エェジャナイヵ、花のゲリラ戦記 向井孝 水田ふう 著 径(こみち)書房
装幀 長谷川孝子 イラストレーション 津田雅彦 1989年5月25日発行 0036-0072-2507
はじめに
電気ジャンジャンつこうてるからこそ、反原発!/「新しい反原発の波」と私ら/
「なむあみだぶデモ」で何を見つけたか(79年1月<非暴力直接行動>77号/85年2月パンフ<ハウツー念仏デモ>)
デモのはじまり、あるいはきっかけ/<かたち>から入ること/準備の意味/<思い入れ>のこと/<ハプニング>の意味/ウソのようなホントの話/<仮装>について1/<仮装>について2/助っ人たちのひと口感想抄/「ぼくらをしばっている何か」とは/付記
補遺/<やる者>と<やらない者>の連合/<仮装>について3/仮装デモ・その変化と応用
座り込み非暴力直接行動記(79年6月<非暴力直接行動>86号)
ゲリラ的連合プレー/大飯原発・座り込みショー/付記
なんで「女と反原発」!?(79年8月<非暴力直接行動>89号>
子どもが<力>になったデモ/原発は男社会の終着駅/
漫才台本 「不払い連」てなんやねん(79年10月パンフ<不払い連・その戦略と戦術>/83年8月<おさきまっくら>47号)
原発と電気料金/宣伝作戦あの手この手/<指定日払い>作戦とは/付記/宣伝戦争の意味
「大の男」「小の女」これでエエんか(81年3月<非暴力直接行動>111号
巨大な問題というけれど/世の中を変えるカギ
大変だアー敦賀原発事故かくし(81年5月<非暴力直接行動>113号
タイミングの問題/地下街デモ・掛け声シュプレヒコール/付記
「日高」バスツァー・趣旨と結末(81年6月<非暴力直接行動>114号)
バスツァー企画の前提/「現地」で何ができるのか
「どんな戦争にも反対」という問題(81年10月<非暴力直接行動>114号)
「戦争いやや」からの出発/<女と>反戦/まず、自分の問題からはじまる闘い
「パロディ札ビラ」事件・風聞録(81年11月<非暴力直接行動>121号/82年1月<おさきまっくら>34号)
カメラマンの報告/毎日新聞夕刊記事/なめねこ記者会見/庶民の伝統・パロディ
もしもし税務署長さん(82年3月<非暴力直接行動>124号)
軍備にお金は出せません/税務署はまるでヤクザのたまり場/付記
花の応援団問答(82年5月<非暴力直接行動>125号)
びっくり市民講座・前座のあいさつ/応援団こそ運動の力/
小さなパレード大きなデモ(83年9月<非暴力直接行動>135号)
自分らだけでもやれること/都市ならではの宣伝戦争
不払い連・井戸端談義(83年9月<おさきまっくら>43号)
いまはまだ少数派でも/
反原発は女を変える革命やった(82年6月<なにがなんでも原発に反対する女たちのグループ>パンフ)
「女グループ」のきっかけ/「弱さ」を“力”として/私らが変わり、闘いが変わり、そして
おきなわ朕道中(ちんどうちゅう)-ゆきゆきて私服のむれ(87年10月<非暴力直接行動>150号)
四国高松で何が起こったか(88年3月<非暴力直接行動>154号)
原発さらば記念日/ダイ・インについて/非暴力「直接行動」とは/終わりのはじまり
Xデー華の乱(89年1月<非暴力直接行動>162号)
『君子(マスコミ)ハ豹変ス』/昭和の臨終・1月7日/元号まっ・平成(ひらなり)八日/歴史はデモからはじまった/三日目の酒盛り/天皇制みんなでつぶせばコワクない
非暴力直接行動とは何か(78年4月<WRIパンフ・現代暴力論ノート>
Ⅰ 暴力と非暴力=非暴力とは何か/暴力とは何か/
Ⅱ 疑似非暴力体制と人民の非暴力性=人民の非暴力性と暴力観
Ⅲ 闘争の質と方法の変化=人民と権力者/武装闘争と人民
Ⅳ 直接行動と生産労働=直接行動とは何か/直接行動と自治管理
Ⅴ 非暴力直接行動とは何か=<疑似>との闘い/非暴力直接行動・六つの意味
Ⅵ なぜ非暴力直接行動か=武装闘争か非暴力直接行動か/既成の闘争概念の放棄と新しい闘争形態の創出
おわりに
ひとむかし前、私らがどんなふうに出発し、それから五年ほどたったとき、どんなことを考えたか-。83年8月の京都「反原発運動全国集会」を前に書いた「イオム通信」(向井孝の個人紙)270号から抄出すると、
▼久米三四郎さんからきた手紙に『……原発推進派が、このごろの様替りの情況でオタオタしているのに、反原発派まで、気の抜けたような現状で……』とあった。ほんまにそうや。
▼ぼくの周辺だけを見まわしてみても、たとえば「女グループ」も「不払い連」もエライ沈滞ぶりで、グループ維持の最低線「定例会」もやっとこさのありさま。そしてぼく自身も。
