わかりやすい朝鮮民族の歴史 著者 辺 太燮 訳者 金 忠一  国書刊行会

197861日印刷 197865日発行

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本書を学ぶにあたって

 私たちはなぜ歴史を学ぶのでしょうか
 私たちは、わが国ばかりでなく、世界のいろいろな国のそれぞれちがった国の生活について勉強します。それは今日の社会が、一日にして偶然にできたものではなく、ながい間にわたる、人々のたえざる努力によってできたものだからです。私たちが現在の生活を、より深く、また正しく知るには、過去の社会が、今日までどのように変わって来たかを知らなければなりません。私たちが歴史を学ぶ理由は、このように、現在の生活を正確に知ろうとするところにあるのです。
 しかし、私たちは、現在の生活をよく知るというだけで十分であるとはいえません。一歩すすんで、過去に、私たちの祖先が、どのような問題を、どのように解決して新しい社会をつくり上げて行ったかを知ることによって、より明るく住みよい社会をつくる道を見出さなければなりません。
 したがって、私たちが歴史を学ぶ目的は、過去の社会について学ぶことによって、現在の生活を正しく知り、よりすすんで、よい未来社会をつくるところにあるといえましょう。
 私たちは、どのように歴史を学ばなければならないのでしょうか
 
歴史を学ぶ目的が、私たちの現在の生活を改善することにあるわけですから、歴史を、つねに「私たちと現在」に重点を置いて学ばなければなりません。
 まず、歴史を学ぶということは、「私たち」が中心にならなければなりませんから、私たちの祖先が歩んで来た足跡をたどって見ることにつとめなければならないのは、いうまでもありません。しかし、ありのままの私たちを知るためには、わが国の歩みと他の国の歩みを互いに比べて勉強する必要があります。私たちは、わが民族の発展のすがたを、世界の他の国々と比較して学ぶことによって、他の国々との共通点と、わが国だけが持っている点とを明らかにするのでなければなりません。
 つぎに、私たちは、「現在」に関心を置いて歴史を学ばなければなりません。過去に起こったことであるからといって、それをただ暗記するだけに終わるならば、歴史を学ぶ意味を十分にはたしたとはいえません。過去の生活や事件が、現在とどのような関係にあり、それがどのように変わって現在のようになったかを知ることにつとめなければならないでしょう。そして私たちは、わが民族を愛し、発展させるのにつとめるばかりなく、世界の国々と協力し合って、平和な世界をつくるようにしなければなりません。

単元一 わが民族史のはじまり

1 わが民族の原始生活
わが民族の祖先
 わが民族は、トルコ系・モンゴル系・ツングース系と同じようにウラル・アルタイ語族に属します。このことは、互いに体質と言語・風俗がよくにているところから、遠い昔、かれらと同じ祖先のアジア北方系統であることがわかるのです。私たちの祖先は、大陸の北方に長い間住んでいましたが、ゆっくりと東の方へ移って、今のわが国に住みはじめたのです。それは、今からおおよそ数万年前のことです。
 かれらは、みないっしょに、同じ頃に入って来たのではなく、長い間にわたって、何回も、それぞればらばらに入って来たのですが、かれらはだいたい二つの道を通って入って来ています。一つは、遼河-りょうが-(リヤオ)上流の地方から鴨緑江(アムノックカン)中流をへて、半島の東岸に出る道であり、もう一つは、渤海湾(ポー)にそって、わが半島の西岸に出る道です。
 このように、わが民族は、入って来た道や、入って来た時期、さらにはとどまって住んだ地方の環境がそれぞれ異なるので、地方によっては、ある程度、社会の発達に差異ができたり、風俗や文化に区別が生じたりしましたが、長い歳月をへて来る問に、一つの民族をつくり、共通の文化をもつようになったのです。
原始時代の遺物と遺跡
 旧石器時代-豆満江沿岸や錦江流域の遺跡から打製石器が出土している
 新石器時代-土器としては、北方系統の櫛のようなもので模様をつけた土器(櫛目文土器)、満蒙系統の、厚く・文のない土器(無文厚肉土器)、そして、華北系統の紅い彩色土器(丹塗磨研土器)があります。しかし、無文厚肉土器は、青銅器時代の土器であると考えられており、櫛目文土器は、しだいに無文厚肉土器に同化したものと思われます。竪穴と貝塚の遺跡もあります。
原始人の暮らし
 新石器時代に入ってからは、農耕を始めました。それというのも、遺物の中に、土を掘りおこす石斧と、穂をとる石刃など、農耕に使われたと思われる道具があることでもわかります。しかし、この時の農耕は、きわめて原始的な方法がとられていたため、それだけでは、とうていくらしを立てて行くことができなくて、狩猟や漁をしなければなりませんでした。
 これらの原始人が、長い間生きて行くうちに、道具もしだいに進歩し、農耕生活も発達するようになりました。かれらは、だんだん一定の場所にとどまって、定住生活を営むようになり、また、自然に血すじの近い人々が集まって、氏族を形成し、集団生活をするようになりました。氏族というのは、同じ先祖をたてまつる血族で、集まって一つの村をつくり、共同で生活をしていました。氏族のひとりひとりは、みな平等で、全く同じ権利と義務をもっていました。氏族員は、かれらの代表として、氏族長を選挙で選び出しましたが、重要なことがらは、氏族員全員でつくられた会議で決められました。氏族社会は、平等を原則とした民主的な生活であったわけです。
 原始人の信仰を見ると、山や木、動物など、すべての自然に霊魂があると考える自然崇拝の思想がありましたが、特に、農業に多くの影響をあたえる太陽を、もっとも強く崇拝したのでした。特に、私たちの祖先は、人間と神との間をとりもってくれるのが巫堂(ムダン、みこ、シャーマン)であり、このみこが、わざわいをしりぞけて幸福をもたらすものと信じていました。これをシャーマニズムといいます。また、原始時代の人々は、死んだ祖先を崇拝し、祭祀することをたいへん大切に考えていました。また、自然にある物を、自分の氏族の祖先であると信じ、崇拝していました。これをトーテミズムといいます。

