網野善彦を継ぐ。   著者 中沢新一・赤坂憲雄  講談社

2004625日第一刷発行  装幀 難波園子 ISBN4-06-212453-X

網野善彦を継ぐ。カバー画像

カバー図版「環日本海諸国図」〈この地図は、富山県が作成した地図の一部を転載したものである(6総使第76)

目次と抜き書き

まえがき    中沢新一

 この対話をはじめたとき、私たち二人は深刻な危機感に突き動かされていた。私たちがまだ学生だった頃、人文学に新しい潮流が発生した。人類学や民俗学のような人間の無意識の思考や行為をめぐる学問と、書かれた史料をもとにして行なわれる歴史学とをひとつに結びつけて、新しい人間の学問をつくりだそうという潮流である。網野善彦氏は職人技にも等しい古文書解読の技術と、オーソドックスな歴史学の方法論を身につけた手堅い歴史学者として出発しながら、この新しい潮流に身を投じて、みずから日本の歴史学に新しい可能性を大胆に切り開いてきたのだった。
 二十世紀後半の知性のあり方を象徴するこの潮流が、網野氏の死をもって、一応のサイクルを閉じようとしている。私たちはこれからどこへ向かい、何を開きもたらしていったらよいのか。失ったもののあまりの大きさに圧倒されながらも、赤坂さんと私は自分たちに迫っている危機の本質を見きわめようとして、この対談をはじめたのだった。

Ⅰ 歴史の欲望を読み解く網野史学

知の制度の中に単独で立った人/網野善彦への歴史学界の反発/『蒙古襲来』に高々と掲げられたモチーフ/否定性の歴史学/日本人の野性/『無縁・公界・楽』による挫折/歴史の欲望を実証する難事業
 戦前の「皇国史観」などはその意味では、あらゆるものごとをすんなり理解の範疇に収めていくという意味では、秀才的歴史観の典型で、しかも欲望を否定するという意味では、「抑圧の歴史学」の部類に入りますね。天皇という超越者を据えて、天皇を頂点とする国体は、これは善であるという論理に立つと、歴史はすんなり理解できるようになります。もちろん抵抗勢力はありますけれども、この抵抗勢力もいずれ滅んでいくと考える皇国史観には、否定性は除去されてあります。
 ですが戦後、日本の歴史学は、この平泉澄の歴史学を完全に否定します。そして新しい歴史学で、今度は唯物史観が中心になっていきました。唯物史観は、へーゲル、マルクスから来ているものですから、歴史の原動力は否定性によるとして、歴史の理解を行ないます。皇国史観なんかは粉砕されます。ところが問題は、これはへーゲルとマルクスによってつくられた歴史の理解が、それ自体ひとつのシステムと化していくと、そこからは真実の否定性がとりのぞかれて、今度は唯物史観という「抑圧の歴史学」が支配していくことになります。網野さんも最初はこの唯物史観からスタートしますが、すぐにそれは自分の求めているものと違うと直観して、長い沈黙と熟考の時期に入りました。
 網野さんは、そこにはじつは否定性などはなくて、スマートな理解のシステムをつくってしまっている、これでは皇国史観の変形にすぎないじゃないかと考えたんでしょうねえ。
 実証主義的歴史学は、文字の表面を読んでいくんですね。ところが網野さんは、おそらくこういうことを考えていたんだと思います。つまり、「歴史はつねに自分が語りたかったことを語り損なう」と。そういう視点に立っていると思うんです。だから、古文書を前にしても、「ここには何か語り損なわれている欲望が隠されている」、そして欲望を掴み出す解釈を実践した。ところが、フロイト・マルクス以前に属する実証主義的な歴史学は、[そんなことはどこにも書いていない」と批判するんですね。
 書いてないはずですよ。欲望はつねに言語表現の表面からは否定されるものとしてしかあらわれてこないのですからね。ここが、網野善彦の学問の新しさだと思います。フロイトの精神分析学やマルクスの経済学批判のようなかたちであらわれた方法は、唯物史観の日本史学のなかにさえ、存在しなかったんですよ。それが網野史学としてはじめて国史学に登場してきた。そしてあらわれてくるやいなや、総攻撃を受けた。これはフロイトの精神分析学やマルクスの経済学批判の場合ともよく似ています。