▼五~六年前発足した当時は、エライ意気込みやったし、元気があった。
行動をつくることが面白くてたまらん、というふうやった。その行動の中で、まず自分が解放されるのがうれしかった。
私らがやりだした仮装デモや、ゲリラシアター、大阪弁のシュプレヒコールに一分間アピール、掛け合い漫才ふうの司会など、大阪のその他のいくつかの運動へも、多少はひろがっている。
▼ところが二年、三年たつと、こっちはもうそんなやりとりも出つくして、だんだんマンネリの二番、三番センジで、面白くもおかしくもない。遅れて加わった新人が、はじめての経験にキャーとばかりはしゃぐのをみて、なるべく新人をたてて、自分はその新人が喜ぶのを見てよろこんだり、アホらしなって白けたり……。
つまりはしだいにくたびれて、そんなことからいつのまにか新人もこなくなると、いよいよじり貧気分で、あーしんどいナァ。
▼ベトナム反戦の終熄とともに、七〇年代運動の下降沈滞がずうっと続いていたそのころ、八〇年代闘争をいうのは、だいぶ先走りやった。
まして、八〇年代運動のあるべき新しい質と結びつけて、まだほとんど姿を現わさない-都市の反原発を、八〇年代闘争の最大の焦点におくというのは、早合点の先物買いといわれかねへんかった。
▼七九年三月、スリーマイル島事故が起こったとき、ぼくは「あっ、早すぎる!」、とあわてた。
「原発の大事故がそのうちきっと起こる。それが破局的なものになるか、その一歩手前か、いずれにしても、それを推進派のやり方を変えさせる転機にしなくてはならない。
残念ながらいまの、まだまだ弱く小さい反原発運動の力だけで、原発推進をストップさせるということは、望むべくもない。それゆえ、そのような事故のときにこそ、反原発運動存在の意味が試される」
つまり大事故のとき、市民の世論を背後にして、どれだけの攻撃に立ち上がることができるか。その力をいままでの日常活動で、どれだけたくわえてきたかが試される。そのためにこそ、いまぼくらの「都市反原発運動」がある。
▼そして七九年のスリーマイルや、その後八一年に発覚した敦賀原発事故かくしなどで、当時マスコミが連日大さわぎし、市民の世論がどよめいたその数日間こそは、推進派に致命的打撃を与える可能性のチャンスやった。
もしあのとき、都市反原発グループが各地にたくさん生まれており、そのネットワークがつくられていて、全国いっせいに立ち上がって騒ぎたてることができたなら、運動側だけの力ではなく、世論と合体することで、敵のよろめいている弱腰への一ケリが、決定的打撃となったかもしれない。
それが今後の情勢の中でできるかどうかが、都市反原発運動の可能性の意味であり、それこそが私ら都市市民の担うものなのだ……。
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運動は、運動だけの力では歴史に登場できない。いわば地の利、時の運-まあ毎日の活動の中のハプニングや、ことのはずみ、たまたまとらえた歴史のタイミングともいうべき偶然のチャンス、とくにそれらを力として即座に取り込むことができる運動の中の新しい質の誕生-それらが相乗的にいっぺんにぶつかり出会うことで、波を起こし、うねりとなり、歴史をつくる起爆力となる。
たとえば、五四年にはじまった原水爆禁止運動。五八~六〇年の日米安保反対闘争。六七~七〇年のベトナム反戦と全共闘運動。そのいずれもが、戦後史上ではじめての、それぞれが新しい質を孕む「市民大衆運動」として現われることによって、世論の共感をよび、時代の波と重なって、大きく体制をもゆさぶる狂瀾怒濤となった。
しかしまたそれらの運動は、そのときどきがつくりだした最も特徴的な運動の新しい質を、自覚的にとり出して発展させる、ということがなく、やがて「波」の退潮期とともにむしろいままでの旧態依然としたやり方を脱却することができずに、次のチャンスをも見失ない、ただ沈滞下降していく、という結末をいつもたどってきた。
そしていささか遅れすぎて、八〇年代もあと一年で終ろうとするいま、とつぜんのように、「新しい波」の盛り上りがやってきた。「四国高松」から「東京行動-二万人」へと、一気に高揚して、この国中の若い主婦たちがいっせいに声をあげはじめた。新しい反原発運動の登場である。
それは世論をひきつけ、マスコミを動かし、誰の予想をも超えた勢いで、この国中の思わぬすみずみまでひろがり、全国に千ちかい小グループを生みだして、いままでの運動のイメージを一変するものとなった。
