倭国の世界-新書日本史① 著者 上田正昭 講談社 

装幀者 杉浦康平+鈴木一誌  1976年2月20日第一刷発行 1997年7月25日第25刷発行 ISBN4-O6-115823-6

倭国の世界カバー画像

黎明のとき、日本列島をめぐる海と風は、多くの渡来人と共に多彩な文化をもたらした。列島の枠にとらわれがちな閉ざされた皇国史観を排し、ひろく東アジア的視野から古代日本を位置付けた本書は、なにものにも曇らされることなく歴史を正しく見すえる視点を提示しつつ、民族・文化の起源から、倭国の誕生とその発展過程を解明する。変革期を軸にした新しい時代区分のもとになる現代人のための日本史〈全8巻〉シリーズの第1巻。

目次

序章-海・山のあいだ

海上の道
 まわりを海で囲まれている弧状のわが国土は、アジア大陸の東部に位置する東海の列島である。太平洋側を暖流の日本海流(黒潮)が北上する。そして黒潮は、九州南方でわかれて対馬海流となり、日本海側をも北へと進む。寒流の千島海流(親潮)もまた南下する。
 黒潮と親潮、その渦潮のなかの島国。島国日本のイメージには、アジア大陸の動きからきりはなされた孤絶の歴史がつきまといやすい。事実われらが、"島国根性"とよぶそのなかみは、閉鎖的な精神のありようをさす場合が多い。
 だが日本列島の歴史の様相は、はたしてそのようなものであったのか。答えは否というべきであろう。むしろ島国なるがゆえに、海と風とを媒体として、北からも、南からも、そして西や東からも、さまざまな文化が伝播した。文化のみではなかった。くりかえす渡来の波の背後には、人と人との交渉があり、人間の移動があった。
 近時、日本文化のなりたちにおける渡来文化の役割が、しだいに注目されるようになったが、文化だけを重視して、あたかも風媒花のように、文化のみが伝わったとするのでは、人間不在の文化論になりかねない。そこには人間の往来があり、渡来文化のにない手たちも存在していた。
 古代における海外とのまじわりは、国と国との交渉として、史料の上にあらわれる場合が少なくない。だが国家がなりたつその以前にあっても、人間の往来はあったし、国家成立の後にあっても、支配者層相互間の交渉ばかりでなく、民衆サイドの交流があった。国と国との同時代史としてのつながりを軽視するわけにはゆかないが、それが民衆生活とどのようなかかわりをもったかをみのがすわけにはゆかないのである。
二つの視点
 その一つは、倭国のヤマト政府中心の「中央史観」ともよぶべき視点のかたよりである。後述するように、倭国はいっきょに誕生したのではない。その前史はかなり長い。いわゆるヤマト朝廷がなりたった後においても、日本列島内の地域には、それぞれの政治勢力が存在したし、それらの地域と朝鮮・中国などとの関係にも海上の道が横たわっていた。
 渡来の文化と渡来の人々も、まず大和の「中央」政府に入つたのではない。漢字の文化ひとつをとりあげても、それは明らかであろう。
 北九州や日本海側にまず伝わって、後に大和の地方にもひろがる。弥生文化が北九州の地域からはじまることは、人々にひろく知られているが、それは弥生文化のみではなかった。
 北九州から大和へというルートとして、瀬戸内海のコースがとりあげられるが、日本海側のルートもまた忘れるわけにはゆかない。渡来の波は瀬戸内海ルートだけでなく、太平洋岸にあっても、黒潮などによる伝播があった。
 いまひとつの視点の欠落は、朝鮮半島との海上の道である。渡来の波は、朝鮮半島からだけではない。中国・東南アジアなどからの渡来のうねりもまた重要であった。いわゆる南方とのつながりは、われらが想像する以上に大きい。だが一衣帯水ともいうべき朝鮮半島との脈絡は、従来あまりにも不当にあつかわれてきた。その欠落もまた問いたださるべき課題のひとつであろう。
一衣帯水
 まして日本の軍部による朝鮮史へのとりくみを皮切りとしてはじまり、明治20年代に入って本格化した日朝関係史の日本人研究者による諸説の多くが、「韓国併合」を合理化するてだてとしての「日鮮同祖論」におちいり、独善的な論調を占めるにいたったことは、近代史学史の軌跡に明らかである。
一衣帯水の朝鮮半島とのつながりは、たんなる「影響」とよびうるようなものではない。日本列島への渡来の波がきざむ歴史の襞は、ひろくかつ深い。
 海上の道は、陸上の道よりも、はるかに自由であった。それは律(りつ)と令(りよう)とによる土地人民の支配がなりたった、7世紀後半以降の律令国家の段階における、方のなかみにもうかがうことができる。
 それは天長10(833)にできた養老令の官撰注釈書『令義解』(りようのぎげ)に「長門及び摂津、その余は過所を請はず、此の限りにあらず」としているのにも反映されている。
 律令国家においては、官道が整備されて、陸上の通行はかなりの統制をうけた。けれど、海上の道は、それよりは自由であった。国家がなりたつ以前においては、いっそう自由であった。そこには風波の危険があったが、港湾の市などでの人々の交流があった。
 本書でとりあつかう時代は、6世紀の中葉までであるが、思いきって海上の道を前述の視角より考え直すことに重点をおいて、いくつかの間題を中心に考察することにした。

第1章-文化の始源

1 列島のあけぼの

東海の島生み
 ここで注目されるのは、洪積世前期の時代には、原日本海は内湖の状態であったと推定されていることである。陸地づたいに動植物が渡ってくることも可能であった。洪積世中期には、沖縄の島々が大陸からはなれ、日本列島も大陸から分離しはじめたらしいが、約10万年前の間氷期には、海面が上昇して大陸との接続がたたれた。さらに最後の氷期(ヴュルム氷期)のクライマックスが約2万年前におとずれて、大陸との陸橋が出来、動物や人類も大陸から移動したのではないかと想定されている。
 氷期の最盛期がすぎると、気候はしだいに温暖となり、氷河がとけて海面はふたたび上昇する。後氷期の海面上昇は56千年前にピークに達したようだ。
 このようにして日本列島は最終的に大陸からはなれた弧状列島となる。約1万8千年前に朝鮮海峡や津軽海峡が、ついで約1万2千年前に宗谷海峡ができたという。
 第四紀の洪積世と沖積世の境は約一万年前のころとみなされているが、沖積世のはじめには気候も現在に近づき、日本列島も現状に似かよったものとなったらしい。
 だがその後においても気候変動がなかったわけではないし、縄文海進といわれる海面上昇やリアス式海岸の発達、あるいは河川の土砂によって埋め立てられた沖積平野のひろがりなど、その環境にもまた歴史の歩みがつきまとう。
 地質時代のできごとは、とにかく話のスケールが大きい。第四紀だけでも二〇〇万年の歴史がある。したがって、約一万年前よりも古い時代のことともなれば、なおさだかでないところが少なくない。
 だが、こうした日本列島のなりたちじたいのなかにも、その島生みの歴史が、大陸との接点としておりなされてきたことをみいだすことができる。東海の島の生いたちは、大陸との接続と分離のなかにはじまるのである。海・山のあいだの歴史は、遠くかつ古い
旧石器の人々
 約二万年前のヴュルム氷期には、マンモスなどの動物群とあわせて、新しい石器製作技術をもった後期旧石器時代人が渡来したのではないかとする考えが有力である。
 旧石器時代人の生活といえば、洞穴のなかでくらしたのではないかと思われがちだが、ヨーロッパでも洞穴住居よりも露天住居が多く、日本列島でも露天住居の少なくないことがたしかめられている。
 約13千年前から約1万年前までの旧石器時代晩期が、つぎの縄文時代へ、どのように変化していったのか。そこにはまだまだ解決されねばならぬ問題がある。
 しかし、はっきりしていることは、約一万年前からの沖積世(完新世)になって、気候・地形・動植物の生態は、だんだん現状に近づき、磨製石器があらわれ、土器の製作もはじまって、新石器時代へと移行したことである。そして狩猟にともなう本格的な弓矢や、漁撈の発展による骨角器などの漁具などもまたしだいに発達した。
 そこには旧石器時代とは異なった新しい文化の夜明けがあった。縄文時代がそれである。

