子守学校 菅生 浩 著 ポプラ社 198012月第1刷 

画家 池田源英 装丁・デザイン小室隆之 8093-105010-7764

子守学校カバー画像

もくじ

〈序章〉虹のかかる日/
西日がさしてまもなく、田んぼの緑のひろがりのかなたに、あわい虹がかかった。
「ばあちゃん、虹がでたぞ」
盆の墓参りに花をそなえる竹筒を、縁側でつくっていた芝田直吉は、かたわらのござに横たわっている祖母のキクにいった。
「あんなにふったんだもの、虹もでっぺよ」
肋膜をわずらっているキクは、だるそうに半身をおこした。キクは万年床からぬけだし、雨あがりの縁側で涼んでいたのだ。
日照りつづきに苦しんでいた、阿武隈山脈のふもとの朝田村は、久しぶりの雨にうるおった。一時間たらずだったが、すさまじい夕立ちにみまわれたのだ。直吉は祖父の三吉と、きゅうりの取り入れをしていてどしゃぶりにあい、落雷の音におびえながら逃げ帰った。
直吉の父の多吉は、5年前の日露戦争で死に、母のタニは、去年の春に病死した。タニが死んだとき、小学6年生になったぼかりだった直吉は、それいらい休学している。一人っ子の直吉は、小作人の三吉とキクと、なかむつまじくくらしているが、生活は貧しい。タニが死んでまもなく、キクが発病して寝こんだので、いまの直吉は、田畑にでたり子守にやとわれたりして、家計を助けている。
「おらの弱い目では、ぼんやりしかみえねえけど、たしかに虹だ……あれ、だれかくるぞ」
キクは小手をかざしていった。芝田家のまえをとおっている村道をやってくるのは、泉澄寺の信覚和尚の妻のウラだった。
「お寺の奥様だ」
直吉はそういうと、竹を鋸で切る手を休め、庭の入口のほうをみた。そこには、芝田家のみすぼらしいたたずまいにはふさわしくない、大きな松がある。横に長くのびた太い枝に縄をつるし、ブランコ遊びが楽しめるので、〈ブランコ松〉とよばれている。
「おめえにまた、子守の話をもってきたのかな?」
「ちがうべよ。このあたりで、いまんとこおらに子守をたのむとこは、ねえはずだ」
直吉がそういったとき、手桶をさげたウラが庭にあらわれた。
「直ちゃん。鯉もってきたから、おめえさんとこの桶さうつしかえてくんち」
「奥様。いつもすまねえこってす」
直吉は庭におり、ウラから手桶をうけとった。手桶のなかには、一尺ほどの鯉が、背びれをせ、水をゆらめかせていた。
「村長様がきて、うちの人と酒をのむのに、鯉のさしみをつくることになって池から三匹すくったら、これが鯉みそによさそうなんで、ばあちゃんに精をつけさせんのにもってきただ。ぐあいはどうだい?」
大柄なウラは、縁側に腰をおろした。
「おかげで、いい気分だぞい。このあいだは蝮の粉をもらったのに、また鯉をとどけてくれるなんて、ほんにありがてえこってす」
キクはしらが頭をさげた。
直吉は手桶をもち、裏庭の井戸へいった。井戸水をくんで大きな桶に手桶の鯉をうつした直吉は、手桶に取り入れたばかりのきゅうりを数本入れ、縁側にもどった。
縁側では、ウラとキクが談笑していた。
「あ、ご本尊がきたぞい……まったく、キクさんのいうとおり、かわっちまったない」
ウラは直吉をみて、笑いをかみ殺した。
「奥様。なあして笑ってんだい?」
「去年の春までは、村一番のわんぱくで、お寺の池の鯉を勝手に取ろうとして、和尚様によく追いまわさっちだおめえが、村でも評判のおとなしい働きもんになるなんて、世の中はふしぎだって奥様とはなしてただよ。なんにも、悪口いってたんでねえよ」
キクも笑いをかみ殺しつついった。
芝田家は貧しかったが、直吉は幼いころから家族にかわいがられ、わがままに育った。それをいっそう増長させたのは、父の多吉の戦死だった。長男は出征を免除されていたのに、多吉は両親の忠告をふりきり、遠い戦場にでかけていった。