2 わが民族の建国

金属文明の伝わり
 石で道具を作って用いていた新石器時代がつづく問は、社会の発達はおそく、私たちの祖先も、原始的な氏族社会からぬけきれないでいました。ところが、このような原始社会を大きく刺激して文明を起こさせるできごとが起こりました。それは、大陸から、金属文明が伝わって来たことです。すなわち、モンゴル高原を中心にして活躍していたフン族(匈奴族)が、紀元前9~7世紀のころ、北の方に住んでいたわが民族に、青銅器文明を伝えたのです。また、漢民族も、だいたいフン族と時を同じくして、かれらの青銅器文明を伝えた後、つづいてすぐに、鉄器文明を伝えたのです。
 このように、フン族と漢民族が、大陸の金属文明を伝えたので、わが民族も、石器にかわって、青銅器と鉄器を道具として使用するようになりました。しかし、それまで使用していた石器が、すぐになくなってしまったのではなく、そうとう長い間、金属器と合わせて用いられたので、この時代を金石併用期であるといいます。
 また、金属器を作る器具が出土していることから、わが国でも、直接に金属器を作っていたことがわかります。この時の遺跡としては、巨石墳墓と立石があります。墳墓は当時の墓で、わが国では、漢江(ハンガン)を中心として、テーブルのような形をした北方様式と、碁盤のような形の南方様式があります。また、立石は、おがむために立てられた記念物で、わが国のあちらこちらに分布しています。
部族国家のはじまり
 金属文化が伝わったことは、石器時代の原始社会を変えてしまいました。金属器の使用は、物の生産をふやし、人々の生活を豊かにし、それまで平等であった氏族の中に、貧しい人と富める人との差をつくりました。権力をもった族長が氏族全体を支配する社会が、あちらこちらにできるようになったのです。また、金属の武器を使用して、他の氏族を征服することがさかんに行われ、氏族と氏族が結合してより大きな部族になって行きました。
 初めの部族社会は、氏族社会のように民主的でしたが、重要なことは、氏族長たちが集まった族長会議で決められたりしました。しかし、あとになって行くと、力のある氏族長が部族長になり、権力をもって全部族を治める群長になりました。これが部族国家です。
 このように、金属器を使用することによって、原始氏族社会がほろび、その上につくられた最初の国家形態が部族国家です。
 しかし、これらの部族国家は、すべてが同時に起ったのではなく、地方によって、起った時期と、発展したすがたがそれぞれちがいます。大陸に近い北の地方は、はやくから大陸の金属文明を受けいれたので、さきに部族国家をつくり、文明が発達しましたが、東海岸や半島の南の地方は、おくれて部族国家をつくり、その文明の発達もおくれました。
古朝鮮(コジョソン)の建国と檀君(ダングン)神話
 わが国の各地につくられたいろいろな部族国家の中で、いちばんさきに発達したのは、大同江(デドンガン)流域におこった古朝鮮(コジョソン)です。ここから、最も古い、わが民族のの建国神話が生まれるようになったのは、当然のことといえましょう。
 古い記録によれば、わが国は、今からおおよそ4300年前に、檀君(ダングン)によって建国国されたといわれます。初め、天には太陽神をあらわす桓因-かんいん-(ファンイン)がいましたが、その子桓雄-かんゆう-(ファンウン)が、弘益-こうえき-人間(ひろく人間を有益にすること)の志をいだいて、太白山(テベクサン、今の白頭山・ペクトゥサン)におり立って民を治め、熊女-ゆうじょ-(ウンニョ)と結婚して子を得ました。これが檀君王倹-だんくんおうけん-(ダングンワンゴム)です。檀君王倹は、今の平壌(ピョンヤン)に都を定め、国の名を朝鮮-ちょうせん-(ジョソン)とよびました。これが、わが国の建国神話です。
 この檀君神話は、わが民族の始祖神話です。世界の他の国家や民族も、ほとんどが、それぞれの建国の伝説と始祖神話をもっていますが、檀君神話は、わが国の長い歴史の伝統を語ってくれる民族神話なのです。
 檀君神話は、わが民族の建国の伝説ですが、神話はどこまでも神話であって、実際にあった話ではありません。ですから、この檀君神話の内容を、すぐにわが民族史の事実であると考えてはなりません。だからといって神話を、後世の人々がつくり出した、根も葉もない話と考えるのもまちがいです。神話には神話の価値があります。それは、古代の人々の考え方を十分表わしているのです。ですから、私たちは、この檀君神話を通して、わが民族が、古い昔から、神(ハヌニム)の子孫であると信じる考え方があり、また、同じ祖先から、同じ血を受けたとする単一民族の考え方があったことがわかります。
 また、説話・伝説には、歴史的な事実の一面が反映しているものです。ですから、私たちは、この檀君神話から、私たちの祖先が、はやくから、大同江の流域を中心に、弘益人間という理想のもとに国家をつくり、文明を起こして行ったことがわかるのです。
3 部族国家の発展と社会生活
古朝鮮の発展
 大同江の流域は、よくこえた広い平野で、はやくから、発達した農業社会を営んでおりました。大陸の進んだ金属文明が入って来る入口に位置しているので、この地方に、いちばんさきに古朝鮮が起こり、文明が発達するようになりました。
 古朝鮮は、かなり文明が発達していて、たいそう強い力をもっていました。紀元前194に、衛満-えいまん-(ウィマン)が政権をにぎってからは、となりの小さな国々を合わせて、国の勢いはいっそうふるい、衛満の孫・右渠王-ゆうきょおう-(ウゴワン)の時代には、それまでよく侵略してきた中国の漢に対しても、どうどうたる態度で対立するまでになりました。そのために、漢の武帝の侵入を受けて、古朝鮮は、およそ一年間、抵抗して戦いましたが、ついに紀元前108年にほろぼされてしまいした。
 古朝鮮を滅ぼした漢は、彼らが占領した古朝鮮に郡県制度を行って、楽浪-らくろう-(ナクナン)、真番-しんばん-(ジンボン)、臨屯-りんとん-(イムドウン)、玄莬-げんと-(ヒョンド、濊貊-かいばく-イエベク)の四郡を設け、郡の下に県を置いて支配しました。
 しかし、このように漢がわが国に郡県を設けたことは、他民族の支配から独立しようとするわが民族の激しい反抗をよび起こし、けっきょく、四郡のうち、大同江流域にあった楽浪(ナクナン)郡だけを残して、漢の勢力はしりぞけられたのです。そして、その楽浪郡も、のちに南の部分を分割して帯方-たいほう-(デバン)郡としたりしましたが、二郡とも、ついにわが民族のねばりつよい反抗のまえにほろぼされてしまいました(313)
 中国の郡県制度が、古朝鮮の地方に設けられるにしたがって、高度に発達した中国の文化が受け入れられて、この地方では、楽浪文化というかがやかしい文化を花咲かせるようになりました。この楽浪文化というのは、郡県の漢人たちが本国の文化を移して来たものですが、これは、自然に、土着の人々に影響をあたえ、わが民族の文化と社会を発展させるのに、大きな役割をはたしたのです。
北方の部族国家
 わが国の北側に位置した扶余(ブヨ)と高句麗(ゴグリョ)は、はやくから、大陸の発達した文明の影響を受けて、古朝鮮のなかでは、発達した部族国家をつくっていました。
 扶余(ブヨ)は、北満州(今の中国の東北部)の広いこえた平野に位置し、農業を主とした部族社会として発展していました。政治組織は、上に王がおり、その下に家畜の名をとった馬(マ)家・牛(ウ)家などの大きな家があり、かれらが国をおさめました。その下で、下戸(経済的に貧しく、いやしいとされる人)とよばれる人々が、労働し生産に従事していました。法律はたいへんきびしいもので、殺人者は死刑に処せられ、その家族は奴碑(ノビ、奴隷)にさせられましたし、泥棒は、盗んだものを十二倍してつぐなわなければならなかったのです。また、扶余の人々は、平和を愛し、白衣を大切に考え、殉葬、の風習がありました。そして秋のとり入れ(秋収・チュス)がおわって、旧正月(12)には、国の人々がみな集まって天(ハヌル)に祭祀をささげる風俗があり、これを迎鼓(ヨンゴ)といってたいせつにしました。
*殉葬-古代に、主として王や貴族が死んだとき、生きている彼の妻か従者をいっしょに埋めること。
*迎鼓-むかし、扶余の国で、秋の取り入れが終わった12月に行われた儀式の一つ。すべての民が集まって、天に祭祀をささげてとり入れを感謝し、連日、歌舞や飲酒を楽しんだ。またこの行事中は処罰と投獄を禁じ、囚人を解放したりもした。
 高句麗は扶余族の一派で、鴨緑江(アムノックカン)の中流のほとりを中心にして大きくなった国です。この地方には、もともと、けわしい山と深い谷間が多かったので、このような環境で生長した高句麗の人々の性格には、たいそう荒々しいところがありました。また、平野がせまく、土地がやせていたので、いつも食糧は不足がちで、そのために、自然に節約をする一方、武力で他の部族国家を侵略したのです。そして、初めこの地方に設置されていた玄菟(ヒョンド)郡を滅ぼしてからは、その隣りにある沃沮(オクジョ)と東濊(ドンイェ)を征服して食糧を補うようになりました。
 高句麗は、もともと五氏族が集まってつくった部族国家で、そのうちのもっとも強い氏族の頭が、世襲的に王位につき、各氏族の頭は、自分の氏族を治めながら、中央の政治を受けもっていました。高句麗は、言語と風俗が、扶余(ブヨ)とよくにていますが、婿とりの制度、がありました。また、高句麗でも、秋の取り入れがおわった10月には、人々が集まって、天(ハヌル)に祭祀をささげる季節祭があり、これは東盟(ドンメイ)とよばれました。
東海岸の部族国家
 東海岸には、沃沮(オクジョ)と東濊(ドンイェ)の二つの部族国家がおこりました。沃沮は、今日の咸興(ハムフン、咸鏡南道・ハムギョンナムド)を中心にしてその一帯に勢力をのばし、東濊は、その南、咸鏡道の南部と江原道(ガンウオンド)の北部地方にあった部族国家です。これら二つの部族国家は、遠く東海岸にかたよって位置していたので、文化と社会の発達はおくれていました。したがって、国家としてのかたちがととのわず、それぞれの部族ごとに、頭がいて政治を行なっていました。
 東海岸地方は、土地がこえていて農作物がよくでき、また、海からは魚や塩などの海産物も豊かにとれましたが、全部族を強力に治める王がいなかったので、食料をえようとして攻めてくる高句麗の力を防ぎきれず、征服されて、年ごとに、多くの貢ぎ物をおさめなければなりませんでした。このために、沃沮と咸興の民衆は、貧しい生活を強いられ、社会の発展も行きづまるようになったのです。
 沃沮の風俗は、だいたい高句麗によくにていました。だが、高句麗に婿とりの制度があったのに対し、沃沮には、預婦制(ミンミョヌリ)がありました。また、沃沮では、埋葬の風習も特異で、大きな棺を作って、一つの家族が死ぬと、すべて共同でこれに埋めたといわれます。 *預婦制女子は10才になると、結婚して婿の家に移り、成人すると、婿が嫁の家に金銭をはらって、正式に妻にする制度。
 一方、東濊(ドンイェ)では養蚕がさかんで、また星を見て占ってその年が豊年になるか凶作の年になるかを予測する風習がありました。また、ここでは、10月には、秋のとり入れを感謝して(収獲感謝祭)、天に祭祀をささげる舞天(ムチョン)、がありました。また、東濊の風俗では、山川が重視され、たがいの境界が定められていて、やたらに侵犯したりしてはなりませんでした。もしこれを犯したならば、責禍(チェクファ)といって、奴隷(奴碑)と牛・馬などで賠償しなければならなかったのです。
南の地方にあった三韓(サムハン)
 わが国の南部地方には、はやくから、西海岸にそって北方から下って来た漢民族が、各地にちらばって農業を営んでおりました。かれらは、三つの大きな地域に分かれます。わが国の南部地方の西側にあった馬韓(マハン)と、東側にあった辰韓(ジンハン)、南側にあった弁韓(ビョンハン)がそれです。
 これら三韓は、たとえ三つに分かれていたとはいえ、よくにた政治社会のしくみと、言語・風俗をもっていました。三韓は、強力な中央集権の国家ではなく、いくつかの小さな国の連盟でした。これらの小さな国々は、臣智(シンジ)、または邑借(ウプチャ)とよばれる頭(族長)が治めていました。しかし、祭と政治はすでに分かれていました。それぞれの国では、天(ハヌニム、神)を祭る人がいて、これを天君(チョングン)と称し、王()を祭ったところを蘇塗(ソド)といって、大木に鈴や太鼓をつるして宗教的儀式を行いました。そして、たとえ罪を犯した者がこの中に逃げこんでも捕えてはならないとされたほど、神聖なところとされていたのです。
 5月の種まきの後と、10月の収穫の後には、すべての国人たちは集まって、天(神)に祭祀をささげ、昼夜を分かたず楽しく遊ぶ風習がありました。

