男たちよ!   中山千夏 責任編集   話の特集

1977年2月1日発行  ブックデザイン・石岡瑛子 ポートレイト撮影・福島英子  0076-9011-6974

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目次

月経     小沢遼子(作家・浦和市議会議員)/山口はるみ(イラストレーター)
性欲     石岡瑛子(グラフィックデザイナー)/鈴木弘子(タレント)
性感・性交 麻鳥澄江(女性問題研究家)小沢遼子(作家・浦和市議会議員)
             /桐島洋子〔ルポ・ライター〕花柳幻舟(舞踏家)
避妊      ヨネヤマ・ママコ(パントマイマー)/中村メイコ(女優)
妊娠・出産 平野レミ(主婦)/悠木千帆(女優)
売春      港マコ/女子高生A/女子高生B/女子高生C
強姦       梢ひとみ(女優)/吉武輝子(評論家)
女と女     矢来小麻(教師)/中山大(自由業)
女と男     富岡多恵子(詩人)
仕事      小池一子(コピーライター)武田京子(レコード・ディレクター)
        宇佐美恵子(モデル)/F・モレシヤン(「シャネル」美容部長)
               /前田美波里(女優)
あとがき    中山千夏 
19761月~12月「話の特集」の連載を単行本にまとめたもの。

あとがきからの長い抜き書き

 どんなに気の弱い男が女と対する場合でも、彼の後ろには、ウルトラ超能力を持つ男社会の歴史がひかえているではないか。-彼は、自ら好んで怪物の助力をたのむような男ではなかったし(好むと好まざるとにかかわらず怪物にくっつかれているところがまた、問題なのだが)、
 そういう男たちに、早々と女でなければわからないと言う言葉を投げつけて、背を向けてしまうのもあまり明朗な態度とは言えないのではあるまいか。それに、女でなければ、男でなければわからない、ということは実際のところ、どの程度あるのだろうか。例の怪物助人を追っ払ってしまえば、わからないことなんかさほどありはしないのではなかろうか。
 私たちにしたところで、一人前の人間として立つ為には、客観的な自己認識と共に主観的な自己認識が必要なのだ。天皇制や高度成長経済によって自分の像怪物を創りあげてしまった男たちの轍を踏まぬよう気をつけながら、私たちは木当の白分の像を創らなければならない。
 こんな考えを基に、この「男たちよ!」は企画された。いわば、女が自分自身を探りっつ、その情報を男に送り、男が怪物を追っ払う一助にしようというわけである。これはなかなか微妙なところのある活劇だった。私たちが殺ろうとしているのは、男そのものではない。好むと好まざるとにかかわらず、全ての男の背後にくっついている怪物なのだ。-少なくとも私には、男を敵にまわす気もなければ、まして殺る気など毛頭ないのだから、それをまず伝えなければならなかった。第一回と第二回のタイトルの下には、次のようなメッセージが掲げられている。
このページは、すべて、女の手によってつくられたものです。
 女には、どうしても、わかってもらえないことが、いっぱいあります。せめて、事実だけでも、正確に知ってほしいのです。
 むろん、男たちだけでなく、女たちにとっても、考え直したり、改めたりしなければならないことがあるでしょう。
 本当の女とは、いったいどういうものなのかを-
 今、読み返してみると、-自己嫌悪を禁じ得ないが、つまりこう書かなければ落ち着けないほど、私たちは男達の無用な、敵愾心を警戒したのであった。現在まで手応えでは、それが不必要な気のまわし方だったとは思えない状態だ。このような暗号なしに始めたとしたら、もっとたくさんの男たちがこのページをとばして読んだに違いない、と思えてならない。-
 もっとも、このような切り出し方は、やはりよくなかったのではなかろうか、と反省するような反応もままあった。-
 恐らく彼は、自分を決して男性主義者ではない、と信じているのだろう。だから、非常に率直に女たちを見て、その認めるべき点は認め批判すべき点ははっきりと批判してしかるべきだと考えているのだろう。極端に言えば、女たちのよき友、よきアドバイザーたり得ると彼は信じているのだろう。-私たちが望んでいるのは、彼自身、捨て身で背後の怪物に挑みかかってゆくことなのであって、私たちへのアドバイスなどでは断じてないのだ。
 多分、善意盗れんばかりなこのような男たちに、この種の誤解を抱かせてしまった基は、冒頭のメッセージに表される私たちの「話の切り出し方」にあるのだろう。
-(12回の連載の)その三分の二までが女の肉体およびそれにまつわる諸事によって占められていることには、我ながら驚いた。まず肉体を自分自身の手の内に取り戻さなければ、という私たちの意気込みだろう。
