ええじゃないか-民衆運動の系譜 西垣晴次 著 新人物往来社

装幀 加固弘史 1973520日発行 0021-30189-3306

民衆運動の系譜カバー画像

なっとくのいく「ええじゃないか」解明 和歌森太郎(跋文)

 明治維新とは、民衆にとって何であったのか。この問題につき語るとき、慶応3年末の「ええじゃないか」は軽視しがたい事象であり、幾たびか学者の考察対象となって来た。
 ところが、この書のように、近年の地方史研究の成果を吸収し、じつに広範に関係史料を掘りおこした上で、古代以来の宗教的民衆運動の系譜をたどりつつ、周到綿密な考究の末、その歴史的位置づけに成功した業績は、これまで全く無い。伊勢神宮史を新しい視角で研究し続けてきた著者が、その過程で磨いた史眼、歴史・民俗にわたる事象把握のゆたかさが、ここにみごとに結晶している。
 維新史を、日本の宗教社会史全体の中で見透す上でもだが、「ええじゃないか」現象の実態を正確に知る上でも、貴重な文献となっている。
  初めてなっとくのいく、「ええじゃないか」の解明書を得た思いである。

目次

序章

 幕末の大坂で異国人の目にとまった派手な服装をした大衆の乱舞、彼らの発する「いいじゃないか えいじゃないか」の叫び声、それに伴う集団の熱狂状態、その起因とされる伊勢神宮の札の大量降下という一連の現象は、なにも大坂という一地域のみに、また12月の中旬という一時期に限られた局地的な現象ではなかった。-
 この現象は、群衆の発した叫び声から現在では「ええじゃないか」とよばれている。「ええじゃないか」は約300年にわたる長い間、民衆を支配してきた徳川幕府が、政権を京都の朝廷に奉還し、幕府最後の年となった慶応3(1867)年の夏ごろから翌年のはじめにかけて、江戸、横浜、名古屋、大坂を結ぶ地域を中心に、日本のかなりの地方で、われわれの祖先たちをまきこみ、とらえ、かつ彼らによりひきおこされた現象であった。日本の民衆が個人としてではなく、民衆それ自身として一つの運動を、しかも、一揆のようにある特定の地域にとどまることなく、この「ええじゃないか」のように広範囲にひきおこした事例は、日本の民衆史のうえでもあまり類例がない。さらに慶応3年という幕藩体制(封建支配の体制)が崩れるという、まさに歴史の転機にあたって、
 ひきおこされたこの民衆の「ええじゃないか」は、そのことのみでも明治維新を考えるときに忘れられない事実だといえる。ことに多くの民衆を、しかも慶応3三年という歴史の決定的瞬間に動員し、そのうちにまきこんだということは、日本の民衆が歴史の形成に果たしてきた役割を考えるうえに、またわれわれがどのように歴史に参加していくかを決定することを迫られている現在において、大いに注目しなくてはならない問題であるといえよう。
 このように「ええじゃないか」は、日本の民衆運動の一つとして注目されるものである。第一章以下に示すように、その形態や実情は実にさまざまな面をもっている。あたかもそれは民衆が単純な理論や概念、あるいは特定の政治的意図により簡単に処理することや、動かすことができないのと同様である。また「ええじゃないか」は、たんに同一時点における多様性だけでなく、民衆のおしすすめてきた歴史のうちにひそむ伝統による影響をも含んでいる。
 たとえば、今日のわれわれの日常的な、また合理的な感覚や感情からすれば、どこからともなく舞い降ってきた神符や仏像などをきっかけに、これを祀り、祝い、乱舞に数日をついやすなどということは、常識からみて考えられもしないことである。もし、われわれの家の庭先や屋根に、これらの神符などが発見されたとしても、それは人々の関心をひくこともなく、たとい多少の注意が払われたとしても、風のもたらしたものくらいのことで忘れられてしまうにちがいない。
 だが、慶応3年の時点ではちがっていた。神符の降下により、民衆はその日常的な生活のわくをこえ、猥雑さを伴う熱狂状態におちこんでいったのである。幕末の民衆が「ええじゃないか」の叫び声をあげたのは、なぜであろうか。神符の降下をもって瑞兆と感じた民衆の背後には、どのような歴史的な、また宗教的な感情が存在していたのであろうか。また動乱期の民衆を「ええじゃないか」にまきこんでいった社会的背景はどのようなものであったのだろうか。そうして、民衆はそこからなにを感じとり、またどのようなものをうみだしたのであろうか。

第一章

「ええじゃないか」とは
 この近江水口宿での状態から、われわれは「ええじゃないか」を構成するいくつかの要素を指摘することができる。8(1)神符の降下、(2)神符を祭壇を設けて祀る、(3)祝宴、(4)男子の女装、女子の男装、(5)ええじゃないかの歌と踊り、(6)領主の命令による平常化。だいたい、以上の六つの要素をあげることができよう。
 京都の「ええじゃないか」も、水口と同様、六つの要素によりなりたっている。さらに、ここでは、(7)こうした騒乱をひきおこしたと考えられる者のことが語られている。これもさきの要素に加えておこう。
 -もう一つ注目しておきたいことがある。それは12(11)に至り奉行所から禁令が出るのだが、当初においては、「近来の不景気時節直し」とて踊りがはじまり、「是は世直しとて奉行も見ぬふりして居る」とあるように、奉行所=支配者側も黙認していることである。そして、その黙認の理由は「世直し」であるからという。民衆はもちろんのこと、支配者側においてすらも、「ええじゃないか」のうちに「世直し」の意識を認めていたという点である。(8)民衆がわれを忘れ、踊り狂った背後に、「世直し」を期待する気持が大きく働いていたことは、のちに触れるように、前年は不作で、米価があがり、また政治情勢も混沌としていた当時にあっては当然であったといえよう。ここに「世直り」の意識、「世直し」への期待も、「ええじゃないか」の要素をなすものであった。

