの一部が特に穢れにかかわる職能集団とされて、その居住区も隔離されるようになった。このようにして、しだいに不可触制が形成された。彼らは四つのヴァルナ外の存在、すなわち<人外の人>とされたのである。バラモン教と競合していた仏教を圧倒して、7~8世紀頃から1112世紀ごろにかけて、ほぼインド全域にヒンドー教の版図を広げていくとともに、不可触制もインド全土に広がっていった。
ウァルナとジャーティ
 アーリア人の信奉していたバラモン教は、このように土俗的なアニミズムやシャーマニズムを吸収しながら、ヒンドゥー教としての教義体系を整えていった。それは遊牧民族であったアーリア人が、しだいに農耕社会に融和しながら、全インドを支配下に治めていく過程でもあった。
 大枠の種姓制度であるヴァルナの中で、時代とともにさらに職能による機能主義的な分類が進んだ。それは社会的分業の進展に基づくものであったが、それぞれの職能集団が宗教的教義によって色付けられて分類され、「ジャーティ」(jati)として制度化されていった。ジャーティは、生産力の発展と生産の諸関係拡大につれて、共同体内の分業として形成されてきた多様な職種から成り立っている。町や村における職務とそれに応じた得分が定められていて、その相互依存関係の中で、共同体内の存在位置が定められた。
 どのヴァルナに属しているかという問題が町や村における社会的な上下関係を定める前提となり、それによって交際範囲や通婚圏も限定された。もちろん不可触民とされたジャーティは、共同体の祭祀儀礼から排除されていた。初めてインドにやってきた西洋人が、一見して分かったのは、このジャーティ間の差別システムであった。つまり、このヴァルナ=ジャーティ制を、西洋人がカースト制と呼んだのである。
 それぞれのヴァルナの中で、ジャーティが約500ほどあって、ヴァルナ制全体では全部で2,500ぐらいある。しかもこの数字は、下位のヴァルナのジャーティが、上位身分の慣行や儀礼を模倣して、少しでもそのヴァルナを昇格させようとする「サンスクリット化」の運動もあって、絶えず変化している。
 ヒンドゥー教徒は誰でも特定のジャーティに属するわけだが、そのジャーティが代々同一の職業を世襲し、居住区も通婚圏も同じジャーティ内部に定められている。そして、新しい分業かできるたびに、また新しいジャーティができることになる。そのように「生まれ」「居住区」「職業」を同じくするジャーティが、ヒンドゥー社会を動かす実際上のシステムとなっている。
 5世紀の頃から農業や手工業を中心に、生産力が上昇してくる。人口もしだいに増え、都市があちこちにできる。そうなると、「ケガレ」とされた仕事も増えていった。上位カーストは、そういう仕事で手を汚すまいとするため、ケガレに関わる仕事に専従しなければならない人たちも増えてくる。
 その結果、シュードラの下層のジャーティが、不浄な仕事を担う集団にされ、特に死・産・血、そして糞尿・汗・痰などの排泄物に関わる職業に従事する者は、不可触民として居住区を隔離されたが、それによつて実態的差別もますます強まっていった。
宗教的システムとして形成されたカースト制
 そして、それぞれのヴァルナ=ジャーティにふさわしい宗教儀礼・居住地域・生活様式・職業が定められていった。その原型はバラモンの聖典である『マヌ法典』に詳しく記されており、それを基本にして、それぞれのヴァルナによる家産と職業の世襲、さらに交際・通婚などのルール、ケガレに触れた場合の浄化儀礼が厳密に規定された。このようにして多様な民族が混住していたインド亜大陸のほぼ全域に渡って、アーリア人による権力支配を安定させる社会的システムが作り上げられていった。
 ただし広大なインド亜大陸であるから、かなりの地方差がある。例えばドラビダ族の多い南部では、ヒンドゥー教の浸透が遅れたので、カースト制秩序もなかなか確立されなかった。上位カーストも相対的に少なく、19世紀後半からドラビダ文化の復興を唱える反ヒンドゥー的運動が活発になったのも南部地方だった。私はケララ州を中心に5回ほど南部諸州の被差別地区を訪れたが、北部のダリット解放運動よりもはるかに熱気があり、差別の様態もアーリア系の多い北部とは違うように感じた。
 カースト制は永久不変の厳格な社会秩序とされ、神々の威力によってその秩序を守る祭祀儀礼が最も重視された。武力を誇る王侯のクシャトリヤよりも、祭司であるバラモンが上位とされた。このことは、カースト制が祭祀儀礼を中心とした宗教的統治システムであることを意味する。その点では、王を中心とした政治的身分制であることを正面に出した中国の律令制とは決定的に思想体系が異なる。
ケガレ観念をめぐって
 宗教的教義として定められた、≪浄・穢≫によって、厳格に仕切られたヴァルナ制では、身分間の移動を絶対に認めなかった。しかもケガレは甲穢(こうえ)→乙穢(おつえ)→丙穢(へいえ)というように次々に「うつる」実体概念として捉えられていたから、ケガレに関わる者とは一切接触してはならないとされた。触れただけでもケガレが「うつる」とされ、同火・同食も禁じられた。ここから「不可'触(un-touch-able)」というきわめて差別的な呼称が生まれたのである。
 ケガレに触れた場合は、バラモンが浄化儀礼を行う。そのハライ=キョメの儀礼の仕方も、ヴァルナによって異なる。不可触制がまだはっきりと成立していない『マヌ法典』においても、下位ヴァルナになればなるほど浄化儀礼は厳しく、それに関わる出費や日数も多くなっている。
 6~7世紀から第五のヴァルナとして不可触制が成立してから今日のカースト制度となったのだが、数多くのケガレに関わるジャーティから構成される第五のヴァルナは「アウト・カースト」とされた。何よりもケガレを忌避するバラモンは、不可触民とは接触しないので、その集落がヒンドゥー教徒であっても、浄化儀礼などの宗教的行事のために出向くことはなかった。ヒンドゥー教の祭祀儀礼から排除され、苛酷な差別で虐げられた不可触民の一部は、イスラム教やキリスト教へ転宗していった。
