古代史私注  松本清張 著 講談社 装幀・レイアウト 山岸義明

1981920日第1刷 19811030日第2刷 0021-150987-2253(0)

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第一章

「一大率」は「一支率」の誤写?
*『魏志』東夷伝倭人の条。「一支率」は江戸時代でいえば壱岐守・・・。
「おとなも子供も」か
*中学生用社会科の教科書。「男は大人も子どもも顔や身体に入れ墨している」→「男子無大小」→男子大人も子どももなく、ではなく、男子、身分の高低(大小)にかかわらず、が正しい。
「万二千里」の虚妄
*西域諸国の使者が、それぞれ自国と長安の里数をでたらめに述べた。かくていずれの国の首都も長安から「万二千里」台になってしまった。「万二千里」は長大な距離の象徴化。『魏志』倭人伝の「万二千里」もこの伝であろう。
日本での大形化
*銅鐸・銅剣・鏡・墳墓・仏寺の塔等など、日本に入ってくると大型化する。
「合成」鏡
*三角縁神獣鏡中国・朝鮮になし中国の画文帯神獣鏡の内区に、三角縁画像の縁をくっつけて日本で合成したもの。
方格規矩鏡は「明臺」
*方格(模様の解釈)=明臺(のちに明堂と書く)―天下のまつりを行うところ。方格の中央の高いひもは、明臺の天子の御座をあらわしている。
銅鐸の神秘
*『古事記』や『日本書紀』はもとより『魏志』倭人伝にも銅鐸のことは出てこない。
銅鐸と倭人伝
*西日本の広形銅矛・銅戈のことも、倭人伝の記事にない。
銅鐸文様と饕餮(とうてつ)文
*銅鐸の模様=古代中国の青銅器の饕餮文の模倣
財物
*弥生中期から青銅器に対する考え方が変わった。祭祀用であるとともに「一種の財物」として作られた。「財物」を埋めて保管した。

