釜ヶ崎語彙集 1972-1973 寺島珠雄 編著 新宿書房

201385日初版第1刷 ISBN978-4-88008-440-4 C0036  制作スタッフ 編集・校正 前田年昭/編集協力 加納千砂子(新宿書房)/組版・デザイン 赤崎正一/組版協力 今垣知沙子/絵地図作成 井口美彩貴/テキスト入力 原口剛・山西麻依/特別な感謝 写真 中島敏(N)

釜ヶ崎語彙集カバー画像

 本書は、197273年に、編集代表・寺島珠雄、および岩田秀一、大山潤造、竹島昌威知によって書かれた労働者版"釜ヶ崎事典"であり、ドキュメンタリー、ルポルタージュである(一部は『新日本文学』1973年2月号・5月号に発表されたが、寺島は1999年7月22日死去)
 40年前、釜ヶ崎では暴動が頻発していた。それは、労務者と呼ばれた流動的な日雇労働者の生きるための戦争だった。後、戦争は鎮圧され、街は静かに老いた。他方、日本社会の階級戦争は激化し、「中流幻想」を支えた終身雇用や国民皆保険は潰え、自殺者は増えた。ある歴史家は「全国が釜ヶ崎化し、釜ヶ崎は特殊から一般に転じた」と指摘した。
 こうしたときに、40年眠っていた原稿が発掘された奇縁に歴史の必然をみないわけにはいかない。三一書房の編集者であった井家上隆幸氏によって保管されていた原稿が2011年、岩田(中岡光次)に「返却」され、岩田の仲介で寺島珠雄事務所と新宿書房とのあいだで出版契約が交わされ、編集実務は岩田から前田年昭に一任された。
一、章分けと項目の配列は基本的に元のままとし、新たに章タイトルを付した。明らかな誤りを正し、表記を整理した。参照すべき関連項目の明示、および直送項目の追加によって項目同士を関連づけ、また索引を付した。寺島が残したものと併せて中島敏氏の協力を得て写真とキャプションを付した。また、理解のために年表、および当時と現在との対比地図を付した。
一、一部に今日の人権感覚に照らして不適切と思われる語句があるが、歴史的に変化する人権意識、および原文の時代性、編者が故人であることを考慮してそのままとした。

目次

第1章 地域 釜ヶ崎は明治天皇がつくった

釜ヶ崎(a)地名由来の諸説/釜ヶ崎(b)明治末年まで/釜ヶ崎(c)大正の「米騒動」/釜ヶ崎(d)昭和初期/釜ヶ崎(e)核と周辺/釜ヶ崎(f)交通/山谷と釜ヶ崎/霞町/愛隣地区/飛田本通り商店街/飛田(旧遊郭)/オカマ(男娼)(a)/オカマ(男娼)(b)/花売り/女/新世界(a)/新世界(b)/山王町/芸人長屋/旭町/『西成山王町』(流行歌)/高速道路/三角公園/海道公園/仏現寺公園/四条ヶ辻公園/国鉄新今宮駅/ションベンガード/松田町/26号線/府道尼平線/住吉街道・馬淵町・水崎町/西浜(a)/西浜(b)/町名変更案/変わりゆく釜ヶ崎 

第2章 仕事(一) 土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も・・・

建設業/下請/飯場(a)/飯場(b)/飯場(c)/手配師(a)/手配師(b)/手配師(c)/手配師(d)/コーヒー屋のオヤジ(永縄景成)/コーヒー屋のオヤジ(追加)/朝鮮人/タコ部屋・半ダコ/飯場の数(大阪市、大阪府)/親睦会/食い抜き/チャブ付き/諸式/現金貸し/中貸し/預け/トンコ/世話役/ボーシン/兵隊/追い回し

第3章 仕事 (二) 労務者か労働者か

 労働者・労務者(a)/労働者・労務者(b)/アンコ/働き人/現金と契約/直行/仲間手配/ケタ落ち/拾い仕事/土方・土工(a)/土方・土工(b)/土方・土工(c)/とび(鳶職)/シノ/その他の建設業就労/就労のいろいろ/コマ割り/やり終い/分(または歩)/濡れ賃・汚れ賃/出戻り/雨/バレ賃/社/しのぎ屋/三島屋/丸源、丸増ほか/白手帳/港湾(青手帳)/近畿理容美容専門学校