 女が自分の体について仲間たちと話し合える機会は極端に少ない。私のような知りたがり屋のお喋りでさえ、これが初めての経験だった。昔は、例えばひとつの大家族の中での家事労働者仲間、という意識の中で、そのような話し合いが行われていたのかも知れない。今だって女房たちの井戸端会議や性を売ることによって生活している女たちの楽屋では、そのようなことがあるだろう。だが、それらが黙認されて来たのは、それらが単に、男を食いものにする者たちの共犯者意識に基く裏話だったからである。男社会とそりを合わせてゆく為の技術的情報交換であり、愚痴のこばしっこだったからである。それは、男へ送る必要のないものだったし、むしろ、倫理的に言えば送ってはならないものであった。つまり、男を全く揺さ、振りはしないものだったからこそ、黙認されて来たのである。私たちがそれを公表するに至った勤機は、本文においても後記においても既に述べたので、その反響について少し考えたことを言ってみる。
-女の言動に対する劣悪な反応が最もあからさまに噴出するのは、男のジャーナリストたちからではなかろうか、と感じ続けていたから、週刊誌の取り上げ方にもさほど驚きはしなかったものの、そのような意識を商魂でまとめて、「性感・性交」の方法そのままに女たちの性談を掲載した週刊誌があったのには、さすがに驚いた。
 どんな次元であれ、女の言葉があちこちに響いていることは、多分、いいことなのだろう。だが、この出来事は、テレビ出演拒否のフォーク歌手も、反体制的作家も、一般消費者も、貧乏芸術家も、そしてウーマン・リブさえも企業から見れば良き商品になり得るという認識を改めて私に抱かせ、このような社会にある限り逃れられないこの事態にどう対処してゆくか、という課題として、私の中に大きく残っている。
 文学的な批判もあった。あのようなことは日に出さず、じっと秘めて相対しているところに女と男の関係のよさがあるのだ、というような意見である。ロマンの問題は性教育の否定論にもよく語られる。たしかに私たちの発言は(それ程の力があったとすれば)ある種のロマンを損なうものであったかも知れない。しかし、ロマンが生身の人間の内に創造されるものだとすればいかなる現実の中にもロマンは存在し得るだろう。森羅万象の本質に根差したロマンは、いつの時代の現実とも共存できる筈だ。浅いところに根差したものは現実の認識と共に変動し、あるいは消え去ってしまうかも知れないが、いくらでも変わりが生まれるという点で、人類にロマンのなくなる心配はない。月の構造を知ることによって失なわれるロマンもあれば、月の構造を追求することによって生まれるロマンもあり、そして月の本質に根差したロマンは不滅だ、というのが現在の私の考えである。
 女たちの反響は一口に言って熱っぽいものだった、あれもこれもやらなくちゃ、もっと突っ込んでやらなくちゃ、と言う声が自分の内と外から年中聴こえてくるような感じの中で私たちは編集を続けて来た。女たちの中にこそ、この企画に対する物足りなさと強い批判がある筈で、それがこの後様々な形で広がることを期待する。振りかえってみると、言い足りなかったところ、まとまらなかったところがいろいろあるのだ。
 結婚制度については、独立に一章設けようと予定していたのだがあまりにも女の人生に深く絡んでいる問題なのでこれだけな切り取ることは出来なかった。そのかわり、全ての章に分散されたかたちで、結婚について語られている。言いかえれば全休が結婚制度を様々な角度から照射する結果になった。はなはだ不器用な構成で恐縮だが、これを無理に切り取ると大切な部分が崩れる気がして、手をつけないままにしてしまった。
 予定は立てたものの、出来なかったものにもうひとつ「教育」がある。女が幼児期からの有形無形の教育によって、男性主義の打ち出す女像を押しつけられ、常に見られるもの、添えもの、主体性を欠くもの、主体性があるとしても男の黒幕としてあるべきもの、といった生き方を余儀なくされるのは確かなことだ。しかし、これも結婚同様、あまりにも巨大であると同時に実体の掴みにくいものなので、呆然としたまま手がつけられなかった。
 その他にも、私自身の中に持ち越された問題は山程ある。女たちと語り合うことは、問題を抱え込むことであり、男たちに呼びかけることはそれを増幅することなのだろう。
 私の頭は雑然としたままなので、あとがきもはなはだまとまりのないものになってしまった。読者各位と協力者緒姉に御礼とこんごの御健闘を御祈り申し上げ、多くのべージを文句なく女に開け渡して下さった『話の特集』の英断に賛辞を送って、この場はごまかしてしまおう。