第二章

日本の「一括埋蔵遺跡(フンド)」
*陪塚-死者を埋葬した設備がなく、器物のみが入っている例が多い。ヨーロッパの青銅器時代末期にフンド(一括埋蔵遺跡)というものがある。
「前方後円」墳ではない
*方円墳は、横から見るのが正面。
喪屋
*「もがり」の期間は大変長い。改葬までに骨にしてしまう洗骨の意味があった。鳥葬
元禄御陵記
*陵墓の江戸時代初期の絵図面
「存名亡実」
*明治22年天皇陵の決定=形式は推知できないが、前方後円墳なら天皇陵にしておこう
銘文解釈への疑問
*稲荷山古墳の鉄剣銘文-先祖の名前を書き連ねて自家の自慢とした制作品。大和朝廷との関わりは薄いのでは。
異例の銘文
*稲荷山古墳の鉄剣銘文-先祖の名前を書き連ねている。神仙の字句が少しもない。通則と違い不思議である。
東西の相似
*伝播というには時間の隔たりが大きすぎるが-九州古墳壁画の船-インドシナ半島やマレーの銅鼓の浮き彫り線刻画の相似-エジプト
地下式横穴古墳
*南九州地下式横穴古墳-中国四川省-カスピ海の南イラン・ギラン州地下式横穴古墳
プレ大化改新
*大豪族は部族の兵力をもち、部族員たる小作人の生産を搾取する一種の独立国だったが、それが分解して中・小豪族ばかりになると、互いに連合するか、大勢力のもとに依存するかで、地位の安全を保つしかない。
壁画がなかった
*マルコ山古墳
壁画がないのは?
*壁画が高松塚古墳にあるのは、被葬者が帰化人だから?
「宇智」の語義
*奈良県宇智郡の大野が大和朝廷の領土の西南の果て-5世紀末
既成概念
*高い封土をもつ高塚墳墓は、4世紀のはじめに外国からきたものである。高句麗よりも、中国そのものが考えられる。
古代の迷宮
*古代模様に渦巻きが好まれるのは、渦巻きを見ていると眼が幻惑されるからで、それが人を迷い込ませるからである。-生-死-生の反復の無限性-「永久不死」の表現ということらしい。
環状列石
*墓場説-住居と村の形を写したもの。最初は、台地上が狩猟生活部族の集会場になり、祈りの対象として列石の施設を作った。後に墓場に変わった。分布は、トリカブトの分布とだいたい一致している。
神籠石
*7世紀のもので、朝鮮渡来系の集落の一時避難場所、平時はまつりなどの集合場所であったろうと私は前に書いた。
*歴史時代以前、人間の脳や骨髄を人間が食べる風習があったことが知られる。骨髄にも有機塩が含まれているから、これは「食人」でも、食肉ではなく「摂塩」である。
見返り品
*三角縁神獣鏡-大和政権への服従のしるしに分与した地方から大和へ入ってくる物の見返り品として大量生産した。
記・紀の関係
*記も紀も同じ修史局で作られた。記-神代中心の別冊読み物。紀-本誌
マスコミの昂奮
1972年高松塚壁画発見-19789月稲荷山古墳出土鉄剣銘の解読-1979122日奈良市の茶畑から太安万侶の墓と墓誌とが発見される。
末子相続
*古代では、長兄や中の兄などが廃されて末弟が親の跡を継ぐ。
風土記「新考」
*後漢の光武帝は、楽浪郡所属の遼東七県を放棄したが、これは江原道の南部だったらしい。七県の中に「邪頭昧」というのがあり、これがのちに消えているので、その住民が日本へ渡ってきた可能性がある。来たとすれば出雲の海岸であろう。「邪頭昧」漢音-ヤトメ-母音消え子音残る-イツモ。イヅモの枕詞「ヤツメ」
多島海文明
*航海による本土と島嶼と、また他の本土への伝達文明である。『魏志』東夷伝に見られるように南朝鮮と北部九州とは朝鮮海峡をはさんで同一の民族文化圏であり、海峡はその「池」であった。瀬戸内海もまた地中海同様に東西に長い「湖」であった。古墳時代になると文化の潮流が逆となり東から西へと流れが変わる。