第4章 住 すみかは街のすべて

 ドヤ(a)/ドヤ(b)/ドヤ(c)/ドヤ(d)/労働者用公営住宅/アパート/婦人アパート/日払いアパート(a)/日払いアパート(b)/日払いアパート(c)/バラック/白萩荘/酔い倒れ/アオカン/小鳥/誘拐/父子家庭/イタチ/『釜ヶ崎』(小説)/『太陽の墓場』(映画)

5章 食 めしやは孤独のふきだまり

立ち飲み屋/安い屋/酒を飲む詩/ラーメン/名なしの三軒/灘万/尾栗屋/麦めし屋/しる安/十円寿司/婆ぁちゃんの店/鶴一/赤垣屋/大寿司食堂/京屋(天ぷら)/源九郎食堂とその並び/ラーメンの丸福/鳥屋/ガード下まんじゅう/利休堂/八千代/坂本酒店/おかい屋/京屋(めし)/大寅/だんご汁/かやくめし/大阪屋/大和屋/喜楽/能登屋/丸全食堂/丸高食料店/喫茶店/F(喫茶店)/丸福珈琲店/京屋(喫茶店)/パチンコ/ふろ(銭湯、公衆浴場)、入船温泉/鶴亀バスセンター/貸本屋/一時預り所/露店/四五一賭博/投げ銭賭博/浪速倶楽部/映画館

第6章 行政 福祉というまぼろし

大阪府労働部/あいりん総合センター/大阪勤労者福祉協会/西成労働福祉センター/プラカード/あいりん労働公共職業安定所/更生相談所/あいりん銀行/あいりん小・中学校/救急車/西成市民館/協友会/救霊会館/愛染橋病院/石井十次/有隣学校/徳風学校/日東町市営住宅/四恩学園

第7章 暴動 やられたらやり返せ

 過激派/学生/野鳥の会/釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)/勝浦飲食店/赤軍派/全港湾(a)/全港湾(b)/『大阪城』(機関紙)/藤野昭三郎/医療を考える会/釜ヶ崎越冬対策実行委員会/釜ヶ崎救援会/救援センター/ソーメン代/夏祭り/爆竹/石/『釜族』(雑誌)/京都底辺委員会/『裸』の会/福山鉄工事件/鈴木組事件(a)/鈴木組事件(b)/関西建設事件(a)/関西建設事件(b)/諸事件の公判経過/公開質問状

第8章 権力 国営暴力団という無法

 西成警察署/『コーナーだより』/私服(a)/私服(b)/私服(c)/過激派情報収集専従班/寄生虫同盟/国営暴力団/泥酔保護(a)/泥酔保護(b)/酩酊規制法/交番/警察テレビ

第9章 無縁仏 黙って野たれ死ぬな

医療センター(大阪医療センター)/良寛さん/アル中(a)/アル中(b)/アル中(c)/アル中(d)/精神病/性病/独語症/大和中央病院/阪和病院/精神病院のいくつかの例/解剖用死体/人工死産/結核/肝硬変/バンク(売血)/行路病(a)/行路病(b)/凍死/一つの死/無縁仏