Ⅱ 北へ、南へ、朝鮮半島へ広がる問題意識

民俗学へ、朝鮮半島へ/民俗学の欲望はどこへ行ったのか/原-無縁=自由空間の普遍性/北につながる結社、南につながる結社/定住と漂泊の同時性/「中心と周縁」の構図に戦いを挑む/差別の視点から見る日本と朝鮮半島
 民俗学はもともと強烈な欲望の学でした。柳田国男、折口信夫、南方熊楠、中山太郎、誰ひとりとっても欲望の人たちです。近代のなかで実現できないもの、否定されつくしたもの、しかしそれが語りかけてくるものを語り出すことを民俗学はやろうとした。ところが戦後になって、大学の教科にもちゃんと入るようになったなかで、その民俗学の欲望はどこに行ってしまったんだろうかと、ぼくなどもしばしば考えさせられます。
(「アカマタ・クロマタ集団」、「ヤマニンジュ集団」の話)そうしたら、「それだ、それだ!」と喜んでくれました。その心を聞くと、中世に「無縁」「公界」「楽」ということばで出てくるが、その構成組織というのが、とても面白いのだ、と。「無縁」でも「公界」でも「楽」でも、「無縁」が原理になるんですね。外の世界の人間関係や貸借関係がその空間の内部では切れてしまう。そして、その空間に入ったからには、全員が原則平等となる。平等なんだけれども、そこには組織原理があって、「老」ということが価値を持つ年齢階梯の組織形態をつくるんですね。それによって、外の世界の時間の流れや、法やコミュニケーションとは違うものが実現できるというのが、『無縁・公界・楽』に言われている自由空間です。民俗学がテーマにしてきた問題が、ここで歴史学とクロスしてきます。
 八重山群島の仮面儀礼と、「無縁」の主題は、深いところでつながっている。そういうことを網野さんはそのときはっきり理解していました。
 民俗学と歴史学をつなぐいままであまり注目されてこなかった回路のひとつが、ここにあります。民俗的な事象と歴史的な事象の表面上の類似を超えて、ただ抽象的な思考だけがそれを抽出することができる、思考のレベルが実在しているのです。網野さんの歴史学的思考で驚かされるのは、こういう抽象的なレベルの構造をとり出してくる能力でした。-
「原-無縁」という原理があって、それが民俗学的な現象としても、歴史的現象としても発現してくる。ふたつの学問をつなぐ構造が確実に存在しています。それをあきらかにしていくと、自由空間の人類的な普遍性をあきらかにしていく、つぎのステップの仕事が開けていくでしょう。しかも、この問題は朝鮮半島へも波及していきますよ。年齢階梯制に基づく秘密結社は、南九州では「ソラヨイ」のお祭りにも見られます。ここにも男性秘密結社がありますね。こうして問題は、朝鮮半島から東アジア全域に広がっていくことになるでしょう。沖縄のアカマタ・クロマタは、歴史の軸にも、民族学的な空間軸にも広がっていきます。
 縄文は定住生活がはじまった時代だと言われていますね。われわれが歴史とか社会のはじまりについて考えるときに、定住のムラを起点にして何かを発想したり、考えたりすることが当たり前と思われていないか。たぶん稲作中心史観なんていうのもそれにつながってくると思うんですが、じつは移動とか漂泊といったことが、最初の段階から、はじまりのときから定住と対になって出てくるという認識は、とても重要だと思うんですね。
 たとえばマルクスが、共同体が果てるところから交換がはじまると語っていますね。つまり孤立した共同体が先にあったのではなくて、すでに共同体とその外部ないしあいだが同時的に発生したのではないか。つまり、共同体のあいだこそが最初にあるということは、商業とか交易とか、外なる世界とのコミュニケーションがすでに・つねにあって、はじめて共同体が成り立つという考え方ですね。それは精神史的なレベルで言うと、共同体の内なる祖先が神になるという通路と同時に、折口的なマレビト、漂泊する、さすらう神との出会いが最初からそこに仕掛けとして存在するという発想につながっています。
 おそらくは歴史を見るときにも、民俗を見るときにも、「最初に家または共同体ありき」という柳田的な発想をとるのか、あるいは「最初からあいだがあり、マレビトのさすらいありき」と考える折口的な発想をとるのか、という選択が大きな分岐点になります。これは歴史学の領域にもあって、網野さんはほとんど折口的な匂いがしませんけれども、折口的な意味で発生のときから共同体とその外部が対をなして見出される、定住と泊というのはつねに表裏をなすものだという発想を持っていたと思いますね。それはもしかしたら、今話題になっている結社の問題、男と女の問題ということにも微妙なかたちでおそらくはつながっていくだろうと思います。
 民俗学がある時期、中心と周縁という枠で問題を整理しようとして、そこに象徴人類学の手法を取り入れて、民俗事象を構造分析しだしました。そのやり方で、民俗学を生き延びさせようとしましたが、それが今ではもうほとんど駄目になっています。方法がすぐにパターン化してしまって、結局は小説やジャーナリズムに解消されてしまった。それでいけば、いちばん優秀な民俗学者は、京極夏彦ということになっちゃいませんか()。それ自体は面白いものですが、やはり世界を閉ざしてしまいます。それはやはり民俗学のある意味での敗北なんだと思います。どこかでやり方を間違えたんでしょうね。
 網野さんは民俗学が拠って立つところの欲望の原点を、中心に対する周縁のような位置づけではないところに見出そうとしていました。だからこそ「普遍」という言い方をしたんだと思いますね。人類的普遍というのは、定住なのではなく、むしろ移動していったり、流動していくものこそが、人類学的な普遍なので、あるいは非人はマージナルな存在ではなく、非人間=聖なるものとして、まさに普遍的な原初的人間なのだというふうに発想を逆転していこうとしていた。
 民俗学は今、ある種の自同律に入り込んじゃっていますが、その原因というものが、ひとつはこの中心と周縁みたいなものに収まっちゃう発想をとっていることと関係があると思うんです。