 2 呪術の社会

土器の出現
 縄文文化のはじまりについては、1万2千年前説、1万年前説、5千年前説などがあって、その見解には大きなひらきがある。通説は約1万年前から約9千年前までとする
 狩猟・漁携・採集などによってくらしをいとなんだ縄文時代の人々の生活には、長い歴程が横たわっていた。狩猟用の道具としての石鏃(せきぞく)・石槍・弓矢、漁携具としての釣針・銛・矠(やす)などの骨角器、あるいは土錘・石錘、土掘り用の道具である打製石器など、その用具と技法にも発展があった。
 土器と磨製の石器が使われるようになった縄文時代は、新石器時代であった。そして新石器の使用は、つぎの弥生時代の中期(100~後100)から後期にかけての段階になって、石器がいっせいに消滅するそのおりまでつづいた。だが、新石器時代における文化的特徴のひとつである牧畜の展開は日本列島では未発達であった。農耕も縄文時代において原始的農耕が行なわれたにとどまって、稲作文化の展開は、弥生時代をまたねばならなかった。
階級以前
 縄文時代には、階級はまだ形づくられてはいない。基木的には、階級以前の社会であったといえよう。しかし労働用具やその技法の発展、共同労働の展開などによって、地域的な差異がいちじるしくなり、東日本と西日本との間には、社会と文化の様相に異なった傾向がみられるようになる。
 縄文時代の人々の住いは、主に竪穴住居であったという。それには円形や楕円形のものと、方形や長方形のものとがある。一つの竪穴住居に住んだ人々は、ふつうは四、五名と考えられているが、複数の住居からなりたつ集落の規模は、二、三戸のものからしだいに増加して、拡大の方向をたどった。
 そして中央に広場や大形の住居遺構をともなう集落を形成し、人々の集う集会場や作業場などもあらわれるようになった。
 縄文時代といえども停滞の社会でなかったことは、中期から後期にかけての集落跡の発展過程などにもうかがわれる。しかし住居や墓地の内容をみても、貧富の差や身分の違いを顕示するものは少なく、血縁的な小集団を単位とする氏族共同体を中核とした社会であったことがわかる。
 縄文時代の生活跡のひとつの特徴は、縄文時代における海進と海退にともなう地形の変化ばかりでなく、食料をえるために、一ヵ所に長く定住するよりも、移動性にとんでいるものが少なくないことである。
 もっとも海辺の住居などには定住したと思われるものがあるけれども、移動のケースには、夏と冬とで移動する場合、あるいは獲物を求めて住居をかえる場合、さらに一つの土地より他の地に転じて、ふたたびもとの場所へもどってくる場合など、さまざまなありようが考えられている。したがって集落跡に検出される竪穴住居群は、それが同時にあった竪穴数とは断定できないものが多い。
 縄文時代人の移動性は、交易圏をひろげる。長野県の和田峠に産出する黒曜石でつくられた石鏃が東京都の草花遺跡や大蔵町遺跡から川土したり、伊豆半島の天城山産のものが千葉県の姥山貝塚や加茂遺跡から出土した列などは、その交渉のひろがりを物語っている。
船の原型
 縄文時代の漁携は、海中に潜って貝類や海藻類をとるばかりでなく、釣針をもって釣る漁法のほか、網を用いる網漁、銛や矠(やす)で突きさす突き漁も行なわれた。
 内湾性の漁業は網漁に代表されるが、中期以降になると網の改良もなされ、釣針も中期後半から、かぎのついた釣針がふえて大型化するという。そして後・晩期になると、無鐖(あぐ)の骨製矠による突き漁がさかんとなり、土器製塩も開発されたようだ。
 大形の釣針は、そのサイズや伴出する魚骨などによって、マダイ・カツオ・マグロなど外洋魚類の捕獲に集中的に使用されたと考えられているが、中期後半になると、外洋性漁業は仙台湾一帯で行なわれており、後期初頭には関東地方へ、後期中葉には瀬戸内海をへて東九州におよんだとみなされている。
 暖流系の回游魚であるマグロの捕獲に用いられた回転式の離頭銛は、前期後葉の青森県八戸市一王寺貝塚や同地北津軽郡市浦村オセドウ貝塚などから出土したものが古いとされているが、中期後半以後になると、宮城県石巻市南境貝塚の出土例など、仙台湾を中心とした離頭銛が発達して、後期には南関東にまでひろがると考えられている。
 こうした外洋性漁業の発展に必要な船の問題を軽視するわけにはゆかない。縄文時代の早期後半は、後氷期の海面上昇にともなう縄文海進の時期であって、大陸とのつながりは海によって遮断されていた。したがって以後の渡来文化は、当然、船や場合によっては筏などの運行による交渉が考えられねばならぬ。
土偶の背景
 狩猟・漁携・食料採集などのくらしをいとなんだ縄文時代の人々は、きびしい自然のなかに生きた。自然とのたたかいのなかで、集団生活を維持するための規制と、精霊などの呪力を信じて人間生活に幸いをもたらし、わざわいを防こうとする呪術が発展した。
 縄文時代に呪術者が存在したかどうか、その確たるあかしはない。ここで興味深いのは、後・晩期の遺跡から土製の仮面が出土していることである。福島県の三貫地貝塚などからは、目や口の穴のほかに紐通しの穴のついた仮面がみつかっており、仮面をつけた土偶もある。呪術をよくするものは集落に重きをなして、仮面などを用いたのでもあろうか。あるいは狩猟や漁携の収獲の多きを願う、予祝の踊りなどに用いられたものでもあろうか。
 土偶のなかには、遮光器土偶とよばれる中空づくりの土偶がある。北海道南端部から中部地方にかけての晩期の遺跡から出土し、顔面には小さな口と鼻の上に大きな楕円形が、あたかも強い反射光をさける遮光眼鏡のように表現されている。
 これは明治以来便宜的に遮光器土偶とよばれてきたものだが、もとより遮光眼鏡ではない。その楕円形のなかには横にひとすじの線がひかれている。これはみみずく土偶の大きなまるい眼と同じように、邪霊の眼に対抗して、邪霊をしりぞける僻邪視あったとみなされている。
 僻邪視の殷・周の青銅器の文様にみられるだけでなく、目の呪力は中国の甲骨文にも象形されていて、邪霊をはらう呪眼に媚飾を加えたものがある。媚の字はシャーマン的な巫女を意味したが、甲骨文には媚の下に怪獣の形をしるして、巫女が動物霊を使って呪誼したことを物語る例がある。
 おそらく眼のまわりに独特な線刻のくまどりをしたもの、遮光器土偶や土面にみられる、大きな楕円形のなかの横ひとすじの眼などは、邪霊に対抗した僻邪視であり、その姿には、動物霊などを駆使して危害を加えるものを呪誼した女性の呪術者がうかびあがってくる。
信仰と規制
 中期以後になってこうした呪術関係の遺跡や遺物が増加してくるのは、集落の規模もしだいに大きくなり、呪術は自然とのたたかいばかりでなく、他の集団とのあつれきあるいは戦闘のなかで、より多様な発展をとげる。そして内なる規制力としても作用していく。
 縄文時代の後・晩期にみいだされる抜歯の盛行なども、内なる規制のあらわれであったろうか。男女をとわず一定の年齢に達すると、抜歯を行なったこの慣習は、抜歯人骨によってうかがうことができる。これは集団の仲間として、一人前のあつかいをうける成年式を意味するとみなす考えが有力である。こうした抜歯のならわしは、秋田・青森両県から熊本・鹿児島両県におよんでいたことが指摘されており、後・晩期の段階にひろく普及したことがわかる。

3 農耕の夜明け

東と西
 縄文文化の遺跡数は西日本よりも東日本に多い。東日本では洗練された芸術味豊かな実利をこえた亀ケ岡式系統の土器を生みだしたが、その背後には食料源の問題もあろう。
 この点にかんして注目されるのは、サケ・マスの河川漁業についての碁である。サケ・マスは太平洋岸では天竜川以北(サケは利根川以北)、日本海側では山陰地方以北の川を産卵期にさかのぼる。縄文時代における気候の変化や海進・海退などによる環境の推移もあるから、現在の状況をそのままにあてはめることはできないが、シベリアのサケ地帯から南下した文化とかかわりの深い地域では、サケ・マスを有力な食料源とし、東日本の河川漁業にひろまったと考えられている。
 サケ・マスの問題は、東日本の縄文文化を考える上で示唆的だが、それだけではなく、前にのべた内湾性・海洋性漁業の発展にあわせて、植生と食料とのつながりもまた重要である。
 ブナやナラなどに代表される落葉樹林帯は、北海道の南部から中部地方の高地までに分布し、,関東以南から中部にかけてから西は、カシ・シイ・クスノキ・モチノキ・サザンカなどを主とする照葉樹林(常緑広葉樹林)の地帯に属する。
 うっそうたる森林におおわれていた時代の人々は、植生にうらづけられた動物や植物を捕獲したり、あるいは採集したりして食料とした。
 そして根栽植物の食用も、照葉樹林帯で行なわれるようになり、晩期には雑穀やイモ類などを中心とする焼畑農も、西から東へとひろまっていった形跡がある。中国の江南地方から西南日本へ伝わって、やがて山地や丘陵地帯にのびていったのではないかと推定されているが、照葉樹林帯における凸帯文土器の分布圏との対応は、水田耕作に先立つ原始農耕のはじまりを象徴するようである。
大地の力
 うっそうたる森林は、精霊の住まいするところと感じられていたにちがいない。森林を神のよりますところとする樹林の信仰は、稲作が開始された弥生文化以後というよりは、すでに縄文文化の段階にも考えられよう。そして根栽植物や雑穀やイモ類を食用とした人々は、大地の力を重視したことでもあろう。地霊の信仰もまた水稲耕作によってはじまったとするわけにゆかない。
 宗教的生活の原初の姿については、超自然的な非人格的な力とそのはたらき(マナmana)を表現するプレアニミズム説、事物の精霊(アニマanima)をめぐる信仰に注目するアニミズム説、動植物あるいは自然物と、人間ないし人間集団とを結ぶ信仰を特徴づけるトーテミズム説など、種々の見解がある。
 縄文時代の呪術の世界には、アニミズム的要素も濃厚であって、人々は地下に住んで地上に姿をあらわし、脱皮して更新する蛇体などに、よみがえる地霊のいぶきを感得した。
 そしてまた毒蛇の猛威は、たんなるおそれのみではなくて、そのゆえにまた威霊あるものとしてあがめられたのではないかと推測される。-
 もっとも、蛇霊の崇拝と蛇神をまつる段階との間には、呪術の段階が支配的であった時期と、祭祀が中心となる時期との間におけるひらきがある。そしてまた水稲耕作にともなう水神の信仰の渡来とそれとの交錯もある。そこには新旧の層位が介在するが、蛇霊信仰が水稲耕作の段階になってはじめて登場するのではなく、縄文時代の地霊信仰のなかにもきざしていたことを見失うわけにはゆかないだろう。
縄文から弥生へ
 縄文時代のつぎの弥生時代はどのようにしてはじまったのか。弥生時代を縄文時代と質的に異ならしめるその特徴は、稲作と金属器(青銅器および鉄器)の使用およびその制作である。旧石器時代の文化が大陸とのつながりをもち、縄文時代においても、寒流の南下、暖流の北上を媒体とする渡来文化の波がけっしてなかったわけではない。
 しかし弥生文化を特徴づけるイネと金属器の文化は、明らかに大陸から渡来したものであった。これまでにもまして大量の渡来人のうねりがあった。
 弥生時代はなによりもまず弥生土器の編年によってきめられているが、その最古とされる北九州の板付式土器は、紀元前200年代のなかばと推定する説が妥当であろう。そしてその終期については三世紀末とする見解もあるけれども、おおむね三世紀のなかばとする考えにしたがうことにする。
 ところで北九州でうけいれられた弥生文化は、急速に西日本一帯にひろまる。そこにはその文化を受容する素地が存在していたと考えられねばならぬ。稲作栽培をうけいれる前提は、西日本の照葉樹林帯において、海退だけでなく、河川の運んできた土砂による沖積平野などが形づくられて、縄文晩期の集落が低地に多くいとなまれたこと、および雑穀栽培などが先行していたと思われることなどの状況に準備されつつあったといえるだろう。