跋 ふしぎの書・ふしぎの人   小沢信男

1

 これはふしぎな書物だ。原稿は40年も前に書かれたのに、いま読んで奇妙にナマナマしいのですよ。
 語彙集とはなんぞや。「ある範囲の単語を集めて一定の順序に並べた書物」と『広辞苑』にあって、ある範囲が、この場合は釜ヶ崎ですね。一定の順序が、地域・仕事・住・食・行政・暴動・権力・無縁仏、という章立てになる。
 これを順に論述してゆけば、大冊の研究書ともなろうが。本書は、章ごとにずらずらずらと単語をならべる。ならべかたはそれなりの順序がなくはないような。単語ごとの記述は長短自在。文体にほぼ一定のトーンはあるものの、考証風、ルポ風、メモ風、ときに激論風と、さまざまです。
 まずは主題の釜ヶ崎から語り起こす。地名の由来はどうともあれ、江戸のころより木賃宿が密集する長町という地域があった。そして、「明治36年3月~7月の間、現在の新世界と天王寺公園を会場に第5回内国勧業博覧会が開かれ、天皇が行幸する道筋に当たり見苦しく畏れ多いことを理由に長町の強制移転が行われた。この時に長町民衆の大挙した今宮村移転があり、今日の釜ヶ崎の素地となった。「釜ヶ崎は明治天皇がつくった」というのは事実である。」
 そのころの長町の各ブロックのあだ名が「百軒長屋、八十軒長屋、灰屋裏、桃の木裏、ほうき裏、かんてき長屋、豚長屋、吉野屋裏、坊主裏、蜂之巣長屋、とんねる長屋、列車長屋、むかで長屋、新台湾。」(「釜ヶ崎(b)明治末年まで」より)
 右もいわば小さな語彙集だな。前近代的な庶民の暮らしむきが、なんとなく偲ばれるではありませんか。これらを蹴り散らかして文明開化の近代化へ。日清・日露の両戦役をへてこの国が資本主義体制を築く過程に、必然的に生みだされた釜ヶ崎だ。東京山谷の賑わいも共通の事情でしょう。同様な街場は横浜にも神戸にも。
「あらゆる規模の建設業者が釜ヶ崎労働者の需要先であり、釜ヶ崎の存在が(山谷も、そして流動的下層労働者のすべてが)建設業そのものを成立させる必須条件なのであり、建設業もふくめた資本総体がその層を作り出し使いすてているのだ。」(「建設業」より)
ときに真っ向に論じながら、まずはならべた単語を具体的に語りつつ、内包する普遍をさぐり、指し示す。本書の、これが基本的な方法らしいのでした。つまり、文学なんだ。

2

 読みだせばすぐに気づくが19723年が本書の現在です。昭和478年、田中角栄内閣が誕生して日本列島改造論が脚光を浴びていた。あさま山荘事件もあった。ハイセイコーが疾走していた。そんなむかしだもの、あらかた移り変わったはずだけれども。飯場、手配師、タコ部屋、エトセトラを、こうも体験的に徹底して現在形で語られると、さながらにいまもあるような。いや、じっさいにそうなのかも。
 たとえば「アオカン」の項目には「アオは青空の青、つまり野外、露天の意味である。カンは中国の古諺『耶郵夢の枕』からきていて、やはり隠語で眠ることをカンタンするというのから上の二字だけとって、アオに接続させたわけだ。アオ空の下でカンタンする=野宿する、という次第。」
 ははあ、そういう由緒でしたか。場所は「三角公園と海道公園、それに総合センター南東の一隅などが有名」で、冬場は終夜焚火を絶やさず、風向き次第で移動もしながら、5円10円をかき集めて焼酎四合瓶を回し呑みする。そういう寒夜はやはり陰惨だが「冷房のないドヤからのがれ出て眠る夏のアオカンはのびやかでいい。」云々。
 そうでした。当時は東京の山谷の夏も、路上でごろごろ明るいうちからお休みになっていて、枕元を恐縮しつつ通りぬけた。釜ヶ崎も山谷も、道路や公園のそこら全体が居住空間だったわけだ。いまはもう山谷もあらかた整頓され、外人観光客の安宿街で知られたりしていますが。
 その代わりに、ひところはホームレス諸氏の青テントや段ボール小屋が、盛り場の公園や地下道に立ちならんで盛観でしたなあ。行政側はせっせと追い散らし、とりわけ最近は、東京オリンピック様をお迎えするべく見苦しく畏れ多いと目の仇に排除しているが。あちこちの小公園に散らばっていったホームレス氏や、ネットカフェ難民の増大や、年間3万人の自殺者や、状況はむしろ広域にわたる。流動的労働力の使い捨ては、たとえば原子力発電所の建設と維持と、そして崩壊の、全過程にますます進行しつつある。であればこそ本書の記述が、こうもナマナマしく迫るのではないか。
 ちなみに「アオカン」の項目の末尾には「→行路病(b)、無縁仏」と、関連項目の指示がある。事態は、そのようにも進む。むかし話ではないのです。
 じつは私は墨田区の生涯学習センターの一室を借りて例月の句会を催している。地元の人々の寄り合いで数年になりますが。つい先年、山谷の住人が一人加わった。小太りの陽気なご老体で、きちんと会費と初心の句を提出してにこにこしている。どうやらテレビをみて作句の傾向なので、嘱目でお作りになるほうがたのしいですよと何度か申しあげた。終わるとさっとひきあげて、喫茶室でのむだ話には加わらない。その人がふいに亡くなり、警察から問い合わせがありました。山谷のドヤで生活保護をうけてお住まいであったが、身許が一切不明。毎月そちらへお出かけの由で、なにか聞きとってはおられまいか。あいにくこちらも、血圧が高めで肝臓がわるいぐらいのことしか伺っておらず。役所の手で無縁仏の処理をされるであろうその人の、追悼句会を催したのでありました。あの人には、テレビの映像から遠い山河を偲ぶのが癒しであったのだろうなあ。往年は酔余のアオカンもしたであろう山谷の風物を詠むよりも。
 右は最近のささやかな体験です。同様のことどもはこんにちの釜ヶ崎でも現実でしょう。または明日のわれらにも、それこそ無縁ではないのではありますまいか。