 それではこのようなケガレ観をどう考えればよいのか。簡単に述べておこう。死・産・血・排泄行為は、動物としてのヒトの根源的な生命現象である。生あれば必ず死があるわけで、経血や出産がなければヒトの再生産もできない。私のようにトシをとってくればみな実感することになるが、食事と共に排泄も、生命維持に最も重要な機能である。食べられなくなれば命も終わりだが、排泄できなくなればやはり終わりだ。
 そのような根源的な生命現象に「ケガレ」の焼き印を押して、「汚い」「穢れている」として、自分たちの文化の体系から排除してしまう。そして、日常的に人目に触れてはならないもの、隠さなければならないものとする。このように「ケガレ」として排除・隔離すること自体が、宗教的教義に基づくイデオロギー操作である(この問題については、宮田登・沖浦『ケガレ-差別思想の深層』<解放出版社、1999年>を参照)。
 今日の生命倫理学や医学・生物化学では、むしろその逆であって、死や排泄は哺乳類であるヒトの不可避な生命現象として真正面から取り組んで、人間の文化体系の中に位置づけなければならないことが力説されている。
5 なぜ身分制は解体されていったのか
≪浄・穢≫観念による差別
 まとめに入らねばならないのだが、もはや枚数は尽きた。それで以下の三点に言及することで、まとめに代えさせてもらう。
 まず日本の中世における≪浄・穢≫観念による差別である。カースト制は、直接的には日本には導入されていない。だが、先にみたようにヒンドゥー教の影響を強く受けた仏教の一派である「密教」を媒介にしてこの列島に入ってきた。カースト制度は、≪浄・穢≫観を中心に組織されている。動物界・植物界・鉱物界にもすべて≪浄・穢≫による序列があって、それを人間界に適用したのがカースト制である。
 このケガレによる種姓差別観念に、朝廷だけではなく、当時の権門寺社が深い関心を寄せた。というよりも、はっきり言えばこれに飛びついたのであった。この種姓差別によれば、<貴><良><賎>の身分間の格差がさらに際立つ。そしてそれを根拠づける差別思想も分かりやすい。何よりも重要なのは、世襲制によってその≪身分≫が子々孫々の代まで保証されるからである。
 ヒンドゥー教的なケガレ観は、中世初期には<神仏習合>という形で、ヤマト王朝の宗教政策に取り入れられた。「乞食」や「癩者」を非人と呼び、皮革の製造に関わる者は「かわや」「かわた」、そして遊芸・輸送・土木工事に関わる「河原者」を卑賎の民とみなした。
 女性差別の根本にはやはりこのケガレ観があり、平安期から寺社において「女人禁制」として制度化された。さらに<夷人雑類>思想にも影響を及ぼして、先住民族に対する差別を強めることになった。
 そして10世紀になると、国家がケガレを管理するために<触穢>が法制化された(『延喜式』927年選進、967年施行)。特に聖なる王都のケガレを除去する特別の職能を設けて、検非違使のもとで「清目」が制度化されて、賎民層の役務とされた。
 王都を中心に畿内に広がっていた殺生禁断・肉食禁忌の思想が、鎌倉時代に入るとしだいに在地村落社会にも浸透していくのだが、その媒体となったのは、天皇家・貴族など権門寺社の有した荘園における殺生禁断思想とケガレ観の普及であった。鎌倉期に成立されたとされる『諸社禁忌』では、著名な神社の禁忌が列挙されているが、10世紀の『延喜式』と比べてみると、禁忌の範囲が拡大されていることが分かる。死・産・血の三不浄を中心に、賎民差別にとどまらず、女人差別から障害者差別まで、ケガレ観が広がっていった。女人差別にしても、出産から月経・妊娠・流産まで範囲は広がっている。
 <ケガレ-キョメ>に関わる賎民に対する差別は、当初は天皇・貴族が集住する王都近国を中心とした地域的なものであったが、室町期の頃から在地社会に広がっていった。しかし、王都のあった西国と、武士が実権を握っていた東国とでは、ケガレ観の普及もかなりの地域差があった。熊野三山にみられるように、「浄・不浄をえらばず」、女性や乞食・癩者などの参詣を認める神社もあった。このように殺生を禁断としない信仰も、周縁とされた諸地域に根強く残った。
 賎視された被差別民は、農耕・漁労・狩猟などにたずさわり、食肉や皮革の仕事を含めて、その多くは衣食住の担い手であった。海の漁民も山の狩猟民も「士・農・工・商」の枠に入らず、「屠沽(とこ)の下類(げるい)」と呼ばれて、賎民に類する者とみなされていたのであった(この問題については沖浦『部落史論争を読み解く』<解放出版社、2000年>を参照されたい)。
世界各地に残る「職業と世系に基づく差別」
 第二点として、現代における「職業と世系に基づく差別」を世界的にみてみよう。
 ネパールにみられる不可触制は、ヒンドゥー教徒のアーリア系の移住と先住民の抑圧の結果として生まれたのであって、広義ではカースト制の社会的転移の一環として論じるべきであろう。人口の過半数を占めていて大半が仏教徒である先住民のネワール族の問にも、アーリア系の王朝が確立されるとともに、山岳地帯に散在しているチベット・ビルマ系の少数民族を除いて、カースト制が浸透していったことは注目される。
 インドネシアのバリ島にみられるカースト制は、16世紀頃にイスラム勢力に追われてバリ島に逃げてきたジャワ王国の支配層が持ち込んできたものである。すなわち、ヒンドゥー教徒だったジャワ王国の貴族層の移住によって宗教的に転移されたのであった。そして先住のバリ人が信奉していた土俗のアニミズムと習合し、東南アジアでは特異なバリ・ヒンドゥー社会を築き上げた。人口約300万のバリ島では、今日では人口の80%以上を占める下位身分はすべてシュードラであって、不可触制は消滅している。
 なぜ消滅したのか。その主な理由は、アニミズムに基づく祭祀儀礼では動物を屠って神に捧げる供儀を行いその肉と血を神前で共食する、葬送儀礼も村共同体の成員全体で実施する-そのような民俗が強く残っている社会では、屠畜や葬送をケガレとはみなしていないから、特定の職能を不可触民として差別する慣行が根付かなかったのである。