2章-倭地の渦潮

1 文化の革新

渡来のうねり
 かつてその渡来のうねりのピークとして、およそ四つの段階を想定したことがある。(1)は弥生時代のはじめであり、()は五世紀前後のころであり、さらに()は五世紀後半から六世紀はじめ、()は七世紀の後半初葉の時期とする見解がそれである。この考えはいまから十年ばかり前に公表した見通しだが、その大要はなおかえる必要はないと思っている。
 しかしそのうねりはこの四つの段階のみに限らぬ。弥生時代以来くりかえしまじわりのあった朝鮮半島からは、たびたび渡来の波がつづいた。そのもっとも注目すべき大きなうねりが、前記の四つの段階であったとするのが私見である。
イネと鉄
 弥生時代のはじめは、その第一の段階に相当する。イネがいかなる経路をたどって九州に伝わってきたか。今日では長江(揚子江)下流の地域および華中から、東海(東シナ海)をへて朝鮮半島南部・北九州へ伝播したとする説と、長江下流流域から山東半島付近へ、そして朝鮮半島西部に入り、ついで北九州へ到着したとみなす説とが有力である。
 前者の説の方が説特力にとむと考えられるが、いずれにしても、イネの文化が渡来のものであったことにはかわりはない。
 中国における青銅器時代から鉄器時代への展開は、周辺諸地域にも波及し、朝鮮半島では、日本列島に先だって初期金属器文化がはじまる。弥生時代の金属器は、前にものべたように青銅器と鉄器であるが、日常の利器として青飼器が使われた例はきわめて少ない。
 鉄器の使用と製作のひろまりは、石器の使用と製作にとってかわり、石器の消滅をうながすこととなる。日本列島における石器の終末が、鉄器文化の普及を前提としたことは十分に考えられるところである。
 こうした鉄器もまた朝鮮半島などから伝わったものであり、中期以後に製作されるようになった鉄器製作も、朝鮮からの鉄素材に依存する度合が少なくなかった。
縄文人と弥生人
-日における縄文人と弥生人の人骨のひらきがある。前期中ごろから中期の弥生人の人骨は、縄文人よりも長身であり、高額であることが指摘されており、それは狩猟・漁携・採集の生活から農耕を中心とする生活へという、くらしの変化によると考えるよりも、多くの人間が朝鮮半島などから渡来し、縄文人と混血したことにもとづくと考えるほうが妥当であろう。
 もっとも弥生人骨にも地域差はあって、すべてがそのような経過をたどったのではない。しかし山口県の西部、福岡・佐賀両県などの弥生人骨は、明らかに縄文人と異なっており、混血がなされて、それらの人々によってもたらされた新しい文化は、名古屋から丹後半島を結ぶ地域の西日本へと急速にひろまったとする説は説得力がある。長身の弥生人骨は、大阪府の国府遺跡などからも出土しており、渡来人は近畿地方にもおよんでいたとされている。
海の往来
 縄文時代の船には操舵櫂や櫓はないけれども、鉄製工具が用いられるようになった弥生時代の船には、複材刳船も出現し、海洋の航行にはゴンドラ型の船が使われたのではないかと思われる。船づくりの技術がいちだんと進歩したことは疑いない。主に内海の航行には鰹節形などが、外海にはゴンドラ型などが使われたのかもしれない。
 後述するように、弥生時代には朝鮮や中国との間に交渉のあったことは文献によってもたしかめられるが、倭地からの派遣のみではなく、朝鮮や中国からも使節が渡来した。前漢の武帝の代(紀元前108.元封3年)には、朝鮮半島には楽浪郡などが設けられ、さらに三世紀のはじめには、楽浪郡の南部に帯方郡が設けられる。帯方郡などを媒体とする中国の使節などの用いた船は、後漢ふうの船につながるものであった可能性がある。 

2 倭人の動向

倭と倭人
 中国・朝鮮の古文献や金石文には、しばしば倭・倭人・倭地・倭種・倭王・倭など、〈倭〉という文字がみえる。
 だが、だからといって「倭」をすべて日本列島にかかわるものと解釈しうるかというと、かならずしもそうとは限らない。
倭の意味
 ところで、「倭」にはいったいいかなる意味があったのであろうか。倭は我・吾の転じたものとするような考え(『釈日本紀』『日本書紀纂疏(さんそ)』)や、人に従い女に従うの意味があって、中国人が女治を伝聞して用いたとするような解釈(『異称日本伝』)などはまったくの臆説である。-本来は後漢の許慎(30年~124)の『説文解字』に「順皃、人に従い、委の声」とあり、委もまた「委従」とされていて、柔順の意味が強い。
 そしてこの字を東夷のなかに用いたのは、五行思想にもとづくと考えられる。すなわち五行思想における東は、五行で木、五徳で仁にあたる。だから『前漢書』でも『後漢書』でも、東夷にかんして「天性柔順なり」と表現したのであろう。
大陸との交渉
 『後漢書』東夷伝の倭の条にしるす、建武中元2年(57)の後漢王朝と北九州の倭の奴国との交渉は、東夷伝のみならず、光武帝本紀にもみえている。
-『後漢書』の古写本のなかには、「王帥」を「主帥」としたものがあり、「倭国王」ではなく、「倭国の主帥(官名)升等」とする説も提出されている。かつて使節とその従者らを意味すると考えたが、いまでもその考えのほうが妥当であると思っている。
 この「帥升等」を王名と解し、この「等」の字にこだわって、原始的民主制とか部族国家などのあかしとする考えには従えない。第一に、部族国家というようなあいまいな表現をとることじたいに問題が残る。
 原始社会の基本的な単位である氏族(クラウン)(氏族-うじぞく-ではない)には、血縁的要素が濃厚であり、その上に成り立つ部族(トライブ)は、耕地あるいは牧地・漁場などを共有し、共通の言語と信仰をもつ。そしてそれら部族の同盟にも政治的組織は存在するのであって長老会・評議会・民会などが部族らの全体意志を決定する。
 国家のなりたちを政治的組織の有無だけによって決定するわけにはゆかぬ。国家はそうした氏族の体制が崩壊し、階級制度の出現によって公的権力が形づくられ、地域的な土地と民衆の支配、徴税の体系、官吏などによる行政機構、軍事力や警察力が具体化するなかで誕生する。
 部族と国家とを無媒介に結合する部族国家という表現じたいがあいまいである。
 このように『後漢書』では、日本列島内の「倭国」と中国王朝との間に通交のあったことを物語るが、弥生時代に、中国や朝鮮半島との交渉があったことは、遺物の上でもたしかめることができる。
 光武帝の授けた金印のほか、-朝鮮半島でつくられた銅剣・銅矛・鉄剣・鉄製工具などがみつかっている。
 これらの遺物をみても、対馬・福岡県・山口県をはじめ西日本の沿岸地域などでは、実際に交渉のあったことを確認することができよう。
 倭国の動乱
 この二世紀の倭国の動乱は、後漢王朝内部で、たとえば184年に勃発する黄巾の大乱があり、『魏志』において「韓濊彊盛にして郡県制するあたわず」とされるように、朝鮮半島の政治勢力がいちだんとたかまってくる時期である。後漢王朝の東夷への支配力は弱体化した。
-この倭国の動乱を重要な変革期として、女王卑弥呼を盟主とする邪馬豪国の権力構造が具体化してくる。動乱以前と動乱以後で、階級社会の様相が変貌してくる点も軽視してはならないであろう。