 本書には写真が随所にちらばり、目を惹きます。「仕事()」の章の目次の写真は「あいりん総合センター一階広場の朝」の景で、建物はいまもこのままの由、この群像は魅力的だ。
 そこで連想がゆく。本橋成一の写真集『上野駅の幕間』へ。200頁ほどのこの写真集は、初版が1983年に刊行された。つまり30年前に撮りまくった上野駅の明け暮れで、東北本線終着駅だったころの、人、人、人に溢れた活況に満ちている。絶版になって多年、ついさきごろ新装版が刊行されて、これが奇妙にも、30年前の初版よりも数段魅力的なのですよ。そこらに坐りこんで酒盛りをする人々も、ホームから線路へ小便するおじさんも、初版とおなじ写真ながら。
 いまの上野駅は、建物の形態はほぼそのままでも、中身は公有から私有に転じてアトレなどの商業駅に清潔に変貌している。新幹線は東京駅が終着で。いまは無き小便くさい民衆駅の、天下万民のものだったころの景況が、さながらに甦ればこそ、なおさらナマナマしく飽きないのです。
 そこらが本書にも一脈共通するだろう。文字と挿入写真で綴られた「釜ヶ崎の幕間」でもあるような。
 本書に登場する人物たちも、それぞれに異色だ。二三の点描をあげれば、
 「花売りはたった一人、もう到底娘とはいえぬ女がいるだけだ。パラフィン紙包みの花束を左胸にかかえたその女は、いつもネッカチーフを髪に結び、エプロンがけで、天候によっては黄色い長靴なんかも履いて歩いている。」酒場に現れるや、トレードマークの第一声「オ花買ッテェ」と。「舌っ足らずふうで、ムリに鼻から出しているようで、聞いただけではまるで幼女的なのが、顔を見ると意外な年増というわけだ。」聞く者が寒気がしようが一貫して押し通し、いまや名物で「花束は100円で売れば儲かるような小さな出来だが、相手次第で値段は上昇する。」(「花売り」)
 こういう焼き鳥屋がある。「酒好きな亭主はしばしば店の客席に回って呑んでいるが、いつも鉢巻きをして仕事の心意気は忘れていない。おとなしいおかみさん、せがれと娘、一家だけの店でカウンターは6人すわると一杯。人の背を通るには息を吸いこんでこっちの腹を引っこめるような狭い店。」ここで某日「25円の串4本、一級酒2杯、ハト一羽、カシワめし。ごく最近筆者がこれだけ呑み食いした代金合計850円。思い出しては行きたくなる店の一つだ。」(「鳥家」)
 または「ここでは誘拐事件がよく起こる。営利誘拐ではなく、可愛いから連れて歩いたという単純誘拐である。」そして老境の労働者が、こう語るのを書き留める。「しんどい思いして稼いだカネを、よその子ォの小遣いにやるのン、勿体ないと思ってはりまっしゃろ。せやけどな、わいが仕事から帰ったとき、おっちゃんおかえりィいうてくれるのン、あの子だけだっせ。旅館の掃除してるおばはんの子ォで、わいとは何の関係もあらしまへんけどな、その一言が嬉しいてなりまへんのや。そいで小遣い100円やって、買うてきたのンをわいもつまみながら、あの子とはなしますのや。」(「誘拐」)
 そこでまた連想がゆく。鬼海弘雄の写真集へ。浅草へ通いつめ多年撮りつづける市井の異色な面構えの人物像は、ライフワークとしていまや海外にも著名だが。1987年刊行の第一写真集は題して『王たちの肖像-浅草寺境内』
 いいタイトルだ。そのまま本書のサブタイトルにも流用できそうな。「王たちの肖像-釜ヶ崎界隈」筆者たちの体験から把握された多数の労働者・営業人・運動家各位の風貌姿勢に、そういう風格がうかがえるのでした。