第二章

「ええじゃないか」の発生と展開/東海地区/名古屋とその周辺/信州/江戸・横浜とその周辺/伊勢・志摩/近江/京都とその周辺/大和・紀伊/大坂とその周辺/西国筋/淡路/阿波/土佐/讃岐
 さて、以上で各地の「ええじゃないか」について、その史料紹介をかねながら述べてきた。その内容上の問題は第六章で触れられるはずであるので、分布・時期などの点にかかわることを二、三みてこの章を終わることにしたい。
 まず、分布であるが、北は江戸まででその北には及んでいない。江戸から東海道の各宿場にはほぼみられる。東海道を西にのび名古屋、京に達し、大坂から山陽道は広島(ただこれは禁令のみで現実にその事実があったかは不明。降下の事実に限定するならば竹原下市)まで。この江戸から広島までの表日本がその中心であって、その他の地域での諸例はこの本流からの分岐であった。もっとも北に及んだのは緯度のうえからみれば、松本であり、日本海に近いということからすれば、丹後(京都府)与謝郡野田川町の岩屋の例である。南は四国の高知県下の室戸、吉良川である。
 この分布でひとつ気のつくことは、慶応3年の段階で、はっきりその政治的立場を討幕においた藩、それらの藩は西南雄藩と称せられるように、西南日本に多いわけではあるが、そうした藩の藩域(室戸や吉良川の例は土佐藩というかなり政治的立場の明確な藩における例外的なものであるが、その地域は藩境に位置していた)には、まずみられないということは、注目に価することであり、「ええじゃないか」の性格、ことにその背後にあった政治的作為を考えるときに大きなかかわりをもつものである。
 次に発生の時期であるが、いままでのところ降下・踊りといった諸要素を含むもので、史料的に確認できるもっとも早い事例は、東海道見付宿の8月15日の例である。つづいて美濃武儀郡上有知村の8月20日、遠州気賀の8月12日、名古屋の8月28日とみえ、京・大坂では9月になる。終末は翌4年4月20日の大坂鍛冶屋町、丹波中郡丹波村の4月、但馬美方郡和田村の3月。禁令の面では岡山藩が1月に、但馬豊岡の京極氏の2月20日ということになる。とびはなれて、大阪では10月に禁令が惣年寄あてに出されているが、これは一度おさまったものが、この頃再びおこったためであった。古老の記憶では、信州上伊郡の上辰野で、秋少し前から春3月頃まで降ったという例がみられる。