Ⅲ 「天皇」という巨大な問題

天皇という存在の深さ/天皇は山川草木すべてを支配する?/王の二つの身体、さらにもう一つの天皇の身体/天皇の問題をリアルに問う/権力を国家を東北から考えなおす/天皇という存在の遠さ
 そこで、赤坂さんが先ほどちょっとおっしゃった、天皇制の根を理解していく回路をどこに見つけたらいいかとずっと考えていましたが、『精霊の王」というのなかで、問題にしていたのは、じつはそのことなんですね。近代的な理解の仕方だと、カントーロヴィチが考えるみたいに「二つの身体をもつ王」として理解していけばいいですね。
 ところが、日本の天皇に関しては、この考え方とは合わない、もう一つの身体性がある。この身体というのは、いわゆる政治権力の主権者とは違うところへつながっている。この身体性がどこにつながっていくのかと考えると、それが王というものが誕生する以前の空間につながっていく。王権がその空間を自分の内部にセットするときには、それを芸能や儀礼のかたちをとおして組み込んでいきます。そうすると王というものは、「三つの身体をもつ者」として考えていかなけりゃいけないのではないでしょうか。
 カントーロヴィチが言うのは、王が生き死にする身体、具体的な身体のことですね。これは歴代天皇のことです。もう一つは、天皇が死んでも持続していくような、法人としての天皇ですね。これがだいたいヨーロッパの王権を考えるときの、二つのテーマですね。それ以上は考える必要がない。
 ところが天皇制では、もう一つの身体を考えなければいけなくなってくる。それを『精霊の王』では、ぼくは「翁としての体」と表現したわけですけれども、芸能的な構造として表現される身体性ですね。この芸能をとおして表現される身体性というものの根源をたどっていくと、これはとても深いところへ降りて行ってしまう。近代的思考が普通、天皇制を処理できると考えている天皇、つまり王権制と天皇を結びつけて処理できる天皇というものは、この第三の身体に及んでいないんですね。