小作農の芝田家は、戦争費用の募金に応じられず、軍用にさしだす馬もなかったので、おらがお国のために、と多吉はおもいつめたのだという。働き手がいなくなるのをおそれ、徴兵をさけたがる傾向のあった当時は、多吉の出征は美談になった。しかも、朝田村から出征した9人のうちの、ただ一人の戦死者になり、美談をよりはなやかにした。
そのとき2年生だった直吉は、日露戦争で名誉の戦死をとげた勇士の忘れ形見となり、年上のわんぱくたちの庇護をうけたりもした。直吉のするいたずらは、勇士の忘れ形見への同情として、たいがいのことは大目にみられた。となり村のわんぱくたちと石合戦をして額にけがをした傷あとは、いまもかすかにのこっている。
そんな直吉が、6年生になったころから、しだいにおとなしくなった。それは、タニが肺病で死ぬとき、いましめのことばをいいのこしたのと、そのころから、同年の遊び友だちがいなくなったからだ。日露戦争と冷害のかさなった年の疲労から、まだぬけきれない寒村の典型の朝田村では、6年生ともなると、放課後や休日は野良仕事にだされる。
「あーあ、すっかりはなしこんじやって……三吉さんは、どこさいってんだい?」
いつも無口なのに、めずらしくよくしゃべったウラは、縁側から立ちあがった。
「田んぼの水をみにいっただ」
「そうかい……あしたの朝、墓場んなかの道や本堂の掃除に、だれかきてほしいの」
「え……お寺の掃除なら、去年の夏もおらがやらしてもらっただもの、おらがいくぞい」
「よろしくない……あれ、こんなにできのいいきゅうりを入れてもらって、すまねえない。きゅうりもみにして、村長様にだすべよ」
ウラはそういうと、手桶をさげて帰っていった。
「きょうの奥様は、よくしゃべったない」
子守の口がなかった失望を、直吉はキクにさとられまいとして、明るくいった。
「うん。ずいぶんしゃべったな」
キクはまたござに横たわり、気持よさそうに目をとじた。
直吉はキクからはなれ、縁側のはしで竹を切りはじめ、ふと田んぼのかなたをみつめた。すると、そこにはもう、いつ消えたのか、虹はなく、西日をうけた稲が風にそよいでいた。
〈1章〉真夏の決意/〈2章〉新しい世界/〈3章〉人さらい先生/〈4章〉にぎわう日曜学校/〈5章〉坊っちゃま班長/〈6章〉冬の朝のめざめ/〈7章〉吹雪とふきのとう/〈8章〉子返し地蔵の決闘/〈9章〉ゆかいな新入生/〈10章〉看板生徒/〈11章〉遠足と望郷/〈12章〉野ばらかおる/〈13章〉さまざまなしらせ/〈14章〉荒海のなかの小船/〈15章〉ゆううつな日々〈16章〉行方しれず〈17章〉野辺送りふたつ/〈18章〉進路の選択/〈19章〉別れの季節/〈終章〉十四才の旅立ち
あとがき  菅生 浩
この物語の素材になった郡山子守学校の存在を、1974年の夏にはじめてしったときの興奮は、かきはじめてからも激しく心をたかぶらせ、創作意欲の根源になりました。そのたかぶりは、子守をしながら集団で義務教育をうけた小学生たちへの感動や好奇心をつぎつぎに生み、いまも私の胸のなかで燃えつづけております。
あの夏の日いらい、私は私の創作しようとしている〈子守学校〉に入学し、ようやく脱稿してみると、いつのまにか当時の義務教育年限の6年がすぎておりました。しかし、落第してまだ卒業できないような気がしてなりません。
その6年間をふりかえると、資料を集めたり取材をしたりした日々が、あれこれ頭のなかになつかしくうかんできます。そのなかで、郡山子守学校が公立から私立になってまもない大正末期に1年ほど代用教員をしていた橋本弘道氏のことばが、なぜかこのごろ新鮮な感動をともなってよみがえります。
橋本氏は取材をすませた私を、水郡線の近津という無人駅まで送ってきてくださいました。そのとき、近づいてくる列車のほうをみていた橋本氏は、ふいに目頭をおさえ、生徒たちはみんなまじめでいい子でした、とことばをつまらせながらいいました。
私は橋本氏と二人だけしかいなかったあの静かな無人駅に、また久しぶりに降りたってみようとおもいます。そして、子守学校がなくなった昭和の初期まで在学し、いろいろな少年少女たちにであいながら、そのさまざまな生き方をこれから描きつづけようと思います。