第三章

民衆運動の系譜
 さて、民衆運動とはなにか。明確な定義を下せないほど多様性をもつところにまず特色があるともいえるが、それには大きく分けて狭義のそれと、広義のそれとが認められる。狭義の民衆運動には、中世の土一揆、近世の百姓一揆、打毀し、近代の米騒動などを、そこに含ませることができよう。それらは運動の目的が年貢減免、徳政令の発布というように明らかであり、そのための組織がみられ、指導者が存在する。ただ目的があり、その目的を阻むものがあるため、かつ彼らの目的達成を阻止する勢力が既存の社会体制に密接していることが多いから、弾圧をうけることも少なくないし、敵対するためにかえって、その影響をうけ運動が変質してしまう場合もみられる。
 これに対し広義の民衆運動としては、古代の志多羅神や本書で扱っている「ええじゃないか」や、それの一つの前提ともなった「おかげ参り」などをあげることができる。これらは、運動自体の目的は狭義のそれに比べて明示されていない。また運動の形態も呪術、宗教、踊りなどの民衆の生活に密着した外被をまとうことが多い。運動の目的が民衆に自覚されてから発生する狭義のものとちがい、マートンに従っていうならば、社会構造と文化構造のひずみにより発生し、民衆自体、自覚することなく無意識ともいうべき状態のうちに、運動にまきこまれ、運動の担い手となるものである(『社会理論と社会構造』)。その運動には民衆のうちに伝えられた宗教、儀礼、芸能などさまざまな要因が動員され、運動のうちで再生し、それらが結集し、既存の社会体制にも影響を与える大きなエネルギーとなる。広義・狭義いずれの民衆運動にせよ、ともにそこには非日常的な側面が大きく存在していた点にも注意を払う必要がある。ハレとケ、聖と俗の定期的な繰返しにより維持される日常生活は、社会構造と文化構造のひずみ、対立の激化により維持不可能になる。ハレとケの均衡が破れ、非日常的な側面が表面にあらわれ、それにより均衡を欠いた生活の再生がはかられる。その意味では民衆運動には秘められた変革のエネルギーが認められるといえよう。
 以上のように民衆運動を位置づけ、その系譜を日本歴史に求めるとき、ここではまず広義のそれをさぐることにしたい。
常世神/志多羅神上洛/永長の大田楽/伊勢躍
小結
 これら広義の民衆運動を扱ってきたなかで常に問題となるのは、それらの事実を記録した史料の性格である。民衆運動の記録は、それに直接参加した民衆自身の手になるものであることは少ない。これまでみたように、それらは民衆運動を愚人(「山本豊久私記」)のなせるものとしてみる知識人や、体制をゆるがすものとして禁止しようとした支配者側の手になるものが大部分である。そのうえ、これらの民衆運動すべてに共通するのは、平常のきまりきった日常生活とは反対の極に位置する熱狂、むしろ狂乱ともよぶべき民衆の動きである。そうした熱狂状態にあっては、そこに参加した者のみに通ずる言語=論理を抜きにした行動や動作によってのみ通ずるところの意志の伝達がある。こうした性格を基本的にもつ民衆運動を、それに参加することなく、外部にいた観察者の記録を中心に評価していくことはかなり危険の多い作業である。こうしたことを念頭においたうえで、これまでふれてきた広義の民衆運動にみられる諸要素とそこに共通する性格についてふれ、この章を終わることにしたい。
 常世神、志多羅神、永長の田楽、伊勢踊(躍)りなど、これら広義の民衆運動すべてに共通するものは、歌舞によって示される民衆の熱狂、狂乱ともいうべき状態である。このような平常の日常生活を無視した熱狂状態は、一般に「オージー」という概念によってとらえられるものである。
 オージーとは、「古代ギリシア・ローマのDionysus。またはBacchusの秘密祭から出た語でOrgieともしるされ、仏語でオルジー、独語ではオルギュとよまれる。一般に人格転換、社会秩序や倫理的拘束の一時的破棄を伴う異常な集団的悦惚と興奮の状態を指す。粗野な音楽舞踏、暴飲暴食、喫煙飲酒その他の興奮性薬物の使用、肉体的暴力、血、エロティークな所作などがこの状態を集団的にかき立てる役割を演ずる」(堀一郎「日本の民族宗教にあらわれた祓浄儀礼と集団的オージーについて」『日本宗教史研究』)と規定されるもので、その社会的機能については、グラネは「オルジーは人々を突然その単調な生活から奪ひさるのであり、農業民族として持ちうる最も大きな希望を急激に湧き起こすのであり、心中の創造的活動を最高の所まで刺戟するのであった」(『支那人の宗教』)ともいっている。広義の民衆運動はオージーを伴うものであると、まず規定することができる。
 こうした集団的オージーが発生するのは、常世神にあっては、律令国家体制の形成、志多羅神にあっては、承平・天慶の乱による律令国家体制の解体、伊勢踊りにあっては、近世封建体制の確立に伴うところの、それぞれの社会不安の存在を前提としている。志多羅神の場合には-史料不足によるものであろうが-みられぬが、他の場合はこれらの現象は不吉なもの、凶兆として取締りの対象とされる。それは社会不安、現体制に対する不安を肌に感じとった民衆のまきおこした動きだけに、支配者からすれば、不可解、かつ無気味なものと感じられ、禁制されるわけである。
 民衆は不安を爆発させるものとして運動に身をまかせる。そこには民衆の不安からのがれたいという希望を反映して、常世神のときには「富と寿(いのち)」が、志多羅神のときには「富はゆすみきぬ、富は鏁懸けゆすみきぬ、宅儲けよ さて我等は千年」栄えてが、伊勢踊りでは「老若男女、貴賤都鄙、栄え栄うるめてたさよ、御伊勢踊りを踊り候てなくさみみれば、国も豊かに、千代も栄えて、めでたさよ」が、声を大にして唱和される。そこに共通して世直り、世直しへの民衆の意識を認めることは容易である。ただ、こうした世直し意識は広義の民衆運動にあっては、具体的な社会改革の運動に結実していかなかった点も共通していたのである。

第四章

伊勢信仰と民衆
 室町時代になり、足利将軍の参宮からそれに関係した各階層の間に伊勢信仰が一般化し、神明講や伊勢講も京都をはじめ各地に成立した。当初において講衆の参宮により解散した講も、共有財産である講田などをもつようになり、村落内で一つの社会集団としての地位をもつことになって、その組織は恒久化する。こうした各地の動向に対して、神宮側からは御師による廻国があった。講の恒久化にはおそらく、御師の側からの毎年の廻国やその際の土産の配布などの働きかけがあったのであろう。
 しかし、伊勢信仰の全国的普及には、以上の要因のほかにも原因があった。それは飛神明ということであった。もともと日本人の神信仰にあっては祀らるべき神は一定の場所に常住しているのではなく、祀られるときにあらわれるのが普通であったから、神が飛びきたって示現したという飛来神の信仰は、各地にひろくみられるものである。神宮の飛神明も、そうした一般の例のうちに含まれるものである。
 -神宮への信仰、神宮への関心の国民の広い範囲への普及・定着にあたって、飛神明の果たした役割は大きかった。民衆の側では伝統的な飛来神への信仰の存在、また神宮が炎上し、神体の所在が問題となったような時代的条件があったこと、さら京の粟田口神明が御霊を慰祀することを任とした唱門師の集団の手で祀られていたことにみられるように、飛神明を御霊的力ものとしてうけとめていた。このことにより神宮への信仰は、神宮の所領を中心とする地域講集団の成立した地域といった限定されたものから、よりひろい範囲の民衆の間にひろまり、定着していったのである。