第三章

雲竜
23世紀のガンダーラ彫刻=渦巻く波の中にヴリトラ(ナーガ・大蛇の変形)。中国西周や戦国時代の器物文様に虺竜というのがある。「常陸風土記」に出てくる夜刀(やつ)の神は、蛇の身にして頭に角(つの)があったという。虺竜の翻訳であろう。
ペルシアのハート形
*古代ペルシャの文様-図柄の左右対称(シンメトリ-)、聖樹、動物、三日月、リボン、ハート型、ローゼットなど。仏教の宝相華文-円形に組み合わされた花弁のような単位がハート形となっている。奈良時代に流行した。中期の古墳から出る金属製の透彫帯金具などがハート形で、日本では心葉形といっている。
宝冠の新月形
*新月(三日月)の頭飾りはササン朝時代のペルシャからいわゆるシルクロードを通って東に伝わり、飛鳥時代や奈良朝初期の日本に渡来したようである。しかし、私には、日本の仏像の宝冠飾りの祖型となっているササン朝ペルシアの宝冠飾りは、それが「日月」をあらわすのではなく、古代エジプトから由来の単化された新月形の野羊の角の上に太陽を乗せているように見える。
紫香楽宮祉
*随・唐の宮殿・官庁・住居の建築配置プランは左右対称となっていて、これがのちに仏教寺院に転用された。唐では役所を「寺」といっていた。住宅を寺としたとき、前庁を仏殿(金堂)とし、後堂を講室(講堂)としたという。
シンメトリー
*左右対称の源流をつきつめると、古代メソポタミアのジッグラート(聖壇)に至るかもしれない。
酒船石
*一種の薬酒をつくる施設ではなかったかと臆測している。波斯人(ペルシア人)が早くから奈良に住んでいたという書紀の記載に結びつけてハオマ(ゾロアスター教の麻薬種)と空想し、拙作「日の路」に書いた。
二面一軀の様式
7世紀の飛鳥の石造物のうち、二面石、男女石人像は、人物二体が前後に密着し、猿石の或るものは一つの身体に顔が前後に付いている。このような異様な石造物は、同時代またはそれ以前の朝鮮の石造物にも中国のそれにも皆無である。ペルシア・アケメネス朝のペルセポリス宮殿の柱頭飾りの彫刻と、時間的にも空間的にも、遙かに関連があろうというのが私の推測である。イランのザグロス山脈中のルリスタン地方から出る青銅器の両面一軀のデザインが、西のトラキアと連絡したことは十分考えられる。
飛鳥のペルシア人
*先日、オリエント学会で「ゾロアスター教徒来日-孝徳・斉明・天武紀の謎に挑む」-7世紀の飛鳥地方にペルシア人が渡来していたとの報告。
伎楽面のモデル
*正倉院蔵伎楽面-酔胡王面、酔胡従面。作者名を見ると大田倭万呂一人を除き、他はイラン系の胡人かと思われる。8世紀前半の平城京にはペルシア人が相当に居住していた。『続日本紀』の波斯(はし)人はペルシア人のことで、唐朝では胡人(イラン系)に帝室の李姓を与える例が多い。
政治の道具
*ペルシア、アケメネス朝の始祖キュロス二世の占領政策-征服民を寛大に扱い、原地人の宗教を敬い、その伝統的な風習を尊重した。-アレキサンドロス大王の東征、統治政策-ヘレニズム。中央アジアのギリシャ人の植民地-ヘレニズムと仏教の融合。-北方の遊牧民諸国家は、漢民族と異民族との融和政策にこの仏教を道具にした。-日本には6世紀に仏教が百済から入り、8世紀前半の聖武朝に最盛期を迎えた。律令制度の階級のやかましいころで、下層の人民はある意味では「異民族」である。仏教をもって「国家鎮護」とした政治的利用ぶりがわかるであろう。
火焔形
アケメネス朝のペルシアの拝火壇は、T字形の壇上に火焔が半楕円形に燃え上がって描かれている。このT字形の壇を蓮華の台に置きかえると、法隆寺のそれになる。ゾロアスター教(祅教)の影響波及。
「光明子」の名
*「光明子」-古代人名に訓みのフリガナをつけたがる一般歴史書の執筆者も、こればかりはルビを振っていない。
 聖武天皇が盧遮那仏の大像を入れる東大寺をはじめ全国に国分寺を創ったのは皇后(光明子)の発案による。盧遮那仏をまつる中国の大雲教寺は摩尼(マニ)教の寺といわれ、ゾロアスター教とキリスト教と仏教の長所をミックスしたもの。古代西アジアのマズタイズムから出た「「光明」信仰の要素が強い。盧遮那仏は密教の大日如来だが、この名の方が太陽を端的にあらわしている。
「桜麻」の一解釈
*麻の栽培は、少なくとも弥生時代後期にはあったらしい。麻の和名は大麻で、漢名は麻黄。8世紀に大麻の栽培が多くなったのは、麻の衣服が一般化したからだ。
 『万葉集』「桜麻(さくらを)の苧原(おふ)の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも」(2687)の「桜麻」について、現代の注釈書では不詳としている。「桜麻」は、栽培した畠の麻の花が満開となり、それを桜に形容して美化した名詞だろうと思う。麻の花は満開になれば花穂が出揃う。その花穂には幻覚作用があり、エクスタシーを起こさせる。そのことがしぜんにわかっていたので、情事の形容が「「桜麻の麻(苧)原の下草」のキマリ文句になったのではあるまいか。