 3 女王の顔

卑弥呼の登場
 卑弥呼の「鬼道」を、いわゆる北方系シャーマニズムとの関連のみで理解しうるかどうかは疑問である。そしてシャーマニズムは、精霊の存在を信ずるアニミズム的基盤を前提とし、シャーマニズムの精霊や神の内容も多元的であって、他の宗教や信仰と習合する要素の強いことも見失えない。
 日本の古代における巫道(ふどう)の展開においても、道教や仏教あるいは陰陽道と習合した。神下しする巫女が、仏下しする巫女へと転身する場合がある。したがって、卑弥呼の「鬼道」もまた、従来いわれてきたように、シャーマニズムのみで位置づけるわけにはゆかないであろう。
鬼道の内容
 律令制のもとにおける鬼神信仰には、道術にもとづく要素が深い。これらは後の例であるので、それをもって卑弥呼の「鬼道」が道術であったと断言するわけにはいかないが、『魏志』倭人の条に描く蒐道」には、天神の祭祀は直接的に書かれていないから、卑弥呼の名義を、日の御子・日向・日迎の義と解釈することには無理があろう。その点で女王卑弥呼、狗奴(くな)国の男王卑弥弓呼(ひみくこ)の「卑」は、太陽ではなく「霊魂」の意であろうとする考えが参考になる。
女王の外交
 卑弥呼を盟主とする邪馬臺国の外交とはいかなるものであったか。『魏志』東夷伝倭人の条によれば、景初2年(238、通説は景初3年とする)6月、倭の女王は、大夫難升米(なしめ)らを遣わして、帯方郡にいたり、魏の皇帝に朝献せんことを求めたという。
 卑弥呼に親魏倭王の称を授け、金印紫綬を与えたのも、また難升米を率善中郎将という宮城を護衛する武官の長の職に任じ、二千石以上の官僚に付す銀印青綬を賜与したのも、魏の近攻遠交策にもとづく。
 魏は遼東の公孫氏の勢力が強大化して、楽浪郡が奪われ(南半に帯方郡を設置)、高旬麗の脅威がますます現実化するなかで、景初二年の春には、司馬懿による公孫淵打倒の軍を進めた。そして六月には遼東に入り、八月には公孫淵を倒す。こうして楽浪・帯方両郡を奪回した。卑弥呼女王の遣使には公孫氏をほろぼした魏の動静に対応した要素があったであろう。
 それは正始8年(247)の遣使の場合にもうかがわれる。正始元年(240)には帯方郡太守に弓遵(きゅうじゅん)が就任していたが、魏が辰韓八国を楽浪郡の支配下におこうとした動きにたいして、馬韓北部の勢力を中心とする韓族は、帯方郡を攻撃し、ついに太守弓遵は戦死した。ようやく馬韓の軍を鎮圧して、正始8年に玄菟太守王頎が帯方郡の太守へと転任する。正始8年の倭の載斯烏越(さいしうえつ)らの遣使は、ちょうどそうしたおりになされた。
 卑弥呼の死後、女王となった臺与においても例外ではない。『魏志』には倭の大夫掖邪狗ら20人を遣わしたとあって、それがいつのことであったかを明記していないが、晋の起居注によると、泰始2年(266)のことであったという。266年といえば、魏が倒れて晋王朝が樹立された翌年にあたる。
 われらが想像する以上に、その外交は敏感なものといえよう。もとよりその外交は、内なる権威を確保するためのものであったし、魏王朝および帯方郡太守による権威づけによって、巫女王の地位を補強するためのねらいがあったろうこともみのがせない。
 とりわけ狗奴国と対立は、激化の一途をたどっており、正始8年のおりには狗奴国と「相攻撃する状」が、倭の載斯烏越らによって帯方郡に報告されている。そして張政らが派遣されて、
 詔書・黄幢(おうどう-黄色の軍旗)をもたらし、檄をつくって告諭するというありさまであった。張政はまさに軍事顧問団の役割をになった。
 卑弥呼の権威を内なる巫女王の立場のみで評価するわけにはゆかない。そこには外なる親魏倭王としての立場も内包されていたのである。
 宗女の継受
 ところでこの宗女とはいったいなんであったか。『魏志』東夷伝夫余の条にも、「宗女」の記事がある。この宗女は夫余王の宗族の女の意味で使われており、倭人の条の宗女もその意味であろう。女王卑弥呼の宗族の女であった年十三の臺与が擁立されたのは、彼女が卑弥呼の属した宗族の流れをくんでいたからであり、親魏倭王であり巫女王であった卑弥呼の「宗女」であったという系譜にもとづくものであろう。
 日本列島における巫女の特徴としては、共同体型に属するものが基盤をなし、世襲巫の少なくないことがあげられるが、卑弥呼から臺与への王権の継受に、早くもそうした傾向のみいだされることは軽視できない点である。臺与もまた巫術をよくする「鬼道」の女人であったと考えられる。
 『魏志』東夷伝倭人の条には、倭王・大夫・大人(たいじん)・下戸(げこ)・生口(せいこう)・奴碑(ぬひ)などの記述があり、「尊卑おのおの差序あり」と表現されている。そしてまた大人を敬するところをみると、手をうって跪拝(きはい)にあつとか、下戸が大人と道路であったさいには、逡巡して草に入り、言葉を伝え事を説くおりには、あるいはうずくまり、あるいはひざまずいて、両手を地につき、恭敬をなすとかと書かれている。
 その社会が階級社会であったとみなしての記述である。卑弥呼や臺与の王権が、原始社会と同様のものであったとみなすわけにはゆかないだろう。

3章-倭国の展開

1 政治と祭事

まつりごと
 倭人の条にみえる官を、後代の官僚のように考えるわけにはゆかない。そのなかには、政冶のみならず神まつりとかかわりをもつものがあったであろう。
 邪馬臺国がいったいどこにあったか、さまざまな意見がある。しかしその場合に、九州に所在したとみなす論者が、畿内における政治勢力を軽視したり、あるいは畿内にあったとする論者が、九州における政治勢力の存在を無視したりするような見解には従えない。ここでも一元的に政治勢力を把握することは、あやまりとなろう。
 そのことを傍証するひとつに、弥生時代を特徴づける青銅器の文化がある。そしてそれは、まつりごとの変貌を考えるのに重要な問題を提起する。
青銅器の埋納
 銅鐸はその8割が単独で出土し、その出土地には河原や湖辺・砂丘などのほか、山丘頂の近くあるいは山影でみつかっている。とりわけ多いのは、山丘頂近くである。そこはまつりの場であり、聖域であったのではないか。つねには土中に埋納保管し、祭事のさいにはとりだして用いられたとする考えも提出されているが、銅鐸の出土地の多くが山丘頂近くであるのは、山丘に精霊あるいは神の降臨をあおいだ信仰とつながりがあろう。
 これにたいして海辺の近くに多い銅矛祭器は、海のまつりと関連があるかも知れない。山と海の信仰の差異がこうした銅鐸祭器と銅矛祭器の文化圏を形づくったのではないかと場えられるからだ。
 稲作の段階では、地的宗儀にあわせて祭天の宗儀も存在したと思われる。したがって、地的宗儀から天的宗儀への発展によって銅鐸の終焉を考える説にもなお問題は残る。
 銅鐸などの埋納が終りをつげたその理由には、あらたな政治勢力による新しいまつりごとの出現と権力の構築があったと考えるほうが適当ではないか。それを物語るものに、古墳の出現がある。
 古墳の出現
 古墳とよぶものは、弥生時代の墓制とは異なった立地条件や規模・形態・内容をもって築造された墓制であって、死者を葬った墓地が、死者を葬るに必要とする土地空間よりも広く、その葬地は死者の永久の占有地と考えられ、他と明確に区別された墓制であったといえよう。そして古墳が墳丘を主流として発展した墓制であったことも注目すべき点である。
 中国では円墳や方墳があり、高句麗では方墳、新羅では円墳・双円墳が多く、百済では円墳が大部分を占める。そして朝鮮半島南部の伽耶地域では竪穴式石室の検出された例が東莱・大邸・咸安などにある。
 日本列島における古墳登場の背景についても、列島内における要因ばかりでなく、周辺諸地域の墓制とのかかわりについてさらに考察を加える必要があろう。
 古墳の出現については、なお多くの謎がひめられている。しかし、弥生時代の中期に、畿内から瀬戸内沿岸にかけての軍事的緊張があり、さらに後期に入って、またあらたな軍事的緊張が畿内でたかまったことを反映すると想定されている抗争の中で形づくられた高地性集落がみきわめられていることあるいは、神戸市桜ケ丘遺跡丘頂の14個の銅鐸と7本の銅戈の埋納や、滋賀県小篠原遺跡の大岩山山丘の銅鐸14個、同10個の埋納などにみられるような例には、.農業共同体のまつりの統合と、その背後における地域ごとの政治的結合が想定されていることなど、それらには共同体のあらたな政治的編成と、新しい支配勢力が形づくられてゆく激動の歩みがうかがわれる。
 前期古墳の被葬者の多くは、そうした動乱を克服して、あらたな首長権を樹立した支配者層たちであったろう。銅鐸などの埋納が終わりを告げて、弥生時代の墓制とは異なる古墳を築造したその歴程には、政治勢力の'変革が想定される。

