子どもの替え歌傑作集   著者 鳥越 信  平凡社

扉絵 いわさきちひろ(ちひろ美術館提供)  装幀 嶺 祐子 発行日1998715日初版第一刷発行   ISBN4-582-82926-0

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まえがき

学校怪談」がちょっとしたブームになっている。子ども向けの本はもちろんだが、大人向きにも何冊もの文庫本が出ているほかに、映画にもなった。
「学校怪談」というのはそれぞれの学校に伝わる怖いお話のことで、学校といっても幼稚園・保育園から大学まであるが、今はやっているのは主として小学校・中学校を舞台にしたものだ。無人の音楽教室で真夜中にピアノが鳴ったり、トイレに入ると白い手がのびてきてお尻にさわったり、といったような話で、このたぐいの話はどの学校にも一つや二つは必ずあったはずだから、だれもが子ども時代には聞いたことがあったにちがいない。
 これらの話は、当然学校が存在するようになってから生まれたもので、つまり明治以後ということになる。日本で小学校令が公布されたのは1886(明治19)年のことだから、せいぜい百年と少しぐらいのあいだに生みだされたもので、そんなに大昔というわけではない。
 にもかかわらず、これらの話には特定の作者というものが存在しない。いつのまにか不特定多数の子どもたちによって生みだされ、上級生から下級生へと伝承されて今日に至っている。したがってこれは、「現代の民話」と呼べる物語なのである。
 ふつう私たちは、民話とか昔話とかいうと、何百年も何千年もの昔から、祖先たちによって語りつがれてきたものと考えているが、また事実そうした民話も現にたくさんあるのだが、考えてみるとそれらの民話も生まれたばかりの時期があったわけだから、今この瞬間にどこかで新しい民話が生まれているとしても、ちっともおかしなことではないし、ふしぎなことでもない。
 集団の人間が生活しているところでは、それが農村であれ団地であれ、また会社や学校や病院であれ、どこででも新しい現代の民話が生まれている、と考える方が自然である。
 現代の民話がある以上、現代の民謡もあるはずである。これもまだほとんど手がつけられていない領域だが、伝承民謡であれ現代民謡であれ、民謡と呼ばれる世界は、民話と違って「子どもの管理する」世界ではなかった。したがって、民謡の中で子どもたちが主として歌う歌謡は、「わらべ唄」または「伝承童謡」と呼ばれて、民謡とははっきり区別されている。
 しかし、その世界にも当然現代のわらべ唄が生まれつづけているはずで、子どもの替え歌は中でも最も大きな比重をもった存在ではないだろうか。にもかかわらず、その採集や保存はほとんど手がつけられていない。
 他の伝承文化と同様、子どもの替え歌も、核家族化やガキ大将中心の子ども共同体の崩壊によって、伝承のエネルギーを失いつつある。いずれ日本民話の会などによる全国的な掘りおこしも行われるだろうが、とりあえず私は、子ども自身が生みだした子どもの文化を、この機会に出来る限り記録しておきたい。
-替え歌というものは、元歌がある以上、純粋な創造とはいえず、一種の模倣の文化であることはまちがいないが、さりとて模倣とはいっても、ただ単に手本を忠実に写しとるといった営みでもない、そこにはやはり無数の子どもたちの替え歌を創り出してゆくエネルギッシュな作業が存在しているわけで、その意味ではまさに子どもが作った子どもの文化であり、現代のわらべ唄の一つと位置づけられるもの、とする私の考えを述べた。 
 ところで、本稿の新聞連載が終わった直後に、新しい文献が一つ加わった。それは大阪国際女子大学のコミュニケーション学科が出している雑誌「ポラーノ」の第8号(1997年3月)に掲載された、竹内オサム・亥川朋子「子どもの替え歌」である。この文章は竹内が非常勤講師をつとめる神戸女学院大学の学生・亥川の卒業論文をもとに書かれたもので、おそらく199596年時点での調査と思われる。私が本稿のために、大阪府下の小・中学校の先生に調査の協力を頼んだのが199394年だから、最も新しい資料ということになる。
 ただいずれにしても、網羅的なものがないというのは気になる。これについては、著作権の問題があるから、などの説もあるが、私はやはり替え歌というものが、日蔭に咲いた徒花の如き裏の文化、つまり親や先生の前では堂々と歌えないタブーの文化であったこと、が最大の理由だったのではないかと考えている。しかしそれだからこそ、替え歌は時代を越え、地域を越え、元歌は無くなっても替え歌だけは生き残るといった、エネルギーを持っているともいえるのである。
そこで以下、今あげた文献も随時引用しながら、出来る限り網羅的に記録をしておきたい。