単元二 三国時代と統一新羅時代の生活

1 三国の形成と発展
古代国家の形成
 高句麗は、1世紀末ごろ、太祖王(テジョンワン)の時に王権を打ち立てて領土を拡げ集権的な古代国家を形成しました。
 百済は、馬韓(マハン)の小さな部族国家でしたが、3世紀の中頃、政治制度を整備して法を制定し、周囲の部族国家を合わせて、古代国家として発展しました。
 新羅は、辰韓(ジンハン)の幾つかの国の一つで、4世紀中頃、世襲的な金氏の王朝を打ち立て、古代国家の体制を整えるようになりました。新羅第17代の王の9年(364年)に倭兵が攻めてきましたが、退けました
 新羅が古代国家を建設するころに、隣りの弁韓(ビョンハン)地方には、六伽耶(コクカヤ、三韓時代に、洛東江・ナクトンガン下流に位置した六つの伽耶が連盟をつくっていましたが、統一国家をつくれず、ついに新羅に統一させられていったのです。
*六伽耶(コクカヤ、三韓時代に、洛東江・ナクトンガン下流に位置した六つの伽耶。)①金官・グムグァン伽耶(金海・キムへ)、②小()伽耶、③星山(ソンサン)伽耶、④大()伽耶、⑤阿羅(アラ)伽耶、⑥古寧(ゴリョン)伽耶)
高句麗の発達
 古代国家に発展した高句麗は、中国の郡県にとりかこまれた地方に位置し、何度も中国勢力の侵入を受け、244年には、魏(ウィ)の母丘倹(グァングゴム)ワンギなどが侵攻して来て、都の城が落ちるまでになりました。しかし、313年には、中国の最後の郡県である楽浪(ナクナン)郡をほろぼして、大同江(デドンガン)流域の土地を占めるようになりました。
 5世紀の広開土王(こうかいどおう-グァンゲトワン、在位391412年)と、長寿王(ちょうじゅおう-ジャンスワン、在位413491年)の時代に全盛期を迎え、高句麗は、満州と半島の大部分を占める大帝国となりました。
百済の復興
 4世紀中頃、百済は、南方の馬韓を併合、北方の帯方郡を奪ってさかえましたが、高句麗の侵入を受け、南方に押し込められました。
 高句麗の南進に対し、新羅・百済両国は同盟を結び、新羅は漢江(ハンガン)流域の昔の領土を取り戻しましたが、同盟国の新羅に取り上げられ、新羅・百済両国の同盟は、破れ、両国は戦争をくりかえすことになります。
新羅の全盛
 新羅は、6世紀の初め智証王(ジズンワン、在位500513年、第22代)の時代に、中国の文化を受け入れ、国の名を中国の文字に従って新羅とあらため、元首の称号を王とした。第23代法興王(ボブフンワン、在位513540年)は、国内では法律を定め、年号を建元(ゴンウオン)と改め、それまで禁じていた仏教を公認した(527年)。外に向かっては本伽耶を合併し、領土を広めた。
 第24代真興王(在位540576年)は更に領土を拡張し、三国統一の基礎をつくった。
 2 三国の対外関係と新羅の三国統一
 6世紀の初め、隋が中国を統一、当方への進出を開始、直接国境を接している高句麗に何度も侵入してきたが、果たせず、大敗を原因に隋国内で反乱が起き、唐に滅ぼされる。
 唐も、当方進出を継続し、何度も高句麗を侵略したが、征服には至らなかった。
百済の最後
 高句麗と百済の連合軍と戦争状態となった新羅は、唐と連盟関係を結び、660年唐との連合軍で百済に侵攻、百済の義慈王は降伏して、百済は滅んだ。滅んだ百済は、日本にいた王子豊を王にたて、復興運動に立ち上がったが、内部不和のために再び敗れた。
高句麗の滅亡
 668年、高句麗の政権争いに介入した唐・新羅の侵略で、高句麗滅亡。
 高句麗復興運動が新羅の軍事援助を受けて起こったが、内部不和のため失敗。高句麗の王族安勝は、新羅に逃れ報徳王に封じられた。その遺民たちが後に渤海を建て、高句麗を復興することになる。
3 三国の社会と文化
 高句麗では、代々の国王の下に、十二等級の官吏がいて政治を受けもち、全国を五部(オブ)に分けて、褥薩(ヨクサル)という地方長官がこれを治め、部()の下にはいくつかの城(ソン)がありました。高句麗は、征服国家だったので五部と城には軍隊がとどまっており、全国を軍事的に組織して支配していました。
 高句麗の経済制度は、国民一人一人に課せられた人頭税と、各戸ごとに課せられた租によって成り立っていました。また、高句麗には、春に官穀を貨して、秋に返してもらうという賑貸法(ジンデボブ、一種の社会救済法。194年、高句麗9代故国川王・ゴグクチョンワンの時代に始まる)が実施されていました。
 百済の政治制度も、高句麗によくにていて、中央には、強大な権力をもった世襲制の王がいました。王の下には、六佐平(ユクジゥァピョン)がそれぞれ国のしごとを分けて受け持ち、すべての官吏は、佐平(ジゥアピョン、閣僚)、達率(ダルソル)など十六の等級の官品に分かれていました。都は、五部に分けられ、各部には500名の軍をおき、全国は五方(バン)に分けて、7001,200名の軍をひきいた方領(バンリョン)を置き、方(バン)の下には、郡将(グンジャン)の治める軍がぞくしていました。百済の租税制度も、高句麗とよくにていて、その年によって、おさめる布と穀物の量に差を置きました。
 新羅では、初めは、朴(バク)、昔(ソク)、金(キム)の三姓が、交代で王位についていましたが、古代国家として発展した奈勿王(ネムルワン)以後は、金氏が、代々の王になりました。
 初めのうちは、聖骨(ソンゴル、父母とも王族の血をひいている王族で、朴、昔、金の三氏)が王位につきましたが、武烈王(ムヨルワン)の時代からは、真骨(ジンゴル、父母のうち一方だけが王族の血をひいている一族)からも王が出るようになりました。また王の下には、伊伐飡(イボルチャン)を初め、十七等級の官吏が政治を受けもっていました。家族の血統がたいへん重要であると考えた新羅では、貴族は、生まれた族の属する骨品(ゴルプム)によって、政治と社会の地位か決められていました。また、新羅には、貴族が、国の重要なことを相談して決める和白(ファベク)制度があり、貴族出身の青年たちの徳をみがいたり、人格を高める団体として花郎(ファラン)があって、多くの人材を世に送り出しました。
 新羅の政治は、都を六部に分け、地方には五州を設け、その長官を君主といい、州の下に郡(グン)・県(ヒョン)をおきました。そして、都と各州には、六つの軍田である六停(ジョン)をおいて、全国を軍事的に編成していたのです。新羅の経済生活は、主として農業を基盤としていましたが、手工業も発達しており、中国との貿易もさかんに行われ、都の慶州(ギョンジュ)には東市(ドンシ、市場の名)が開かれていました。
三国の学術
 わが国の古代では、現在私たちが使っている文字がまだ発明されていなかったので、中国から伝わって来た漢文を使用していました。漢文は、まず中国との行き来がよくあった北の地方に伝えられ、高句麗では、建国以前から貴族の間で用いられ、百済でも、そうとう早くから漢文が用いられていたのです。ただ、新羅には、南に位置していたために、はるか後になって初めて伝えられました。
 漢文が三国に広がるにつれて学問が発達し、高句麗では、372(小獣林王・ソスリムワン、2年)に中国式の太学(テバク)を建てて、貴族の子弟に儒学を教えました。平壌(ピョンヤン)に都を移してからも扃堂(ギョンダン)をたてて、一般庶民の子弟に、文字と弓矢を教えました。百済には、はやくから五経博士や、医学、天文学などの博士がいて、儒学その他、いろいろな学問が発達していたのです。そして、王仁(ワンイン)、阿直岐(アジグギ)などは、儒学を、遠く日本にまで教えたりもしました。
 新羅に儒学が広まったのは、智証王(ジズンワン)の時からです。この時はじめて、イムグム(王さま)を王(ワン)とよび、国号を漢字であらわし、法律と制度も中国式に改めました。
 漢文と儒学が広まるにつれて、三国では自分の国の歴史をつくることが活発に行われるようになりました。
 高句麗では、建国の初めのころ、『留記』(ユギ、書いた人はわからない)という名の100巻の歴史の本が伝えられて来ていましたが、嬰陽王(ヨンヤンワン、?~618年、在位590618)時代の李文真(イムンジン)が、これをちぢめて、新集五巻をつくりました。
 百済では、近肖古王(グンチョゴワン、在位346375)の時に、高興(ゴフン)が『書記』(ソギ)という国史の本をつくり、新羅では、真興王(ジンフンワン、545年、真興王6年)の時に、居渠夫(ゴチルブ)が『国史』という歴史の本を書きました。
 また、わが民族は、古くから歌と舞踊を好み、三国時代にも、詩歌が相当発達しました。しかし、そのときは、わが民族自身の文字をもっていなかったので、今では、そのほとんどが伝えられていません。ただ、新羅で、漢文の音と意味をとって書いた、吏読(イドウ、朝鮮で漢文を読むために考え出された文字で、日本の「かな」のように漢字の音訓を書いた)式で書かれた郷歌(ヒャンガ)が、『三国遺事』と『均如伝』に25首ほど伝えられているだけです。
仏教
 三国時代初期の宗教は、原始的な多神教で、自然を崇拝していました。また、祖先神を崇拝し、民間では、巫堂(ムダン、鬼神と人間との間をとりもって吉凶をうらない、祈禱やまじないをすること)と占いが行われていました。しかし、後に、仏教が伝えられて来ると、仏教はより重要な宗教になっていったのです。
 もともと、仏教はインドで起こったものですが、その後西域(中国人が内陸西方の国々をさした呼び名で、のちには中央アジアから西アジアなどもふくまれた)と中国をへて、三国時代にわが国に入って来るようになりました。372(小獣林王・ソスリムワン、2年)に、北中国の前秦から来た僧順道(スンド)が、仏像と経文を高句麗に伝えたのがそのはじまりです。
 百済では、384(15代枕流王・チムニュワン、元年)に、南中国の東晋から、インドの僧摩羅難陀(マラナンダ)が初めて仏教を伝え、新羅はその後、訥祗王(ヌルジワン、第19代、在位417458)時代に高句麗の僧墨胡子(ムクポジャ)が入って伝道しましたが、実際に国家が公認したのは、異次頓(イチャドン)、が迫害されて殉死した527(法興王、14)以後のことです。
 三国では、代々の王は、この世での幸福を祈願する現世仏教と、国を保護する護国仏教の両面から、仏教を深く信仰し、奨励しました。そのため、仏教は、その後ひじょうな発達をとげ、一全国各地に、大きな寺が数多く建てられ、また、有名な僧が世に出て、中国やインドにまで行って仏法を求め、日本にわたって伝えたりもしました。
 そのころの名僧としては、高句麗の曇徴(ダムジン、第26代嬰陽王・ヨンヤンワンのときに日本に渡って法隆寺壁画を描き、儒教の五経〈詩経・書経・易経・春秋・礼記〉などを伝え、日本文化の発達に大きく力をつくしました)
恵灌(ヘグァン、第27代栄留王〈ヨンリュワン、在位618642〉のとき日本に渡って日本の僧となり、三論宗の始祖になった)
道顕(ドヒョン、日本に渡って、『日本世記』という本を著した)
百済の観勒(グァンルク、第30代武王(ムワン、在位600641年)のとき、日本に仏教および暦本、天文地理書などを伝え、僧正の地位にのぼった。
恵聰(ヘチョン、第27代威徳王在位554597年)のとき日本に渡り、戒律宗・ゲユルジョンを伝えた。)
新羅の圓光(ウオングアン)、第26代真平王、在位579632年のとき、中国の随に留学して、成実宗〈ソンシルジョン、中国仏教の一宗派〉、涅槃宗〈ヨルバンジョン、中国仏教の一宗派〉、般若〈バンヤ〉などの宗派を日本に伝え、世欲五戒(セソクオゲ)を花郎徒(ファランド)に教え、新羅の国民精神を指導した。
芸術
高句麗-古墳-塚内部に高句麗建築、壁画。玄琴(ゴムンゴ)の発明
百済-寺院跡の石塔、阿佐太子(アジゥアテジャ、第27代威徳王-在位554598年の子)がかいた聖徳太子の画像が有名。
新羅-独特の新羅文化。東洋で最も古い天文台の遺物
三国文化の日本への伝播
 百済(ベクジェ)は、はやくから日本と親善関係を結んでいたので、漢字・儒学・仏教をはじめとして、農業技術・織物技術、美術・工芸・建築などを伝えた。
 三国文化の伝播により、仏教を中心とした飛鳥文化がさかえるようになった。そして、9世紀の中頃からは、大化の改新による中央集権の国家体制をととのえるようになった。
4 統一新羅の社会と文化
新羅による国内の統一
 唐は新羅とともに百済・高句麗を滅ぼし、百済の地に五都督府、高句麗の地に安東都護府などを置き、領土化をはかったが、新羅はこれを受け入れず、676年、半島内の唐の勢力を追い払うことに成功した。
新しい政治体制の準備
三国時代の古い制度に唐の制度を取り入れ、中央集権的な制度を強化した。
中央に省と部、地方には9の州-郡-県。五つの重要な地点に京をおき、中央の貴族を移り住まわせた。
経済生活の発達
 722年唐の均田制にならって民衆に土地を分け与え、民衆から耕作税として租税(穀物・麻などでおさめる)、傭税(国の仕事に従事する義務)、調税(家ごとに地方の特産品をおさめる)などの税制を確立した。
 最も栄えたとき、慶州(ギョンジュ)の人口は17万になったといわれ、藁葺きの家はなく、すべて瓦葺きの家であったといわれている。
文化の発展
682年国学(国立大学)を建て、儒学を教える。788年読書三品科という科挙制度の一種を始める。
吏読(りとう)文(漢文の音と訓を借りて新羅の言葉を書いた)による国文学、郷歌。仏教の隆盛。
5 統一新羅の対外発展とその衰亡
新羅の海上活動
 唐と山東半島の海岸地方には、海外進出した新羅の人々が住む新羅坊(シルラバン)があちらこちらのでき、新羅人の寺である新羅院が建てられたりした。
張保皐は、海賊を打ち払い、唐と日本を相手に大規模な貿易を行った。しかし、中央の王位争いにまきこまれ、暗殺され、新羅の海上活動が衰退した。
貴族の反乱
統一後、一世紀たち、八世紀中頃から中央の貴族たちの間に対立と抗争が起こるようになる。王位継承の争いも激しくなり、第37代から第56代までの約150年間に20人の王が替わるほどになる。貴族が大土地を強制的に支配し、全国で農民の反乱が起きるようになる。
地方勢力の台頭
後百済-甄萱(ギョンフォン、在位900~935年)、全羅道を中心に建国
後高句麗-弓裔(グンイェ、?~918年)、鉄原を中心として泰封国(テボングク)を建国
新羅-慶州地方を支配する小さな勢力となる
新羅の滅亡
泰封国で王建(877943年)王位に就き、国号を高麗、年号を天授と改める。
新羅-敬順王(在位927935年)、自ら進んで高麗に降伏。
後百済-936年、高麗に降伏。高麗が再統一を果たす。
6 渤海(ぼっかい-バルヘ)とその文化
渤海の発展
 698年、高句麗の将軍大祚栄が、高句麗の遺民と靺鞨族(まっかつぞく-マルガルジョク・ツングース民族の一派)を率いて、白頭山の東北にある東牟山を中心に渤海を興す。9世紀初めには全盛期を迎え、唐の文化を受け入れ、日本とも交易を行った。しかし、10世紀のはじめにモンゴル地方におこった契丹(グルアン)族に滅ぼされた(926年)。
 渤海の支配階級は高句麗の遺民でしたが、大部分の国民は靺鞨族であったため、南の新羅と同じ民族という考えはなかったようで、渤海と新羅には往来はなかったようです。

