私は河原乞食・考  小沢昭一 著  三一書房     0076-692508-2726

1969915日第1版第1刷発行 1974430日第1版第12刷発行
カバー 装幀 早野寿郎 文字 川添清

私は河原乞食・考 表紙

*本書の原型はこういうことだった

 昭和四十年の九月、内外タイムス社から、週一回の連載対談をやれといわれた。いわゆる有名人のお歴々とお前一流の破れかぶれ対談を、というわけである。もともとおしゃべりで話好きだけれども、さて、破れだろうとかぶれだろうと、各界のエライさんと話し合うだけのウンチクが私にあるかどうか-あるわけがない。これはエライことになったと困惑した。
 実は、「内外タイムス」なるもの、創刊より私の愛読するところの新聞で、スケベな私に各種の情報と知識を、若年の頃よりあたえてくれたものである。俳優業を営むようになってからは、「内外」の芸能欄担当者には、少なからぬ信頼を持つようにもなり、くわえて"安保"の時の他紙を抜く"真実の報道"にはすっかり敬服もし、おまけに、それが台湾資本と聞いてますます痛快。つまりゴビイキの新聞だったのである。ゴヒイキの新聞から声がかかってゴヒイキになったのだから断わるわけにはいかない
 どうでしょう「非有名人対談」は。名もなく貧しく、美しく……はなくってもいいから、社会の裏側で、じっと一つことをやりつづけている、しかも、世の中からは、蔑視、白眼視、ないしは横目でみられているような、だれが決めたか世の中の、良識とやらいうものからはちょいとずれてるかもしれないが、しかし、ひょっとすると、そのあたりに、人間の真実が、本来の姿が宿っているかもしれないような、そんな人達にあわせてくれませんか。イエ大したことが私に出来るわけはありません。せいぜいスケベなお話を聞き出す程度で、対談なんてもんじゃありません。でも、何人かのそんな人達に、せっせと話を聞き出しているうちに、それが重なって何かが出て来るような気もちょっとします。そんなことでよろしかったらやらせて下さいと願い出て、OKになった。私としては、愛読者として「内外」から得たものを、私の対談記事から出してもみたかったのである。
 以後四年、未だ新聞掲載中であるが、その中から、芸能、または芸能隣接職能関係の、私のゴヒイキを集め、本稿のために、ひとりふたりくわえて、制限のある新聞よりも、ナカミをコクして、御紹介しようというわけである。
「なかがき・私は芸能史の中にどう生きたらよいのか」より

目 次

Ⅰ はだかの周辺

前説・ウレシイ大阪/トクダシ・ストリップについての考察/外人ヌードとは何たるかについて/私のオクニ=清水田鶴子のことどもについて/トクダシ乙女の語る体験のあれこれについて/トクダシ小屋のトクちゃんの一代記について/残酷、サディズム・ショーについて/「見世物」についての断片的な考察/トクダシ行脚12年の体験あれこれ/特別調査・主要都市周辺トク選ヌード劇場一覧

なかがき・私は芸能史の中にどう生きたらよいのか

Ⅱ 愛敬芸術

大道物売りの口上について/香具師の芸は"愛敬芸術"と呼ばれる/見世物口上・採録/演歌・えんか・艶歌=ならびにえんか師について/のろいの芸-ながし/ハマの弁天小憎=幕間風にあるいはブリッジとして

Ⅲ ホモについての学習

ホモへの好奇心をなぜ持つか/GAY入門/ホモをさぐる/

付録・落語と私

やれやれ/も一つヨイショ

小沢昭一にとって「私は河原乞食・考」は・・・・ 私のための芸能野史-より、抜き書き

 マドイは、新劇俳優としての私が、新劇なるもの、これはシロウトのわざだ、と見てとったのが、そもそものはじめである。いやもちろん新劇七十年の中からは、卓抜した才能や、技術の積み重ねによるすばらしい表現も出た。名優も出来た。しかし、新劇はそもそもシロウトによってはじめられ、シロウトであることに意味があった。クロウトの作ってきた芝居に対する抜本的な反撥が新劇誕生の要因であったのだから、シロウトであればこそ前衛であり得たし、新・劇でもあり得たのである。いま、新劇内部で、初代新劇が旧新劇として、所謂アングラも含む二代目新劇に突きあげられているのも、新劇のシロウトによる、新劇の「再新劇化」であろう。
 私もまたシロウトであった。いまでもシロウトである。新劇に在籍するにふさわしい。だがこのシロウトはクロウトにあこがれるシロウトであった。愚著『私は河原乞食・考』は、私ども芸能者の原点を確認し、芸能者=クロウトの素性を洗い出しながら、シロウトである私の、クロウトに対する思慕の情をつづったものだったが、あれは同時に、シロウトの私がクロウトになり得ない絶望を秘めた綴り方でもあったのだ。この国では、クロウトにならざるを得なかった人々が芸能をになう者としてはホンモノで、そのホンモノに対面しながら、クロウトになりたがっている私のニセモノ性を、実は、「考」えてみたかったのである。「私は河原乞食?考」なのだ。