4

 冒頭の由来にある通りに、じつは本書の一部は40年前に発表されております。
 雑誌『新日本文学』の1973年2月号に「釜ヶ崎語彙集(仮題)1」と題して、編・寺島珠雄。ならべて岩田秀一、大山潤造、竹島昌威知。(まえがき)(仮のむすび)を添えて「釜ヶ崎(a)」以下30項目。5月号には「住みかは町のすべてである-釜ヶ崎語彙集抄2」と題して(仮題)がはずれた。内容は16項目で、長めの記述の項が多かった。
 各項目は、本書の各章にちらばっていて、まさに「抄」です。「釜ヶ崎」の項はほぼ全面的に長大に書きなおされ、加筆推敲の項もいくつかあるが、先の「アオカン」など、そっくりそのままの項も多くて、なつかしい。
(まえがき)を要約して引用します。初出当時の状況がうかがえるので。
  1960年8月に東京山谷で群衆が交番を襲撃する事件が起きた。丸一年後の1961年8月1日に釜ヶ崎でも発生し、読売新聞が翌2日朝刊一面トップに報じた。「1日夜、大阪西成のドヤ街で約千人の群衆が西成署東田町派出所を襲撃、通りがかりのタクシーと同派出所に放火、勢いにのって西成署を襲い、パトカーと護送車をひっくりかえして放火するという暴動事件をひきおこした……」
 右の記事につづけて、こう語る。
 「以来十余年、多くのルポルタージュが書かれ、多くの調査研究がおこなわれ、多くの権力的抑圧が試みられ、いささかの改良施策がすすめられた。しかし前掲の読売新聞が小見出しにした『日ごろの不満爆発』は、いまでもまったく変ることなく、もはや第何次とかぞえられぬまでに『暴動』は日常化している。それはルンペン・プロレタリアートに対して差別と侮蔑の規定をあたえたマルクスにかかわりなく、流動する自由労働者を無視しては建設があり得ないのと等しく変革をも図り得ない状況の証明である。特に釜ヶ崎では、『暴動』で一年先行した山谷にくらべて、さまざまな運動の持続と展開、対応した妨害と抑圧のからみ合いは重層多面化の度を加え、いわばこんにちでは釜ヶ崎にこそ突出的であるゆえに具備された包括性も見出せる。というような現状を、それぞれの生き方で釜ヶ崎にかかわっているわれわれの力で表現しようとしたのがこの釜ヶ崎語彙集である。」
 こういう時節に、こういう気合で生まれた本書です。「現在約300項目について各自が分担をきめて経験を確認したり調べたりしており、ここにはほんの一部しか出してない。」
 本書の総項目は、ざっと240なので、1972年末には網羅的構想ができあがっていた。執筆をすすめ、分類し章を立てる過程で、取捨整頓されたのでしょう。くわえて()に、こう記す。「必要な実証性、客観性をふまえて主観的記述をおこなうという態度が共通の申し合わせになっている。主観が何に拠っているかは大略まえがきで示した。」
 各項目の末尾の平仮名は筆者の頭文字で、多いのは()、編者自身があらかた書いているのだが。章によっては圧倒的に()であったり。()()()()が入りまじったり。無人格的な客観統一などくそくらえ。むしろ変奏的効果をめざして、これこそ共同制作の味ではないか。