単元三 高麗時代の生活

1 高麗の建国と発展
太祖(テジョン)の建国
918年、高麗建国、翌年新羅と後百済の降伏を受け入れ民族を再統一した。
・新羅・後百済・渤海の遺民を受け入れ、差別なく待遇して民族の団結と融和の努めた。
・仏教を国教にし、国内に多くの寺を建てた。
・高句麗の旧領土を取り返すために北進政策をすすめた。
・王権を強化し、中央集権的なの体制を整えるために、「政戒」と「誠百寮書」をあらわして、臣下に道理や守るべき礼節を伝えた。また、「訓要十条」をあらわして王が守るべき政策や思想を子孫に伝えた。
高麗王朝の発展王権をのばすために、光宗(第4代在位949975年)は、勢力ある功臣を追放し科挙制度を実施。奴婢按検法によって奴婢の抑圧を解放し、豪族を抑えた。
 景宗(第5代在位976981年)の初めに、田紫科という土地制度を制定して経済制度の基盤をつくった。
2 高麗の制度と経済生活
高麗の政治制度
成宗(第6代在位982997年)唐の制度にならい、新しい中央集権の支配制度を完成する。三省六部。
教育機関と科挙制度
 儒教的な官僚体制を整えた高麗は官僚を養成するために、中央と地方にいろいろな教育機関を建設。教育機関で教育を受けた貴族の子弟は、科挙によって官吏として登用された。
土地制度と経済生活
 土地は国有を原則とし、私有は認めなかった。官吏は職位に従い田畑を分け与えたが、死後は国家に返納。功臣と高級官吏には功陰田を与え世襲させたが、土地の所有ではなく、その土地からの祖を受け取るにすぎなかった。
 15大王(在位10951105年)に海東通宝、三韓通宝、東国通宝などの鉄銭がつくられた。1101年には濶口という貨幣(銀一斤)を使うようになる。
社会生活
 身分制度=支配階級は王様を初めとする高級官僚からなる貴族層と下級官僚や技術官からなる中流層。被支配階級は、一般の民衆と賤民・奴婢層。
 社会施設=義倉-米を貯蓄し非常時に貧民救済に当てる。常平倉-物価を調整するため。大悲院-病気の貧民を治療。
 高麗の風俗に215日の燃燈会(仏事に関する祭り。都や地方で行われ、燈火を明るくして陰鬼を退治し祖先に祭祀をささげる。音楽・踊り・歌を楽しみ、国の泰平を祈った)。
 1115日の八関会(高麗時代の土俗神に関する祭り。天地神明に祈って、国家と王室の幸福を祈願する国家的行事)があった。民衆の間ではすもう、ぶらんこが広く行われていた。
3 貴族社会の動揺
貴族の政治と文化の発達
文宗(第11代。在位10461083年)の時代の全盛期を迎え、おおよそ1世紀栄えた。
貴族の反乱
1126年李資謙の乱で代表される貴族どうしの争いが起きるようになり、貴族政治が衰えていく。
武臣の乱の発生
1170年大将軍鄭仲夫が反乱を起こし、王の弟を王として迎え、権力を握った。
武臣政権の社会
激しい政権争いが続いたが、崔忠献が政権を握り、460年間の崔氏政権が続く。しかし、政治は乱れ、農民・賤民が各地で反乱を起こす。土地制度も乱れ、王は形だけの存在となる。
4 高麗の対外関係
高麗初期の対外関係
 高麗建国後、宋が中国を統一、宋と親善関係を深めることに努めた。
 満州に契丹(ゴラン)族が起こって渤海を滅ぼし、宋と対立するようになり、高麗に三度にわたり侵入、1019年宋と外交関係を絶ち、契丹と外交関係を結ぶに至る。
女真・宋との関係
 満州と半島北部の女真族が11世紀末頃から部族統一を進めて巨大となり、1115年、国号を金と改め宋と連合して遼を滅ぼした後、宋を攻撃して南中国へとおいやった。
 1126年高麗は女真と事大関係を結んだ。
 南に追いやられた宋と高麗は、1059年ころから国交を回復した
モンゴルの侵入12311259
 モンゴル族は13世紀の初め頃ジンギスカンによって統一され、金(女真)を滅ぼして満州と北中国を占領、更に南宋と日本を征服するために高麗に対する侵略を開始する。モンゴル軍に対して抗戦方針をとった崔氏政権が1258年、民衆の不満から倒され、講和を結ぶ。
モンゴル干渉下の高麗
 モンゴルに降伏した高麗は、1274年と1281年の2度にわたる日本征伐に参加しなければならず、兵士と兵船および食料をまかなわなければならなかった。
 歴代の王は、元帝室の王女を王妃として迎えたため、高麗王室の血統はしだいにモンゴル化し、モンゴルの言語・服装・風習が高麗に広がった。しかし、高麗の国号と王は維持された。
5 高麗の文化
仏教と儒教の交代
 高麗の末期頃になると、仏教界は次第に堕落し、その弊害が大きくなって民衆の非難を受け、排斥されるようになる。その頃朱子学が元を通じて高麗に伝えられ、発達するようになった。
文芸の発達
文臣貴族による漢文学の発達。
新羅時代の郷歌が衰退、短歌である時調と長歌である「別曲」が流行。
仁宗(第17代、在位1123~1146年)『三国史記』-正史体を編纂させる。野史体の『三国遺事』も忠烈王の時代に書かれる。
印刷術の発展
三度の大蔵経の刊行によって木版印刷術が発展した。
1234年金属活字による「詳定め古今礼文」50巻の印刷。ヨーロッパにおける活字発明より200年も前のこと。
芸術
高麗磁器
 6 高麗の滅亡
農場の拡大
 高麗後期には権力者やその一族が私有した大土地に奴婢と佃戸(小作農)を集めて耕作させ、農場を経営した。このため国家の公田が減り、国家財政が苦しくなった。
恭愍王(きょうびんおう)の革新政治
 14世紀に入り、中国各地で漢民族の反乱-紅巾軍-朱玄璋が明を建国(1368)。これを受けて高麗で反元改革運動が盛んになる。しかし、モンゴル地方に残った元の勢力と結んだ旧貴族たちの圧力のために挫折。
高麗の滅亡
親元派と親明派の抗争。
明が元の支配していた鉄嶺を高麗に要求。高麗は親元反明方針で遼東方面へ出兵。李成桂、途中で「回軍」引き返し、政権を握る。田制を改革し、科田法を実施。高麗王に圧力を加え、譲位させる。
高麗王朝が終わり、朝鮮(ジョソン)が建国される。

単元四 朝鮮時代の生活

1 朝鮮の建国と制度の整備
1392年太祖・李成桂(在位13921398年)国名を朝鮮と改め、都を漢陽(今のソウル)に移す。
仏教に変わり儒教を広め、儒教をもって国を治める原則とした。明に対して事大の礼を尽くした。
王権の確立
 建国後、2度にわたる王子の乱-王子による王位継承争い-が起こり、第3代太宗(在位14001418年)、私兵を廃し、号牌法(身分証明法-人の動きを把握)を実施して中央集権体制を強めた。銅活字をつくって数多くの書籍を印刷。
 14469月、世宗大王、3年間の実証翻訳期間の後、訓民正音を公表。公用文字として発表。
政治の組織
最高統治機関-議政府。全国を八道に分ける。
教育制度と科挙制度
文官試験・武官試験・技術科試験
土地制度
高麗末期の科田法を引き継ぐ。
2 民族文化の発展
訓民正音(フンミンジョンウム)の制定
1446年訓民正音を公布し、一般民衆も文字が読めるようになった。
学術の発達
芸術の発達
科学技術の発明
3 朝鮮時代の社会と経済生活
支配階級の対立
支配階級-両班(文武の官吏)、技術官(通訳・医官など)と、下級官吏からなる中流層。
被支配階級-農民、商工業に従事する平民、賤民階級(奴婢・巫堂・白丁、娼妓など)
朝鮮は建国されて一世紀後、新旧貴族の間で官職を巡る争いが起きるようになる。
旧勢力-官学派と勲旧派
新勢力-士林派
党争
東人派と西人派その後、東人は南人と北人に分かれ、西人は、老論と少論に分かれ、激しい党争によって多くの学者が殺され、政局は安定せず、政治と国の規律は乱れた。
 4 外敵の侵入と民族の抗争
朝鮮初期の大陸との関係
朝鮮の対外政策-事大・交隣-中国(明)に対する事大策と日本・女真族(満州族)に対する交隣策
朝鮮初期の日本との関係
倭寇(ウェグ)-高麗の中頃以降、我が国と中国の沿岸を舞台に、略奪を行っていた日本の海賊
世宗(7代、在位14551468)-対馬を征伐、日本との交易を絶つ。後、三浦(萕浦・富山浦・塩浦)を開いて倭人を住まわせ、貿易を認める。
1443年癸亥条約-対馬島主の歳遣船を毎年50石に制限、200石の米や豆を与えるよう定めた。
1512年壬申条約-歳遣船と米や豆の数量を半減、萕浦だけを開くことにする。
その後も倭寇は数次にわたって海岸地方を侵犯、頭痛の種となっていた。
日本軍の侵入
1592年(壬申倭乱)、日本軍、一時全国を蹂躙したが、水軍(李舜臣・亀甲船)や義兵、明の救援軍により、押し返した。倭軍は南海岸地方に交代し和議交渉。
1597年(丁酉再乱)和議が決裂、倭軍再び侵攻。朝鮮・明連合軍で防戦、豊臣秀吉死亡により倭軍撤退。7年間続いた倭乱の終わり。
倭乱の影響
7年にわたる大戦争であったので、多くの人命が失われ、莫大な財貨が損失、多くの文化財も灰となった。田畑が荒らされ、農民の生活が苦しくなり、国家体制が揺らぎ始める。一方、軍事上の新技術を獲得、軍隊の再整備が行われた。
(1)日本に及ぼした影響(『国史精説』から)
(イ)政治の上で
①豊臣一族に対する不満から、彼の死後内乱が起こり、豊臣家は滅び、かわって徳川幕府ができた。
②戦争で封建諸侯が死んだので、中央集権が強化された。
(ロ)経済の上で
①多くの軍費を消費したので、日本政府の財政は苦しくなりました。日本の民衆は、戦争費用の負担で生活が苦しくなりました。
(ハ)文化の上で
①陶磁器をつくる技術が伝わって、日本では陶磁器の技術が発達しました。
②朝鮮に来ていた倭将が築城法を学んでいきました。
③朝鮮の活字を持って帰ったので、日本でも印刷術が発達しました。
④朝鮮の図書・美術・工芸などを持ち帰り、日本の工芸復興をもたらしました。
(2)明におよぼした影響
明は大軍を動員して朝鮮を助けたため、財政が苦しくなって民心の不安が募り、滅亡を早めました。満州の守備軍を朝鮮に送ったために、満州の守備がおろそかになり、女真族が活躍しはじめ、ヌルハチによる清朝創立の地盤ができるようになりました。
満州族の侵入
1616年、女真族、後金を建国。
1627年丁卯故胡乱-後金、3万の軍で朝鮮に侵攻。講和を請い、兄弟の約束をする。
1636年丙子胡乱-後金改め清が10万の大軍で侵略。朝鮮は降伏し、清に事大の礼をささげることになる。
5 民族の自覚と文化の新しい気運
制度の改変
軍政・租税制度の改革-根本的な改革にならず
西洋文化の伝来
宣祖(第14代、在位15671608年)の末頃、明にいった使臣がヨーロッパの地図を持ち帰ったり、マテオ・リッチの「天主実義」が伝えられたりした。
1653年には西洋の新しい暦を学んで、実際に時憲暦を使用するまでになった。
実学の現れ
西洋文化の伝来に刺激され、朱子学が実のない理論と形式に偏っているのを批判し、実際の社会に利用することのできる学問を主張。国家制度の改革を目指し、実学の流れが起こった。
英祖(第21代、在位17241776年)と正祖(第22代、在位17771800年)は実学を奨励、清の考証学の影響を受けて発展した。
庶民文学の起こり
朝鮮の後期にはハングルで書かれた小説が発達。時調も長詩の形に変わり、庶民の生活を描くようになった。
産業の発達
二毛作と田植えが実施され農業生産量が増えた。
1763年、対馬島で薩摩芋の苗を手に入れから、朝鮮に広めた。清からジャガイモが入って栽培を初めた。にんじんの人工栽培も始まる。朝鮮の後期、中国との密貿易によって、金と銀の採掘が活発になった。
社会生活
朝鮮の後期には、儒教主義による郷約(勧善懲悪・相互扶助など、その地方のよい風俗を育もうとする自治的な規約)が全国に広まった。更に、契(同じ村の人々または同族が集まって、互いに助け合うためにつくった集団)が発達した。
6 勢道政治と農村の社会
勢道政治
王室の近親や臣下が権勢を握り勝手にする政治-第23代王から第25代王まで約60年間。官職の売買と賄賂が公然と行われた。
三政の乱れ
田政-国家の財源。耕作する丁男から取り立てる。
軍保布-正兵を助ける助丁が、役を免除される代わりにおさめる麻や絹。
還穀-官穀貸与税
この三つが官吏によって私物化された。また、凶年が続き伝染病も流行って不安な社会状態が続いた。
民衆の反乱
1811年洪景来の乱、1862年晋州民乱
天主教の広がり
1784年李承薫が北京に行って洗礼を受けて帰国、天主教の信仰運動が活発となる。朝廷は邪教と決めつけ弾圧した。
東学の発生
東学とは、古くから伝わる民間信仰を土台にして、儒・仏・仙の三教を混ぜ合わせてつくった新しい宗教。混乱した政治と社会を改革して民衆を救済しようとする目的を持って伝道された。邪教として弾圧された。
7 西洋勢力の進出と鎖国政策
西洋勢力の進出
1831年イギリス商船が忠清道の海岸に現れ貿易を要請
1846年フランスの軍艦が忠清道の海岸に現れる。
大院君の鎖国政治
186619名のフランス人宣教師と8千人の信者を処刑。これに抗議して江華島に侵入したフランス艦隊を退ける。
1871年大同江にさかのぼってきたアメリカ商船を民衆が焼き討ち、これに抗議して江華島にアメリカ艦隊が侵入。退ける。