リパブリック讃歌から権兵衛さんの赤ちゃんへ

 アメリカ生まれの「リパブリック讃歌」をもとに、日本人が詞をつけたものが少なくとも三種類以上はあるということは、それだけこの曲のメロディが親しみやすいからだろう。そこで替え歌も次々と輩出することになった。数ある替え歌の中で、最もポピュラーなのは、次の二つだと思われる。
(一)権兵衛さんの赤ちゃんがかぜひいた
   権兵衛さんの赤ちゃんがかぜひいた
    権兵衛さんの赤ちゃんがかぜひいた
   そこであわてて湿布した
(二)オタマジャクシはカエルの子
   ナマズの孫ではないわいな
   それが何より証拠には
    やがて手が出る足が出る
 これらの替え歌がいつ生まれたかはわからないが、おそらく「ばらの唄」が流行してのちのことであろう。私も子どもの時に歌ったし、今の子どもも歌っている。おそらくこれを歌ったことのない人はいないだろうと思われるほど有名で、当然、時代や地域によるバリエーションも、「やがて手も出る足も出る」など多い。例えば最近耳にした歌詞は次のようである。
(三)太郎ちゃんの赤ちゃんがかぜひいた
    太郎ちゃんの赤ちゃんがかぜひいた
   お医者がいそいでとんできて
    そこであわてて注射した
 これにも「太郎ちゃん」が「太郎さん」などのバリエーションがあるが、権兵衛という男名前は、『日本国語大辞典』によると、「(いなかの人に、「権兵衛」という名が多かったところから)いなか者や百姓をみくだしていう語」とある。「権兵衛が種まきゃ烏がほじくる」という有名な俗謡もあるし、「名無しの権兵衛」というのは今でも使われている。
 たしかに、もともとは農村の人に対する差別的なニュアンスもあったようだが、今はむしろややユーモラスなひびきをもつ、庶民の代表とでもいった感じではないだろうか。第一、現実に権兵衛という名を持った人は、まず実在してはいないだろう。
 その点、太郎というのは、花子と並んで昔から男の子の象徴的な名前だから、庶民の代表という意味では、こちらもはまり役といってよい。権兵衛が太郎になったのは、実は単に一つのバリエーションとしてそうなったのではなく、これ自体にも元歌に当たる歌詞があったからである。
 先の『アメリカのうた』に入っている「太郎さんの赤ちゃん」と題する歌がそれで、「トラディショナル・ボーイスカート・ソング」とあるのみで、作詞者の名前はない。つまりこの歌もまた、(一)をもとに作られた替え歌だったことになる。
 「太郎さんの赤ちゃん」が生まれたのは、明らかに第二次世界大戦後のことで、歌詞は「権兵衛」が「太郎」に、「そこで」が「とても」に変わっているだけで、あとは全く同じである。「権兵衛」という名前が時代おくれであるばかりでなく、差別的なニュアンスもあったことから、意図的に「太郎」へと変貌させたのだろう。
 しかし、「湿布した」という、風邪に対する療法としては、もはや使われてはいないような言葉も残っていたので、さらに(三)の替え歌が生まれたにちがいない。「湿布」と「注射」の交替がそれを示しているが、両者の決定的な違いは、三回のくり返しが二回になった点にある。
 同じフレーズを三回もくり返すのは、いかにも芸がなさすぎるし、退屈でもある。だから新しく三行めが加わった、と考えるのは自然だが、ほんとうの理由は、(一)や「太郎さんの赤ちゃん」の歌が、遊戯唄としてバツゲームなどに使われたことと無関係ではない、というのが私の考えである。
『アメリカのうた』に掲載された「太郎さんの赤ちゃん」の楽譜の下に、この歌を遊戯唄として使うさいの説明が記されている。それによると、
(太郎)さんの(赤)ちゃんが(かぜ)ひいた、一回目は普通に歌い、二回目には4の言葉を言わず、その代わりにクシャミの真似をする。三回目はクシャミの前に2の言葉の代わりに胸にしっぷをするかっこうをする。四回目には3の赤ちゃんをだっこしてあやすかっこう、次は太郎さんの代わりに胸に親指をあてて偉そうなかっこうをする。つまり、五回目には歌は一つもなく動作ばかりする。
 云々とある。この説明はひどくわかりにくくて、4とか2とかの数字は具体的に何をさしているのか迷うばかりだが、要するにある部分は声を出さず、代わりにある動作をする、というルールらしいことはわかる。
 子どもの頃、実際に(一)の歌を使って、キャンプの時にバツゲームをしたという人の話によると、そのルールはこんなぐあいだったらしい。まず、最初の行を歌う時は、「権兵衛さん」を口に出さない、第二行では「赤ちゃん」も口に出さない、そして第三行では「かぜひいた」も口に出さない、というもので、口に出してしまった者にはバツが与えられる。
 このルールだと、三行めの歌詞は全くおもてには出てこず、心の中でメロディを思い浮かべているだけの状態となる。つまり、三行めのメロディの長さにひとしいあいだ、沈黙の時間が流れることになるわけである。
 さらに驚くべき事実がわかったのは、新聞連載中にいただいた読者の手紙からだった。豊中市在住の竹中良輝さんというアメリカの音楽にくわしい方からの知らせで、何とアメリカでは、「リパブリック讃歌」とは別に「ジョン・ブラウンのしかばね」という歌詞があり、その替え歌として「ジョン・ブラウンの赤ちゃん」という歌詞が存在していたのである。
 その英語の歌詞を直訳すると、「ジョン・ブラウンの赤ちゃんが風邪ひいた」と始まり、同じ歌詞が三回くり返される。そして最後は「そこでみんなはショウノウいりのオイルで胸をこすった」、つまり「そこであわてて湿布した」になるわけで、「権兵衛さんの赤ちゃんが風邪ひいた」の替え歌は、実はアメリカ生まれの替え歌の翻訳だったのである。