 だのに『新日本文学』は、二回の分載でやめた。延々と連載すればさらに呼び物になったかもしれないのに。このときの編集長は小沢信男。なにをかくそう私なのです。それゆえいまこの文章を書くはめにもなって、感慨が胸を満たす。多少のいきさつを申しあげておきます。
 新日本文学会は、1945年8月15日敗戦の年の歳末に創立し、民主主義文学運動の推進母体として機関誌『新日本文学』を刊行する。さまざまな活動をひろげ、1960年代には日本共産党とも対立した。政治的従属を排して革新文学運動の自律へ。再々の危機を持ちこたえながら、積年の疲弊もまぬがれず、体勢立てなおしの試みはつづいた。その一つが197211月・12月合併号の減頁発行でした。従前は160頁から200頁ほどであったのを、一ト月休刊のうえ一気に112頁と薄くして、定価は据え置いた。かつ読者拡大を毎度ながらもよびかけた。いささか荒療治の編集長を、このときは私が買って出ました。
 2年前の1970年に、会の中核を担ってきた幹部会員が集団で脱ける事態があった。創立から25年、そのぶん老けて鈍くなった会よりも、より先鋭な思想運動体の旗揚げへ。そこで空き家になった事務局の責任者に、いきなり私が引きだされた。当時42歳の厄年で、会員歴は長いがおとなしいノンポリの文学中年でした。それが事務局長になって丸2年きりきり舞いをした。あの2年ほど憂き世の修業になったことはなく、かえりみて感謝ですが。印刷所からはこのうえ未払いなら印刷しないぞと再々の警告がくる。取次からは売れない雑誌は減らすぞと扱い部数を削ってくる。そのくせ幹事会には、積年の赤字体質への一種の不感症と、破局的危機感が同居している。肝腎の機関誌は東京のインテリ中心にお高くとまっている気配でなくもない。やせても枯れても全国組織の大衆団体であるからは、刮目の人材が各地に活動していようものを。
 そこで危機感の同志と組んで荒療治にかかり、機関誌の印刷費も紙代も一気に減らして、中身は派手にした。小沢昭一と秋元松代の対談「日本の放浪芸」とか、野坂昭如といいだ・ももの対談「禁書『四畳半襖の下張』談義」とか。これらはみな詩人関根弘のアイデアで、セックスとカネと摩天楼の特集をやろうぜ、という編集方針でした。摩天楼とは、超高層建築時代の到来の意です。
 そこへ関西の寺島珠雄から、「釜ヶ崎語彙集」プランの申し出がきた。願ってもないぞ。各地の人材の登場であり、積年の運動方針の、そのくせなかなか実現しない共同制作ではないか。
 しかし112頁です。うち10頁をエイヤッと提供した。三ヶ月後にまた10頁。あれこれ満載しながらのやりくりでした。ともあれ荒療治で当面の危機は脱した。7月号かぎりで編集長を、同憂の田所泉と交代しました。
 (仮のむすび)にこう記してある。「これを<1>としたが<2>以下を本誌に発表予定しているわけではない。随時随所に分割発表するとして、その最初という意味である。」
 当方も見本帖のつもりでした。あれから星霜40年。待てば海路の日和だなあ。本書の刊行に積年の尽力をされた方々に、そして新宿書房に、深甚の敬意と感謝です。