単元五 わが民族の近代化運動

1 国の開放
わが国の開国
大院君が追われ、閔氏(ミンシ)が政権を握る。
1875年日本の軍艦が江華島付近に侵入、これを攻撃。-日本の抗議を受け、江華島条約(丙子修好条約)を結び、開国。釜山・元山・仁川の三港で貿易、日本の公使館をソウルに設置。日本に使臣を送るようになる。
1881年アメリカと通商条約を結び、続いて、イギリス・ドイツ・ロシア・イタリア・フランスなどとも条約を結ぶ。
開化と保守の争い
1881年日本に視察団を派遣(紳士遊覧団)。清には領選使と留学生69名を送る。
別技軍という新式の軍隊を置く。
1882年壬申軍乱、別技軍に反撥した旧軍が閔氏一派を襲撃、日本公使館を焼き討ち。大院君が再び政権を握ったが、閔氏一派は、清軍を引き入れ、政権を奪い返す。
日本とは済物浦条約を結び、賠償金を払って謝罪。
閔氏の政府は清に事大主義を取ったため、清からの政治的干渉を受けるようになる。
1884年、甲申政変、日本の力を借り、朴泳孝・金玉均らが自主国家を建てようとしたが、清軍が日本軍を撃退。金玉均らは日本へ亡命。
1885年、わが国は日本と漢城条約を結んで賠償を支払い、清と日本は天津条約を結んで、両軍はわが国から撤退した。
2 近代化の運動
日本の脅威を抑えようとして清の進めた朝鮮の開国は、西欧諸国の積極的な朝鮮進出となった。
朝鮮政府が新ロシア政策をとるようになり、イギリスを刺激。1885年イギリスが巨門島を占領。ロシア東洋艦隊の出入り口である朝鮮海峡をおさえた。ロシアは清に仲介を頼み、ロシアが朝鮮を侵略しないという保障をして、巨門島からイギリスを撤退させた。
朝鮮は、清・日・露三国の争いの場となり、自主的な政治を行うことができなくなった。
東学の革命
1894年、東学党の幹部にひきいられた農民の反乱。一時は政府軍を打ち破って全州を占領したが、政府軍を助けた日本軍によって鎮圧された。
清日戦争と甲午更張
東学の革命鎮圧のため政府、清に援軍を要請。日本軍は居留民保護名目で軍隊を派遣。
1894年、日本、清に宣戦布告(清日戦争)
1894年日本は大院君を推して金弘集内閣をたて、朝鮮の内政改革をすすめた(甲午更張)。
清との事大関係を捨て開国紀元を用い、新しい官制を整え、法律と裁判制度を改革。奴隷の解放、早婚の禁止、科挙制度の廃止。貨幣制度、租税の金納化、度量衡の制度。
1895年下関条約-清国は遼東半島と台湾を日本に譲り渡す。
3 外勢の侵入と民族の自覚
外国勢力の浸透
ロシア・フランス・ドイツと共に日本に干渉、遼東半島を清に返すように要求。日本が屈すると、閔氏一派はロシアに頼って親ロシア内閣を組織、親日的な開花党を追い出す。
1895年乙未事変-日本は開化党とともに宮中に乱入、閔妃を殺害し、親露派を追い出した後、親日政府をたてる。
閔妃殺害と断髪令は民衆の反感をかい、各地で義兵が起こる。この時を利用して、親露派は高宗をロシア公使館に移す(俄館播遷1896年)。これにより親日政治は倒れ、再び親露政権となる。
1896年アメリカから帰った徐載弼は、仲間とともに『独立協会』を組織し、自主独立・民権の伸長及び国民の啓蒙を目的とした運動をくり広げる。国文と英文による『独立新聞』を発刊。
1897年、高宗が1年ぶりにロシア公使館から慶運宮の帰り、国号を大韓帝国、年号を光武、王を皇帝と改称する。
1898年、独立協会、鐘露で萬民共同会を開催。政府の施策を非難し、政府に対して5箇条の決議を示した。
政府は、独立協会に対抗して御用団体『皇国協会』をつくった。
独立協会と皇国協会に衝突が生じ、独立協会は解散させられる。
4 救国運動と民族の受難
1900年、清で義和団の乱が起き、ロシア、満州へ進軍、朝鮮領の龍厳浦を占領、租借を要求。
1904年露日戦争、日本はロシアにたいし、満州からの撤兵と、朝鮮における日本の地位を認めることを要求し、決裂。戦争となる。
1905年ポーツマス講和条約-日本は朝鮮の政治・経済・軍事などに特別な権益を認められるようになる。
乙巳保護条約
1904年韓日議定書-多くの軍用地と京釜線の敷設を認めさせられる。
19048月第一次韓日条約-日本の外交と財政の顧問を受け入れさせられる。
1905年第二次韓日条約(乙巳保護条約)外交権を日本に奪われ、日本の統監府が設置される。
乙巳保護条約が発表されると国民は大いに憤慨し、これに反対する示威運動と演説会が各地で開かれた。また、各地で義兵が起こった。
1907年高宗、オランダのハーグで開かれた第二回万国平和会議に密使を送り、日本の不法を訴えようとするも受け入れられなかった。日本は、高宗の責任を追及、純宗(第27代、在位19071910年、朝鮮最後の王)に王位を譲らせた。つづいて、日本は韓日新協約(7個条約)を結んで、行政権と官吏任命権をうばい、日本人官吏を採用する次官政治を施行し、強制的に朝鮮の軍隊を解散させた。
軍人は市街戦をくり広げ、また地方に散って各地の義兵とともに武力による抵抗を続けた。
侵略の主動者に対する暗殺が続いた。伊藤博文の外交顧問をしていたアメリカ人スティヴンズはアメリカで射殺され、安重根義士は、朝鮮侵略の元凶である伊藤博文をハルピンの駅で射殺した。
新しい総監となった寺内正毅は、売国団体である一進会に合邦を主張させ、1910年、強圧的に韓日合邦の条約を結ばせた。
 5 新文化運動
近代化の制度
わが国で近代的な制度が整えられたのは、1894年から1895年にわたって実施された甲午更張によってです。
新文化運動
科学文明の始まり