2 王権の背景

変革の波
 三輪山の南の鳥見(とみ)山古墳群、北の柳本古墳群、東大寺山古墳群などにおける前期古墳の注目すべき出現は、三輪王朝とよぶにふさわしい権力の構築を反映する。
 こうした三輪山を中心とする地域の前期古墳の被葬者が、いったいだれであったか。それをきめるのには、墓誌銘などが出土しないかぎり困難である。その被葬者たちは、土着の首長であったか、あるいはあらたに三輪山周辺地域に入った首長層らであったか。そこにも大きな謎がひそむ。
神体山の伝統
三 輪山のまつりは、古墳時代に入ってはじまったのではない。三輪山周辺には弥生時代の生活跡もあり、三輪山の西南麓に鎮座する『延喜式』所載(式内社)の志貴御県(しきみあがた)神社境内地の西南台地、そこから大神神社の西隣へとつづく三輪遺跡からは、弥生時代の土器が多量に出土している。神体山の一部であった山ノ神遺跡からは、弥生時代にはじまるまつりの伝統もうかがわれる。
 ところが、その弥生文化の後に、三輪山の南北や西の一帯に前期古墳が突如として出現する。祭祀関係の遺物ばかりでなく、多量の武器類を副葬する巨大な古墳があらわれるのである。奈良県榛原町大王山の方形台状墓の例をもって、前方後円墳の先駆とするわけにはゆかない。,巨大な前期古墳を築造した首長層と方形台状墓をつくった勢力との間におけるへだたりは大きい。三輪山のまつりをめぐっても、大きな変革があったとみなければならないだろう。
三輪山伝承
-記紀伝承の祖型のなかには、5世紀後半より6世紀前半の段階における伝承の記録化にもとづく要素もあって、そのすべてを作為であり虚構であるとしりぞけることはできないだろう。作為や虚構の前提もまた問われねばならぬのである。
 三輪山の神をめぐる所伝でみのがせないのは、その祭祀伝承である。『日本書紀』の崇神天皇7年2月の条には、ヤマトトトヒモモソヒメが神がかりして、「我をうやまひまつらば、必ずまさにたひらぎなむ」との託宣があり、神はその名をオホモノヌシの神と告げた。そこで祟神天皇は、教えのままに祭祀したけれども、いっこうに効験がなかったという説話がしるされている。
-つまりミマキイリヒコ(崇神天皇)の王統と脈絡をもつとする王女の託宣では、三輪の神をよくまつることはできなかったとする伝承である。
-「初国(はつくに)しらしし御真木天皇(みまきすめらみこと)」(『記』)、「御肇国(はつくにしらす)天皇」(『紀』)と記紀両書において強く意識された王者の代において、三輪山の神あるいは大和土地の守護神をその王女では祭祀の機能を果たしえなかった伝承となっている。
 いわゆる苧環型というのは、『古事記』のイクタマヨリヒメ神婚譚をさすものである。この伝えには、麻糸が三勾(みわ)残っていたので、その地を美和(三輪)とよぶことになったという三輪地名起源説話の要素が加わっており、箸墓由来譚の性格をもつ前述の『日本書紀』の所伝と対照的である。
『古事記』のそれを神の御子の出生を語る神人交流型とするなら、『日本書紀』のそれは、神人が離別する神人隔絶型ともよぶべき神婚譚である。イクタマヨリヒメは、王女ではない。河内のスエツミミの娘であったという。崇神天皇の系譜につながる王女モモソヒメの神婚譚がなぜにこうした神の妻の死という神人隔絶の伝えとして形づくられるのか。そこにも三輪山祭祀権をめぐる勢力の葛藤が反映されている。
(注:崇神天皇の系譜につながる王女モモソヒメは、神の本当の姿を見たいとねだったにもかかわらず、蛇となった姿をみて驚いたので、神の怒りを買い、死んでしまう。王女ではなく、河内のスエツミミの娘イクタマヨリヒメは、通ってくる神の衣に糸を通した針を刺し、糸をたどって、三輪山の神の社のたどり着き、神であることを知る。死んではいない。二つの結末の違い。)
イリ王権
 三輪山を中心とする首長層の政治勢力をイリ王朝(三輪王朝)と称したことがある。なぜそのように仮称したのか。そこには三輪山の周辺に、突如として巨大な前期古墳が出現するという点だけではない。それは崇神天皇の和風の諡(おくりな)を、ミマキイリヒコイニヱノミコトとよび、その王子つまり垂仁天皇を、イクメイリヒコと名づけたように、イリを名辞におびるものが、崇神天皇の王脈につながるとするものに19例もある。
 それは王子のみではなく、さきのヌナキイリヒメのように、王女の名にもイリの名辞が付されている。なぜこうしたイリヒコ・イリヒメが崇神・垂神両天皇の代に集中しているのか。
 そこに後の作為や潤色があったとしても、このような名辞が崇神・垂仁両天皇の王統に集中しているのには、これをイリの王者とみなした認識が反映されていよう。このイリを入り智のイリと解釈する説があるけれども、イリヒコだけでなくイリヒメの例も少なくないからそうした見方はなりたたない。私はこの"イリ"を三輪山周辺の地にあらたに入った"イリ"の義と解釈している。
 それは来臨する穀神の神名をミケイリと称し、憑霊する神名をタマクシイリとよんだイリに対応する。「初国天皇」「肇国天皇」とされる崇神天皇にはじまる王統が、イリ王朝として意識化され、歴史化されている。
古代における磯城(しき)の地域は、三輪山の西方から南方にかけての地帯であって、そこを三輪川や穴師(あなし)川が流れる。その磯城の地域に巨大な前期古墳が登場するのである。
三輪山の在地の勢力がなんであったか。三輪地方の有力氏族に三輪君がある。しかしこの氏族の大和入りは、のちに論述するように5世紀の段階に河内から進出したものと考えられるので、これをもってただちにその在地の勢力ときめるわけにはゆかない。磯城地方の在地の氏族をさかのぼってみきわめることは容易でないが、政治勢力のありようについて想起されてくるものに、東大寺山古墳の被葬者とその副葬品がある。
 この被葬者がだれであったかはわからない。しかし、東大寺山古墳からは、後漢の中平年間に、後漢で作られたことを示す紀年銘の鉄刀が出土している。
 東大寺山古墳のある天理市櫟本(いちのもと)のあたりには、和珥(わに)氏の本拠があった。東大寺山古墳の被葬者は、和珥氏につながる有力首長であったのでもあろうかこの東大寺山古墳の被葬者が、箸墓などの被葬者とどのような関係をもったか。また柳本古墳群の巨大な前期古墳よりは新しい様相を示して登場する、奈良市北西の佐紀(さき)古墳群の大型古墳とどのような連関をもつのか。在地氏族とイリ王朝とのかかわりについても、さらに掘り下げるべき課題がひめられている。
 鏡の副葬
 巨大な前期古墳の被葬者のための殯(もがり)は、弥生時代の墓制よりも発展し、より長期かつ盛大にいとなまれたであろう。そのなかでの鏡の大量の副葬は、被葬者が生前祭器あるいは宝器として珍重したものをそえることのほかに、鏡を神あるいは精霊のよりしろとして、首長権を権威づけたこの世の威儀を、あの世に再現せしめんとする鎮魂の思想が、そこに託されていたのではないか。
 鏡の前期古墳への多量の副葬は、首長層の権威を象徴する巨大なモニュメントとしての古墳の被葬者にふさわしい、神まつりする首長層の生前の姿をうかがわせる。
 銅鐸が消滅して、前期古墳が登場し、そして多くの鏡が副葬されるというプロセスにも、祭事と不可分に結合していた政治のうつりかわりが物語られていると考えられる。