第四章

主流と在野
*考古学の主流は東京大学、京都大学などの「官学」というのがこの学会の構成である。明石原人の発掘者である在野の直良氏が18年刊孤軍奮闘しても認められなかった理由もここにある。」
東大側を歩かず
*鳥居竜蔵は東大助教授となったが、官学系の大学の卒業生ではなかった。辞任し、以後、鳥居は本郷を歩く時、道路でも東大側は歩かなかった。
「通信講座」の恩師
*福山敏男氏(日本建築史の大家であり、金石文の最高権威)と藪田嘉一郎氏(平凡社刊「日本古代の文化と宗教」)
「まとめ」の代りに
 7~8回くらいのつもりで引受けたのが遂に49回、五年間つづくまでになった。題材は次から次へとあるものだと思った。一つのテーマで一回三枚の掌篇を志したので、舌足らずになり論証もほとんど書けなくなったが、短かくてもともかくまとまるものだという「技術」(?)を得た気がする。
 49篇それぞれに愛着がある。なるべく通説を避けて、というよりもそれへの疑問なり反対意見を出すようにしたため、いきおい独断と見られがちな推論となった。が、それは私なりに客観的な傍証を持ってのことである。
 なかには冒険的な主張もある。たとえば飛鳥にある酒船石を7世紀のイラン系の薬酒製造施設と見たことである。そうなると、当然に飛鳥時代にイラン人(胡人)がきたことになり、同テーマで書いた拙作『火の回路』について教示をうけた「恩師」にふれることになる。イラン人の飛鳥渡来については本年になって伊藤義教氏(京都大学名誉教授)の『ペルシア文化渡来考』と、井本英一氏(献轍撚羅語)の『古代の日本とイラン』が出版され、はからずも私の説が側面から支持されるかたちになったが、前者については伊藤氏と榎一雄氏(東洋文庫文庫長)との問で論争が交された(「朝日ジャーナル」)
 イラン文化的要素の渡来では仏像以外に飛鳥の石造物(二面石・男女石人像・須弥山石・猿石)をあげ、両面一躯と噴水式がイラン的であること、とくに猿石の二面または三面の怪獣面にグリフィンの変化を見た。そうしてこれらの石造物は、かつて蘇我馬子の「島」邸宅の池辺におかれた装飾物ではなかったかと想像した。
 イラン系胡人が奈良にもいた記録(続紀)から、伎楽面の「深目隆鼻」はじっさいにイラン人をモデルにして彫刻されたと考える。たんに話に聞いて彫刻師が彫っただけではあれだけの写実感は出てこない。グリフィンといえば法隆寺金堂の天蓋にペルセポリスのダレイオス王玉座浮彫よりの渡来を見る。
 北部九州の珍敷塚(めずらしづか)壁画のゴンドラ形の舟・人・太陽・鳥は、エジプトの壁画と瓜二つであり、南部九州(熊本県)の古墳に多い直弧文は中国の饕餮(とうてつ)文が年代を隔てて影響した可能性があり、両者ともに迷宮的な神秘性の効果があったろう。
 古墳の陪冢(ばいちょう)は貴重な副葬品のみが埋蔵されていて、遺体の埋葬がないところから主墳に付属する「一括埋蔵遺跡」(ヨーロッパのフンドの如きもの)と見るべく、北海道・東北地方にある環状列石はその分布がトリカブトの繁茂地帯と一致し、トリカブトの毒矢使用が『魏志』把婁伝にある同じ風習から、「原アジア人」(三上次男『古代東北アジア史の研究』)とアイヌ人との関連に注目した(よく知られているようにストーン・サークルは北アジアからヨーロッパに及んでいる)
 文献では『魏志』倭人伝にある「一大率」は「一支率」の誤記であろうとし、『古事記』、『日本書紀』は同一の編纂局でつくられた可能性をいった。
 以上はとくに他から説を聞かない点だが、ここに「総括」するにあたって私の知識不足を恥じるしだいである。
後記。-この一連の随筆は、講談社の「本」にあしかけ五年間(昭和51年2月号~55年十12月号)にわたって連載したのを集めたものである。一回三枚に限定したところが多少の手前ミソといえようか。上梓に当って若干訂正加筆した。

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