単元六 民族の試練と発展

1 日本の侵略政治
武断政治
日本は、朝鮮を併合した後、総督府を設置し、陸・海軍の軍人を総督に任命して朝鮮統治の全権を与えました。初代総督には、陸軍大臣であった寺内正毅が就任し、憲兵警察制度をつくって、憲兵に朝鮮内の治安を担当させました。また、軍人でもない一般官吏と学校の先生にまで制服を着せて長剣をつけさせ、武力と威圧で朝鮮民族をおさえつけたのです。
政治運動と集会は禁止され、国文で書かれた新聞は許可されず、日本の統治に少しでも反抗する者は、手当たり次第逮捕され投獄されました。
植民地経済政策
総督府自身が、鉄道・通信・航空などの施設を運営し、人参・塩・たばこなどの専売事業を経営。日本人たちは、総督府の保護の下で、農業・商業・鉱業・林業などすべての産業の利権を一人占めにして莫大な利益をあげたのです。
わが国への日本商品の輸入が増え、日本に食料と原料を供給するだけとなって、わが国の産業の発達は大いにさまたげられたのです。
土地調査事業
1910年、土地調査局設置-土地の所有権を特定するための事業。一定の期間内に、所有する土地を申告すれば、所有権を認められることになっていた。しかし、近代的な土地所有の考え方を持っていなかったわが民族は、いわれた通りに申告することができなかったため、多くの土地が総督府の所有になってしまった。総督府は1918年までに大地主となり、その一部を、東洋拓殖会社をはじめとするいくつかの日本人の会社に払い下げた。
このように、わが民族の多くは、土地調査事業によって、土地を奪われた。その結果、故郷を離れて流浪の旅に出なければならなくなった。 
2 三・一運動と日帝の植民地統治
第一次大戦後、アメリカのウィルソン大統領がとなえた民族自決主義は、世界の弱小民族の独立運動に大きな勇気を与えました。
19192月、上海に集まった民族運動家たちが、パリの平和会議に代表を送り、わが国の独立を訴えた。
191928日、東京の留学生たちがキリスト教会館に集まって、独立を要求する宣言書と決議文を発表した。
191931日、天道教、キリスト教、仏教など各界の代表33名が、ソウルで独立宣言書を発表、わが国の独立を全世界に宣言した。全国津々浦々で、太極旗(テグクキ・国旗)をふりながら独立万歳をさけぶ声は、天を揺り動かさんばかりでした。この三・一運動は全民族の運動であり、また、武力による暴動ではなく、どこまでも平和的な要求だったのです。しかし、悪らつな日帝は、警察・憲兵ばかりでなく、陸海軍までも出動させて、何の武器も持たない民衆を弾圧したり、銃剣で虐殺しました。
海外に亡命した愛国の志士たちは、上海に、大韓民国(デハンミングク)臨時政府を建てて、ねばり強い独立運動を続けるようになります。
文化政治
三・一運動後、新しく斎藤実が総督になって、柔軟な宥和政治を行った。憲兵警察を普通警察にかえ、官吏と教師の制服と帯剣をやめさせ、言論の統制をゆるめて国文による幾つかの新聞を刊行させた。
米穀増産計画
第一次世界大戦の末期に、日本国内が食料難におちいり米騒動が起こるようになると、いっそう米の供給が必要になり、朝鮮での米穀増産計画をたてた。
当初計画では、1920年から15年間に900万石の米を増産する予定だった。
それは計画どおり実現されはしませんでしたが、米の生産量が増えたことは事実です。しかし生産量の増加よりも輸出量の増加の方が多かったので、結局は、わが国での米の消費量は減ったことになります。この減った分の不足する食糧は、日本が満州から運んで来る粟・きびなどの雑穀でうめ合わせられました。こうして、わが農民は米を生産しながら粟を食べることになったのです。
この米穀増産計画が実施されることによって、わが国の耕作地は広くなり、土地が改良され、農業技術が進歩しました。しかし、この計画が実施される間に、農民は水利組合の建設費用を払わねばならず、そのうえ肥料を買い入れるお金が必要となりましたが、肝心の米価が暴落したので、土地を安い値で売り払って小作人に転落する人や、土地を失って間島(ガンド)地方(満州の吉林省の一地域)に流れる人々が増えるようになったのです。
大陸侵略のための兵姑基地化
1931年、日本帝国主義は、満州事変を引き起こして大陸侵略の魔手をのばし、つづいて1937年には中日戦争を引き起こして、中国本土まで侵略するようになりました。この時から、日本は、わが国を大陸侵略の軍需基地にし、わが国のすべての資源と労働力を、大陸戦争をなしとげるために利用するようになりたのです。
第一次世界大戦が終わると、日本の資本家たちは、わが国を有利な投資市場と考えて、しだいにわが国の工業化を進めたのです。
1926年には、赴戦江(ブジョンガン、威鏡南道西部を流れる長津江・ジャンジンガンの支流)の水力発電が開発され、翌年には電力を利用した窒素工場が、興南(フンナム)に建設されたのです。
この時までの韓国の工業化はまだ小規模なもので、主として生活に必要なものを生産する軽工業に限られていました。しかし、満州事変が起こった1931年以後は、金属・機械工業などの重工業部門にも飛躍的な発展を見るようになりました。これは、日本がわが国を大陸侵略の兵姑基地にし、軍需工業地帯にしようとしたことをあらわすものです。
この時のわが国の工業化は、朝鮮の民族資本によるものではなく、日本の大資本家によって進められたために、朝鮮内の産業は資本家によって独占されるようになりました。
民族抹殺の政策
1937年、日本が中国に対する全面的な侵略を始めてからは、わが国でも戦時態勢をととのえるようになり、日本の植民地政治はいっそう強化されました。日本は朝鮮の文化と民族自体を抹殺してしまおうと、いわゆる内鮮一体をさけび、わが民族を日本民族に同化してしまおうと、巧妙な手段を用いるようになりました。
すなわち、日本は皇国臣民の誓詞というものをつくって、学生と一般民衆に斉唱させ、つづいて、1938年には、わが民族固有のことばの代わりに、日本語を強制的に使わせて、学校内における朝鮮語の使用と、国文による新聞の発行を弾圧し、禁止したのです。また、日本精神をつちかうという目的でいわゆる皇国臣民体操をあみ出してこれをひろめ、また愛国日を決め、日本国旗の掲掲・神社参拝を強要しました。このほかに宮城遙拝・正午の黙祷・国民服の着用なども強要したのです。
そればかりでなく、創氏改名といって、わたしたちの姓と名前を日本式に改めさせることまで強制したのです。日本は、歴史上例を見ないほどのひどいやりかたでわが民族を抹殺しようとしましたが、わが民族はこれに負けないで、最後まで民族の自主性を守ろうと努力しました。
また、日本は朝鮮の青年たちを、無理に戦場に引き出しました。中国戦争が起こると、陸軍志願兵制度をつくって朝鮮の若者たちを戦線に送り、また、勤労報国隊を組織して、労働力を強制的に動員しました。そして1941年に太平洋戦争が起こると、徴兵・徴用制度を実施して、わが民族のすべての人員と物資を、彼らの侵略戦争のために総動員したのです。
3 民族の独立運動と文化運動
民族の独立運動
朝鮮に対する日本帝国主義のむごい植民地支配のために、わが民族は、日本に対する反抗と独立運動を起こすようになりました。三・一運動直後、李承晩(イスンマン)、金九(キムグ)、安昌浩(アンチャンホ)などの愛国志士たちは、上海に集まって、祖国の光復と民族の解放のために、大韓民国(デハンミングク)臨時政府をたてて、海外での独立運動を展開しはじめました。これに応じて、国内でも、民族運動がたえ間なくつづけられたのです。
1926610日、純宗(スンジョン、第27代朝鮮最後の王)の国葬の日には、第二の三・一運動といわれる、いわゆる六・一〇万歳運動が起き、各地で独立万歳をさけぶデモがくりひろげられました。
1927年には、すべての知識人が団結して、新幹会という団体を組織し、民族運動を指揮するようになりました。
この新幹会が指導した最も大きな運動が、1929113日に起きた光州学生運動です。この運動は、光州の朝・日学生の衝突がきっかけとなって、全国的な排日学生運動にひろがって行った、三・一運動以後の最大の民族運動です。この時、新幹会は光州に調査団を派遣して民衆大会を計画するなど、学生運動を積極的に手助けしました。しかし、1931年に満州事変が起こると、日本の弾圧は強化され、新幹会は解散させられて、抗日運動も地下にかくれなければならなかったのです。
このような民族的な独立運動とともに、愛国烈士たちの義挙も、根ばりつよくつづけられました。1926年には、羅錫疇(ナソクジュ、が、朝鮮経済搾取の本山である東洋拓殖会社に爆弾を投げ込み、1932年には、李奉昌(イボンチャン)が、東京宮城桜田門外で観兵式をおえて帰る途中の天皇・裕仁を狙撃したが失敗し、捕えられて殺される事件がおきました。また同年、尹奉吉(ユンボンギル)が上海で行われた天長節(日本天皇の誕生日)式場で、爆弾を投げて多くの将軍を死にいたらせた事件は有名です。(1932429日、金九(キムグ)の指導を受けて上海の虹口公園でおこした事件。この時、陸軍大将白川義則、居留民団長河端貞次を殺し、そのほかにも、海軍の野村吉三郎は片目を失い、外交官重光葵は、片足を失った。その場で警察に逮捕され、後日死刑になった。)
満州事変後、日本の激しい弾圧によって、国内での独立運動が自由にできなくなると、抗日運動は、主として海外で行われるようになりました。満州地方では、わが民族の独立軍が、武力による独立運動をつづけ、上海にあった臨時政府も、在中国の朝鮮青年を集めて光復軍を組織し、中国の国民政府とともに抗日戦争に参加しました。また、太平洋戦争が起きてからは、アメリカに住んでいた僑胞たちも、米軍に入隊して戦線で勇敢に戦ったのです。
民族の文化運動
独立思想を高めようとする動きが民衆のなかからあらわれるようになったのです。
このような運動は、特に私立学校を中心に活発にくりひろげられました。日本は、朝鮮人が教育を受けて知識が向上するのをきらい、基礎的な知識を身につける普通教育と、実業の技術を身につける実業教育だけに力を注ぎ、高等教育は行わないようにしていました。ただ、宣教師たちが経営する私立学校では、ある程度の高等教育が認められ、近代的な思想と科学を学ぶことができたので、ここを中心に民衆を啓蒙し、民族意識をよび覚まそうとする運動が起きたのです。また新聞も、民衆を啓蒙するのに大きな役割をはたしました。三・一運動後、国文での新聞の発行が許可され、総督府のきびしい検閲にもかかわらず、それとなく独立運動を紹介し、民族文化の発達に力をつくしたり、民衆の啓蒙に努めるなど、盛んな活動を展開していました。
こうして、日本のきびしいとりしまりのもとでも、わが民族の歴史と国語(グゴ)、など、民族文化を守ろうとする運動が、やむことなくつづけられていたのです。
わが民族の歴史についての研究は、申采浩(シンチェホ、号は丹斉・ダンジェ)・崔南善(チゥェナムソン、号は六堂・ユグタン)などによって行われ、1934年には震檀学会(ジンダンバクフェ)が組織されて、わが民族の歴史と文化を研究するのに大きな役割をはたしました。
また、国語(グゴ)研究も活発に行われました。1921年に活動を始めた朝鮮語研究会(ジョソンオヨングフェ)は、1931年に朝鮮語学会(ジョソンオハクフェ)に改められた後、『ハングル』(朝鮮語)という雑誌を出してつづり方を統一するなど、国語教育に努め、朝鮮語大辞典(ジョソンオクンサジョン)を出版したり朝鮮語(ハングル)の日(ナル)を制定するなど、国語の研究とともに民衆にハングルを広めることに努めたのです。
また、この頃李光株(イグァンス、号は春園・チュンウォン)・金東仁(キムドンイン、号は琴童・グムドン)など多くのすぐれた文学者があらわれて、朝鮮の新文学を開拓する運動を起こしました。彼らは、当時のわが民族の思想と感情を現代語によって表現しようとし、彼らの作品は、民衆を啓蒙し、愛国思想を広めるために大きな役割をはたしたのです。
しかし、中日戦争期の日帝による民族抹殺政策は、文化政策にもあらわれ、彼らは朝鮮の民族文化までも抹殺しようとしました。1940年、日本は国文による新聞である『東亜日報』と『朝鮮日報』を強制的に廃刊にし、ついに、1942年には、いわゆる朝鮮語学会事件をでっち上げて、多くの国語学者を投獄しました。
4 民族の解放と独立
わが民族の解放
わが民族は、日帝に支配されていた36年間、根ばりつよく民族の独立のための抗争をつづけていました。満州で独立軍を組織したり、中国で光復軍を編成したり、アメリカ軍人として太平洋戦争奴参加したりして、武力による反抗をしたばかりでなく、国内では、農民と労働者が争議を引き起こしてストライキを断行したり、徴兵と徴用を忌避するなど、あの手この手の反日運動を行ったりして、民族の独立運動を展開したのです。
このような民族の独立運動はついに成功し、日帝からの解放の時期を迎えるようになりました。1945815日、日本は連合国に降服し、ついに朝鮮は日帝の鉄鎖からぬけ出て独立したのです。
わが国の独立は、すでに第二次世界大戦のさなか、194311月のカイロ会談と、19457月のポツダム会談で、連合国によって約束されていました。したがって、1945年8月15日、日本が連合国に無条件に降服するとともに、わが国は36年間の日帝の植民地支配から脱して、解放を迎えることができたのです。
しかし独立は容易にできませんでした。それは、思いもかけない38度線によって、南は民主主義国家のアメリカが、北は共産主義国家のソ連が、それぞれ軍政を実施して国土が二つに分割されてしまったからです。