5

 寺島珠雄も、ふしぎな人です。人物辞典風に記すならば、詩人。1925(大正14)年8月5日東京生まれ。父は警察官で武道家。武道主任として各署を歴任。主に千葉県下で少年剣士として育つ。兄の影響で年少よりアナーキズムへ、とりわけ辻澗に傾倒した。
 反逆の半生は『どぶねずみの歌-廻転し、廻転する者の記録』(三一書房1970年刊)に率直に綴られていて、その痛烈さはとうてい要約不能ながら。あっさりたどれば敗戦の1945年8月15日には、横須賀海軍刑務所の中にいた。海兵団を戦時逃亡の罪により。戦後は私鉄の労働組合書記長をやり、いくつかの雑誌の編集をし、ノガミ=上野界隈の浮浪の徒に交わり、山谷の深夜酒場の板前でもあり、土方飯場のボーシンであり、なぜか網走番外地や長野無番地にもいたらしい。それらを通じてつねに「詩」というよりないものがあった。と、右の半生記の「むすび」に記しています。
 1960年代から大阪に在住する。私がはじめて出会ったのは1972年の夏ごろでした。姫路の向井孝という詩人が、かねてより創意工夫の活動家で、ベトナム戦争時には自衛隊員に反戦を促す手紙をわたすラブレター作戦を展開し、右翼に襲撃された。その人が大阪飛田の近くのアパートへ居を転じて活動拠点とし、サルートンとなづけた。エスペラント語で「こんちわぁ」の意。興味津々。大阪へ所用のついでにお訪ねして、一宿一飯のお世話になった。その朝に、寺島珠雄が訪ねてきたのでした。
 新日本文学会は、コミュニストばかりとはかぎらない。秋山清、岡本潤、小野十三郎と、戦前からのアナーキスト詩人の錚々たる面々もいて、向井孝も寺島珠雄も、それにつらなる詩人たちでした。ほかに私のような左傾気味のノンポリたちもけっこういた。そもそも大衆団体です。
 サルートンをでて、向井、寺島、私の三人で阿倍野駅への坂をのぼり、喫茶店で一服した。まっすぐに人の顔をみる男であった。寺島珠雄のあのぱっちりしたまなざしは、少年剣士の躾であったのかな、と今にして思います。
 『新日本文学』197210月号に、「小さな夜」と題する寺島珠雄の詩が載っていて、本誌に登場したこれが最初。私は事務局長を辞めて編集委員の一人でした。たぶん出会った直後の投稿を、即座に載せた。入会したのはこののち、向井孝と私の二名が推薦者でした。
 釜ヶ崎在住のこのころの文通は、「語彙集」の共同執筆者の竹島昌威知気付であった。のちに梅田駅の近くの古書店宛てにもなった。おそらくドヤよりも確実な私書箱を。機に応じて協力者をつくりだすのにも、どこか卓越した人でした。
 やがて釜ヶ崎をでて、尼崎にアパートを借りる。文筆活動が拡張して資料類がふえる一方だもの。肉体労働がそもそも嫌いでなかった人らしく、知的労働もおなじこと。こつこつ積みあげまとめるのが好きでも得手でもあったのだな。『時代の底から-岡本潤戦中戦後日記』(風媒社1983年刊)にせよ、『小野十三郎著作集』全三巻(筑摩書房1991年完)にせよ、その他何冊もの編集・解説・年譜造りは、対象への親愛と根気と資料収集のたまものではないか。
 この問に東京の古書業界の三羽烏、田村治芳、内堀弘、高橋徹を、関西にいながら協力者にひきつけた。この三氏を私は寺島珠雄から紹介されました。来京のおりに三氏との一献の席を設けてくれた。協力の共有。この面でもじつにマメな人で、これをやられると気づかぬまに自分も協力の輪につながっている。アナーキズムの流儀のひとつか。
 そうしていよいよ生涯の大著『南天堂-松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社1999年刊)に着手する。この国のアナーキズム運動の、とことん実証的な盛衰史。書き継ぐうちに、体内に癌が進行していた。医者にかかって手術などされるよりは執筆に専念する。そもそも国民健康保険にも加入していない。国家権力にも、癌の激痛にも背をむけたこのアナーキストを、拝み倒して入院させ、本籍の千葉の役所をめぐって手続きをとったのは、女性の協力者たちの篤志でした。病院へ私が見舞ったときは、ベッドの上に460余頁の大著のゲラを積みあげ、もはや「あとがき」を書くのみと昂然としておりました。篤志の女性たちもきて賑やかな一刻でしたが。その二十余日後に詐報がきた。その二ヶ月後に遺著は刊行され、出版祝賀会が、そのままお別れの会で、あまたの協力者たちが賑やかに寄り集まったのでした。
 寺島さん、おもえばあなたは強運な人だ。この『釜ヶ崎語彙集』は、四十代の生涯の転機に全力を傾注して、最も世に押しだしたい編著ではなかったか。そのときの若手の協力者たちが、しっかり衣鉢を継いで刊行へ。このただならぬ人材たちと、また引きあわせてくださって、このように協力の輪をつないでいるのでありますよ。
小沢信男(おざわ・のぶお)1927年東京新橋生まれ。作家。1970年以降、『新日本文学』編集、運営にかかわる。著書に『裸の大将一代記山下清の見た夢』『通り過ぎた人々』『東京骨灰紀行』など多数。