 アフリカや南太平洋の地域にも特定の職能集団を差別するシステムが残存している。私は1973年にエチオピア・タンザニアを中心にアフリカの東海岸地方を訪れた。それだけでは決定的なことは何も言えないが、ヒンドゥー教系の≪浄・穢≫観念による差別とは、その起源も歴史も異なるようである。アフリカ東海岸の諸地方にはインドからのヒンドゥー教徒の移民によってコロニーが作られていて、そこにカースト制差別が転移されているが、東海岸のアフリカ諸国はイスラム教かコプト教なので、ヒンドゥー教とは宗教的な隔壁がある。もしも土着の部族社会に特定の集団を差別するシステムがずっとあったとすれば、太古からのアニミズム的な呪術観念に基づいて設定された禁忌(タブー)、それにかかわる職能が賎視されていたのではないか。
 もう一つ考えられるのは古い時代から王や貴族によって使役されていた「奴隷」制の名残りであろう。先にみたように東南アジアから南太平洋海域にかけて「王」を中心に「貴族-平民-奴隷」という身分制があった。16世紀に入ってからの西洋キリスト教勢力の進出につれてしだいに消滅していったが、まだその痕跡は残っている。私が実見したところでは、インドネシア領の小スンダ列島・マルク諸島などの辺境の島々は、王宮がそのまま残っていてその家系が共同体の長として実権を握り、村の境界外の一ブロックに旧奴隷長屋群があった。そしてこの制度も、「職業と世系に基づく差別」であった。改めて言うまでもないが、カースト制の「不可触民」差別と「奴隷」制による差別を同一次元で論じることは、学問的にも間違っている。
 アフリカの諸地方では、確たる史料が残されていないので、「職業と世系に基づく差別」の起源・歴史を明らかにすることは難しいが、フィールド・ワークを重ねながら、宗教学・社会人類学・文化人類学などによるさらに精密な調査研究が必要である。
身分制解体への必然性
 第三点として、なぜ世界史的にみて、身分制の解体が必然であったのかという問題に言及しておこう。東アジアの律令制国家群では、身分制度は王を頂点としたヒエラルヒーとして形成された。しかし、中国と日本とでは、同じ律令体制でも大きく違っていった。中国では実質的に解体していったが、この日本では近世に入っても、なおケガレ観による種姓的差別は持続された。
 そもそも身分制とはどのような社会システムだったのか。それぞれの身分は、相互に閉鎖的かつ排他的であって、他の身分に、誰でも移れるならば、それはもはや身分制ではない。上位身分が承認するごく稀な例外-そのほとんどは下位身分が上位身分の支配のために貢献した場合-を除けば、身分間の交流・移動はありえない。したがって、婚姻の相手を同じ身分内に求め、それ以外の者との婚姻を厳禁することになる。つまり、「内婚制」が厳格に義務づけられるのだが、他の身分との自由な通婚を容認するならば、どの身分に帰属するか分からない曖昧な身分がしだいに増えて、数世代を経ずしてその身分制は崩壊してしまうからである。
 このような身分制社会では、それぞれの個人の性格や能力や教養は問われることなく、公的に社会に顔を出すのは、「身分」だけである。家柄と共に「職能」の世襲が定められている社会では、個人的資質は直接的には意昧をもたないし、その個性を自由に発揮する場場はない。あったとしても、そのヒトが帰属する身分の圏内だけである。
 そして、強権的軍事力・政治力なくしては身分制を保持することはできない。なぜなら、下層の民衆の人権を徹底的に抑圧するこのような身分制社会では、多数を占める下位身分からの絶え間ない憤懣の爆発と反抗が予想されるからである。
 祭祀儀礼や民俗行事においても、身分間の差異と格差を保つためにさまざまな工夫がこらされた。居住地域をはじめとして、その家屋・髪型・服装・言葉づかい・行儀作法など、日常生活のすみずみまで規制された。すなわち、どこの地区で、どんな家に住み、どんな職業に従事し、どのような課役を担い、どんな服装と食事をしているか、その交際範囲はどこまで広がっているか-そのような諸条件が分かれば、それだけでどの身分なのか分かる仕組みになっていた。
 このようにさまざまな内部矛盾を抑止しながら、職業の世襲制が強制された。特定の身分が従事している分業には、他の身分が入り込めない仕組みになっている。すなわち、生産力の発展につれて社会的分業の進展がみられるにもかかわらず、身分制そのものが閉鎖的なシステムになってくるのだ。
 しかし、資本による商品生産と交換市場が普遍化する近世末に入ると、このような伝統的身分制の存続基盤がしだいに崩れていった。そして、資本主義近代に入ると、資本制生産の市場メカニズムによって、<経済外強制>に頼らなくても、合理的な方法によって支配ができるようになる。そういう事実が、明治維新の際の賎民制廃止の背景にあった。
 今日のインドも、それによく似た事態に直面しつつある。宗教的粉飾と暴力的差別によって維持されてきたカースト制的身分制は、1990年代に入ってからの急速な生産力の発展と社会的な交通関係の拡大にとって、かえって邪魔物になってきた。中国と並んで急成長をとげるインド社会にとって、まさしくそのことが当面する最大の社会問題になってきたのである。
参考文献
仁井田陞『唐令拾遺』東方文化学院1933年/仁井田陞『支那身分法史』東方文化学院1942年/濱口重國『唐王朝の賎民制度』東洋史研究会1966年/小西正捷『人間の世界史8 多様のインド世界』三省堂1981年/立川武蔵ほか共著『ヒンドゥーの神々』せりか書房1981年/上村勝彦『インド神話』東京書籍1981年/斎藤昭俊『インドの民俗宗教』吉川弘文館1984年/沖浦和光『竹の民俗誌』岩波新書1991年/小谷江之ほか編著『叢書カースト制度と被差別民』全5巻 明石書店19941995年/沖浦和光『瀬戸内の民俗誌』岩波新書1998年/尾本恵市ほか編『海のアジア』全6巻 岩波書店2001

