演歌の海峡朝鮮海峡をはさんだドキュメント演歌史 森 彰英 著

少年社発行 雪渓書房発売 198135日初版発行

演歌の海峡カバー画像

1,私の中の海峡

演歌の源流という言葉が私の心をとらえた/近い国韓国には、意外に精神的距離感があった/芸能界における韓国を探ってみようとすると、必ずぶつかる壁がある/まず、古賀メロディーの成立を調べてみたが・・・/韓国人作曲家に会ってみて、欠落していた見方に気づいた/長老たちの証言で、日本との関わりを知った/日本で田舎廻りをしながら演歌の第一人者に
2,黄金の「昭和10年代」
ソウルを歩いて聴いたメロディは・・・/景福宮、梶山季之、朝鮮総督府という連想が・・・/戦前の黄金時代を担ったタレントたち/巧妙な抵抗者李哲の工夫どころは・・・/同じころ日本もショービジネスが盛んだった/「連絡船の唄」は金海松の名作だが、いま・・・

3,アリランとカスマプゲ

韓国三拍子民族説は音楽学者も指摘している/日韓流行歌に共通の土壌があるような気がしたが・・・/アリランのを考えるうち田中英光を思い出した/一度祖国を捨て、日本で活躍した音楽家がなぜ帰ったのか/李成愛の大ヒットを仕掛けた人々のねらいは・・・・/「カスマプゲ」が受け入れられた理由を推測してみる

4,実感的涙の連絡船へ

船で海峡を渡り、一衣帯水を実感したかった/海峡はやはり、連絡船の演歌について考える場だった/釜山で演歌の肌触りを確かめて歩いた/釜山からソウルへ-もう一度、あの物乞い演歌が聴きたかった

5,東京・ソウル-二都物語

いま売れている歌手を現場検証してみると・・・・/その重なり合い方は、どうしても二都物語だ/新しい日韓関係の成立が、「黄色いシャツ」を日本にもたらした/タイトルが似た歌でも、盛り込まれた感情の開きは大きい/韓国人吉屋潤が体験したソウル・東京・ニューヨーク/日本でも韓国でも米軍キャンプの落とした影は大きかった/李美子と美空ひばり-海峡をへだてて相似形歌手が誕生/韓国人にとって東京の音楽界の住み心地は・・・/小畑実、栄光の歌手が担っていた人生/いま東京に来ている韓国人歌手に会ってみて・・・・

6,いま演歌を語る人々

再び古賀メロディの根源にたちもどると・・・/しかし、韓国人にも過去の遺物が浸透している/演歌とパンソリ-どこまで歌に思いを込めるのか/金素雲氏の「民族の暖かさが最後は勝つ」ということばをくり返し聴いた/特異な存在だった「コリアンスター」発刊の意図は意外だった/在日の二、三世が母国の演歌に出会うとき/

あとがき

 この本を書こうとした動機は単純なところにあった。当時ヒットしていた李成愛の歌を聴き、レコードのジャケットに書いてあった「演歌の源流を探る」という言葉に興味を持ったのである。味わい深く見事なキャッチフレーズで、それに踊らされたのかも知れない。
 偶然ではあるが、私の興味を察知したように、少年社の星野斉氏が現れて、日韓の流行歌交流について書いてはどうかと言い出した。だが、それからの進み方は遅かった。日韓関係についての政治的な研究書や論文集はいままでにたくさん出版されているが、大衆レベルとなると、ほとんどない。だいいち、日本で韓国のレコードを入手するにはどうしたらよいかもわからなかった。
 しかも少しずつ取材を続けていくうちに、単に歌だけのレベルで書けるテーマではないと気がつきはじめた。二つの民族の歴史的なかかわり合いがあり、それが歌にしみついているのである。また、日本人には想像できない民族が分断された朝鮮戦争の体験やアメリカ軍統治の影響、こじれた日韓関係などが、歌のことを調べていると浮き彫りにされてきた。
 単純な興味から出発した筆者にとっては、しだいに手に負えないテーマになってきたのだ。ともすれば、テーマを放棄して、目先に飛び込んできた仕事に没頭している私を、何度も引きもどしてくれたのは星野氏だった。その後どうなっていますか、こんな記事が新聞で目につきましたがと、ときおりソフトに電話をかけてきたり、会う機会を設けたりして書き手を徐々に追い詰めていった粘りがなかったら、せっかくの意図も中断したままで終わってしまったのではないか。その点で、本書は星野氏と私の共同作品のようなものである。
 書き終えて考えたのだが、歌を政治や社会情勢で割りきって、こうした状況があったから、こんな歌が流行したとみなす、歌は世につれ的な方式が、日本の大衆文化研究のジャンルでは盛んに用いられてきたが、韓国の場合をみていくと、そうした原則論は通用しない。もっとさまざまな要素が複雑にからみ合っていて、とても一つの方向からは割りきれないような気がする。歌を聴いて何かを感じるのは、いつの世にあっても個人の自由であり、そこに全体的な意味づけをしてしまうことは、かえって危険ではないかと、この仕事を通じて実感した。
 私にとって心残りだったのは、韓国語をせめても日常会話ができ、歌詞が読める程度にマスターできなかったことだ。時間的には努力すればできたのだろうが、それを怠ってしまった。というのは、取材でお目にかかった韓国の人たちは、ほとんど日本語が通じて、目的が達せられてしまうという理由もあった。年配のかたがたは、日本統治下の教育によって、正確でていねいな日本語ができる。若い人でも芸能界が日本とかかわりを持っているため、話を聞くのに不自由ない程度の日本語を身につけていた。
 便利ではあるが、考え方を変えれば、これは異常な関係なのだ。アメリカや西欧だったら、よその国へ、かなり専門的な事柄を調べに行くのに、その国の言葉がまるっきりできないで、どうにか事がすむというわけにはいかない。便利だと思うのは、日本人側であり、韓国の人たちにとってみれば、否応なくという部分が大きい。演歌の源流説ともかかわってくるのだが、このきわめて異常な関係を正常なもの、自分たちにとっては都合のよいものと思い込んで、ほとんど疑ってみないところからも、日韓関係のゆがみが生じているのではないだろうか。
 そうした意味からいっても、この本は、まだ流行歌における日韓の交流というテーマの一部しか書ききっていないと思う。さらに回を重ねて韓国とのあいだを往来することで、国家レベル、政権レベルではない、生活に実際にかかわってくる、実感からの日韓関係を引き続き追求してみたい。
 なお文中の表記にあたっては、つぎの原則を採用した。(1)韓国、朝鮮の呼称については、談話または資料に出てきたとおりにして、歴史的なニュアンスを忠実に生かした。(2)人名のルビは耳にどう聴こえるかに重点をおいた。
最後に多くのご教示や証言をいただいた方々のお名前をあげて、感謝を捧げたい。

