風の王国 五木寛之 著 新潮社 1985130日 2刷 1985320

装画 高橋義治  表紙文字 井戸光弘 ISBN4-10-301717-1 C0093 発表誌「小説新潮」昭和597月-9月号

風の王国カバー画像

 

以下は、『風の王国』について、著者(五木寛之さん)が書かれたものの紹介です。(サンカの民と被差別の世界-五木寛之 こころの新書 講談社 200510月より抜き書き)
あの人たちはどういう人なのか、という疑問
十数年前、私は二度目の休筆をした。休筆後にはじめて書いたのが『風の王国』という小説だった。その最初のページにはこんな言葉が書きつけてある。
一畝不耕(いちぼうふこう)  一所不住(いつしょふじゅう)
一生無籍(いつしようむせき)  一心無私(いつしんむし)
 それまでにも、移動、漂泊、放浪の民の系譜に触れた小説はいくつか書いた。『深夜美術館』や『戒厳令の夜』などがそうだ。そして、当時、『風の王国』を書くに当たって、サンカと呼ばれた人びとのことを何年間かずっと調べつづけていた。
 瀬戸内海には「家船(えぶね)」漁民とか「家船」衆と呼ばれる"海の漂泊民"が存在した。一方、その海の背後に広がっている中国山地の山中には「サンカ」という"山の漂泊民"実在していた。この旅のもうひとつの目的は、この「サンカ」といわれる人びとの末裔(まつえい)に会うことだった。
 最初にも書いたように、朝鮮半島から引き揚げてきた私は、九州山地の山ひだにへばりつくような村で少年時代の何年間かを過ごした。もちろん、当時はガスも水道も電気もない。井戸水を汲み、ランプの明かりで暮らすという生活だった。
 そんな山村の大変貧しい農民なのに米穀通帳を持っている家があった。「三反百姓」という呼びかたをしていたが、実際には田んぼは三反もなかったと思う。ということは、米はあまりつくっていなかったということだ。
 それでも、なんとか生活することができたのは山のおかげだった。その山には孟宗竹があって、タケノコが採れた。それから野生の葛(くず)がある。これを採ってきて根っこのところをついて、さらして葛粉をつくった。そしてハゼ。この実からはろうそくをつくる。ミツマタやコウゾは和紙の原料になる。茶もミカンも大きな収入源だった。
 田んぼや畑は非常に少なかったが、山が与えてくれるこうした自然の恵みのおかげで、そこそこの現金収入を得ていたのだった。
 いまでも覚えているが、その山村には年に一回か二回、周期的に訪ねてくる人びとがいた。彼らはメゴを直して編んでくれたり、農具の箕(み)を修理してくれた。メゴとはその地域の方言で、目籠(目の粗い竹籠)のことである。また、彼らは子供をとても可愛がってくれた。アケビのつるで小さなおもちゃのメゴを編んでくれたこともあった。
 あの人たちはいったいどういう人なんだろう、と不思議に思って大人たちに聞くと、「カンジン」だと教えられた。もともと「カンジン」とは、仏像をつくったり寺を建てるために寄付を募る人のことだ。有名な弁慶の『勧進帳』の「勧進」である。
 この言葉は九州から山陽道では「ホイト」と同じ意味、いわゆる「乞食」という意味でも使われていた。「五木の子守唄」の歌詞にでてくる「おどま/かんじん/かんじん」という「かんじん」も、物乞いをして歩く人びとのことを意味している。
 子供のころに九州山地で出会った箕直しや籠づくりをしていた人びと、「カンジン」と呼ばれていたあの人たちは「サンカ」ではないか、と思い当たったのはのちのことである。
 その後、『風の王国』を書くために、サンカについて書かれたいろいろな文献を調べた。そして、サンカといわれる人たちは全国的に回遊しているわけではなく、地域的に回遊するグループらしい、ということはわかった。しかし、そういう人たちがいつから現れたのかということも、当時はまったく明らかになってはいなかった。ただし、存在したということだけは事実だった。
 ちょうどその『風の王国』の構想を練っていた塒期、私は奈良の斑鳩に通っていた。あそこには二上山という変わった山がある。その二上山がいろいろなイマジネーションを与えてくれた。また、古代の天皇陵や古墳などもあちこち回ってみた。修験道の祖とされる役行者小角が修行した葛城山を訪ね、山中を疾駆する役小角のすがたを想像したりもした。葛城古道を歩き、當麻寺へいき、大和の"光と影"の影の部分に踏みこんでいった。そうしているうちに、むらむらとある種のロマンへの妄想がかき立てられたのである。
 その世界に近づいていくと、基本的には天皇制というものとどこかで衝突するのではないか、という感じもした。その一方では、近代小説のリアリズムのなかで敬遠されてきた世界に一度チャレンジしてみたい、という不逞な気持ちもあった。そして、小説なら相当に荒唐無稽な話も許されるだろう、と思ってあの小説を書きはじめた。