第Ⅳ部 現代と「身分」差別

2章国連と「身分差別」問題をめぐる動向友、水健二

はじめに
 従来、部落問題は、日本固有の問題だとされてきたが、果たしてそうであろうか。日本の部落差別と、インドをはじめとする南アジアにおけるカースト制度に起因する「ダリット」に対する差別、朝鮮における「白丁」に対する差別、さらには、アフリカにも存在するとして近年注目されてきている「身分差別」との共通性は大きいのではないだろうか。これらの差別や差別撤廃の方法を比較研究することは、日本の部落差別を撤廃していく上で重要な意義を持っている。とりわけ、国連の人権関係の会議でも、「身分差別」が重要な差別問題として取り上げられてきているが、この動向をフォローしていくことは重要である。また、日本における部落差別撤廃にむけた研究と実践を踏まえ、「身分差別」を撤廃するために国際的に発信していくことも求められている。
 そこで、まず国連の人権関係の会議での議論を紹介する。
1 国連の人権関係の会議での議論
 国連の人権関係の会議での議論としては、主として人種差別撤廃委員会と、人権の促進と保護に関する小委員会(以下、人権小委員会と略)での議論がある
国連・人種差別撤廃委員会での議論
 まず人種差別撤廃委員会での議論を紹介する。この委員会は、196012月に国連で採択され、1965年1月から発効した「あらゆる形態の人種差別撤廃に関する国際条約」(以下、人種差別撤廃条約と略)の履行を監視するために条約に基づき設置された委員会である。条約の第1条には、この条約でいう人種差別として、「人種(race)」「皮膚の色(color)」「世系(descent)」「民族的(national)出身」「種族的(ethnic)出身」の五つの事由が列挙されている。
 人種差別撤廃委員会は、条約の締結に伴い定期的に提出される各国の報告書を審査し、勧告を伴った見解を公表しているが、インド、ネパール、バングラデシュなどの南アジア諸国から提出された報告書の審査において、これらの国に存在しているダリットに対する差別を人種差別撤廃条約第1条に規定されている「世系」に基づく差別であるとして、差別撤廃に取り組むことを求めている。
 日本政府は、この条約に199512月に加入し、2000年1月に第1・2回政府報告書を国連に提出した。この報告書の審査が2001年3月に行われたが、人種差別撤廃委員会は、日本の部落差別も第1条に定める「世系」に基づく差別に該当することを明確に指摘し、この条約を踏まえた差別撤廃を勧告した。
 このように、人種差別撤廃委員会は、南アジア諸国に存在しているダリットに対する差別や日本の部落差別を、この条約第1条に定められた「世系」に基づく差別であるとの見解を示しているが、インド政府や日本政府はこれを認めていないという問題がある。
 このため、人種差別撤廃委員会は、2002年8月、人種差別撤廃条約第1条に定められた「世系」に関するテーマ別討議を開催し、当事者や専門家の意見を聞いた上で、「世系に基づく差別に関する一般的勧告ⅩⅩⅨ」を採択した。その中では、「『世系』に基づく差別がカースト及びそれに類似する地位の世襲制度等の、人権の平等な享有を妨げ、または害する社会階層化の形態に基づく集団の構成員に対する差別を含むことを強く再確認」し、インドのダリットに対する差別や日本の部落差別がこの中に含まれることを明確にした。なお、この一般的勧告のなかでは、「世系」に基づく差別の存否を認識するための要素として、①世襲された地位の変更が不可能か制限されていること、②集団外の者との婚姻が社会的に制限されていること、③居住や教育などにおいて私的・公的に隔離されていること、④世襲された職業などを放棄する自由が制限されていること、⑤債務奴隷制に服していること、⑥穢れまたは不可触という理論に服していること、⑦人間の尊厳及び平等に対する尊重が一般的に欠けていること、などがあげられている。
国連・人権小委員会での議論
 次に、人権小委員会での議論を紹介する。人権小委員会は、国連・経済社会理事会の下に設置されている人権委員会の下部機関で、26名の委員が個人の資格で選ばれている専門家の組織である。
 人権小委員会では、これまで部落解放同盟や反差別国際運動(IMADR)の代表による部落問題に関する訴えや、インドのダリットの代表によるダリット問題の訴えなど、個々の身分差別に関する提起が行われた。これらの提起を受けて、2000年8月、人権小委員会は小委員会としてこれらの問題を「職業と世系に基づく差別」として捉え、これらの問題が国際人権条約によって禁止された差別であることを明らかにするとともに、これらの差別が世界のどの地域にどのようなかたちで存在しているか、また、これらの差別を撤廃するためにどのような努力が行われているのかを小委員会として明らかにしていくことが決議された。
 2001年8月、人権小委員会のグネセケレ委員(スリランカ)によって、一年間に及ぶ調査・研究に基づく報告が小委員会に提出された。このなかでは、インド、ネパール、スリランカ、パキスタンに存在しているダリットに対する差別とともに日本の部落差別が報告されている。
 また、2003年8月、アイデ(ノルウェー)、横田(日本)両委員による報告では、アフリカにおける身分差別が報告された。この中では、①マリ、セネガルなど14の国に見られる西アフリカの内婚制職業集団、②エチオピアなど北東アフリカに見られるディムと呼ばれている集団、③北部ケニア、中・西部エチオピア、タンザニアに分散しているワッタと呼ばれている集団、④ソマリァのミドゥガン、トゥマルなどと呼ばれているサブ集団、⑤イエメンのアクダムと呼ばれている集団、⑥ナイジェリアのイボ民族の中のオスと呼ばれる集団が、含まれている。この他、アイデ・横田報告では、南アジア、西アフリカ、ソマリア人及び日系人の離散コミュニティー(ディアスポラ)における差別についてもふれられている。
 なお、「職業と世系に基づく差別」のさまざまなケースに共通する特徴のなかの「原因」として、①集団の構成員が出生によって決まること、②仕事の種類や職業上の役割との繋がりがあること、③内婚制による隔離があること、④穢れ概念が影響を与えていること、⑤階層的秩序が存在すること、⑥宗教や神話が影響を与えていること、⑦人種や種族の違いがあるとみなされていること、が列挙されている。また、「結果」では、①住宅/居住の分離、②結婚や食事、公開の場所やサービスのアクセスなどでの社会的分離、③保護された労働区分や重要な儀式上の役割、④貧困、⑤権利主張に対する暴力的妨害、が取り上げられている。
2 若干の理論的問題
ここで、人種や世系に関して、若干理論的な考察を行うこととする。
1)「人種」は社会的に創り出された概念
 先に紹介した人種差別撤廃条約が列挙している五つの事由について、ユネスコが大学における人権教育のためのテキストとして発刊した書物のなかでは、以下のように解説されている。 
(人種差別撤廃条約の第1条で規定されている)「人種」は、身体的基準を基礎に社会的に規定されている集団を指している。「皮膚の色」は、これらの基準の一つにすぎない。「門地」(政府の公定訳は「世系」)は、言語、文化あるいは歴史を基礎に規定された社会集団を意味する。「民族的」「種族的」出身は、意識を基礎にして主に決定される。しかしながら、これらすべての事例において、さまざまに異なる基準に適応されるのは、客観的な定義ではなく、主観的な定義である。重要な問題は、それが本当であるかどうかにはかかわりなく、ある人が他者によって身体的、社会的、あるいは文化的に異なるものと考えられるかどうかである。そして、一般に、ある人の「人種」を決定するのは他者である(カーレル・バサック編、『人権と国際社会』翻訳刊行委員会翻訳監修『人権と国際社会ユネスコ版上』庭野平和財団、1984年)。