朴是春、全寿麟、邢奭基、趙春影、孫夕友、黄文平、朴椿石、吉屋潤、佐藤邦夫、田中博、木村栄文、松本弘、徐永恩、金康燮、金セレナ、チェゥニ、李三郎、三木治、佐野良一、大島幸夫、千田夏光、小坂和穏、牧野信夫、茂木大輔、金平洙、渡辺圭、および韓国滞在中にお目にかかった多くの人たち。(順不同・敬称略)

主な資料

『恨の文化論』李御寧 裵康煥訳/『ドキュメント朝鮮人』日本読書新聞編/『日本の中の朝鮮』太平出版社編/『朝鮮戦争』Ⅰ~Ⅲ 児島 襄/『朝鮮戦争』神谷不二/『戦後秘史8 朝鮮の戦火』大森実/『朝鮮』金達寿/『わがアリランの歌』金達寿/『日本植民地史 朝鮮』毎日新聞社編/『ドキュメント日韓ルート』大島幸夫/『韓国人から日本人へ』韓明錫/『韓国の挑戦』豊田有恒/『隣りの国で考えたこと』長坂覚/『済州島民謡紀行』服部龍太郎/『朝鮮人強制連行の記録』朴慶植/『南朝鮮の反日論』渋谷仙太郎編訳/『従軍慰安婦正・続』千田夏光/『朝鮮と日本のあいだ』金三奎・長璋吉ほか/『日本音楽の再発見』團伊玖磨・小泉文夫/『音楽の根源にあるもの』小泉文夫/『歌はわが友わが心』古賀政男/『古賀政男芸術大観』宮本旅人/『誰か故郷を……素顔の古賀政男』茂木大輔/『美空ひばり』竹中労/『朝鮮の民話』松谷みよ子・瀬川拓男/『朝鮮詩集』『朝鮮民謡選』『朝鮮童謡選』金素雲/『喜劇人まわり舞台』旗一兵/『わが心のムーランルージュ』横倉辰次/『なつかしの歌声正・続』三枝孝栄・永来重明編著/『日本のジャズ史』内田晃一/『アジァ民謡集成』中沢公平
19812月 森 彰英

以下は、紹介者のお節介な年表(本書の抜き書きで作成-戦後部分を略)

1910(明治43)年829日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した

1910年代、日本でヒットした「船頭小唄」や「籠の鳥」などの無声映画は、そのまま朝鮮に持ち込まれた。当然、主題歌は朝鮮語にうたい変えられて一般に広がった。とりわけ「金色夜叉」は朝鮮風に翻案、ドラマ化され、「長恨夢」と題した主題歌が作られたが、日本で流行したのと同じメロディであり、ただ寛一、お宮の人名を朝鮮名に直し、熱海の海岸という舞台を平壌郊外の湖畔にしただけであったという。

1912(大正元)年~大正11年 古賀政男氏7歳の時に母親と一緒に朝鮮へ。善隣商業を卒業し、18歳で大阪へ。まもなく上京、明治大学予科に入学。

京城にいたころ、日本から艶歌師がやって来て、「金色夜叉の唄」や「千葉心中」や「さすらいの唄」をうたって聞かせた。なけなしの小遣いをはたいて楽譜を買い、自分で演奏してみたそうだ。