194512月、米・英・ソ三国の代表たちは、モスクワで三相会議を開いてわが国を最高5年の間信託統治にすることを決定してしまいました。南では全国的にこれに反対する反信託運動が起こり、即時独立を要求して民族の意思を表わしたのです。しかし北では、ソ連の後おしによる信託統治に賛成し、南の運動とは別の動きをしました。こうして、臨時政府を樹立するために開かれた米・ソ共同委員会も決裂し、民族の未来はたいへん暗くなってしまったのです。
大韓民国の樹立
1947年、アメリカはわが民族の独立問題を国際連合に提出。総選挙の実施が決まりましたが、北がこれを拒否したために、選挙が実施できる南においてだけ選挙は実施されることになったのです。
こうして、1948年5月10日、歴史的な総選挙が行われ、国会が成立し、この国会では、憲法が制定・公布され、つづいて初代大統領として李承晩(イスンマン)が選ばれました。
同年8月15日には、大韓民国の成立を国の内外に宣布し、南だけであるとはいえ、ここにながい間の民族の願いであった独立を成し遂げることができたのです。
大韓民国は、その年の12月には、国際連合総会の承認をえて朝鮮半島におけるただ一つの合法政府と認められ、アメリカをはじめとする世界の自由主義陣営の国々の承認をえられるようになりました。
 *朝鮮民主主義人民共和国の樹立(朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』より)
一方、北朝鮮では、1946年の道・市・郡の選挙、翌年の面()・里()の選挙をへて北朝鮮人民会議が形成(1947年2月)され、金日成(キムイルソン)を委員長とする「北朝鮮人民委員会」が選出された。この人民委員会は、臨時人民委員会の行った民主的な諸改革の成果をもとに、北朝鮮の経済・文化の建設を発展させるつとめをになうものであった。これは、三国外相会議にもとつく米・ソ共同委員会のものわかれ、アメリカが朝鮮問題を国連に一任したことなど、朝鮮をめぐる国際情勢がしだいに悪化し、東西の冷戦が進行するなかで行われた建設であった。金日成委員長は、北の「民主基地」建設に力を注いだのである。
南朝鮮(韓国-訳者)で単独政権をうち立てる動きが進んでいた1948年、北朝鮮でもこれに対して共和国政府をうち立てる準備がすすんでいた。1948年、南北連席会議において、全朝鮮代表者たちは南朝鮮だけで単独選挙を行うことには反対すると内外に意思を表明した後、北朝鮮では、朝鮮民主主義人民共和国憲法の草案が採択された(1948年4月29)
そして南朝鮮で李承晩らの単独選挙が実施された6月になって、南北朝鮮諸政党・社会団体指導者協議会がひらかれ、「南北朝鮮代表者たちによって朝鮮中央政府を樹立」することが決議された。
7月10日の北朝鮮人民会議は、朝鮮民主主義人民共和国憲法を実施つること、全朝鮮の朝鮮最高人民会議の選挙を8月25日に行うことを決めたのである。
こうして南北朝鮮から、選び出された572名の代議員をもって、9月2日、第一回朝鮮最高人民会議が開かれ、8日には憲法が承認され、9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が樹立されたのである。
大韓民国の発展
民主主義の原則にしたがって樹立された大韓民国は、男女の平等、人権の尊重、福祉社会の実現に努力し、国防のために国軍を創設しました。
産業は主に農業で、工業は、電力不足のためあまりふるいませんでしたが、しかし諸外国の経済援助で、発電所や工場が建設されて行き、生産力が高まり始めました。
また、日帝の差別教育制度のために教育を受けることができなかった国民のだれもが自由に学べるように、義務教育(小学校六年間)を実施しました。そして中学校、高等学校、大学を数多く建てて青少年を育成することに努め、すべての文化活動も明るさをとりもどしたのです。
*朝鮮民主主義人民共和国の発展(金三奎著『朝鮮現代史』より)
社会主義の原則にしたがって樹立された朝鮮民主主義人民共和国が、最初に着手したものは土地改革であった。これは、無償没収、無償分配の原則に立つものである。
第二に着手したのは、産業の国有化である。これによって、共和国の全産業の90%以上を占める工場や企業所が国有化とされ、各級人民委員会によって管理、運営されるようになった。
また、「北朝鮮人民中央銀行」の設立、農民銀行の設立、「男女平等にかんする法令」などを公布し、八時間労働制、社会保障制度の実施、男女平等など、着々と社会主義体制をととのえて行った。
こうして朝鮮民主主義人民共和国では企業所が復興し、鉄道や運輸も大部分正常にもどった。そして、政府は技術者の養成に力を入れ、金日成大学、興南(フンナム)工業大学をはじめ、各種の技術者養成所をつくり、経済計画をたててつぎつぎと実施して行ったのである。
5 わが民族の新しい試練
南北の対立
1948年、38度線の南で大韓民国が樹立されると、北には共産主義の政府がたてられて政治が行われました。こうして、わが民族は38度線をさかいに二つに分裂してしまったわけです。
その後も、統一を要鯉する民族の運動はたえまなくつづけられました。しかし、東と西の二つの世界の対立があるかぎり、わが民族の統一は実現むずかしい問題なのです。
そこで、北(朝鮮民主主義人民共和国)は、武力で大韓民国をくずそうとしました。彼らは、ゲリラ部隊を大韓民国に送って治安を乱したり、暴動を引き起こして大韓民国をくつがえそうとしたのです。そして、それが失敗すると、北は最後の手段を用いて大韓民国に南下して来ました。これが六・二五事変です。
六・二五事変
1950年6月25日、北共産軍は、突然38度線をこえて大韓民国に南下して来ました。この時、何の準備もなかった韓国軍は、共産軍と戦いましたが、ソ連製の戦車で武装された共産軍に勝てず洛東江(ナクトンガン)まで後退せざるをえませんでした。
しかし、国際連合は、すぐに大韓民国に軍事的な援助をすることを決定し、アメリカ・イギリス・フランスなど16力国からなる国連軍が派遣されました。こうして韓国は国連軍と力を合わせて反撃をはじめ、仁川(インチョン)上陸に成功し、9月28日にはソウルをうばいかえしたのです。
韓国軍と国連軍は、これを機会にわが民族の宿願であった南北の統一を成し遂げようと、38度線をこえて北進をつづけ、ついに共産政権の都平壌(ピョンヤン)をうばい鴨緑江(アムノクカン)まで進撃しました。しかし、国土の統一が目前にせまったとき、思いもよらず中共軍(前年の1949年に中華人民共和国が成立)が、人海戦術を用いてどとうのように押しよせて来たのです。韓国軍と国連軍は、やむをえず漢江(ハンガン)以南の線まで後退しました。その後、国軍と国連軍は再び反撃を敢行して38度線の近くまで攻めのぼりましたが、この時から戦線は固定した状態になってしまいました。こうして、国連軍と共産軍の問に何度も休戦会談がつづけられ、ついに1953年7月17日、休戦協定が結ばれ、戦闘が終了したのです。
こうして、前後三年間にわたって行われた戦乱は終わり、国連軍と共産軍の間に中立地帯が設けられて、中立国監視委員団が休戦状態を監視するようになりました。
*六・二五事変 北の側では六・二五事変をどう見ているのだろうか。朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』にはつぎのように書かれています。「共和国の側では、金日成首相が、6月25日午後1時35分、放送を通じて『38度線のむこうから、李承晩の軍隊が北部の地域に攻撃を開始した』ということを明らかにすると同時に、全力をあげて敵軍とたたかうことを指令した。
 朝鮮侵略戦争(六・二五事変)-それは、アメリカ帝国主義による朝鮮侵略戦争であり、朝鮮人民の手で、自主的かつ平和的に、祖国の統一をなしとげようとして努力していた朝鮮人民および共和国政府の立場からすれば、アメリカ帝国義の侵略から祖国の自由と独立を守りぬくための民族解放戦争であると同時に、南朝鮮における、アメリカとそれに結びつく李承晩一派の反動政治の下で苦しむ人民を解放して祖国を統一するという、民主主義的問題を遂行するための、全人民的国内革命戦争であった。
 また、朝鮮戦争は、1949年の革命によって成立した中華人民共和国と人民の立場からすれば、自由の革命を擁護し、プロレタリア国際主義の立場にたち、朝鮮人民を支持、激励するという「抗米援朝」(米国に抵抗して朝鮮を助ける)の国家防衛戦争の性格をもつものであった。」
六・二五事変後の復興
六・二五事変は、わが民族の歴史上、最も悲惨な戦争であり、わが民族がこおむった被害にはあまりにも大きいものがありました。この戦争はわが国土で三年間もつづけられ、また同じ民族同志がたがいに戦っただけではなく、国連軍および中共軍が加わって規模がたいへん大きくなったからです。
この事変によって、数十万の人命が失われ、数百万に達する避難民が街にあふれるようになりました。ソウルをはじめ、全国各地の都市と農村はすべて破壊され、重要な工場施設をほとんど灰にしてしまったのです。しかし、休戦が成立すると、大韓民国は事変による被害の復旧に全力をかたむけました。またアメリカをはじめ国連の友邦の国々は、物・心両面にわたって韓国を援助することをおしみませんでした。韓国内には国際連合統一復興委員会が設けられ、自主的に統一された民主政府の樹立と経済復興をなしとげようと努力し、また、1951年から1960年にかけて、国際連合韓国再建団が戦争被害を復旧するための多くの経済的援助をしたのです。
こうして、破壊された道路・鉄道・橋などが復旧し、産業施設が再建され、大韓民国は、事変前をしのぐほどに復興したのです。
一方、六・二五事変で国連軍に必要な戦争物資を製造した日本では、この間、産業が急速に発達し、今日の経済大国の基礎がつくられたのです。
事変後、韓国では、民族がたがいに殺し合うという悲惨な戦争をひきおこし、全民族を戦禍におとし入れた北に対する憎しみが倍加し、反共意識がたいへん強くなりました。そして六・二五事変のような戦争を二度とひき起さないために、国防のための警戒心をいっそう強く、いっそう固くするようにしたのです。
*北の六・二五事変後の復興 朝鮮民主主義共和国では、休戦協定後、文字どおり廃壇の中から復旧・建設を始めなければならなかった。
経済の建設にあたって、朝鮮労働党(1949年ごろ、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合体してできたもの。以下「労働党」と略す)は、経済の植民地的なゆがみをなおすために、半年ほどの準備期間を設けたのち、復旧発展三か年計画(19541956)、ついで、第一次五か年計画の実施を決めた。
また、朝鮮戦争前は、韓国との関連でみあわせていた農業協同化など、経済の社会主義的改革を全面的におしすすめることが決められた。
しかし、重工業を優先すべきか、軽工業に重点をおくべきかといった建設の基本方針に関しては、労働党でも鋭い対立があった。19564月に「重工業優先、軽工業・農業併進」という基本路線が定式化され1958年には、第1回労働党代表者会議が開かれて、この路線が最終的に確立した。
他方、朝鮮戦争(六・二五事変)と関連して党内の重要人物をのぞいたり、さらに経済建設の路線をめぐる党内対立で重要人物を党から除名したりして、金日成は、党・国家の両面において完全に主導権を確立した。これは同時に、「重工業優先、軽工業・農業併進」路線の確立を意味していた。復旧発展三か年計画期には、ソ連・中国など社会主義の国々から多く支援されたが、五か年計画期(19571961)には、他国の支援にそれほど多くを期待できず、「最大限の節約」「自力更生」のスローガンのもとに、歯をくいしばって経済建設をおしすすめた。
農業の協同化は急速にすすみ、1958年8月には完全に達成された。農業ととともに、私営商工業の協同化も完全に達成され、全面的に社会主義経済制度が確立した。こうして、解放後問もない時期に始まった社会主義社会への過渡期は終了し、朝鮮北部は社会主義社会となった。(朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』より)
6 民主化の運動と発展
独裁政権
政権をにぎっている李承晩(イスンマン)大統領が、六・二五事変と共産主義との対立を利用して、しだいに独裁政治を行うようになったのです。
六・二五事変さなかの1952年に、野党が内閣責任制に憲法を改めようとしたのにたいし、李承晩大統領は国会を弾圧して独裁性を明かにしはじめました。そして、1954年には、自分の大統領三選(一期は四年)を目的として、重任(二期八年)の制限をなくした改憲案を不法なやり方で強制通過させ、つづいて1958年には、野党の強力な反対にもかかわらず、『国家保安法』によって言論と集会の自由を抑圧したのです。
そればかりでなく、李承晩独裁政権はしだいに腐敗して、いく人かの財閥だけに経済上の利権をあたえたので、少数の資本家によって韓国の商品市場は独占され、経済界が支配されるようになってしまいました。これに反し、小さな企業体は大企業にまけて没落して行き、一般国民の生活は苦しくなって行くばかりでした。
四・一九義挙
李承晩一党(自由党)の独裁政治に対する国民の反感は、すでにそれ以前からめばえておりました。
1956年の正副大統領選挙では、野党の候補が副大統領に当選した。
1958年の総選挙で与党(自由党)は、農村でかろうじて勝ったが、都市部では惨敗。