 周知のように、ヒットラーによって率いられたナチスが依拠した人種主義という考え方は、人類はいくつかの人種に分けられ、優秀な人種と劣等な人種とが存在する、そこで、優秀な人種を擁護し劣等な人種を抹殺するという恐るべきものであった。しかしながら、この解説のなかでもふれられているように、今日では、「人種」という概念は、科学的には定義できないものであって社会的に創り出されてきたものだと考えられているのである。
 この点に関して部落差別を分析したとき、部落を差別している人びとは、偏見によって、被差別部落の人びとを「身体的、社会的、あるいは文化的に異なるものと」決めつけている。たとえば、部落差別に関する偏見の典型として「異民族起源説」があるし、日本にキリスト教を広める上で少なからぬ影響を及ぼした賀川豊彦や留岡幸助などは、被差別部落の人びとを「犯罪人種」として捉えていた。
2)「世系」と部落差別
 「世系」という言葉は、あまり耳慣れない言葉であるが、広辞苑によれば、「世系=①祖先から代々続いている血統。②系図。系譜。」と解説されている。また、英語の「descent」という言葉は、オックスフォード英語辞典によれば、「先祖若しくはその系統を『引いている』ということ、または先祖若しくはその系統が伝達されているということ」であり、「血統、人種、系統」を意味している。
 一方、日本政府は、外務省発行の人種差別撤廃条約の解説パンフレットにおいて、「『世系』とは、この条約の適用上、人種、民族から見た系統を表す言葉であり、例えば、日系、黒人系といったように、過去の世代における人種又は皮膚の色及び過去の世代における民族的又は種族的出身に着目した概念であり、生物学的・文化的諸特徴にかかる範疇をこえないものであると解されます」と述べている。
 しかしながら、人種差別撤廃委員会は、日本政府のこの見解に対し2001年3月、日本政府の第1・2回政府報告書の審議において、「『世系』の語はそれ独自の意味を持っており、人種や種族的または民族的出身と混同すべきではない」と批判し、日本政府に対して「部落民を含む全ての集団について、条約第5条に定める市民的、政治的、経済的、社会的及び文化的権利が、完全に享受されることを確保するよう勧告する」とし、部落差別が、この条約の「世系」に基づく差別であることを明確に指摘している。
 日本政府の見解のように「世系」が、「日系、黒人系といった過去の世代における人種または皮膚の色及び過去の世代における民族的または種族的出身に着目した概念」であるとするならば、「人種」「皮膚の色」「民族的出身」「種族的出身」という文言でカバーできるので、わざわざ「世系」という文言を入れる必要はないこととなる。また、部落差別が、出生という、個人の努力によって克服し得ない事情に基づく差別であることを考慮したとき、「世系」に基づく差別に部落差別を含むことの方が合理性があると言わねばならない。
3)職業と世系に基づく差別
 人権小委員会は、先に紹介したように、「世系」に基づく差別に関心を持ち調査・研究に取り組んでいるが、単に「世系」とするのではなく「職業と世系に基づく差別(Discrimination based on work and descent)」と規定している。その理由は、当初、「カースト制度に基づく差別」と規定する案があったが、これでは特定国の差別(具体的にはインド)を指すことになるとの批判があったため、差別の特徴を表現することとなったためである。ところで、「世系」という言葉そのものは、一般的には「系譜」を意味する広い内容を含む言葉であるので、日系アメリカ人やアフリカ系アメリカ人などの「○○系」という意味にも使用されている。このため、インドのダリットに対する差別や日本の部落差別に代表される「身分差別」の特徴を表現するために「職業と世系に基づく差別」と規定されたと考えることができる。
 こうして、インドのダリットに対する差別や日本の部落差別に代表される「身分差別」は、「職業」との関連が深いことが分かるが、この点をいま少し詳しく分析することとする。
カースト制度に基づく差別
 「身分差別」の典型は、インドにおけるカースト制度に起因する差別である。ところで、カースト制度は、インドでは人びとを区分する二つの異なった概念の統一体である。一つはサンスクリットでジャーティと呼ばれているもので、語義は「生まれ」すなわち出自・家系を意味していて、族内婚、共食、世襲職業によって結ばれた閉鎖的な集団である。このジャーティと呼ばれている集団が、一般的にはカーストと呼ばれているものである。もう一つは、サンスクリットでヴァルナと呼ばれるもので、語義は「色」、皮膚の色を意味していて、バラモン、クシャトリヤ、バイシャ、シユードラなどと社会階層を四つ(ないし、不可触民を加え五つ)に区分する広い社会階層区分である。
 この内、ジャーティは、基本的には共同体内の分業に基づく経済発展の中から内発的に形成されてきたもので、主として世襲化された同一の職業を基礎にしている。例えば伝統的なインド社会では、もっとも多くの人口と耕地を持つ農業カーストを取り巻くかたちで、司祭、書記、大工、陶工、理髪、洗濯、皮革加工、清掃など20ほどのカーストが存在し、これらのカースト間には人びとの横の関係、相互依存の交換関係が存在している。この相互依存関係は、それぞれのカーストごとの職務(職分)とそれに対する得分(ワタン)によって成り立っている。たとえば、不可触民の場合、死牛馬の処理が職務で、これに対する得分が、それに伴う皮や肉などの取得である。
 一方、ヴァルナは、人びとの縦の関係、カースト問の縦の関係、序列を意味している。この序列は、ヒンドゥー教の浄・不浄観念に基づき作り出されてきたものである。この縦の関係の最上位にはバラモンが、最下位には不可触民が位置していて、中間にクシャトリヤ、バイシャ、シュードラが上下に位置している。そして、それぞれのカースト(ジャーティ)は、いずれかのヴァルナに位置づけられている。しかも、同一ヴァルナであっても、それぞれのカースト(ジャーティ)問においてもまた、上下関係がある。このため、バラモンの内部でも、また、不可触民の内部でも上下の関係がある。
 ところで、不浄観念は、動物や人問の死や血によってもたらされる「穢れ」から生ずるものとされている。このため、動物の死体を処理したり、皮革や食肉に関わる人びとが、もっとも「穢れ」た存在として排除されることとなったし、生理や出産との関係で女性が差別されることとなったのである。
 そして、この「穢れ」は、「穢れ」た人と直接に接することだけでなく、「穢れ」た人と同じ場所にいるだけでもうつると認識されている。このため、婚姻、共食、居住地などが厳しく制限されることとなった。また、外見的に明確になるよう服装などにも規定が設けられたのである。
社会的身分と国家的身分
 カースト制度は、国家権力によって上から一方的に規定された身分制度(国家的身分制度)ではなく、社会そのものがその内部から生み出した序列的、階層的秩序(社会的身分制度)という性格を持っている。しかしながら、カースト制度が国家権力と一切関わりなく、自立的に機能し、再生産されたわけではない。国家権力と相互補完関係にあったのである。すなわち、国家はカースト制度を社会秩序維持にとって不可欠なものとみなして、それに根拠を与え、逆にカースト制社会はその存在の究極の根拠を公権力としての国家に求めていたのである(両者の関係については、詳しくは、概念図を参照のこと)。
図 カーストと国家との相互関係概念図