第五章

おかげ参り
慶安のおかげ参り
宝永のおかげ参り
 宝永2(1705)年に至って大規模なおかげ参りが発生する。おかげ参りの語が定着するのもこのとき以降である。宝永2年のおかげ参りがなされるまでに、各地に伊勢参宮の慣行が普及していたことが、おかげ参り発生の背後にあった。
 宝永2年のおかげ参りは、従来にみない大規模な群参であったから、記録されることも多かった。人員、ことに参詣者の出身地域が広範囲であったこと、児童の非常に多かったこと、参詣者に対する沿道での施行、神札の降下をはじめとする神異などがあったことなど、これまでの群参にはみられない諸事象があらわれている。
-本居宣長の『玉勝間』はこのときの参宮人の数を、
凡閏4月9日より5月29日まで50日の間すべて362二万人なり
 としている。この362万人という数は『伊勢太神宮続神異記』の記すところとほぼ同じである。当時の全人口はほぼ3,000万人であったから、一ヵ月の間にその一割強が伊勢に向かったというのは、まことに異常な社会現象であったといえる。
 宝永のおかげ参りをそれ以前と大きくきわだたせているのは、この幼児・少年層の大量参加ということであった。
 宝永につづくおかげ参りは明和81771)年であるが、その間に平常の年より参詣者が多かったのが、享保3(1718)年と享保8(1723)年、享保151730)年の3回であった。
 宝永の全国規模のおかげ参り以後、小規模な特定の地域に限定された群参が流行現象として見られたと考えられる。
明和のおかげ参り
 明和8年のおかげ参りの前年は全国的な大旱で、稲にカチとよばれる虫がつき、江戸の町中でも虫が飛びかうという有様だった(『武江年表』『筆のすさび』)、百姓一揆も各地で激発した。こうした社会的背景のもとに大規模なおかげ参りが発生した。
 さて、この明和のおかげ参りの人員であるが、『明和続後神異記』は宮川の渡しを渡った人員を4月8日から8月9日までの五ヵ月間に総数2077,450人としている。端数がなく、この数を実数とみることは当然できないが、松阪を通行した人数の増減とよく符合しているので、ある程度実体を示すものといえよう。ただ壼仙の記述にもあるように、関東・東海道筋の道者は、船で直接、河崎その他に着いて、宮川を渡らない者が多かったから、宝永のおかげ参りのときの362万人には及ばぬかもしれないが、207万よりはるかにうわ回ることは確かである。
 御祓の降下は抜参りが始まった当初からみられたものではない。丹後や山城の宇治郡といった最初の発生地では、降下をきっかけに抜参りが始まったのではなかった降下はやや遅れて登場する。おかげ参りの無料の接待所、施行の存在は貧しい道者にとっては欠くべからざるものであり、また各地の人々をおかげ参りにかりたてる呼び水の役割を果たした。しかし大体、施行開始後二ヵ月も経過すると施行主のほうでも経済的にもこれに応じきれなくなり、中止する場合が多くなる。ところが中止が予告されると、そこにしばしば御祓その他が降下するのである。
文政13年のおかげ参り
 明和のあとのおかげ参りは、文政13(1830)年であった。なお、この年、文政の年号は改められて天保となる。文政の場合は最初のおかげ参りである宝永2(1705)年から第二回の明和8(1771)年までの間がほぼ60年であったということが知識としてひろがっていたので、来る卯年こそ、明和の御蔭参りより61年に当れる事なれば、又其の事の有ぬべし(『御蔭耳目』)という期待が人々の間にあった。この期待のあったこととは-文字に親しんでいた知識人には一つの共通理解であった。
 民衆の側にも明和のおかげ参りについては、老人などからその体験談が伝承として伝えられていたことは疑えないが、民衆の場合、ただ昔の老人の体験談だけがあったわけではなかった。かつてのおかげ参りの記憶を再生産する働きかげと、その道具だてがあったようである。
-この史料は、観音堂の本尊までが、おかげ参りをしたという奇瑞を伝えているが、ここでは毎年やってくる神宮の御師の手により、神宮の神威がおかげ参りに結びつけられて語られており、しかも毎年廻檀してくるわけだから、おかげ参りの記憶が村の年中行事のうちで再生産されているといってよい。
-このような事情が知識人の文字による理解とは別に、民衆の間におかげ年到来の期待をいだかせることになったものであった。