3 七支刀の伝世

石上の社
 奈良県天理市布留(ふる)には、石上神宮(いそのかみじんぐう)が鎮座する。『延喜式』にみえる有名な大社であって、石上(いそのかみ)に坐(ま)す布留御魂(ふるみたま)神社がそれである。『延喜式』の写本には布都御魂(ふつみたま)神社と書いているものもあるが、布留御魂神社としるす古写本のほうが、この社の伝統にふさわしい。
『日本書紀』に「振(ふる)神宮」と書き、『正倉院文書』に振神戸(ふるかんべ)などとあるように、この社は、ミタマフリすなわちタマシイの振起を意味する鎮魂の社としてあおがれてきた。
 この古社もまた大神(おおみわ)神社と同じように、もともとは本殿のない社であった。現在の本社の社殿は明治44(1911)に起工されて、大正2(1913)にできあがったものである。
 石上の社は鎮魂の社のほかに、倭王権とつながりの深い、神宝や武器類の庫(くら)があった。
 石上の兵仗は山城の葛野(かどの)郡に運ばれたけれども、故なくして庫が倒れ、桓武(かんむ)天皇病に臥(ふ)すという事態が発生した。巫女の託宣によって、ふたたび石上神宮へと兵仗はもどされ、石上の神霊に陳謝の詔がたてまつられたとしるす。
 鎮魂の社であり、神庫・兵庫のある聖域として、祭事・軍事にも重きをなした石上神宮のありようを、まざまざとうきぼりにした記録である。
 石上の聖域には犯罪人が逃げ込んで保護を受けたアジール(Asylum)の性格もある。アジールには、世俗的なものと宗教的なものがあったが、石上神宮の場合は後者に属する。
 柳本古墳群の北方、東大寺山古墳群の南方にある石上神宮は、倭王権のなりたちやその展開と密接なつながりをもっていた。神宮の称は、伊勢神宮の独占したところと考えられやすいが、平安時代以前においては、石上は一貫して神宮としるされている。
 神宮の称は中国や朝鮮において先例があり、新羅では5世紀末ないし6世紀のはじめころに存在していた。石上の聖域がいかに倭王権において重要視されていたかは、特別に神宮と尊ばれたのにもはっきりとみいだされよう。
 出土と伝世
-明治7年(1874)に石上の禁足地を宮司の菅政友が発掘調査して出土した遺物、その後の二度におよぶ発見品がある。その主要なものに、硬玉製勾玉・碧玉製管玉・硬玉製棗玉・金銅鐶・環頭大刀柄頭・琴柱形石製品などがある。四世紀後半にさかのぼる遺物が少なくない。方形の境界らしい施設内部から出土したといわれるこれらの遺物は、その禁足地が祭祀遺跡であったことを示す。そして四世紀後半のころにはまつりの場として聖域視されていたことを推測さる。
 その石上の聖域に、宝物や武器類が倭の王家や「諸家」から貢上されて、前述のような神庫ができ、さらに天武朝以後には兵庫としての性格を強めていったのである。
銘文の解読
 ここにいたって菅政友は、年号を「泰始4年」とした考えを保持しながらも、神功皇后52年9月の条の「七枝刀」に結合して「此時百済王の献れるものなるべし」とのべた。
 泰始四年(268)を、『日本書紀』が註記するところにしたがって、彼は「我が神功皇后摂政の68年戊子にあたれり」としていたわけだが、他方においてそのおりにつくられた刀としながら、「任那考」では、それよりも以前になる神功皇后52年に献上されるという、つじつまのあわない解釈をこころみた。菅政友自身の論理に矛盾があった。その論理に破綻のあったことは、彼が作刀の年とした神功皇后摂政の68年よりも16年前に七支刀が献上されるという解釈におちいっていったことをみてもわかる。
『日本書紀』には朝鮮諸国を「蕃国」視した叙述の態度が少なくない。その史書にみえる「七枝刀」の「献上」をもって、この七支刀を百済王が倭王に献上した刀と解釈するのは、結果として『日本書紀』の朝鮮史観にくみすることになりかねない。
 年号の謎
 やはり七支刀の性格をより明確にすることは、古代における倭王と百済王の関係をたしかめる上での重要な問題である。そのゆえにこそいろいろな論議がつみ重ねられてきたのでもあると思う。
-百済における年号の使用は、高句麗や新羅よりもおそい。当時はたして百済独自の年号があったかどうかは疑問である。高句麗では四世紀末は永楽という年号のあったことが高句麗好太王碑文によってたしかめられるが、百済に「泰和」あるいは「泰初」の年号があったとする確証はない。これを逸年号とする考えもあるが、『晋書』によって百済と東晋の通交をたしかめうること、そして東晋で泰和という用字の年号のあったことがたしかなことなどから、東晋の年号とみなす説のほうが説得力をもつ。
 作刀の主体
 従来の研究では、とかく銘文のみが問題となってきたが、それだけでは不十分である。書体や形状・金象嵌の問題などについての考察も必要である。銘文には、百済王が「故為倭王旨造伝(示)(後)世」とあって、作刀の主体を百済王としているばかりでない。七支刀のような形状をした刀は、古代の中国でまだみつかっていないことも、東晋を主体とみなす説の弱点となろう。
 ところが、朝鮮では類似の儀佼用鉄器がある。私が実見したのは、1962年に漆谷郡仁同面黄桑洞一号墳出土のもので、長さは24センチ、1971年釜山市東莱区五倫台遺跡出土の、長さ21センチと14.3センチの異形鉄器である。
 七支刀と同じように身の左右に三つずつの枝がある。威陽上栢里の墳墓群などからも出土しているが、それは刀ではなく儀仗用のものとされている。
 倭王と百済王
 百済側の作刀とみなす以上、当時の百済がどのような状況にあったかをたしかめておかねばならぬ。
 泰和4年(369)のころの百済王は近肖古王(在位346年~375年とする)であった。三世紀の段階では北方に高句麗があり、朝鮮半島南部には馬韓53ヵ国、辰韓・弁韓それぞれ12ヵ国が存在した(『魏志』)。ところが四世紀に入って高句麗はその支配領域を拡大し、313年には楽浪郡をほろぼす。そして馬韓は百済によって統一され、辰韓は新羅によってまとまり、弁韓でも伽耶諸国が発展した。
 泰和四年(369)のころは、百済の勢力がいちだんとたかまりをみせた時期であった。南下する高句麗の軍勢と北進する百済の軍勢との争いは激しくなり、369年には両勢力の交戦がくりひろげられた。371年には百済の勢力は平壌に侵入し、高句麗の故国原王(ここくげんおう)はついに戦死する。
 372年、東晋は使者を派遣して百済王余句(近肖古王)に鎮東将軍楽浪太守の号を授けている。百済の実力を高く評価したためであろう。
 当時の百済の勢力は、いっそうのたかまりをみせていた。そのおりの百済王が、倭王に服属して、七支刀を献上したとすることは、百済側の情勢から考えてもありえない。
 銘文じたいに、百済王の倭王への献上ということを確証する文言はなく、じっさいに当時の百済側の情勢は倭王に臣属するような情勢でもなかった。「百兵をしりぞく」とするこの僻邪の呪刀が、作刀されて倭王に与えられたのは、その軍事的同盟を強化するためであったろう。
 それならなぜ『日本書紀』は神功皇后52年9月の条に、百済の久氐らが「七枝刀一口、七子鏡一面および種々の重宝を献る」としるしたのであろうか。この記事を信頼して献上説を主張されてきた場合が多いのだから、その追究もなおざりにはできない。
 いずれにしても、その信憑性に問題の多い神功皇后紀にみえる「七枝刀一口、七子鏡一面および種々の重宝を献る」の記載で、石上神宮に伝世されてきた七支刀を、百済王が服属のしるしとして、倭王に献上したなどとはいえない。かつて指摘したことがあるように、七支刀は百済側の作刀であって、その銘文にしるすところは、百済王の立場から倭王へ与えたものとみなすべきであろう。ただしそれはあくまでも百済王の立場を表明したものであって、倭王がこれをどう認識したかは別の問題である。
 石上神宮の所蔵となったこの七支刀は、いったいいつごろ石上神宮に納められたのか。それはこの倭王をどのように認識するかという点ともかかわってくる。