1:カースト側からの①~④までの要求は、主として訴訟として提起され、これに対する判決や法令に基づいて国家の影響力の行使が行われた。

2:不可触民の役負担としては、死牛馬の処理、下級刑吏、城や牢獄の清掃などがあった。

カースト制度に基づく不可触民差別の特徴
以上、概括したカースト制度に基づく不可触民に対する差別の特徴は、以下のように列挙できる。
①死牛馬の処理、皮革、食肉、清掃、下級刑吏などの特定の職業に世襲的に従事してきた。
②世襲的に従事してきた職業には、分業に基づいたものと地域社会や国家権力によって強いられた役負担に基づくものとが存在していた。
③ヒンドゥー教の浄、不浄、穢れ観念に基づき差別されてきた。
④結婚、社会的交際(その典型が共食である)、居住地などの面で、著しい制限を受けてきた。
⑤共同体内の社会的分業に基づく横の関係において位置づけられた側面と国家内の縦の社会層序列において位置づけられた側面とがあった。
3 現代における身分差別
 従来、身分制度に基づく被差別民に対する差別は、前近代社会において見られるものであって、近現代においては基本的にはそれは存在せず、存在したとしても遺制に過ぎず、時間的な経過とともに消滅していくものとされてきた。
 確かに、近現代における身分差別を見たとき、先にまとめたような身分制度に基づく被差別民に対する差別の特徴は大きく変化してきている。例えば、地域社会や国家によって強いられた役負担としての職業は基本的には廃止されているし、世襲化された職業も大きく変化してきている。結婚や社会的交際、居住地における法的制限も廃止されている。なによりも、各国の憲法において差別が否定され、平等が規定されている。
 しかしながら、浄・不浄、ケガレ観念に基づく差別意識は未だ払拭されていないし、結婚や社会的交際、居住地については、事実上の制限、差別が存在している。
 その原因については、さまざまな説があるが、近現代においてなぜ部落差別が解消されないのかについて、主要な説を以下に列挙する。
1)主要な生産関係から除外されてきたから
 一つの説は、被差別部落の人びとが、差別によって主要な生産関係から除外されてきたから、すなわち、差別によって市民的権利、とりわけ就職の機会均等が不完全にしか保障されなかったからとするものである。なお、この説は、部落差別の社会的存在理由として政治的には分裂支配、経済的には超過利潤の源泉として存在していることが指摘されている。また、差別観念が社会意識として存在していることが指摘されている(例えば、朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』朝日選書1451979年)。
2)日本社会が重層的な社会であるから
 二つ目の説は、日本社会が重層的な社会であるからというものである。具体的には、日本社会は、封建社会から近代社会へ、さらに近代社会から現代社会へと移行した際に、それ以前の社会を根本的に否定するのではなく、前時代の諸制度を破壊せずに利用してきた歴史を持っているというのである。このため、部落差別も存続してきていると見る考え方である(例えば、中村政則『経済発展と民主主義』岩波書店、1983年)。
3)近代化の原理自体が差別を生むから
 三つ目の説は、近代化の原理そのものが新しく部落差別を生み出してきたというものである。具体的には、明治維新以降の日本の近代化の原理は、学歴尊重主義、衛生思想、さらには優生思想に基づいて行われた。この結果、教育も満足に受けられず、不衛生な状況に置かれた人びとの集団を排斥するという風潮が強まっていった。これが明治以降、部落差別が存在した理由であるという考え方である(例えば、ひろたまさき『差別の視線』吉川弘文館、1998年)。
4)天皇制が存在しているから
 四つ目の説は、天皇制が存在しているからというものである。具体的には、天皇は生まれながらにして他の人びとと比べて「貴い存在」であるという原理からは、必然的にその対極として、生まれながら他の人びとと比べて「賎しい存在」が生み出されてくるというものである。この結果、天皇の対極に部落出身者が位置づけられるとするものである(例えば、松本治一郎や住井すゑの論説)。
5)グローバル化の下で、貧富の差が拡大するから
 五つ目の説は、グローバル化の下で国際的にも国内的にも貧富の格差が拡大するとともに、民族排外主義が強化され新たな差別が生まれると同時にもともと存在していた差別が強化されるというものである。具体的には、グローバル化の下で、自由主義市場経済に基づく競争が激化する結果、貧富の差が拡大し、諸集団の事実上の「世襲化」が生じ、マイノリティが周縁化されるというものである。また、グローバル化の下で、各国内において民族排外主義が強化され、日本の場合は、天皇制強化が叫ばれることによって差別が強化されるというものである(例えば、武者小路公秀『解放新聞中央版』第1852号、1998年1月5日)。
6)その他の説
 この他、21世紀は、旧来の国民国家の比重が低下し、国際的には、国際機関や国家連合が、国内的には、地方自治体やエスニック集団の果たす役割が大きくなるからという説がある(例えば、R・スターヴェンハーゲン『エスニック問題と国際社会』お茶の水書房、1995年)。また、選挙などで集団のアイデンティティを基盤にした権利擁護運動が展開されるからという説もある(例えば、賀来弓月『インド現代史』中公新書、1998年)。
 さらに、遺伝子に対する関心の高まりを背景に、優秀な能力の遺伝子を生まれながらにして保持している人びとと劣等な遺伝子を保持している人びととが存在しているという、新たな装いをもった人種主義が台頭してきている。このことによって、差別が強化されるという説である(例えば、斎藤貴男『機会不平等』文芸春秋、2000年)。
4 差別問題を考える基本的視点
 次に、差別問題を考える際の基本的視点について、世界人権宣言や人種差別撤廃宣言などに盛り込まれている内容を踏まえ、国際的に指摘されている事項を紹介する。
1)差別撤廃は、人権確立の基礎である
 人権というものは、本来すべての人に保障されているものである。人権を考える上で、その人の性や、皮膚の色、過去の身分、出身地、「障害」の有無などはまったく関係がない。人間であるというただ一点を条件として、すべての人に保障されているものが人権なのである。このことを明確にするためには、まず、差別が間違っていることを明確にすることが必要である。このため、30条の条文から成り立っている世界人権宣言の第1条と第2条は、差別を否定した条文となっているのである。
2)人種差別は、道徳的にも科学的にも合理化されない
 先にも紹介したように、ヒットラーに率いられたナチスは、人種主義理論に基づきユダヤ人をはじめとする被差別集団を虐殺した。この背景には、ナチスに協力した「科学者」がいた。彼・彼女らの理論は、人類はいくつかの人種に分けることができて、優秀な人種と劣等な人種が存在している、したがって、優秀な人種を増やし、劣等な人種を抹殺すべしという恐るべき理論であった。しかしながら、この考え方は、道徳的な見地からはむろんのこと科学的にも間違っている。今日では、人類はアフリカで誕生して各大陸に拡散していったこと、それぞれの地域で独自に適応していった集団問においても活発な交流が存在していたこと、主として皮膚の色によって分類される人種という概念は、背の高さや鼻の高さで人類を区分するのと同じでまったく意味をなさないことなどが明らかにされてきている。この点を踏まえるならば人種という概念は、科学的概念ではなく、社会的に作り出されてきたものなのである。
3)人種差別は、社会の平穏と世界の平和を脅かす
 ナチス時代のドイツを振り返ってみても明らかなように、人種差別は必ず暴力行為を生み、ついには虐殺をもたらす。また、一国内で深刻な人種差別を抱えている国は、その矛盾をそらすために周辺諸国を侵略する。この結果、世界の平和が脅かされることとなる。
4)差別は、差別される人だけでなく、差別する人の人間性をも傷つける
 通常、差別は、差別されている人びとだけに関係した問題と捉えられている。たとえば、差別している人びとは、差別されている人びとが悪いから差別されるのだ、自分とは関係のない問題だ、と思っている人がいる。また、差別されている人びとに同情している人でも、せいぜい差別されている人びとの人間性が傷つけられていることに同情しているに過ぎない。しかしながら、差別を深く分析すると、差別は差別されている人びとのみならず、差別している人びとの人間性をも傷つけているのである。例えば、封建時代にエタ・ヒニンなどの被差別民衆を差別していた農民は、そのことによって自らがおかれていた無権利な状況を慰めていたのである。また、一定改善されてきた今日の部落の実態に対して「ねたみ差別」の意識をいだいて、差別落書きや差別投書などによって不満をぶつけている人は、自らがおかれている惨めな状況に対するうっぷんを晴らしているのに過ぎないのである。
5 差別撤廃の基本方策
差別撤廃の基本方策としては、人種差別撤廃条約に五つの方策が盛り込まれている。
1)人種差別を法律で禁止する