唱歌

一月一日/港/青葉茂れる桜井の/うさぎとかめ/ツキ/春が来た/われは海の子/日の丸の旗/鳩/牛若丸/浦島太郎/雪/汽車/海/朧月夜/故郷/チユーリップ/ぶん ぶん ぶん/故郷の空/

童謡

靴が鳴る/どんぐりころころ/夕日/しゃぼん玉/夕焼小焼/証城寺の狸囃子/ふたあつ/うれしいひな祭り/みかんの花咲く丘/ロンドン橋/ぞうさん/大きな栗の木の下で/メリーさんの羊/つるのおん返し/おかあさん

歌謡曲

東京節/湖畔の宿/ブルー・シャトウ/瀬戸の花嫁/オクラホマ・ミキサー/かえるの合唱/ドレミの歌/アルプス一万尺/静かな湖畔/グリーン・グリーン
 「ブルー・シャトウ」と全く同じ発想で生まれたのが「瀬戸の花嫁」である。1972年に世に出た歌謡曲で、山上路夫作詞、平尾昌晃作曲、小柳ルミ子が歌って大ヒットとなった
瀬戸は日暮れて 夕波小波
あなたの島へ お嫁にゆくの
若いと誰もが 心配するけれど
愛があるから だいじょうぶなの
だんだん畑と さよならするのよ
幼い弟 行くなと泣いた
男だったら 泣いたりせずに
父さん母さん だいじにしてね
 これが元歌の一番で、二番まであるが、替え歌は前半四行分に対して生まれた。
瀬戸ワンタン
日暮れテンドン
タ波小なミソラーメン
あなたの島エビフライ
お嫁にゆくノリタマ
若いトンカツ
誰もガンモドキ
心配するけれドーナツ
愛があるかラッキョゥ
大丈夫なノリマキ
 「ブルー・シャトウ」同様、四行が十行に増えているのは同じ理由からで、一行に対して二~三カ所の頭韻を踏んでの言葉替えが行われているのである。これが可能なのは、よけいな言葉をはさんでも、それがちゃんと歌えるだけのメロディのまがあるかちで、そのことは実際に歌ってみるとよくわかる。
 唱歌「浦島太郎」の場合は、逆に一行も増えておらず、これはそれだけのまがないためで、これも実際に歌ってみればなっとくできる。したがって、「瀬戸の花嫁」も「ブルー・シャトウ」も、元歌のメロディの特性をうまく生かしているわけで、特に「瀬戸の花嫁」はみごとにすべてを食べ物で統一しているところがすごい。
 ただそれにしても両者ともいわば断片に終わっているのは何としても惜しい。前にも書いたが、えてして最初がうまく出来すぎると、あとがつづかないという例は多いのだが、「ブルー・シャトウ」はなるほど難しいと思えるけれども、「瀬戸の花嫁」なら何とかなったのではないかと思えてならない。

軍歌

戦友/皇軍大捷の歌/月月火水木金金/愛国行進曲/日本陸軍/紀元二千六百年/僕は軍人/

その他・・識美歌・TVアニメ・CM

讃美歌四六一番/サザエさん/ガッチャマンの歌/にっぽん昔ばなし/元気の星

B

B面とは/流水天にあり/青葉茂れる桜井の/キンタロウ/大こくさま/いなかの四季/朧月夜/きらきら星よ/ロンドン橋/ぞうさん/静かな湖畔/行け、レインボーマン/元歌知らず