おわりになりましたが、540数枚におよぶこの少年少女小説の執筆にあたり、ご協力ご助言いただきました、友人知人、先輩作家、編集者各位に心からお礼を申し上げます。
198011
主な参考資料 子守教場要覧(松山政治著)/郡山の歴史(郡山市編集発行)/郡山市史第四巻近代(上)(郡山市編集発行)
解説 砂田 弘
いまからおよそ20年前、つまり1960年代の初めのころまでは、農村ばかりでなく都会でも、子どもをおぶった小学生や中学生の姿をよく見かけたものです。まだ家庭に電気製品がゆきわたらず、母親が家事に追われていたため、幼いきょうだいのめんどうは、年上の子どもがみるのがふつうだったからです。私自身、少年時代に十歳年下の末の妹をおんぶして、ビー玉やメンコに興じた記憶があります。
さらに時代をさかのぼり、親たちが朝から晩まで働かなければならなかった上に、一家に7人も8人も子どもがいるのが珍しくなかった明治・大正時代には、子守は年上の子どもに課せられた労働の一つでした。なかには自分の弟や妹ではなく、よその家の子守にやとわれる少年少女たちもいました。これを子守奉公といい、もらえるお金はごくわずかでしたが、貧しい家庭にとっては、ひとりでも家族がへることは、「口べらし」といって、生きていく上に必要なことだったのです。わずか7、8歳で子守奉公にだされることも珍しくなかったといいます。大正時代の有名な童謡『叱られて』(清水かつら作詩・弘田龍太郎作曲)の歌いだしは、「叱られて 叱られて あの子は町までお使いに この子は坊やをねんねしな」ですが、第二節に「二人のお里はあの山を 越えてあなたの花のむら」とあるように、ここにもふるさとの村をはなれて働く子守たちのかなしみがうたわれています。
本編の主人公芝田直吉もそうしたひとりでした。福島県の山村の貧しい農家に生まれた直吉は、父を日露戦争で失い、母にも病気で死なれて、祖父母と暮らしていましたが、祖母が発病してねこんだため、向学心に燃えながらもやむなく小学6年で休学し、農業を手伝ったり子守にやとわれたりして家計を助けていました。しかし幸運なことに親切な村人の力ぞえで郡山市の子守学校に転入することになります。子守学校とは、子守の仕事にしばられて学校に行けない子どものために設けられた小学校ですが、全国に数えるほどしかなく、私もこの作品に出会うまでその存在を知りませんでした。読者の多くも同じだと思います。
13歳の直吉は郡山で子守をしながら勉学に励むことになりますが、さいわい直吉を迎え入れてくれたのは、「学問は身を立てる財本なり」ということばが何よりも好きなこの少年に深い理解を示す河村家の人びとでした。そして物語は、子守学校、河村家、郡山の町を背景に、直吉をはじめ、勇介、仙太、シノといった子守学校の生徒、杉山先生、小使いの定三、河村家の令嬢笙子などを主要人物として展開されていきます。ひとくちでいえば、この作品はわが国の教育史の片隅に埋もれていた子守学校を発掘して、そこに学ぶ子どもたちの喜びと悲しみを描いてみせた物語であると同時に、わずか一年余りのあいだに多くの仲間に出会い、さまざまな出来事に直面して人生にめざめていく、ひとりの少年の成長の物語であるともいえるでしょう。
子守は主として女の子の仕事でしたから、子守学校の生徒のほとんどは女子で、やとわれ子守が半分以上を占め、卒業するのは全体の一割余り、しかも記録によれば、卒業しても女工か女中にしかなれないのでした。ですから、子守学校は怒りや悲しみをもろにぶつけるには格好の素材だったわけですが、作者は努めて感情を抑え、淡々と物語を書き進めています。