 人種差別は、法律によって禁止されなければならない。なぜなら、人種差別は暴力行為を生み、最終的には虐殺をもたらすからである。日本は、人種差別撤廃条約に加入する際、差別宣伝や差別扇動、さらにはこれを目的とした団体を結成することや加入することなどを犯罪として処罰することを求めていた4条(a)、(b)項を、表現の自由や結社の自由に抵触するおそれがあるとの理由で留保した。しかしながら、ナチスによるユダヤ人虐殺は差別落書きに代表される差別宣伝、差別扇動から始まったという歴史の苦い教訓をかみしめる必要がある。このため、ドイツやフランスなどでは、差別宣伝や差別扇動を法律で明確に禁止している。「部落民を皆殺しにせよ」などと大量殺戮を呼びかける差別落書きや差別投書、さらにはインターネット上の書き込みが増加してきている日本の現状を直視したとき、日本も4条(a)、(b)項の留保を撤回し、国内法を整備する必要がある。
2)人種差別の被害者を効果的に救済する
 次に必要なことは、人種差別の被害者を効果的に救済することである。このための最終的な機関は裁判所である。しかしながら、裁判所による救済には少なからぬ経費がかかることと、結論が出るまでかなりの時間がかかるという限界がある。そこで、近年、国際的に、裁判外の救済機関として人権委員会に代表される国内人権機関の重要性が注目されてきている。現在、世界でおよそ50の国で、アジア・太平洋地域においても12カ国に、人権委員会が設置されている。人権委員会による救済の特徴は、基本的には無料でかつ迅速である点にある。日本でも、人権委員会を設置する必要性が叫ばれていて、2002年3月、人権擁護法案が国会に上程された。しかしながら、人権委員会の独立性、実効性などの面で批判があり、抜本修正が求められていたが、200310月、衆議院の解散に伴い廃案になった。早急に独立性と実効性を持った人権委員会を設置するための法律の制定が求められている。
3)教育・啓発によって差別観念を払拭する
 三点目に必要なことは、教育・啓発によって差別観念を払拭することである。この点に関して、まず整理しておかねばならない点は、差別観念は自然にはなくならないという点である。なぜなら、差別観念は、長い歴史によって社会に深く根を張っているからである。また、差別観念は、日常生活の折に触れ時に触れ、口から口へと伝わるからである。このため、差別観念を払拭するためには、教育・啓発活動が積極的に展開される必要がある。さらに、各種文化活動やマスメディアなど多様な方法や媒体を効果的に活用していくことも必要である。
4)劣悪な実態については、特別の施策を実施することによって改善していく
 通常、人種差別を受けている人びとは、差別のために仕事や教育、生活や住環境などの面で劣悪な状況に置かれている。しかも、その状況は、一般的な施策では改善されないことが多い。このため、特別の施策が必要となる。たとえば、アメリカでは、黒人に対する差別を撤廃するために差別撤廃のための積極的是正措置(アファーマティブ・アクション)が、インドでは、ダリットに対する差別を撤廃するための特別枠(リザーブ制度)が設けられてきている。周知のように、日本においても部落差別を撤廃するために、1969年から一連の「特別措置法」が施行され、特別の施策が実施されてきた。しかしながら、特別の施策は、永久に実施するべきものでなく、特別の施策を実施することによって差別の実態が改善されてきたり、一般施策で差別の撤廃が可能になってきた場合には廃止しなければならない。この観点から、日本の部落差別の撤廃に関しては、2002年3月末で、特別措置法に基づく特別の施策は廃止され、一般施策を活用して残された差別の撤廃に取り組まれている。
5)隔離や同化を排し、連帯を構築する
 かつて南アフリカ共和国で実施されてきたアパルトヘイト政策は、人種に基づく隔離を伴ったあからさまな差別であった。しかしながら、1910年以降、日本が朝鮮を植民地支配した際に行った「同化政策」も、これと対照的な差別政策である。「同化政策」とは、本来異なっているにもかかわらず、力の強い集団に、言語や宗教、さらには名前などを強制的に合わさせようとする政策である。これもまた、差別なのである。差別に基づく隔離・分離や同化は、必ずその社会を深刻な混乱、対立、ついには内戦におとしいれる。20世紀末から21世紀初頭の世界各地で見られる内戦を伴った民族紛争の原因は、この問題に起因している。これからの日本と世界に求められていることは、違いを認めて共に生きていく共生、連帯の道である。
6 差別撤廃の具体的方策
 2002年8月、人種差別撤廃委員会で採択された「世系に基づく差別に関する一般的勧告ⅩⅩⅨ」のなかでは、世系に基づく差別を撤廃するために、締約国政府に対して、48項目に及ぶ具体的な勧告が出されている。これは、先に紹介した人種差別を撤廃する五つの基本方策を、世系に基づく差別の特色を踏まえ具体化するものとして注目される。以下、日本における部落差別を撤廃していく上で、特に注目される点を列挙する。
・全体的な措置としては、差別の現状を明らかにするために定期的な実態調査を実施すること、差別を撤廃するための法律を制定し計画を策定すること。
・複合差別を受けている女性については、世系に基づく差別を受けている女性が置かれている実態を調査すること、計画の策定や施策の実施に際しては複合差別を受けている女性が置かれている状況を考慮に入れること。
・分離や隔離については、世系に基づく差別の被害者と社会の他の構成員とが統合された混合社会の促進を図ること。
・マスメディアやインターネットなどによる憎悪表現については、差別や暴力の扇動に対する厳格な措置を講じること、マスメディア従事者の世系に基づく差別についての認識を促進する措置をとること。
・司法については、世系に基づく偏見による不正義を防止するため、公務員及び法執行官に対する研修を実施すること。
・市民的・政治的権利については、結婚の自由を確保する断固たる措置をとること、世系に基づく差別を受けている集団に影響を及ぼす決定に当事者の関与を確保すること。
・経済的・社会的な権利については、雇用や労働市場における差別を禁止すること、貧困を根絶し、社会的排除、周縁化を防止する効果的な措置をとること。
・教育を受ける権利については、中途退学率を減少させること、とくに女子の教育状況に注意を払うこと、世系に関する差別について、教科書の問題点を改めて検討し、人間の尊厳、人権の享有、平等のメッセージを伝えるものに変えていくこと。
おわりに
 筆者は、199810月、マレーシアのクアラルンプールで開催された「第1回力ースト差別撤廃世界会議」に、部落解放同盟中央本部の組坂繁之委員長とともに参加した。この会議の冒頭、主催者代表であるダリット出身のパンディタン上院議員が、「南アフリカのアパルトヘイトが撤廃された今日、全世界で三億人を超すダリットに対する差別を撤廃していくことは最大の人類的課題となってきた」との挨拶を行ったことを鮮明に記憶している。
 差別を撤廃し人権を確立していくことは、人類の永年の悲願であり、恒久平和を実現するために不可欠な課題である。この崇高な課題を実現していくための当面の課題が、世系に対する差別を撤廃していくことにあるのである。このため、国連の人種差別撤廃委員会や人権小委員会でさまざまな取り組みが開始されてきている。これをさらに発展させ、国連の人権委員会や国連総会でも主要な議題の一つとして取り上げ、国際的な連帯の力で一日も早く世界各地に存在している世系に基づく差別を撤廃していくことが必要である。
 その際、日本における部落差別撤廃にむけた80有余年に及ぶ運動の経験と理論的な蓄積が貢献できる点は少なくない。例えば、世系に基づく差別の問題は宗教との関連が深いが、日本では1979年の第3回世界宗教者平和会議における差別事件への反省の中から『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議が結成され、さまざまな取り組みが展開されてきている。この取り組みの経験は極めて重要である。また、世系に基づく差別を撤廃していくうえで、産業・職業の安定を確保することは、決定的に重要な意味を持っている。その点では、1975年の「部落地名総鑑差別事件」を反省することの中から、同和問題企業連絡会や人権啓発企業連絡会が東京や大阪などで結成され、各種の取り組みが蓄積されているが、この経験も貴重なものである。さらに近年、被差別部落を中心に周辺地域(例えば小学校区域)をも巻き込んだ「人権尊重のまちづくり」をめざした取り組みが開始されているが、この経験も重要である。
 2004年8月、国連の人権小委員会で「職業と世系に基づく差別」を撤廃するための原則と指針のとりまとめに関する討議が予定されているが、これにむけて部落解放同盟中央本部によって日本の部落解放運動の経験と部落解放理論の蓄積を踏まえた提言がなされている。
 こうして、今日、日本における部落差別の撤廃は、世界における世系に基づく差別の撤廃と深く結びついた課題となってきていると言えよう。
参考文献
矢木明夫『身分の社会史』評論社叢書3 1969年/小谷汪之『不可触民とカースト制度の変遷』明石書店1996年/反差別国際運動日本委員会『現代世界と人権14 市民が使う人種差別撤廃条約』解放出版社2000年/反差別国際運動日本委員会『現代世界と人権15 国連から見た日本の人種差別』解放出版社2001年/『差別撤廃を求めた国際的潮流と連帯し、部落差別撤廃の取り組み強化を!!』部落解放・人権研究所2001年/ヒューマン・ライツ・ウオッチ 川本和弘訳「カースト差別-地球規模の課題」『部落解放研究』143200112月/ヒユーライツ大阪編『国際人権ブックレット10 地球規模で捉えるカースト差別・部落差別の今』解放出版社2003年/友永健三「国連と部落問題」『部落解放研究』155200312