Ⅳ 「東の歴史家」の意味

山梨という風土/西の歴史家と東の歴史家/差別をめぐるタブーの西・東/移動する人間、都市と貨幣/定住の終わりと定住の原理の柔らかさ/一万年の歴史を貫く風景
-この都市的な考え方は、網野さんにも共通しています。土地に長いことしばりつけられているのを好まない人たち、移動していく人たちが、「無縁」の土地、河口とかあるいは河原であるとか、そういうところに自分たちの住む空間をつくっていって、それをもとにして都市というものはつくられていったんだ、と。自分が漁村を歩いているとき、漁村のたたずまいと都市の構造がよく似ているのを感じた、と網野さんは書いています。
 淀川べりにできた大阪のことを考えてみてもそうですし、漁村のつくられ方と都市のつくられ方が似ているという、この一点を考えてみても、人間の心のなかに本質的に都市的なものがある、都市というものをつくりだす必然的なものが人類の心にはもともとセットされている、そしてその同じ原理が貨幣をつくりだすであろう、そういうことなんです。ここが、農本主義的な歴史観と網野さんの歴史観を大きくわけているところになると思います。
 人間は根源において狩猟民です。この狩猟がはらんでいる人間関係や聖なるものとの関係を考えていくときに、じつは「無縁」「公界」「楽」の原理が出てくる。北方のマタギのような狩猟民の社会構成のあり方と、「無縁」一公界」「楽」の世界はつながっていると思います。極端なことを言うと狩猟民のなかにある原理は、都市的な何かにつながりがあるということになるかも知れません。こう考えてみると、マルクスの思想なんかにもそういうところがあるんですけれども、「貨幣」「都市」「流動性」、フロイトをもってくると「無意識」ということでしょうね。無意識は流動していきます。こういうものが、人類の基本的な精神構造のなかにセットされていると考えていくと、世界史はいろんな意味で逆転していくでしょうし、ものごとは意味を変えていくでしょう。
-「都市」と「農村」ということで言えば、柳田はまさに『都市と農村』のなかで語るわけですね。ぼくはとても魅力的だと思っているんですが、日本の都市は農村の従兄弟たちがつくったという言い方をする。それは一面で真実なんでしょうね。たとえば、江戸の町などは出稼ぎにやって来た人たちがつくっている。ところが、はじまりの風景に眼をこらしていくと、農村の従兄弟たちはある意味では新参者なんですね。できあがった都市的な場に流入してきて、そこを肥大化させていくときには大きな役割を果たしているけれども、もともとはやはり移動し遍歴する人たちが、その移動の結節点として都市的な場を構築していくというかたちが、おそらくはじまりの風景なんだろうと思います。
 これは『風土記』なんかを読んでも、津(つ)や泊(とまり)や渡しなどは、山の方からは山の幸を持った人々が、海の方からは海の幸を持った人々がやって来て、そこで出会い交換をする場所なんですね。それが恒常的な市になって、さらに都市的な場へと展開していくという、そういうプロセスをたどっていると思いますから、きわめて中沢さんのおっしゃったことは正しいと思うんですよね。ごく初期の柳田のなかにはそうした都市論の萌芽もありますから、あらためて再考してみたいなと思う部分ですね。
-確認されているものでは日本列島ではじめての定住的な暮らしが営まれていた集落遺跡ですね。つまり、その丘に立ったとき、ひじょうに感慨深かったのは、われわれが当たり前に思っている定住の家があり、村があり、という暮らしのスタイルがはじまったのが、日本列島ではおよそ一万年前であるということですね。一万年はたしかに長いけれども、「たった一万年なのか」という思いもあります。それと同時に、その一万年の定住の時代が、今もしかすると終焉のときを迎えているのかも知れない、といったことも考えました。これは東北の村歩きのなかに生まれた予感でもあるんですね。
 これまでのような定住中心の村のイメージにしがみついていると、村が村として成り立たないような状況が生まれつつあります。だから、定住中心の暮らしのスタイルが大きな変容の季節を迎えているということを、きちんと視野に繰り込む必要があるんじゃないか。この『「日本」とは何か』の冒頭に、「人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったといわざるをえない」という宣言がありますね。つまり、われわれは今、人類の青年期から壮年期に移行しつつあるという、いわば網野史学の遺言にも似た認識には、「定住」と「漂泊」という問題が大きくからんでくる気がしているんですね。
 定住中心の村のイメージ、それと同時に水田稲作にしばられた価値観というものを前提として、この列島の歴史の全体を眺めてきた、それがもはや立ち行かない時代に入っているのかも知れない。われわれは疑いもなく国民国家以後の、壮年期の歴史学へと転換していく必要があるんです。にもかかわらず、おそらく網野史学に対する反動は、これからひじょうに強いかたちで起こるだろうと思います。党派的な志の低い批判を許さないためには、国家や稲作や定住中心の思考というものにしばられた歴史学というものの、足元をさらっておく必要があるんじゃないかと思いますね。

あとがき  赤坂憲雄

 わたしはいったい、網野史学の何を継承していくべきなのか。いまだ曖昧模糊としている。『蒙古襲来』のなかで、網野さんが眩きのように書き留めていた「いかんともなしがたい、えたいの知れない力」という言葉は、やはり、幾重にも示唆的である。そんな力の根源を突き止めてみたいなどといった、異形の欲望を共有することは可能だろうか。あきらかに、それは歴史にまつわる学の臨界点に位置を占めるような、はるかに遠い欲望であったと言っていい。
 もとより、網野善彦を継ぐ、といった物言いがまったく不遜なものであることは承知している。しかし、わたしはあえて思う。網野さんが遺していった、いくつもの問いがある。それらの巨大に過ぎるがゆえに、永遠の未完を宿命づけられた問いの群れを、それぞれの場所にあって引き受け、背負いつづける覚悟を固めること、それこそが網野さんを継承することなのではないか、と。まだ降りるわけにはいかない。
2004531