大正初期には、ソウルの市街は日本人街と外国人街に分かれていたという。現在の市街図でいえば、静渓路を境界線として、それよりも南山寄りが日本人街。北寄りの鐘路を中心としていた地域が朝鮮人の街になっていた。

1925(大正14)年ころ、「金色夜叉」のレコード発売。流行歌最初のレコードといわれている。それまでレコードに吹き込まれたのは、民謡や唱(チャン)やパンソリなどの民俗芸能が主流であった。

1927(昭和2)年 京城にラジオ局JODKが開局。日本のNHK開局の2年後。

1931(昭和6)年 ヒョン・セキキ氏東京の東洋音楽学校に入学。23歳の時新民謡「朝鮮八景」を書く。新民謡=朝鮮の民謡特有のリズムである三拍子を二拍子にして、うたいやすくした。1930年代に、「アリラン」や「トラジ」はレコード用としてそれぞれ五、六種類吹き込まれていたが、正調とは違うものだったという。若干リズムを改変することでうたい易くしていたのである。もちろんレコードの購買層のうちに、かなりの日本人を意識していたのである。

1932年(昭和7)年 チョン・スリン氏「昭和78年ごろには、(ビクターの専属として)一ヶ月に十曲は書きました。西条八十、中山晋平先生のコンビも朝鮮に来られて、大いに交遊を深めたこともあります。私も吹き込み立ち会いで、時折日本に行った」

ソン・ソクウ氏「歌謡曲はレコードの大量販売によって成り立つ文化ですね。日本で昭和初期にレコード化され、ヒットを収めた歌謡曲といえぽ、そう中山晋平、古賀政男の名前が欠かせない。前奏、歌、間奏、歌という、三分間か四分間のうちに一つの曲を構成するパターンを、七十八回転の中で生かして普及させた功績は、これら作曲の先覚者たちのものでしょう。

ところが、忘れてはならないのは、日本でこれらのレコードが発売されていたのとほぼ同じ時期に、当時の朝鮮でも同じ曲が発売されていたのです。もちろん、目本から渡って朝鮮で暮らしている人たちを購買層とみていましたが、朝鮮の人たちも購買層でした。そのために、日本のレコード会社では、わざわざ朝鮮人の歌手に同じ曲を吹き込ませて、朝鮮用として発売しました」  

1934(昭和9)年 パク・チュン氏 日本から来た劇団一座の楽士として各地を回り、大阪へ。昭和9年室戸台風の年に、吉本興業が、朝鮮の民謡や踊りを主体としたアリラン歌劇団を創設するに当たり、作曲・編曲者として参加を求められる。歌劇団が朝鮮に渡ったときに、帰国。オーケーレコードの専属作曲家になる。

1935(昭和10)年ころのソウルには、明治座、朝鮮劇場、有美座、大陸座などの有名な劇場があって、それぞれ日本映画、外国映画の封切館になっていた。

まだ無声映画の時代だったが、外国人街では洋画、日本人街では邦画が主に上映されていたようだった。もちろん、朝鮮人観客のために朝鮮語の弁士がついていた。

明洞(ミョンドン)の明治座では、最新作の上映とともにオーケー楽劇団(のちに朝鮮楽劇団)のステージが展開された。

1936(昭和11)年 テイチクから李蘭影の「別れの船頭」「アリランの唄」など続けて発売。「アリランの唄」は古賀政男が朝鮮民謡の旋律を編曲、詩人の佐藤惣之助が歌詞を書いた。金海松の「連絡船の唄」は、昭和26年日本で菅原都々子がうたい、ヒットしたが、戦前、朝鮮で発売された唄であることはあまり知られていない。金海松のうたはいまも歌い継がれているが、ソウルが北朝鮮に占領された時に収容所に入れられ、北へ、連れ去られた。北朝鮮で生存していると思われるが、それが理由で、韓国内では彼の名前が使えない事情がある。

1939(昭和14)年 オーケー楽劇団、日本公演を機会に「朝鮮楽劇団」と改名。演し物も日本人観客にも朝鮮色を訴えられる「春鶯賦」を中心にして、これに歌や踊りを添えた。楽劇団の中で、特に組織されたアリラン・ボーイズとチョゴリ・シスターズは人気を呼んだ。アリラン・ボーイズは歌をうたい、楽器を鳴らし、日本語の台詞の寸劇でコミックな身ぶりをみせた。チョゴリ・シスターズの高清子は、吉本興業の子役から育ったタレント、李秀子はOSK出身と、共に日本で芸能の素養を身につけていたた。

1940(昭和15)年ごろ、京城にあったレコード会社。ビクター、コロンビア、タイヘイ、オーケー(テイチクと資本提携)。レコードを朝鮮語で出すか、日本語で出すかの差だけで、日本と朝鮮のレコード業界は完全に一体化していた。朝鮮、満州、台湾の植民地は、重要な販売地域だった。日本人だけでなく、現地の人たちも購買層に組み入れたい。そのために、音楽関係者を自らの資本下に取り込んでいった。さらに、レコードも文化戦略の一つとして活用できる。

19458月     日本敗戦、朝鮮解放。38度線で分割。

1950625日 朝鮮戦争勃発