参考図書目録

A)小泉文夫編『わらべうたの研究』(1969年、同刊行会)
 B)加太こうじ・柳田邦男・吉田智恵男編『おとなの替歌百年』(1971年、アロー出版社)
C)尾原昭夫編『日本のわらべうた』1972年、社会思想社)
D)阪田寛夫『童謡でてこい』(1986年、河出書房新社)
E)小泉文夫『子どもの遊びとうた』(1986年、草思社)
F)岩井正浩『わらべうた-その伝承と創造』(1987年、音楽之友社)
G)森まゆみ『ひとり親走る』(1994年、講談社)
H)川崎洋『日本の遊び歌』(1994年、新潮社)
I)笠木透『昨日生れたブタの子が』(1995年、あけび書房)
J)高田宏『こころの詩たましいの歌』(1996年、徳間書店)
これらのうち、(B)と(I)が替え歌のみを集めた本だが、(B)は「おとなの」と断わりがあるように、内容は春歌・狸歌(わいか)に属するものが圧倒的に多い。また(I)はのちにもふれるが、「戦争中の子どものうた」という副題が示すように、戦時下の替え歌が中心で、網羅的なものではない。他の本はすべてその一部にこどもの替え歌がとりあけられている。

16ページにかかげた文献以外の参考図書目録(登場順)

奥田継夫『ボクちゃんの戦場』(1969、理論社)飯塚書店編集部編『アメリカのうた』(1977、飯塚書店)青木玉『小石川の家』(1994、講談社)堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(1958、岩波書店)野ばら社編集部編『こどものうた-童謡と唱歌』(1986、野ばら杜)河野一郎『英語の歌』(1991、岩波書店)与田準一編『日本童謡集』(1957、岩波書店)山本芳樹編『なつかしの日本軍歌集』(1962、金園社〉林田正他『漫画と軍歌画集』(1937、講談社)安田寛『唱歌と十字架』(1993、音楽之友社)秋元書房編集部編『テレビアニメ主題歌集』(1979、秋元書房)ポール・スノードン監修『ABCDブック』(1995、世界文化社)

あとがき

 本文でもふれたように、私は子どもの替え歌を、子ども自身が創りだした子どもの文化であり、現代わらべ唄の一つである、とする基本的な立場から、とりあえずこれを網羅的に記録することを最も重視した。そのために多くの人たちの協力を得たが、それでもやはり限度があり、本文でも書いた通り、今後は日本民話の会が組織的に採集・保存に当たってくれることを期待したい。本書がそのきっかけになってくれればさいわいである。
 その意味で、残念ながら本文には収録できなかったが、ぜひ記録しておきたい歌詞がある。後で述べる著作権・人格権の関係で、元歌の歌詞はもちろん、作詞家・作曲家の名前も出せないが、唱歌の替え歌で、四種のバリエーションがある。
(一)朝の四時ごろ 弁当箱さげて
   うちを出ていく おやじの姿
   靴は底抜け 地下足袋はいて
   帽子も底抜け 顔は百ワット
   ・・・・・・・・ 
 最後に、著作権などの問題については、平凡社の編集部にすべてお任せした。いろいろとご苦労をおかけしたようだが、それでも結局、「お正月」「たきび」「大きな古時計」「愛は勝つ」「線路はつづくよどこまでも」「ゲゲゲの鬼太郎」「森の熊さん」の七作品の替え歌は記録できなかった。
 中でも、お正月にもちを食べすぎて死んでしまい、霊枢車の到着を待ちわびる「お正月」の替え歌は、子どもの替え歌の定番・古典ともいえる作品で、私が大阪府下の小・中学生から集めた替え歌の中では、最高頻度を示すほど行き渡っているだけに、とても残念でならない。
 私自身も物書きのはしくれなので、著作権や作品の人格権を尊重する気持ちは人後に落ちない。しかし同時に、児童文学の研究・批評を主としてやってきた立場からいえば、「研究・評論上の部分引用」についてまで著作権を主張するのは、どう考えても行き過ぎだと思う。
 私などはしょっちゅう作家や評論家の著作物を部分引用しながら文章を書いており、私の文章もまたたえず部分引用されている。しかし、そうしたことに対して著作権が主張されたことは過去に一度もなかったし、これからもないだろう。
 つまり、児童文学の発展・向上のために、そうした行為は必要不可欠なのであり、単なる著作物の二次使用には当たらないのである。部分引用はおろか、全文引用を余儀なくされる俳句や短歌の世界でも、その研究・評論に著作権上の問題が発生した、などという話は聞いたことがない。
 それに対して、歌詞の部分引用が例外的に扱われているのは、私にはどうしても納得がいかない。これでは唱歌や童謡、流行歌やアニメ主題歌などの歌詞研究が衰微するのは当然で、一種の自殺行為といってよい。
 また替え歌については、作品の人格権侵害との考えもあるようだが、これについても私は異論がある。いずれにせよ、これらの問題について、裁判などの法律問題として争うのではなく、あくまでも文化の問題として、関係者たちがじっくりと話しあうべき時機にきているのではないだろうか。
 私はできるだけ早い機会に、今回のことで生じた私の疑問や意見を文章にまとめて、問題提起をしたいと考えている。
1998年6月 鳥越 信