執筆者紹介(50音順)

沖浦和光(おきうら・かずてる)

1927年生まれ。桃山学院大学名誉教授。専攻は比較文化論、社会思想史。◎著書…『天皇の国・賎民の国』(弘文堂1990年)、『竹の民俗誌』(岩波新書1991年)、『瀬戸内の民俗誌』(岩波新書1998年)、『部落史論争を読み解く』(解放出版社2000年)、『幻の漂白民サンカ』(文芸春秋2001年)、『瀬戸内の被差別部落』(解放出版社2003年)◎共著…『日本文化の源流を探る』(解放出版社1997年)、『辺界の輝き日本文化の深層をゆく』(岩波書店2002年)など。

加藤昌彦(かとう・まさひこ)

1946年生まれ。関西外国語大学人権教育思想研究所教授。◎論文…「環境問題と差別」(関西外国語大学論集№58 1993年)、「賀川豊彦と西光万吉の出会いと乖離」(関西外国語大学論集恥№63 1996年)、「被差別部落と共同浴場」(待兼山比較日本文化研究、第5号、1998年)、「『同愛』誌とガンディー」(仲尾俊博先生追悼論文集「信心の社会性」1998年)、「西光万吉の戦後-和栄政策(総合的平和政策)追求の25年」(2004年未発表)など。

桐村彰郎(きりむら・あきお)

1941年生まれ。奈良産業大学法学部教授。◎共著…『統合と抵抗の政治学』(有斐閣1985年)、『水平社運動史論』(解放出版社1986年)、『部落史研究ハンドブック』(雄山閣1989年)、『部落解放史中巻』(解放出版社1989年)、『大阪社会労働運動史第2巻』(有斐閣1989年)、『大阪水平社運動史』(解放出版社1993年)、『幕末維新論集8 形成期の明治国家』(吉川弘文館2001年)など。

 黒川みどり(くろかわ・みどり)

1958年生まれ。静岡大学教育学部教授。◎著書…『異化と同化の間 被差別部落認識の軌跡』(青木書店1999年)、『共同性の復権 大山郁夫研究』(信山社2000年)、『地域史のなかの部落問題 近代三重の場合』(解放出版社2003年)◎共著…『近代社会を生きる』(吉川弘文館2003年)、『人物でつづる被差別民の歴史』(解放出版社2004年)など。

小谷汪之(こたに・ひろゆき)

1942年生まれ。東京都立大学人文学部教授。◎著書…『インドの中世社会』(岩波書店1989年)、『不可触民とカースト制度の歴史』(明石書店1996年)、『穢れと規範:賎民差別の歴史的文脈』(明石書店1999年)など。

寺木伸明(てらき・のぶあき)

1944年生まれ。桃山学院大学教授。部落解放・人権研究所理事。◎著書…『近世部落の成立と展開』(解放出版社1986年)、『被差別部落の起源とは何か』(明石書店1992年)、『被差別部落の起源-近世政治起源説の再生』(明石書店1996年)、『近世身分と被差別民の諸相-<部落史の見直し>の途上から』(解放出版社2000年)、『部落の歴史 前近代』(解放出版社2002年)など。

 友永健三(ともなが・けんぞう)

1944年生まれ。部落解放・人権研究所所長。反差別国際運動事務局次長。大阪市立大学非常勤講師。◎著書・.・『人権の21世紀へ 部落解放運動の挑戦』(解放出版社1998年)◎共著…『地域に根ざす人権条例 人をつなげるまちづくり』(解放出版社2003年)など。

三宅正彦(みやけ・まさひこ)

1934年生まれ。愛知教育大学名誉教授。◎著書…『安藤昌益の思想的風土 大館二井田民俗誌』(そしえて1983年)、『京都町衆伊藤仁斎の思想形成』(思文閣1986年)、『安藤昌益と地域文化の伝統』(雄山閣1996年)、『日本儒学思想史』(山東大学出版社1997年、陳化北訳)◎共著…『思想史Ⅱ』(山川出版社1976年)、『安藤昌益の思想史的研究』(岩田書院2001年)◎校注…『安藤昌益全集』第1巻・第10巻(校倉書房1981年、1991年)など。

柳父 章(やなぶ・あきら)

1928年生まれ。桃山学院大学非常勤講師。著述業。専攻は翻訳論、比較文化論。◎著書…『翻訳語成立事情』(岩波新書1982年)、『秘の思想』(法政大学出版局2002年)◎論文…「カースト制とキリシタン禁制・部落差別」(部落解放研究所1998年)など。

梁 永厚(やん・よんふ)

 1930年生まれ。関西大学講師、同人権問題研究室研究員。◎著書…『戦後・大阪の朝鮮人運動』(未来社1994年)など◎論文…「近世朝鮮の身分制度と『差別法』」(関西大学人権問題研究室紀要1921号)、「柳田国男と朝鮮民族学」(季刊『三千里』21号)、「在日朝鮮人教育の路線の推移」(『在日朝鮮人史研究』11号)、「朝鮮民族学の苦難」(『伝統と現代』71号)、「植民地期『朝鮮国語読本』の系譜」(季刊『三千里』38号)など。

好並隆司(よしなみ・たかし)

 1929年生まれ。別府大学客員教授。◎著書…『秦漢帝国史研究』(未来社1978年)、『商君書研究』(渓水社1984年)、『中国水利史研究論攷』(岡山大学文学部1996年)など。