4章-倭国王の史像

1 王者の伝承

広開土王陵碑
 鴨緑江(おうりょくこう)中流域北岸にあたる中国東北地区吉林省集安(輯安)にある広開土王(好太王)陵の碑文は、古代における日朝関係を考察するのに不可欠の資料として
 重視されてきた。角礫凝灰岩の梯形四角柱のこの碑は、高さ6.34メートルで、総計1,800字あまりの碑文が碑の四面にしるされている。
 集安は高句麗の王都があったところで、その都城は国内城(丸都城)とよばれていた。広開土王のつぎに王となった長寿王は、427年に平壌へ遷都したから、広開土王は国内城にあった高句麗王朝最後の段階に位置した王ということになる。
 碑文は三つの部分で構成されている。第一段は序の部分にあたり、高句麗王朝の始祖がどのような出自であったかをのべ、建国の由来と広開土王の勲功をたたえて、陵をつくり碑を立てる事情がしるされている。第二段には広開土王の業績を編年的に叙述し、第三段には守墓人の烟戸(えんこ)および守墓人の制を定めたいわれがみえている。
 広開土王陵の碑文で、もっとも重視されてきたのは、第二段の「百残(新)羅は、旧(もと)是属民、由来朝貢す。而るに倭辛卯の年を以て来り海を渡り、百残口□口羅を破りて、以て臣民と為す」にはじまる個所である。
 碑文の解釈
 碑文にいうところの「倭」「倭賊」「倭冠」をいわゆる大和朝延の軍とみなす考えについては、反省すべき点があることを、未熟ながらに推定したことがあるが、碑文にみえる「倭」「倭賊」「倭冠」をいわゆる「大和朝廷」の軍とみなしうる確実な証拠はない。
 -中国や朝鮮の史料にみえる「倭」には、それらの史料の性格と記録の時期および筆録者の用いた原伝とその認識によって、日本列島内居住のものをさす例ばかりでなく、朝鮮半島南部などに居住したものを意味する場合がある。したがって、「倭」のすべてを一律に日本列島内の「倭」ときめるわけにはゆかない。
倭国の記載
 五世紀における倭王の伝承として有名なのが、『宋書』などにしるす、いわゆる倭の五王である。その関係記事は、つぎの中国史書にみえている。唐の貞観年間(627年~648)に房玄齢が撰集した『晋書』、斉の永明年間(483年~493)に沈約が編集した『宋書』、梁のショウ子顕が撰した『南斉書』、唐の銚思廉の『梁書』、唐の李延寿の『南史』がそれである。
 中国史書では、502年の進号記事を最後に、唐の魏徴の編纂した『隋書』にみえる遣使朝貢まで、98年間は「倭国」との交渉についての記載はない。
-そして七世紀に入って、たとえば「新羅本紀」文武王10(670)12月の条に「倭国更て日本を号す、自ら言ふ、日出つる所に近し、以て名となす」というような記事がでてくる。
 倭国王の系譜
 五世紀の中国南朝と通交した倭国王の名として中国史書にみえるのは、讃(賛)・珍・済・興・武である。そこで世に倭の五王という。五王の関係史書のなかで、もっとも成立年代の古いのは、『宋書』である。その成立は永明年間(483年~493)だから、478年の遣使朝貢・上表のことをしるすこの書は、まさに同時代史としての性格をもつ。
王統の所在
 中国史書における倭国王の系脈についても、このようになお問題がある。だが明らかなことは、少なくとも済・興・武の系譜は-すべてに共通しており、443年に遣使朝貢した倭王済から478年に遣使上表した倭王武の段階の王統は同系であったとする認識である。その王権は王者のミウチによる世襲王制として具体化している。
 それならこれらの倭国王は、畿内にあった王者なのか、それとも九州にあった王者なのか。通説では、これは畿内大和の王者とみなされているが、そうではなくて九州の王者とする考えがある。
 いまもし、上表文の「祖禰」の時代の倭国王を九州の王者とすれば、その「西は衆夷66国」というのは、いったいどの地域をさすのか。その「衆夷」は「西の衆夷」であり、「66国」が実数でないとしても、かなりの数となる。いわゆる九州王朝の西は海につながって、この上表文を信ずるなら、「衆夷」の国々の多くは海中に没することになりはしないか。
 これを畿内の王者とみなす場合には、上表文の表現に別の解釈を苦心してほどこす必要はない。それなら「渡りて海北を平ぐること95国」はどうか。これは九州倭王説に有利な表現とみられもするが、この「渡りて海北」という表現はどのように解釈すべきであろうか。
海北の道
-岩上遺跡においては、量的にも質的にも遺物が豊富な17号遺跡と、もっとも少ない19号遺跡というちがいがある。「その差は祭祀自体の軽重の差ではなかろうか」とする注目すべき見解がある。宗像地方の氏族によってになわれてきた沖ノ島の祭祀と、畿内⇔瀬戸内海⇔沖ノ島⇔朝鮮半島・中国大陸という航路の発展によって、対外的な航海の神としての祭祀とが重層する。
 宗像らによる内なる島上と、対外的な航路の発展にともなう外なる島神とのまつりが、沖ノ島の祭祀遺跡にみいだされるのである
 沖ノ島の祭遺跡にあって、北九州在地氏族のまつりの伝統にかぶさって、畿内的性格の強いまつりの色あいがみいだされるのは、畿内勢力の波及を反映するといえよう。 

2 河内の王権

外交の船
 倭の五王の段階における外洋航海の船は、かなり大型化し、人馬を乗せて渡航、来航したのであろう。帆の利用もあったにちがいない。『肥前国風土記』の神埼郡の船帆郷の条に、纒向の日代の宮に御宇しめしし天皇(景行天皇)の巡行説話に関連して、「諸の氏人ら、むらこぞりて船に乗り、帆をあげて、三根川の津に参集ひて」とある例なども参考となろう。
王者の巨墳
 五世紀を中心とする古墳について注目すべきことがらがある。自然の地形(丘陵の尾根上や先端)などを利用した四世紀の前方後円噴は、前方部が後円部にくらべて低く、その築造の場所は、集落をみおろすところに位置するものが多い。ところが五世紀の前方後円墳は前方部の幅や高さが後円部に匹敵するほど発達し、平野部や低地部に築造されて、人工的な造り山の形をとり、その規模も巨大となる。
 四世紀の古墳の副葬品には、鏡・剣・玉などのほか、武器あるいは鉄製の農工具などがあり、被葬者の性格には、祭事の権威におう治者の色あいが強いが、五世紀代においては鏡類よりも、鉄製の武器、あるいは馬具・鉄製農工具がさらに多くなる。装身具も、中国や朝鮮系の金銅製の帯金具や、金・銀製の耳飾りなど、渡来の文物にゆかりの深いものがいちじるしい。
 各天皇陵とされている古墳が、はたしてそれらの王者の古墳であったかどうかについては、考古学者の間からいろいろと疑問が提出されている。しかし、五世紀代の巨大古墳が河内に出現したことは否定できない。
 ここで河内というのは、後の和泉を含めている。霊亀2年(716)には、河内国に和泉・日根・大鳥の三郡をさいて和泉監(いずみのげん)が設けられたが、天平12(740)には、和泉監は廃されて河内国にあわせ、天平宝字元年(757)に和泉国がおかれることになるのだから、和泉国分置以前は、河内に和泉は含まれる。
 こうした古市・百舌鳥両古墳群に象徴される被葬者たちの権力は、いったいいかなるものであったか。これを北九州より侵入した騎馬民族征服王朝説によって説明する見解がある。あるいは逆に大和より河内へ倭王権が伸張したことを物語るとする説もある。とりわけ大和盆地北部の佐紀古墳群とのつながりを重視して、五世紀の河内の王者らの古墳は、大和北部の勢力と系譜的につながるとみなす見解にはさらに追究すべき問題が横たわっている。
 騎馬民族征服王朝説にたいする私見は、別に言及したことがあるのでくりかえさないが、私などは、河内を基盤とするあらたな権力が構築されたと想定している。倭王権の王統とその権力は万世一系的に発展したのではない。大和を中心として、畿内全域に権力が構築されたとみる考えには賛成できないと思う。
ワケ王族の意識
 『古事記』や『日本書紀』には、神武天皇とか応神天皇とかの漢風(からぶり)の諡(おくりな)はない。それもそのはずで、神武天皇から持統天皇までの漢風諡号(しごう)は、天平宝字6年(762)から天平字8年(764)の間に撰定されたものであった。
 『古事記』や『日本書紀』における天皇名は、カムヤマトイハレヒコ(神武)とか、ミマキイリヒコイニヱノミコト(崇神)とかのような和風の論号でしるされている。これらの和風の諡号は、マガリノオホエ(安閑)の殯(もがり-埋葬するまでの喪儀)に諡が献呈されてより以後にできあがったものであろう。
 ところで、そのうちにもホムタワケ(応神)からヲホト(継体)までの王者名には、いちがいに諡はいえない要素がある。そこでこれらの王名は、実名ないしは実際に用いられた名が諡になったのではないかと推定される。
 しかし他で論じたことがあるように、応神天皇から継体天皇までの王名を一律に論じることはできない。その間のには四つのタイプがあって、-応神天皇から継体天皇までの王名にかんしても、そのすべてが実名であるとか実察の名が盆となったものであるとかとはいえない。
 出自の伝承
 河内に巨大古墳が集中的に出現した背後には、河内を基盤とする政治勢力があった。それをワケ王朝(河内王朝)とかりにとよんだことがある。記紀の王統譜においても、三輪のイリ系の王統とワケ系の王統とは直接にはつながらない。
 海辺で生まれたとする応神天皇の出生譚には、海人(あま)系の幼童神の信仰が色濃くまつわる。海辺で誕生したこの幼童は、成長してイリ系のながれをくむナカツヒメを「皇后」とすることで、イリ系と派洛をもつことになる。
 河内の氏族
 三輪君の始祖の出自は河内にあり、陶(須恵)器生産とのゆかりの地において物語られている。三輪君は三輪山周辺の優勢な氏族となるが、その本来の居所は、河内であったとする伝承である。三輪君の祖もさかのぼれば、河内より大和に入ったものであることを伝える。
 朝鮮半島から渡来集団によって伝えられた須恵器生産の地と三輪君の祖が関係をもつ伝えは、三輪山の祭祀集団として三輪氏が大和に定住した段階を暗示する。それは河内王者の勢力が河内から大和へ伸張してゆくのに対応する。三輪君の始祖とするオホタタネコのまつりによって、三輪山の神のたたりがはじめて鎮祭されるというのは、三輪君の始祖による祭祀由来譚であるが、河内の政治勢力による三輪山祭祀権の掌握を反映するといえるだろう。
 倭王と倭国王
 巨大な前方後円墳を築いた政治勢力が河内に存在して、畿内王権が構築された。そしてその王者らのもとに有力な氏族を中心とする政治体制がととのえられていった。その政治・経済・文化の様相においても、前代よりは進んだ王者の代を迎える。
 かなり以前国造(くにのみやつこ)の制にさきだって県(あがた)と県主(あがたぬし)の制の存在したことを究明したことがある。-十数年の歳月がたつ。かえりみて不備の点も少なくないが、第一次県(畿内の県)が4~5世紀のころに成立するとみなす考えかたにかわりはない。
 河内における河内・茅渟(ちぬ)・三野(みの)・志貴(しき)・紺口(こんく)などの県は、河内の王者によって設定され、県内の池溝の開発も活発となり権力をになう有力な基盤となったのであろう。
 だからというので、東アジアにおける倭国王の国際的地位が高いものであったということはできない。438年から462年までの間における倭国王は、中国の官では第三品の安東将軍たるにとどまっていた。ところが百済王は420年に鎮東将軍から第二品の鎮東大将軍に昇格しており、高句麗王も416年に征東将軍より征東大将軍に進んでいる。そして463年には、第一品の「開府儀同三司」となる。倭国王がやっと安東大将軍に任じられたのは武王のおりであって、478年と遅れている。
 東アジア世界における倭国王の地位は、高句麗や百済よりも低い。さらに注意すべきことがある。やはり『宋書』にみえるところだが、438年に珍王が安東将軍倭国王に任命されたおり、倭国の倭隋(わずい)ら13人が平西・征虜・冠郡・輔国将軍にそれぞれ任じられている。
-一時に13人も輔国将軍以上に任命されているのは、当時の外交における倭国王と、他の支配者層との地位に大きな格差のなかったことを示唆する。
 もちろんそれは中国側の処遇であって、その倭国王珍みずからは、『宋書』に明記するように、第二品の安東大将軍を要求しており、倭隋ら13人の第三品の将軍号との問に格差があるべきだとしていた。倭国王珍自身は、他の王族よりは一段高い地位にあると、みずからを誇示しようとしたのである。