しかし、李承晩政権の独裁政治はいっそう強化され、1960年3月15日に行われた正・副大統領選挙では、その無法さが最高に達しました。あまりにも公然とした不正選挙は、自由党の独裁政治に対して反感をいだいていた国民たちを一挙に立ち上がらせました。馬山(マサン)で学生と市民が不正選挙に反対するデモをくりひろげ、警察と衝突すると、このデモはソウルにひろがり、4月19日ソウル市内のすべての学生と市民が不正選挙を非難し、民主主義の死守をさけんだのです。おどろいた自由党政府は城巌令を宣布し、軍隊まで出動させましたが、大学教授団のデモをきっかけに抵抗がいっそうひろまり、ついに李承晩は大統領の座から退き、自由党の独裁政権はたおされました。
第二共和国
1960年の四・一九義挙によって独裁政権は終わり、過渡的な政府をへて、新しく民主政治が始まりました。これがいわゆる第二共和国です。そして大統領中心の憲法が内閣責任制に改められ、新しく総選挙が実施され、参議院と民議院の二院制国会ができ、民主党の新しい内閣が成立しました。
第二共和国も、いくらもたたないうちに混乱するようになったのです。第一に、総選挙で絶対的な勝利をおさめて権力をにぎった民主党は、内部の分裂で新旧二つの派に分かれて政治が安定せず、第二に、それまでの政治に対する反動で、国民はあまりにも多くの自由を要求しすぎ、特にデモの先頭に立った学生たちの行き過ぎた行動のために秩序がたいへん乱れるようになり、第三に、革命を起こした時の空白と、その後につづいたデモ・ストライキなどのために、産業活動が停滞し経済が混乱するようになったのです。
*1961年になると、韓国でも統一の気運が急速に高まり出した。革新政党は、それぞれ統一方案を発表し、「民族自主統一協議会」などの組織もできた。張勉(ジャンミョン)政権は、大衆のこうした運動をおさえようとしたが、大衆の反対闘争によって目的をはたすことができなかった。そして闘争のほこさきは、しだいにアメリカにも向けられるようになった。
統一運動が高まり、「四月革命」一周年記念集会のころは、「統一だけが生きる道だ」などのスローガンが現れるようになり、各大学の学生によってつくられた「民族統一学生連盟」が中心になって、五月中にも板門店(バンムンジョム・停戦会談が行われた所)で南北の学生会談が実現する見通しとなっていた。(朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』より)
五・一六軍事革命
第二共和国ができて一年もたたない1961年5月16日、朴正煕(バクジョンヒ)少将にひきいられた軍人たちが軍事クーデターを起こしました。これが、すなわち五・一六軍事革命です。この革命によって、民主党の政権はたおされ、代わって軍事政府が政権をにぎるようになったのです。
新しく政権をにぎった革命政府は、戒巌令をしいて国会を解散させ、「国家再建最高会議」をつくって、思いきった革新政治を行い始めました。このような軍事政府の革新政治は、本来の目的を達成できなかったものもありましたが、これによって第三共和国建設の基盤がととのえられていったのです。
第三共和国
軍事政府は、政権を民政に移すのに先だって、まず、第三共和国の基礎になる憲法の改正に着手し、1962年には、大統領責任制と団員制を骨ぐみとする第三共和国憲法を公布しました。
こうして、196310月には大統領選挙が行われ、民主共和党(ミンジュゴンファダン)候補の朴正煕が、民政党(ミンジョンダン)候補の尹漕善(ユンボソン)をやぶって当選し、11月には国会議員選挙を行って国会が組織され、1217日には歴史的な第三共和国が誕生するようになったのです。
このようにして出発した第三共和国は、各方面に思いきった革新政治を行いました。まず、積極的な外交政策をくりひろげ、国際連合に対する外交を強化し、在外公館を増設し、特に、中立国に対する積極的な外交によって韓国の国際的地位を高めるのに努力しました。また第三共和国が成立する以前から進められて来た韓・日協定、がこの時に結ばれ、韓・米行政協定が結ばれたのです。国内的にも、経済五か年計画を行うなど経済の発展をうながす積極的な政策をとりました。
*韓・日協定 1965622日に東京で結ばれ、同年8月には韓国で、12月には日本ででそれぞれ批准され、1966116日に発効した。調印された協定・条約には次のようなものがある。
①「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」
②「日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定」
③「日本国と大韓民国との財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定」
④「日本に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定」
⑤「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」
この結果、大韓民国と日本は、国家として友好親善の関係になったが、民族的にはなお多くの課題を残すこととなった。また、この協定は、日本に居住する朝鮮民族を、好むと好まざるとにかかわらず『国籍』問題等で色分けする結果を生み、生活して行く上でいろいろむずかしい問題を生じさせていることも事実である。
近代化のための努力
第三共和国は、祖国の近代化を目標に、各方面に前向きの政策を実行しました。
政治的な面では、群小政党がみだりに選挙に立つことを防ぎ、よりよい政治風土をつくろうと努力した結果、それまで混乱をくりかえしていた野党勢力が新民党(シンミンダン)に統一され、与党の民主共和党とともに二大政党制による政党政治が実現されて行きました。
経済面では、第一次経済開発五か年計画(19621966)を成功させ、基幹産業の建設・拡充もめざましく、国際収支もいちじるしく改善されました。さらにまた経済的な自立の
基盤をしっかりしたものにするために、第二次経済開発五か年計画(19671971)をたててこれを成功させ、現在では第三次経済開発五か年計画を実行しています。こうして韓国は世界的にも後進国から中進国の上位をめざして前進しています。
社会・文化の面でも、今までの悪い習慣と古い慣習からぬけ出るために、社会に新しい気風を吹き込もうと努めています。
*朝鮮民主主義共和国の発展(朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』より)
朝鮮民主主義人民共和国は、社会主義制度の建設を背景に、1957年、社会主義の競争運動として「千里馬(チョルリマ)運動」(「千里馬」は一日に千里をかけるという朝鮮の伝説上の馬)をおこした。この運動は、最初生産分野から始まったが、しだいに社会のあらゆる分野に広められ、今日では「社会主義社会建設の総路線」とされている。
1957年から実施された五か年計画も、予定をはるかにうわまわる速度ですすみ、そのため経済部門の間に不均衡が生ずるようになり、1960年はその不均衡をならす時期とされた。この年、「指導における合議制」「上の者が下の者を助ける」などを主な内容とする「青山里(チョンサンリ)の方法(平壌から遠くない江西・ガンソ郡青山里で、まずモデルがつくられる)」が考え出された。
1961年4月、朝鮮労働党は、第四回党大会をひらいて五か年計画の総まとめを行い、新たに経済建設の七か年計画を採択した。この計画は、1963年ごろまでの前半は順調にすんだが、後半にはいって計画目標をすえおいたまま、期間を三年聞延長しなければならなかった。これは、朝鮮を巡る国際情勢が緊張し、軍備を増強することに力を入れなければならなかったためといわれている。
朝鮮をめぐる1960年代の国際関係は、各分野で、朝鮮の自主・自立の必要性を痛感させ、「白分のことは自分で解決」することを基本内容とする「主体(ジュチェ)思想」が強調されるようになった。経済における自立的民族経済の建設、国防における自衛、政治における自主などは、「主体思想」の具体的なあらわれである。
1960年代にはまた、農業部門において、農業経営を工業経営の水準に近づかせるため、経営の計画化・組織化を主な内容とする「企業的方法」がとりいれられ、工業部門では、企業の管理に大衆を参加させることと党員の集団指導制、生産に必要な物資と勤労者の生活に必要な物資をまかなう制度をととのえるなどの工業管理制度が行われるようになった。これらは、共和国の社会主義建設の中で独自につくり出された注目すべき社会主義経済の管理方式である。
1970年には、延長された七か年計画が終了したが、消費材の生産では、目標を下まわった品目も多く、当初の計画を完全には達成できなかった。しかし、工業と農業の総生産の比は7426となり、同年秋の労働党第五回大会では、1960年代の「社会主義工業・農業国」にかわって、もはや共和国は「社会主義工業国」になったと定義された。
十月維新
韓国政府は、三回にわたる経済開発計画によって、安定した基盤の上に立った経済成長をなしとげ、国民の平均所得を高めました。また重工業を発展させて産業を高度化し輸出をふやして国際収支を改善し、食糧の増産をはかるなど、国土の総合的開発を促進しました。そして高速道路の開通に力を入れて全国を一日生活圏にし、各地の産業の発達を促進させて、つりあいのとれた地域開発に努めました。
このように経済的発展に成功した韓国政府は、民族の宿願である国土の統一事業に着手しました。まず、平和的な国土の統一のために、「韓国赤十字社」を通じて、六・二五事変のために南北に離散している人たちの家族さがし運動を始めたのです。そして南北に分断されて、へだたりのできた南と北の意思を近づけようと、北の共産主義政権との対話を始めました。
これは、1972年7月4日のいわゆる七・四南北共同声明として実現し、南北の政府が、全民族のために統一を真剣に考えていることを世界に訴えたのです。
朴正煕大統領は南北の平和的統一を一日も早く達成するために、十月維新を宣言し、国民投票によって憲法の改正(大韓民国憲法)を行い、急変する内外の情勢にこたえようとしました。
*十月維新 韓国の実情にあう民主制度(韓国的民主主義)を行って、国民が一つになって民族の課題(共産主義政権の北をしのぐ経済建設を先に行って、そのあと民族の統一を考える)を解決しようというところにあるとされている。
**憲法改正「維新憲法」ともいわれ、19721227日に公布された。全く同じ日、19721227日に、朝鮮民主主義人民共和園は「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」を発布し、社会主義の完全な勝利を成し遂げたとうたった。 
◎七・四南北共同声明と私たち
◎〔資料〕南北共同声明全文
◎付録
1在日朝鮮人人口動態/ 2強制連行された朝鮮人労働者数/ 3在日外国人および朝鮮人数/ 4(1)南朝鮮への引揚者数(2)北朝鮮への引揚者数/歴代王朝の王系表
訳者のことば
本書は、ソウル大・辺太燮(ビヨンテソブ)教授が執筆した『中学校社会』(1973年、ソウル・法文社)の中の国史篇を訳し、それに訳者がいくつかの本から引用補筆して『朝鮮民族の歴史』としたものです。
本文中の写真は、原著にそって国書刊行会が入手したものを用い、手に入れることが困難なものについては一部変更しておりますが、全体の感じはそこなわないように気をつけました。
ことばつかいについては、単一民族の総体を表わすためと日本の読者のために〈朝鮮〉を用い、解放後については、南北政権のそれぞれの樹立という事実にてらして、それぞれの国名をそのまま使用しました。用語の表記は、朝鮮民族固有のものについては、原語の発音に近いものをカタカナで記し、日本語読みのルビもふんだんにつけて、あえて小学校五、六年以上なら読めるように配慮しました。
原本には註がほとんどありません。訳者は、多くの読者のために歴史事項で重要と思われる箇所に*印をつけ、訳註を付しました。不十分だとは思いますが、読者の助けになればと思っています。訳註を作成するに当たっては次のような本を参考にしました。
(1)『国史大事典』(ソウル・百萬社)
(2)『新韓国語大辞典』(ソウル・三省出版社)
(3)『韓国語大辞典』(ソウル・玄文社)
(4)『国史精説』南都泳著(ソウル・東亜出版社)
(5)『朝鮮の歴史』朝鮮史研究会編(三省堂)
(6)朝鮮現代史』金三奎著(筑摩書房)
特に、原著では、戦後の部分が民族史という観点からみると、かならずしも十分であるといえないように思いましたし、出版社の要望もあって、訳者の力の及ばない所を(5)と(6)から使わせていただくことにし、朝鮮史研究会、並びに金三奎先生の許しもいただきました。
ここで訳者として次のことだけはおことわりしなければなりません。(5)と(6)からはいずれも、南北について論じている箇所で、訳者が必要と思われる部分だけを便宜上使わせていただいたということです。
また、戦後の訳註は、原著のもつ意味をそこなわせるためでも、またそれをよりきわ立たせるためでもありません。ただ、好むと好まざるとにかかわらず、対立は事実であり、朝鮮民族はこのきびしい事実から目をそらしては何も論じられないということを、はっきりさせたかったからです。さきほども述べましたように、本書は小学校五、六年以上の児童・生徒のことをも考慮して訳したものです。多くの人々に読まれて、真の国際理解に役立てば訳者にとって望外の喜びです。
本書の刊行に当って、国書刊行会の勇気ある出版態度に敬意を表したいと思います。特に割田剛雄、花塚悟、力丸英豪諸氏には並々ならぬお世話になりました。慎しんで感謝申し上げます。
専門家でもない訳者が本書を訳するなど本当に「めくら蛇におじず」と思っています。しかし、本書を通して、より多くのすばらしい本に接するきっかけになれば訳者として望外の喜びですし、それで本書のつとめは果たせたものと思っています。
197853日   大阪生野にて 金 忠一