 文政から天保にかけては云うまでもなく幕藩体制の全体的な危機到来の時点であり、それによりもたらされるさまざまな矛盾は民衆の生活をおびやかした。ここにおかげ年到来の期待はより一層ふくれあがり、行動に転化する。まず、支配体制からの規制の弱い子供が動きだす。一度動きだせばそれは子供だけに止まらない。これを制止する力は支配体制にはない。春三月、徳島からおかげ参りがおこった。
 さて、文政のおかげ参りの状況は参加人員が激増したことを除いては、全体として明和のおかげ参りと異なる面はなかったといえる。ただ、大和、河内、和泉、摂津あたりで、一村を単位とする「おかげ踊り」が流行したことが明和のときにはみられなかった新しい現象であった。のちにふれるように、この「おかげ踊り」は「ええじゃないか」の源流とも考えられるものであり、「おかげ踊り」の流行は文政のおかげ参りで注目すべき現象といえる。
 『文政神異記』では、宮川の渡しを渡った人数を閏3月から6月20日まで、4276,500人としている。いずれにせよ明和のときをはるかにうわ回ることは確かである。
おかげ踊り
 これらの記録から、おかげ踊りは河内に発生し、大和、南山城、摂津と畿内の中心部に流布し、それはこの年の三月にはじまるおかげ参りにつづくもので、しかもおかげ参りの高まりが一時衰えたあとに発生・流布した。おかげ参りとおかげ踊りは一応、別のものであった。それは時期のみに関してではなく、おかげ参りが、他方で伝統的な抜参りという語でもよばれたように、日常の村落生活の場からの個人的、かつ一時的な脱出-それゆえに参宮中のさまざまな行動が非日常的な規模でなされる-であったのに対して、おかげ踊りは日常生活の場であり、機構でもある村落を単位としてなされた。おかげ参りを個人的・非日常的なものとするなら、おかげ踊りは集団的・日常的性格を色濃くもつものであった。
 とはいえ、おかげ踊りの日常性をあまり強調することは正しいとはいえない。それはあくまでも村外に出るおかげ参りとの対比のうえでのことであって、村落で毎年くりかえされる年中行事などのもつ日常性にくらべるならば、やはり非日常的性格が強いことを忘れることはできない。史料上の初見である河内半田村の場合、その発生はおかげ参りのときと同様、御祓の降下にあったことが、その非日常性を示している。 
 最後に民衆運動としての「おかげ参り」についてまとめて、この章を終わることにしたい。まず、おかげ参りという言葉は、宝永2(1705)年の大量群参のときにはじめて成立する。大量の群参、施行の実施、御祓の降下などのいわゆる神異など、おかげ参りを構成する諸要素はすべてこの宝永のときにそろう。宝永以後の明和、文政のそれは大筋において、宝永にみられた諸要素をこえるものはなかった。おかげ参りは宝永、明和、文政の三回が大規模なものであったが、その間に多くの地域的かつ部分的な流行があったことに注意したい。それは民衆運動の伝統といったことに結びつく。文政のおかげ参りについては、その発生の前から宝永と明和の例から60年に一度のおかげ年の到来ということが知識人の間でいわれたことはよく知られている。民衆の間にあっては、淡路の例にみられるように、村の堂などに結びつけ、村の行事のたびごとにおかげ参りの記憶が再生産され維持され、一つの伝統として意識されていた。この村の行事による意識の維持と部分的・地域的流行現象は、民衆運動としてのおかげ参りを考える際に大きな意味をもつものといえよう。
 全国的な大規模なおかげ参りの中間にみられた地域的かつ部分的な流行は、文政以後はことに天災地変の多発、支配体制の衰退とあいまってはげしく民衆を動かし、最終的には幕末の「ええじゃないか」のうちに結実することになる。
 「おかげ参り」の伝統は「ええじゃないか」に結実して終わったわけではなかった。明治になってもその名ごりがみられた。明治22(1889)年に神宮では式年遷宮が行なわれた。翌23年は文政の「おかげ参り」から61年目だというので、伊勢の神宮教院は神風講社大参宮会を組織し、期間も一月から六月までとし、会員からは大々神楽その他の費用として三〇銭をとり会員票を交付した(『大神宮史要』)
23年の「おかげ参り」は江戸時代に慣例となっていた施行などはなかったから、施行をあてにした者にとっては予想外のことであった。
 この23年の「おかげ参り」は例年より多少多くの人々を伊勢路にあつめたが、かつてのようなにぎわいはみられなかった。大量群参としての「おかげ参り」はやはり文政13年をもって終わったといえよう。