 

てらしま たまお

寺島珠雄

[生年月日]1925年8月5日
[没年月日」1999年7月22
 アナキズム詩人。東京府北豊島郡(現・豊島区)西巣鴨町3214番地に、巡査だった父操と母ゆきの二男として生まれる。本名・大木一治(かつはる)。千葉県東金町東金小学校卒業、成東中学校から転校した千葉県私立関東中学校を二年で中途退学。1940年、手刷りの第一詩集『道標のない地帯』刊。ダダイスト辻潤に心酔し、岡本潤に親しむ。書店、工場、炭鉱と職を転々とし、労働と放浪を反復しながら詩や雑文を書きつづける。
 42年に海軍志願兵、44年4月逃亡、後、逮捕され横須賀海軍刑務所に服役。45年8月、日本の敗戦により釈放。翌月九十九里鉄道入社。兄静雄とガリ版誌『ぶらつく』創刊。労組を転々とし、48年7月、詩集『ぽうふらのうた』(武良徒久社)刊。その後、土工、鉄筋工など肉体労働をしながら東京・山谷などを流動するが、66年以降、大阪・釜ヶ崎に。68年2月以降、商業紙誌などが日雇労働者をことさらに「労務者」と呼ぶことに異議を申し立て、全港湾や釜共闘の運動に影響を与えた(74年3月、大阪市は「労務者」を差別用語と認めた)
 69年に竹中労と会い、終世の友となる。同年8月、詩集『まだ生きている』(釜ヶ崎通信別冊)刊。翌年1月、文芸誌『鯤』創刊。3月、自伝『どぶねずみの歌 廻転し、廻転する者の記録』(三一書房)刊。「労働者という言い換えよりも労務者との自己確認が必要」として7412月創刊の『労務者渡世』に参加(「おれたちは労務者渡世「労働者」を捨てた者の反転の論理」『朝日ジャーナル』751121日号)。寺島を評して竹中労は「狂疾」といい、小沢信男は「正眼の人」としたが、謙虚で、若い活動家に対しても優しく、仕事の世話などもして慕われた。
 76年5月、詩集『わがテロル考』(VAN書房)刊。78年尼崎に移る。85年6月、選詩集『寺島珠雄詩集』(石野覚個人発行)1990年、第二次『低人通信』一号発行(終刊は99年5月の42)。アナキズム詩史に通じ、岡本潤、小野十三郎ら詩誌『赤と黒』同人の研究、文献の博捜と綿密な考証で知られ、『小野十三郎著作集』全三巻(90年~91年、筑摩書房)の編集・編註・年譜を担当。95年、阪神大震災で被災するが、習慣の朝風呂途上で身体は無事だった。99年6月、肝臓および食道のガンで入院し、7月22日死去。『南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』(99年9月、皓星社)は絶筆となった。
 著書に『私の大阪地図』(たいまつ社、77)『釜ヶ崎旅の宿りの長いまち』(プレイガイドジャーナル社、78)、『断崖のある風景 小野十三郎ノート』(同、80)、『アナキズムのうちそとでわが 詩人考』(編集工房ノア、83)、『神戸備忘記 詩集』(浮游社、88)ほか。(文責・前田年昭) 

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