小沢昭一大写真館  小沢昭一 撮影・著  話の特集  0076-9002-6974

1974年4月10日印刷 昭和49年6月20日第2刷発行
カバー写真=石黒健治 人物アルバムレイアウト=山口はるみ ブックデザイン~河村要助

小沢大写真館カバー画像

小沢大写真館 箱表  小沢大写真館 箱裏

目 次

記念写真

人物アルバム

桐かほる/天狗対こけし/ローズ秋山夫婦/カルーセル麻紀

看板・はり紙

つわものどもが夢の跡東京・旧赤線めぐり

玉の井・千住(通称コツ)・洲崎・品川・新小岩(通称丸健)・鳩の街・東京パレス・亀戸・新宿二丁目・新宿花園街・亀有・武蔵新田・立石・吉原

風景

写真屋の父と私/東京ゲイボーイショー/一条さゆりさんの魂/トルコ嬢アンケート/レ痔ビアンショー/“残酷”入門 団鬼六氏に聞く/人肌に彫る 彫清さんに聞く/スポーツ・ヨシワラ/看板・はり紙/吉原・女郎屋の証言/パンツーマンの傾向と対策/写真のどこが面自い 細江英公さんと

あとがき 

初出一覧

写真屋の父(おやじ)と私(『アサヒカメラ』昭和477月号)/レ痔ビアンショー(『ヌード・インテリジェンス』36)/スポーツ・ヨシワラ(昭和471024日“大演説会”より)/看板・はり紙(『アサヒカメラ』昭和467月号)/吉原・女郎屋の証言(『内外タイムス』昭和438月号)/写真のどこが面白い細江英公さんと(「カメラ毎日』昭和472月号)

あとがき

いやはや、私の写真集のごときものが、どうにか、出版されました。世の中まちがっとるよなア。いや、ありがとうございます。
なんども申しあげましたとおり、私は写真館の小セガレなのに、写真のことは本当にほとんど何も知りません。撮り方も、現像焼付けもです。ただ、子供の時から電車の窓の外を見るのが大好き、いまでも、左右をじろじろ見ながら歩き廻るのが何より大好き、そういう、たんなる好奇好色の徒であります。写真は、そのじろじろのメモがわり。
ただそれだけの写真を、毎号のせて下さる『話の特集』に感謝、つきあってくれる読者に感謝。
さすれば、今後も一層一所懸命に、写真のことは勉強せずに、ひたすら、じろじろにのみ専心しなくてはなりますまい。
この本が出来あがるについて、池田寿夫さん、矢野誠一さん、週刊文春さん、内外タイムスさんの御協力がありました。心から御礼申しあげます。
また、『話の特集』の矢崎泰久さんはじめ、井上保さん、野田英夫さん。特に井上さんは、写真の撮影の手助けから、この本の編集までやってくれました。本当にありがとうございます。
もちろん、この本に登場したみなみなさまへの御礼は申すまでもありません。大感謝であります。重ねてありがとうございますと申しあげまして、ひたすら低頭再拝を続けておりますのは、ハイ、小沢写真館・館主・昭一メにてございます。昭和四十九年陽春

写真屋の父(おやじ)と私

私は写真屋のセガレである。
私のおやじは、新潟県長岡で育って、高田の小熊写真館で写真をおぼえ、東京へ出て店を開業した。その店は、下谷・根岸の御行の松のそばで、たしか木村伊兵衛写真館?のあとだったと後に聞いたが、どうもあまりはやらなかったらしく、二年ばかりで蒲田へ移った。私はその小沢写真館のひとり息子なのである。
しかし、門前の小僧は習わぬ経を読んでも、門内の小僧は経を読まなかった。店には、門生(あのころ、写真屋の小僧をそう呼んだ)がひとりいたので、私は家業の手伝いは、水洗いひとつしなかった。どうも、おやじが意識的にさせなかった様でもある。
「お父さんは写真屋なんかやってるが、お前はもっと偉い者になれ」というようなことを、言われた記憶もある。結果は、私は役者になって、写真屋と役者とどっちが偉いかよく分らないが、まあおやじの期待する様にはならなかったわけだ。
おやじは、写真の仕事に、きわめて熱心であるという風にはこどもの目から見えなかった。若い時、絵かきになりたかったということを聞いたこともあったが、稼業よりも、釣や麻雀や川柳や小鳥にこっていたおやじの姿の方が思い出される。
そういうおやじだったが、写真の「修整」だけは一所懸命やっていたし、また得意にもしていた。昔の写真屋の写真は、ガラスの種板の原版を、電球のあかりを裏から通す台の上にのせて、紙ヤスリで針の様にとがらせた鉛筆の先で、たんねんに、写っている人物の顔をいじって、イイ男イイ女に修整するのが、普通だった。この修整の、サジ加減ならぬ鉛筆加減で、「あの写真屋はうまいまずい」の差があったのだ。