3 王朝の命運

王者の実力
 氏姓制(うじかばねのせい)によって、君(きみ)とか臣(おみ)とかの姓(かばね)を与えられた氏族には、独自の伝統を保持するものが少なくないのだが、出雲臣・吉備臣・筑紫君・肥君など、のちに君姓や臣姓をえられた政治勢力には、各地域における地域の首長(王者)としての実力が保有されていた。したがって、畿内を中心とした王権の拡充にたいする抵抗や反乱も具体化してくるのである。畿内の王者らは、これに対応してさらにその王権の内容を整備する必要に迫られる。
 今来の才伎
-五世紀の後期にはじめて倭国王武が安東将軍として承認されたことは、前代よりも東アジア世界における倭国王の地位のそれなりの上昇を示すものであった。そしてその背後には、倭王権による政治体制の充実があった。
 農業共同体相互間の社会的分業を権力によって編成し、王者に使える伴(とも)、それらを資養する部(べ)の制をととのえて、王室内機構を主軸とする政治的身分秩序と徴税体系とを組織してゆく動きが活発となった。そうした動向に大きな役割をはたしたのが、朝鮮半島から新しく渡来した人々であった。
 『日本書紀』の大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇(雄略天皇)7年是歳(このとし)の条には、百済からの「今来(いまき)の才伎(てひと)」の伝えがある。「今来」の「今」が「新」を意味したことは、新しく渡来した百済系を中心とする人々を「新漢」としるし、「イマキノアヤ」とよんでいることでもわかる。そして今来の才伎のなかには「陶部高貴(すえつくりのこうき)・鞍部堅貴(くらつくりのけんき)・画部因斯羅我(えかきのいんしらが)・錦部安那錦(にしごりのあんなこん)・訳語卯安那(おさのうあんな)ら」のいたことがのべられている。
 改変の跡
第一に「日本府」という名称の「日本」じたいが、7世紀後半以後に具体化したもので、五、六世紀の段階にあったとは考えられない。『日本書紀』じたいがのべるところによっても、「任那日本府」の実権が、安羅人を母とした阿賢移那斯(あけいなし)・佐魯麻都(さろまつ)らにあったことを認めて記述した個所もある。さらにまた伽耶諸国に、早岐(かんき)とよばれる諸王の存在したことも『日本書紀』みずからがしるすところである。
渡来の道
 これは一例にすぎないが、『日本書紀』にのべるところによっても、日本海ルートでの高句麗人の渡来があり、越の在地氏族との間に交渉のあったことが察知される。
 渡来のコースは、北九州から瀬戸内海ルートばかりではなかった。敏達天皇二年(573)、同三年の条にも、高句麗の使人が越に来ったことをのべている。
 火国(肥国)葦北地方の優勢氏族であった日羅は、畿内王者に属していたとするだけではなく、日羅は百済に渡って、百済王から百済の官位達率(たつそつ)(第二位)を与えられている。その渡海にかんする記事に「柁師(かじとり)」「水夫」のみえるのも興味深いが、肥後の沿海の地に居をしめた在地の氏族が、百済王に臣属していたとするこの伝承には、九州の氏族のなかには、百済などと直接の交渉をもったもののあったことが物語られている。
 ひつぎの断絶
 六世紀の初葉、畿内の王者を中心とする支配のしくみは、二つの危機にみまわれた。ひとつは、小泊瀬(おはつせ)ワカサザキ王(『記』では小長谷若雀、武烈天皇)の王統が断絶したことである。
 『日本書紀』には、武烈天皇について「もろもろのあしきことをしたまひて、一もよきことををさめたまはず」とのべ、悪逆の王者として描く。不徳の君主はほろび、有徳の君主はさかえる。それは儒教的徳治主義の考えである。
 近江に本拠をもったと考えられる男大迹王の即位について、注目すべき伝えがある。その擁立の密使として活躍するのは、河内馬飼首荒籠であった。馬は軍事ばかりでなく、交通においても重要な役割をになった。その擁立に河内の渡来系集団にゆかりの深い河内の馬飼部の長が参画したとする伝承は、河内のワケ王統とのかかわりあいで軽視できない。
 即位の事情についても注目すべきことがらがある。『日本書紀』によれば、河内の樟葉(大阪府枚方市楠葉のあたり)で即位する。大和で即位したのではない。その擁立の主勢力が河内王統の支持層であったことを示唆する。継体天皇が大和へ入ったのは、本文ではその20年9月であったとし、その宮は大和の磐余玉穂宮(奈良県桜井市池之内のあたり)であったという。
 そして先帝(武烈天皇)の姉であり、億計天皇(仁賢天皇)の娘であった手白香(『記』では手白髪)王女を后に迎えて、河内の王統につなげる。
動乱の果て
 いまひとつの重大な危機は、継体天皇21(527)にはじまったとする筑紫君磐井の反乱であった。『日本書紀』では、その反乱は一年有半におよんだとするが、その本拠は筑後にあったらしく、最後の戦闘は筑紫の御井地方(福岡県三井)でくりひろげられている。その勢力は筑紫のみではなく、火(肥前・肥後)・豊(豊前・豊後)の地域におよび、新羅とも通交をもっていたとしるされている。
 王朝の課題
 継体天皇死後の王統については、王統が安閑・宣化系と欽明系に分裂した両朝が対立したとする説がある。死後の事情もまた複雑であった。
 他方、朝鮮半島における政治情勢にもただならぬ動きがあった。百済や新羅の伽耶諸国にたいする進出、あるいは百済と高句麗、百済と新羅の対立の激化など、そうした朝鮮半島における波動も、六世紀中葉の広庭王(欽明天皇)の世の治政に大きなかかわりをもった。
 六~七世紀は、後期古墳の時代である。この時期になると、小規模な古墳の密集する群集墳が多くなる。その背後には生産力の発展にともなう階級分化の進行が考えられる。
 畿内のみならず、各地域支配者層の支配のしくみは、そうした国内外の情勢に対応する必要に迫られていた。
 『日本書紀』によれば、欽明天皇13(552)に仏教が宮廷に公伝したとするが、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』などでは、それよりは早い538年としており、このほうが通説となっている。しかし仏教もまた大和にまず伝来したのではなかった。
 教団道教が倭国で展開した形跡はいまのところほとんどみられないけれども、民間道教は仏教に先行して受容され、原神道の世界と重層していったし、仏教も高句麗や百済と交渉をもった首長層のなかに伝えられ、渡来の人々らによってひろげられていった。
 『日本書紀』のなかには、渡来系の白猪史(しらいのふひと)の氏族伝承をもとにしるされた注目すべき記事がある。553年に吉備に白猪屯倉(しらいのみやけ)を設置したという伝承、また574年に白猪屯倉とその耕作民である田部を「増益」し、「田部の名籍」を白猪史に授けたとする伝えなどがそれである。土地と民衆の権力による掌握はより強化され、官司制とよばれる官人の機構もととのってゆく。
 そして欽明・敏達朝のころには、宮廷祭官の制ができあがり、大王家の王統譜もととのえられていった。
 各地域の有力首長層を国造として位置づけ、その要地に屯倉を設けて、宮廷(内廷)のみならず、政府(外廷)の組織が強化されてゆく。だが古代の王者が、大王の段階から天皇の段階へとすすむまでの歴程には、なお畿内の支配層と在地の首長層との間の対立があり、また内廷を支持する勢力と外廷に結集する勢力との葛藤があった。そして、六世紀から七世紀にかけてさかんに築造された群集墳の出現に象徴されるような、倭国内部の階級分化の展開があった。あらたな時代を構築する変革への道が醞醸(うんじょう)されてゆくのである。 

 年表索引