第六章

「世直し」か「世直り」か
 「ええじゃないか」が発生・展開した慶応3年は、遡この年の10月に徳川幕府最後の将軍慶喜が大政を朝廷に奉還せざるを得なかった幕府最後の年であった。社会的には天明以来の飢饉があいつぎ、そのうえ、開国の結果として国内の伝統的な産業は大きな打撃を受け、米価を中心とする物価の上昇は著しいものがあり、民衆の生活は極度に苦しかった。この状況を民衆がどのように感じていたかは、前年の慶応2年には百姓一揆(72)・打ちこわし(28)が江戸時代を通じて最も激化し、大坂での打ちこわしに参加した民衆が尋問に答えて、打ちこわしの元凶は当御城内にありと叫んだという一事に明らかであろう。また当時流行した、ちょぼくれ節や数え唄の類からは、民衆の政治担当者である幕府や武士を全く不信の気持でみていたことがはっきりとうかがえる。
 畿内では第五章でみたように、文政12年のおかげ踊りの流行以来、天保年間の京都での豊年踊りをはじめ部分的・地域的に断続的な踊りの流行がみられた。畿内で「ええじゃないか」をおかげ踊りとよんでいることが多いことからも、「ええじゃないか」の盛行はそれまでの地域的・部分的な踊りが拡大、かつ大流行したものといえる。畿内以外の地での慶応以前の断続的な流行現象としては、天明年間葛飾あたりから江戸にひろまったおたすけ踊りはその一例であろう。また川路聖謹の『東洋金鴻』にみえる石塔洗いなどの流行も踊りとはちがうが、物価上昇、飢饉などに苦しんでいた民衆の不安な状態を語るものであり、民衆のおかれていた条件は基本的に変わらぬものであった。
 全般的な物価の上昇ではあったが、慶応3年は『感興漫筆』に、
  去年の飢饉に比すれば、当秋豊熟にして人心も穏になり
 とあるように、不安な状況のどん底に豊年ということで一筋の光がさしこんだ。豊年は米価に影響する。民衆はそこに希望を求めようとした。この小康状態を持続させ、さらに一挙によくなってほしいという願望が「近来の不景気時節直し」(『五十年の夢』)ということで、人々を踊りのうちにのめりこませていったのが、慶応3年における民衆の共通した感情であった。-
 しかし、こうした事実からある特定の政治的意図をもった人々の活動だけによって民衆が「ええじゃないか」の乱舞のうちにのめりこんでいったと結論づけるのは、甚だ危険であり、かつ民衆を軽視するものであろう。民衆はいつの時代でも決してひとにぎりの政治上の指導者の意志だけで行動するものではない。「ええじゃないか」発生の条件は、決してひとにぎりの煽動者による作為によるものではなかった。どんなものでも、燃えあがる状態になくては、いくら火をつけても大きく燃えあがるものではない。政治的意図をもった大部分の煽動者の行為は、民衆が「ええじゃないか」にふみきる発火点の役割を果たしたかもしれないが、これを「ええじゃないか」として、一つの社会的なひろがりをもった民衆運動にまで燃えあがらせたのは、なんといっても民衆自体であった。『丁卯雑拾録』の江戸からの書状に、横浜での降札を述べたあと、
此様子二而ハ当地江もふる御札の有らんと諸人相待申候、天降始り江戸中うかれ出し候ハヽ
賊乱も自然と相納世直し踊ニ而も相始り候ハヽ面白からんと今カラ楽しミ罷在候
 と、江戸での降札を期待していると記しているが、こうした近辺での降札、以後の踊り開始の情報は各地にもたらされ、期待のうちに開始される。このような降札を期待する民衆の気持は各地の史料に認められ、そこに民衆自体の自発的なものがうかがわれる。火をつけさえすれば、大きく燃えあがる状態であったことを示している。
 次に「ええじゃないか」の形態である。第一・二章でみたように、まず神符類の降下がある。神符類は小祠に祀られ、その前での数日にわたる無礼講的な祝宴がある。参加者は変装・仮装することが多く、それは日常性の否定に連なるものであり、その要素は歌と踊りに強く示される。ことに歌には当時の民衆の意識をうかがうにたるさまざまなものがみられる。この歌と踊りを伴う無礼講的なオルギー状態も領主・村役人らの指導と命令により平静化し、再び日常性が復活してくる。全体として「ええじゃないか」における人々の状況は、このように総括しても誤りはないのだが、第二章にあげた各地の事例は必ずしもこの規定のうちに止まるものではなく、さらに合地域ごとの特色をもつのである。さらにこれ加えておくと、「ええじゃないか」にあっては、
 表面的にはともかく基本的には当然のことながら村落生活を背後にもつ秩序が存在していたことを確認しておくことは、「ええじゃないか」の評価にかかわるものとして重要である。
 村落秩序の影が色濃くみられるのは、文政13年の「おかげ参り」のおりに「おかげ踊り」を展開させ、以後においても小規模な地域をかぎって踊りが流行した畿内の場合である。
 この五条村では、「ええじゃないか」が村役人の許可と村中の協力、つまり村落の秩序のもとになされているのである。降下のあった場合、支配の役所に届けることはひろくみられた。
-アーネスト・サトウが大坂で実見した、燃えるようなまっ赤な着物で、踊りながらイイジャナイカの繰りかえしを叫んでいる人々(『一外交官のみた明治維新』)
 は、「踊り狂っ」てはいたが、その背後にはそろってまっかな着物を人力に着させた組織の存在があったのである。さらに名古屋で、祭礼のときに出た馬のとうがこのときにみられたりした例も、村や町の従来からの伝統的な組織がなくしては不可能なことであった。
 さて、以上のように各地の例をいくつか検討してみると、一般に乱舞・狂乱などの形容詞を冠して称せられることの多い「ええじゃないか」が案外にも、伝統的な村落なり町なりの組織や機構に依存している面の少なからず存在していることに気がつくのである。さらに「ええじゃないか」は、民衆運動の系譜のうちにも位置づけられるように、そこでの民衆はオルギー状態にあったと規定することができるが、その非日常的なオルギー状態にしても日常の生活組織や機構を全面的に否定し破壊するところに成立するのではなく、それは日常生活を基礎において、それとの対応においての非日常的なものなのである。-