たとえば、習字大会で入選した直吉が、修一をおぶったまま表彰を受ける場面は、作中もっとも印象深い場面の一つで、描き方しだいでは、感傷に流されてしまうところです。しかしその描写には気負いはまったくみられず、それがかえって読者に深い感動を呼び起こすのです。私がもっとも好きな、遠足に出かけた子守学校の生徒たちが川を前に、ふだんは歌わない子守歌をいっせいに歌いだすシーンについても、同じことがいえます。目を閉じると、幼い子を背おった子どもたちの澄んだ歌声が聞こえてくるではありませんか。これも作者が努めて感情を抑え、冷静な目で子どもたちを描いているからです。
ところで、恵まれない子どもたちのために献身的な努力を続ける杉山先生や定三おじさんの魅力もさることながら、読者に深い印象を残すのは、なんといっても直吉をはじめ勇介、仙太、シノ、笙子の5人の少年少女たちでしょう。ここには、明治という時代をこえて、いつの時代にも生きている子どもの典型が描きわけられているような気がします。
学問で身を立てることを目標に勉学に励む直吉を理想家タイプとすれば、財産のある家の養子となって商人をめざす勇介は現実派であり、その性格も生真面目一方の直吉とは対照的に陽気そのものです。しかしその勇介も別れの時には涙を流すやさしさを持ちあわせていますし、正義感に燃える大柄な仙太も「子守学校は、さみしい学校だない」としみじみ述懐する少年でした。
ともに美少女でありながら、シノと笙子も対照的です。貧苦にもめげず、子守学校の先生をめざして、したたかでかつ楽天的に生きぬいていくシノに対し、裕福な家庭の娘である笙子は、病身のせいもあって、非現実的なロマンティストであり、最終章で短い生涯を閉じます。しかしこれら五人の少年少女は、それぞれ環境や性格を異にしながらも、将来を夢見る一方で、他人を理解し思いやるやさしさを持っていることでは共通しています。じつはそれが時代をこえて子どもたちが持つ持質でもあるのです。
圧倒的に女子の多い生活のなかで、思春期にさしかかった少年の直吉が、しだいに性にめざめていくようすをきちんと描いているのも、この作品の特長の一つです。15歳で嫁入りすることが珍しくなかったこの時代は、現在とは違った意味で性の早熟する時代だったのであり、直吉の夢精や級友の女生徒の初潮の場面を描くことは、物語にリアリティを与えるためには必要欠くべからざるものだったのです。また、病院に運ぶために直吉が笙子を背おうシーンと、遠足先の山で仙太がタキ子を背おうシーンは、読者の胸をときめかすことでしょう。
背おわれた少女も、背おった少年も、ふだんは幼児を背おっている子守学校の生徒だと考えると、この二つの場面は、子守学校そのものを象徴しているようにも思えます。象徴的といえば、直吉が修一をおぶって毎日通学する狭い〈からかさとおらん小路〉もまた直吉の将来を暗示しているように思われます。
作者の菅生浩さんは、『子守学校』の舞台である郡山市で生まれ育った人で、1974年に自伝的な長編『巣立つ日まで』を発表、この作品で児童文学者協会新人賞を受け、大型新人としてはなばなしくデビューしました。『巣立つ日まで』は、同じく郡山市を舞台に、戦後世代の中学生が人生にめざめていく過程をいきいきと描いた作品で、いまなお多くの子どもたちに愛読されています。
東京の新宿の喫茶店で、菅生さんが私に『子守学校』の構想を熱をこめて語ってくれたのは、いまから5、6年も前のことでした。その熱っぽさと持ちまえのねばりで、菅生さんは長い歳月をかけて取材を続け、構想を練り直して、この600枚の力作を完成したのです。子守学校の記録はごくわずかしかなく、かつての生徒もほとんど亡くなっているために、主人公の直吉をはじめ、物語の大部分はフィクションだと知って、改めて菅生さんの想像力の豊かさに舌を巻いたことでした。上京した直吉を中心に、作者は続く二部、三部を構想中だと聞きます。直吉のめざす公平な世の中とはどんなものなのか-続編の登場する日がいまからたのしみです。
表紙・本文イラスト 池田 源英
表紙・本文デザイン 小室 隆之