 『風の王国』は、ひとりの青年が二上山の山中で、風のように歩く不思議な女性を見たところからはじまる。その彼女は流浪の民「ケンシ」の後裔だった、という設定で物語が展開する。「ケンシ」という呼称は「世間師」という言葉からきたもので、「サンカ」といわれる幻の漂泊民のことを念頭に置いて書いたものだ。
 ただし、あの小説のなかでは、私はそういう移動する人びと、流浪の民が現在の日本の体制のなかにどう生きるか、というテーマで書いている。溶けこむのか、あるいは溶けこむことが無理なら、そのなかでひとつのエコール()をつくりあげるのか、ということだ。
 そのときに不可欠なのは、既存の社会体制のなかに後からはいりこむという大きなハンディキャップを、彼らがどう解決していくかという問題だろう。それにはやはり、相互扶助ということが大事になる。
 そういうハンディキャップを背負った人びとの横の連帯は、夢見ることができるものなのだろうか。それが可能だとすれば、どうやって実現するのだろうか。そんなことを想像しながら、人びとの夢を刺激できればいい、という気持ちで書いたのだった。
「『それでも生きねば』という生へのこだわり
 風俗からなにから見ても、これはサンカに間違いないと思った沖浦氏は、その聞き書きをした人を探して訪ねた。そして、「これはサンカじゃないですか」と尋ねたが、相手はまったく返事をしない。「サンカ」という言葉を使いたくないのだ、と沖浦氏は察した。しかし、二時間以上あれこれ話しているうちに、ついにその聞き取りをした男性自身が、自分はサンカの末裔だということを認めたのだった。
 そのときはそれで別れたが、平成11(1999)年に沖浦氏は広島の部落問題の研究集会に出席した。そのとき、沖浦氏は知人から一冊のパンフレットを手渡された。サンカに関するものがあれば、なんでも知らせてほしいと頼んでおいたからだ。
 そのパンフレットをめくってみて目を見張った。それは、府中市のある地区で刊行されたサンカの人たち自身による記録だったのだ。
 それを読んでみると、まず『風の王国』からサンカの歴史とアイデンティティをめぐる重要な箇所が五頁分抜き書きされていた。その他にも、柳田国男やその他の民俗学者の論考が的確に抜粋されて載っている。また、古老からの聞き書きも紹介されている。
 さらには、四頁にわたって文章が書かれていた。そのなかの「サンカ研究への視座」という見出しにつづく文章は、次のようなものだった(一部を抜粋)
〈そもそも「サンカ」とは何者なのか。
 手元にあるサンカ論とサンカ小説の多くは、ともすればサンカと呼ばれた人たちの暮らしぶりの特異性に関心と話題を求めようとする。その発生起源説もいろんな視点から語られてきたが、まだ学問的な定説は確立されていない。柳田国男の古代山人の末裔説、喜田貞吉の中世の「坂の者」説などさまざまである。
 私の関心は一点、「なぜ人間がこの生きかたを選んだか、あるいは選ばざるをえなかったのか」という疑問であり、サンカと呼ばれた側からの、その生きかたの必然性に迫りたいという問題意識である。
 サンカ論は、「旅」「放浪」「漂泊」をキーワードとして、彼らの暮らしの特異性を都合よく切り取って、論じつくせるものではない。
 どのような要因が、「一所不住」すなわち「所有を断ち切る」という歴史的転換点に彼らを立たせたのか。なぜそのような生活形態を自ら選択したのかという解明こそが、サンカ研究の視点ではないかと、私は考えている。
 それは数ある選択肢の中から、意気盛んに自ら選ぶといったロマンチックなものではない。歴史における支配の差別・弾圧が、苛酷なまでに死の淵、絶望の極みに人間を追いつめ、その時代を生きた多くの人間の怨嗟うずまく中で、生きる術をすべて奪われた者たちの、捨て身の抗いであったであろう。
 それでも人間は生きんとした。サンカ人の選択とは、「それでも生きねば」という生へのこだわりであったと私は考える。〉
 ついに平成12(2000)年秋、広島府中で「サンカ研究会」が開催されることになった。「サンカ」の人たちも出席した。そのとき、ここまで書いたのなら、いまこそこれを世に問うべきだ、と沖浦氏は彼らを説得した。サンカの虚像と実像とがごちゃごちゃになっているのを、人びとにきちんと知らせる必要がある、と熱弁をふるったのだった。
 その話を聞きながら、私は大きな衝撃を感じていた。自らサンカと名乗る人びとがいまも存在するということ。しかも、彼らが『風の王国』の熱烈な読者だったということに。
 私は、いわば小説家としての想像力によって書いているにすぎない。しかし、その作品によって元気づけられたという人がひとりでもいれば、物書きとしてはこれほどうれしいことはない。それが、思いがけず、「『風の王国』のメッセージは、間違いなくサンカの本体に届いた」と聞かされたのだ。まさに作家冥利につきる思いだった。
 そのとき、沖浦氏から「ぜひその人たちに会ってほしい」ともいわれた。実際に、その話を聞いた少し後、府中を訪れることになったのである。幻の漂泊民「サンカ」といわれてきた人びとに会うために。