 しかし、このようにいったからといって「ええじゃないか」にみられる民衆のオルギー状態の非日常的な行為を、すべて日常的なもののうちにひきもどすわけではない。男子の女装、性の解放を示す諸事実などは、疑いもなく非日常的な行為である。それは日常的なもの、別のいいかたをすれば生活の秩序が前提として存在していて、はじめて非日常的なものとしての性格をもつ。
 日常性に対して、「ええじゃないか」にみられる非日常的といういいかたをしたが、その非日常性とは毎年、村で繰り返される生活のリズムのうちにあって正月、盆、祭礼などのいわばハレの日の行動の拡大したものにほかならないのである。「ええじゃないか」のうちにみられる性をめぐる問題は、なにもここにはじめて登場するものではない。古く風土記のときの歌垣の例に遡るまでもなく、毎年の盆踊りや祭礼の晩にも規模のちがいこそあれ、みられたものであることは、民衆の生活に多少とも関心をもつものであればよく知っていることである。さらに百姓一揆や打ちこわしに関連し、「ええじゃないか」の評価のときに問題にされる無銭飲食の強請・強要にしてみても、祭礼の神輿の巡行に伴って、ままみられることであり、飲食だけではなく神輿があれば器物の破損の生ずることも決して稀なことではなかった。こうして村落生活のレベルでみるならば、「ええじゃないか」のうちにみられる民衆の非日常的な行為や要素は、「ええじゃないか」にかぎって、とくにあらわれたものでは決してなかった。だがこう考えたからといって「ええじゃないか」のうちに認められる諸要素を村落の年中行事のうちにみられるハレの日の行事や行為のうちにすべてを還元してしまうつもりはない。それは全く非歴史的なことである。ことにここにあって、慶応3年という幕府最後の年という特殊性を無視してしまうことは、誤りである。
開港以後の物価の上昇はつづき、民衆の生活は楽ではない。しかも、300年近くつづいた江戸幕府は第二次の長州征伐すら満足に実施しえない。薩・長を中心とするグループは、討幕にまでもちこみたいらしい。時代は大きく変化しようとしていることだけは、民衆は肌で感じていた。しかし、時代の変化は民衆とは全く無関係のうちに着々と進行している。新しい政治が楽な生活を保証するとはかぎらない。自分たちの生活にもっとも影響するであろうことが全く知らされずに進行していく。慶応3年という時点で、民衆が老若男女ともに「ええじゃないか」に熱中したのは、そうした民衆の不安が背後にあったからにほかならない。「ええじゃないか」には確かに討幕派の連中を含むある人為的な要因により発生した側面が大きいが、それはおそらく討幕派の予想した以上に拡大し、かつ永続し、12月9日の王政復古、天皇親政のもとの新政権誕生以後も、火をつけた連中の思惑以上の事態を生じたのは、ここにみたような民衆の時代と社会の動きに対していだいていた不安が爆発したためであった。
 さて、これまで慣例にしたがって「ええじゃないか」という言葉で呼んできた。事実、今日では一つの学術用語として「ええじゃないか」は定着しているといえる。しかし、第二章でみたように、当時の資料でこの運動全体を「ええじゃないか」として一括し記述したものは少ない。
-とにかく当時の民衆は踊りにさいして「ええじゃないか」という文句をうたったが、それを全体の名称とはせず、おもにかつての文政の「おかげ踊り」の名称をもって呼び、かつ意識していたことは確かである。われわれはややともすると「ええじゃないか」のもつ投げやりな語感、意味合いに意識的あるいは無意識的にひきこまれて、その線に沿ってこの運動を理解し、かつ評価しがちである。確かに当時の民衆がこの時に「ええじゃないか」を大声で唱和したことの背後には、民衆のおかれたなんともしがたいそうして投げやりな雰囲気があった。しかし、それがすべてであれば、このような名称のあらわれ方はせず、もう少し「ええじゃないか」の名称が多くともよいはずである。この点は民衆の意識にかかわってくることである。
 民衆は「ええじゃないか」に、なにを求めたのだろうか。彼らの行動のうちにそれをさぐらなくてはならない。その行動にみられる民衆の意識は複雑でとらえがたいが、さいわいにして「ええじゃないか」で民衆の唱和した歌がある。その歌詞をよりどころにして、民衆の意識のうちにさぐりを入れてみようと思う。-
 このように「ええじゃないか」にみられる民衆の意識には、その基底に弥勒仏を世直し神として観念するもの、さらに空よりの降下物を神聖視する観念などの民衆の聞に潜在していたものがあった。それに慶応3年という政治的にも社会的にも不安な状況のうちで、米価の下落、豊年の到来という契機から、世直りへの期待が民衆のエネルギーをこめて爆発したことは、
  再びこの世に生まれても、またふる年は豊年だ オカゲサマ
 という数え唄に、よく示されているといえよう。ただ、「ええじゃないか」で、民衆の待ち望んだ世直り、弥勒の世は到来したのだろうか。「ええじゃないか」についやされた民衆のエネルギーは、民衆になにをもたらしたのだろうか。その答えは、民衆が「ええじゃないか」にこめた世直りとはほど遠い、明治国家の成立であった。それは世直りを期待し、自らの手による世直しをたたかいとることのできなかった民衆への、当然の答えでもあったといえよう。
 「ええじゃないか」に結集されたかにみえる日本の民衆運動の流れは、明治以降どうなったのであろうか。問題は近代日本全体にかかわることであり、かつ今日のわれわれの行動に関係することである。今後を期したいと思うが、この流れが決して消え去ったものではなかったことを示す資料をあげておこう。大正4年、京都で柳田国男の見聞したところである。
大正4年の御大典のさい京都に大礼事務官として赴いた折に、やヽ小型の「ええじゃない」か踊りが 市内に始まったことがあった。当時の警察部長で淡路出身の永田青嵐もその警備のため市内にお忍び姿で出たのだが、私が彼の肩をいからせた姿を認めたと同時に踊ってゐる群衆も彼を認め「部長さんもええじゃないか」と歌の文句が変ったので思はず苦笑した。(『故郷七十年』)
 あまり具体的ではないが、民衆の間に「ええじゃないか」が一つの難し言葉として定着していたこと、しかもの警察部長という為政者側の最先端にある者をも「部長さんもええぢゃないか」の難し言葉で包みこみ、自分たちのうちに引き込んでしまっているのは、やはり幕末の「ええじゃないか」の伝統が民衆の間に深く生きつづけていたことを語るものであろう。