そして「高揚」のあとの、熱気にみちた余波は、何度か起伏しながらいまも続いている。
だがまた、いまのままのような興奮は、私らがそうだったように、いつまでもは続かない。つまりいまこのごろの情況は-ここ一年あまりのうちに、次のチャンスを準備し、タイミングをつかんで、さらなる大高揚をつくりだすことができるか、それとも上下いくつもの波の起伏を続けながら、しだいに停滞していくか-の大きな「潮目」でもあるということだ。
具体的にいえば、第一に、何よりもそれぞれのおもいからはじめだした都市の女たちの小グループの活動が、いっそう殖えひろがりながら定着したものになるか、いまの活き活きしたエネルギーが持続しているうちに、とくに「見学や交流」なんかで人間関係を通して原発現地と結びつき、「いざ」というときは、「ウワァー」とばかり現地をも押しつつんで、闘いをともに引き受ける「出動態勢」が気軽にとれるようになるか。-「さあ現地へ集まろう」というとき、主催を現地だけに任せるのではなしに、何千、何万という全国規模のひとりひとりの大集合にしてしまうことができるか(その可能性や進行度をはかる簡単なリトマス紙は-たとえばそのデモや集会が、いままでの形式ややり方から抜け出して、自由自在に自分のおもいをどれだけこだわりなく追及し表現しているか、である)。
第二に、運動の新しい質を何よりも明らかにするのは、それぞれ独自の特色や個性をしっかり認識し、だいじにする「個の自立」である。
その個の自立を確かにするのが「グループ」であり、さらにグループの自立を「連合」の中で保証するのが「ネットワーク」である。自立とネットワークは不可分というものだ。
とすれば、「ネットワーク」がグループの活動目的にしっかり取り入れられていて、それが具体的に、そのときどきの大小の共同行動をつくるものとして、どう機能しているか、である。
ネットワークは、たとえば電力会社などへの申し入れや抗議行動、その他の集会や行事の共催、相互支援を「宣伝戦争」としての、都市グループの共通課題として積極的に把握するところからはじまる。それは、もちろん反原発の中だけにとどまらず、いままで自分の視野に見えなかった分野の、他のグループのいろんな活動もまた、ひとしく自分と通底するものとして見出すことになるだろう。
つまりは、日ごろ反原発に取組んでなくても、いざというときいっしょにやってくれるような相互関係のネットワークを、自分の側から進み出てどれだけつくれているか。
いいかえると、都市の反原発グループが、そのネットワークが真に意味する「自由連合」を、どれだけ自覚したものにし、他の諸運動に先駆けてきりひらくか、である。
五年ほど前、私たちがやりえなかったそれらのことの可能性として、いまこのごろの情況は、はるかに前進している。
そして、いろんな分野のいろんなグループが個別の日常活動でつくり出すさまざまな「波」の上下や波長が、あるとき反原発を先頭としていっせいに重なりあいだしたとき、それこそ歴史をつくる大波濤となるにちがいない。
そのときこそ、ひとりひとりでは小さな存在の市民が、はじめて時代を動かす主人公として現われるというものである。
●後記
▼はじめ本書は、旧稿のうち「反原発」関係だけの文章を集めてまとめたが、とても一冊に収めきれないので、内容を約半分に割愛して、それ以外のもの数篇を加えることにした。そのため-「東京行動」以降の新しい反原発運動の情況と、抱えている問題については、本書の全体ですでに触れているものとして、読者の判断にゆだねるほかない編集となった。
いま反原発運動は、東京行動以後、能登・島根・泊・六カ所などの闘いと推移のなかで、昨年来の高揚とひろがりの余勢をのこしながら、しかし一面ですでに沈静、停滞化の萌しをみせはじめているといわねばならない。
その意味でいま私たちは「運動」の帰趨が定まる岐路に立っている。というよりも、もっと切実に、何が運動の沈静と停滞をもたらしはじめたのかを、改めて「四国・高松行動」を原点として見通し、明らかにしなければならない、と痛感する。
そしてそのとき、ぼくらが八〇年代はじめに主張し実践しようとしたこの記録が、もしいささかでも運動の新しい質の後退を防ぎ、さらにその創出のために役立つものとなるならば、本書を出す意義もあるというものだろう。
▼終わりにこの刊行は何よりも径書房原田奈翁雄さんの強いすすめにほだされてのことだが、加えて、「非暴力直接行動」紙その他計三百余点を通読し、分類選択編集のもっとも手間な部分を引受けた国井由起子さんの助力がなければ、到底実現しなかった。お二人に心から感謝する。
1989年1月