付表

あとがき
 フランスの美術史家アンリ・フォションは「歴史上のひとつの時期というものは、たとえ短くとも、数多くの段階、いわば多くの成層をその中に含んでいるものである。歴史はヘーゲル流の生成ではない。歴史は同じ速さで同じ方向へ、事件やその残骸を運び去ってゆくひと条の河のようなものではない。われわれが本来歴史と名付けているところのものを形づくっているのは、まさに種々雑多で不規則な流れそのものなのである。われわれはむしろさまざまな方向に走り、時には断層によってとぎれている地層、同一の場所、同一の時点で、その地点が経てきたさまざまな時代を把握することができるような、そして流れ去った時代のどの部分も同時に過去であり、現在であり未来であるような地層の重なりを考えて見た方がよかろう。」(『至福千年』神沢栄三訳)と、歴史の成層的分析の視点について記している。「ええじゃないか」という歴史事象を、ただその発生・展開した時点に限定して理解するだけでなく、フォションの言う成層的分析の立場からみようと試みたのが本書である。副題を「民衆運動の系譜」としたのも、そうした意図に他ならない。ただ、私の意図がどの程度実現しえたか、甚だ心もとない。今後さらに問題を深めたいと思っている。
 本書の主題である「ええじゃないか」にはかなり前から関心はあったが、それは伊勢信仰の一端としてのものであった。より直接的には、まず先年、勤務先でいわゆる学園紛争を体験したことが大きい。二ヵ月余りの非日常的な人友の動き、異常な状況下におけるある種の解放感の存在といったものは、ハレとケあるいはアノミーといったことを考えさせ、「ええじゃないか」とのアナロジーを感じさせた。またそれと前後して藤谷俊雄氏の本が出版された。一読し教えられることが多かったが、そこでの「ええじゃないか」の歴史像と評価は、私の考えていたものとはかなり違っていたし、各地で地道に進められている地方史研究の成果が、全く無視されたかのように取上げられていないこともうなづけなかった。これらのことでこれまで蒐めた関係史料を検討している時に、立教大学に進んだ後藤芳子さんが林英夫教授の指導で卒業論文に、「ええじゃないか」を扱いたいと話しに来られた。その時、各市町村史にみえる史料をみたらどうか、ということを話した覚えがある。後藤さんは精力的に仕事をすすめ、立派な卒業論文を完成された。後藤さんの蒐められた史料には未見のものも多く、それにより再考する機会をあたえられた。
 こうした時に新人物往来社の内川千裕氏から依頼をうけた。もともと私は中世の神社史、ことに伊勢神宮について調べてきたので、「ええじゃないか」の展開した幕末についての知見は少なかったし、やたらとむずかしい学術用語が用いられる幕末を扱った論文とは縁があまりなかった。本来ならばこの話しを断わるべきであったのかもしれない。しかし、前に述べたようないくつかの事情と「ええじゃないか」に古代以来の日本の民衆の動きをみるというフォションの成層的分析の方法を適用することで幕末を専攻していない私なりの「ええじゃないか」像を示し、また知られていない各地の史料を学界の共通財産にすることができるかもしれないと考え、この執筆依頼を承諾した。しかし、意図のようには筆はなかなか進まない。史料も同質のものが多く、民衆の生活の内面にまで立入ったものがないという欠陥をもっていた。その上、私の怠惰もあって約束の期限に大幅に遅れ、また出版社の考えていたであろう内容よりも数等堅苦しいものになってしまった。この点、内川及び宮本久の両編集者に申し訳なく感じている次第である。
 本書がなるについては多くの方たの御厚意があった。神宮文庫、内閣文庫、明治大学刑事博物館、藤沢市史編纂室、徳島県立図書館では所蔵史料について便宜をいただいた。乾宏巳、市原輝士、大浜徹也、小谷俊彦、葛谷利春、児玉幸多、後藤芳子、圭室文雄、芳賀登、林英夫、萩原龍夫、古川真澄、宮田登、山田英雄の各氏からは史料の教示をえた。また相蘇一弘、岩井宏実、島田善博、牧村史陽、藤谷俊雄、藪重孝の各氏からはその論考から多くの学恩をうけた。なお、巻頭の口絵については前にあげた方々の他、反町茂雄氏はじめ所蔵者各位の御厚意により掲載することができた。なかには学界に未紹介のものも含まれている。さきにフォションにならい成層的分析といったが、歴史にたいするこうした見方への目をひらくことになった和歌森太郎、萩原龍夫、桜井徳太郎の三先生の学恩も忘れられない。また所収の史料を利用させていただいた各地の市町村史の編纂に従事された方々の地道な研究に深く感謝したいと思う。そうした研究がなかったら、恐らく私が本書をなすことはなかったであろうし、もし書いたとしてもその内容は空虚なものに加っていただろう。さらに教室で接している生徒諸君との交流が、どれほど本書をなすにあたって大きな支えになっていたかはかりしれないことも記しておきたい。
1973年4月