子守り唄の誕生 五木の子守唄をめぐる精神史 著者 赤坂憲雄  講談社

装幀者-杉浦康平+佐藤篤司  1994年2月20日第一刷発行 ISBN4-06-149190-3

子守り唄の誕生カバー画像

第六章 宇目の唄げんか

豊後山師と五木の子守唄/

宇目と五木とのあいだに、そうした山師の往来があったか否かについて知るための手掛かりは、わたしの知見の及ぶ範囲では見当たらない。しかし、宇目のナバ山師やスミ山師が、明治十年代からあとに五木地方に入った可能性はかなり高い、と想像される。五木側の資料に登場してくる豊後山師のなかには、宇目の山師も当然含まれていたと思われるからだ。

とはいえ、それら山師(の娘たち)が、宇目地方で歌われていた守り子唄、つまり宇目の唄げんかを五木に運びこみ、それが風土化して五木の子守唄となっていったとする佐藤光昭の仮説には、ただちに従うわけにはいかない。宇目の唄げんかのもっとも際立った個性は、掛けあいによる集団歌唱という形式にある。五木の子守唄には、この掛けあい形式の深まりや展開が見られず、また、ほかに影響関係を云々するだけの強い裏付けがあるわけでもない。可能性のかけら程度は認めつつ、ここでも保留の立場を選びたい。

宇目の唄げんかとは何か/

唄げんかはきまって、夕暮れの橋のたもとや街道で始まる。夕暮れは守り子にとって特別な時間であった。子守りに明け暮れた一日の終わりも近く、疲れ切った守り子たちの背中では、母の乳房を欲しがる赤ん坊の泣き声がひときわ高くなる。守り子の背はおしっこでぐっしょり濡れている。赤ん坊の体の重みが、遠慮なく肩に食い込んでくる。子守りのつらさが凝縮されたようにのし掛かってくる時間、それが夕暮れだった(以下、安藤隆『宇目の唄げんか』による)

はじめから約束して落ち合うわけではない。一人の守り子が歌いだすと、向こうの群れの守り子の一人が、それに応じて即座に唄を返してくる。それが唄げんかの仁義だった。そうしてどこかで唄げんかが始まると、仲間の守り子たちが馳せ集まってきて応援した。いつ、どこで、何人で、といった規則はいっさいなかった。二つの守り子の群れが自然とできあがり、小川や道をはさんで対峙しあいながら、唄げんかに興じた。

つら

①あん子面(つら)見よ 目はさるまなこ ヨイヨイ

口はわに口えんま顔 ア ヨーイヨーイヨー

    いらん世話やく 他人の外道(げどう) ヨイヨイ

やいちよければ 親がやく ア ヨーイヨーイヨー(以下、唯し文句は省略)

    いらん世話でむ 時々ややかにゃあ

親のやかれん 世話がある

    旅の者じゃと 可愛がっちおくれ

可愛がらるりゃ 親とみる

相手方の守り子の顔を椰楡し、挑発すると、すかさず、いらぬ世話を焼く奴らだ、焼いてよければ親が焼く、と激しい文句が返ってくる。すると、いらぬ世話でもときには焼かねばならぬ、親の焼けない世話もあるものだ、とはじめの群れが歌う。あとの群れはやや転調をはかり、旅の者だと可愛がっておくれ、可愛がられれば親と見る、と媚びるように歌ってみせる。

 

当て唄から唄げんかへ/

たとえは、この宇目の唄げんかに関して、たやすく予想されるところではあるが、万葉の相聞歌や上代の歌垣の風習に通じるものがあると語る研究者があった。国文学や民俗学が陥りやすい罠といってよい。しかし、宇目の唄げんかは守り子唄である。あくまで、それは守り子唄の現場から読み解かれるべきもので、位相の異なる領域の手垢にまみれた知見を押しつけて裁断してはならない。

唄げんかも終幕に近付けば、二つの群れは戦いの鉾を納めて、互いの子守り奉公のつらさをエール交換のごとくに歌い合う。子守りはつらいもんだ、身は親方に預け、心ばかりが自分のものだ……、奉公の身だからこそ、お前のような奴でも、おし主(しゅう)様だと奉ってやっているだけのことだ……、そう、子守り相互の憎しみはそっくり旦那家への恨みに転じられ、その共通の敵の前で、守り子たちの幼い連帯感が確認される。それから、正月や盆の一日も早い訪れを願い、ささやかな夢の情景とともに、唄げんかは幕を閉じる。

様式美をもった唄げんか/

宇目郷一帯に見られる、喧嘩文句のやりとりに終始する唄げんかは、まったく同一の旋律の単調かつ平凡なくりかえしである。それにたいして、奥宇目型の唄げんかの場合には、二つの群れabは、あきらかに異なった旋律に乗せて喧嘩文句の送り/返しをおこなう。安永寿延が『増補・伝承の論理』で指摘したように、ここでは旋律そのものが唄げんかの対話的な発想を強く誇張しているのである。

唄げんかの場は自然発生的に形作られる。とはいえ、その場に参加する守り子たちのあいだには、あらかじめ暗黙の了解のようなものが成立している。同じ守り子という境遇を生きてあることに根ざした共感、そこに生まれる精神的な絆が根抵にあり、そのうえで唄げんかという共同の様式ないし場への参加があった。

守り子唄の二つの極北へ

安藤隆が『宇目の唄げんか』のなかで、次のような示唆に富んだ指摘をおこなっている。すなわち、五木の子守唄は「おどん」(一人称)/「あん衆(し)たち」(三人称)の対立が基底にあり、子守り奉公の苦しさを呪い、他国者のひがみや、自己の境涯をひとり嘆く「独白」体となっている。それにたいして、宇目の唄げんかは「俺(わし)」二人称)/「お前」(二人称)の対立で構成され、守り子同士で互いに喧嘩文句を歌い交わす「対話」体を形造っている。そこに、もっとも根本的な相異点が見られる、と。

卓見である、と思う。印象批評に寄り掛かりつつ、いたずらに珍説・奇説を撒き散らすのをつねとしてきた貧しい研究史を思えば、安藤の、この先駆的な仕事は十分に評価されるべきだろう。二つの守り子唄のあいだの決定的な差異が、よく抉り出されている。

今年やここん水 また来年は

どこん流れ川(ご)の 水のもか   (五木の子守唄)

ここも旅じゃが またゆく先も

おなじ旅なら ここがよい  (宇目の唄げんか)

いま鮮やかに、ひとつの構図が浮き彫りになってくる。守り子唄の可能性と限界をその果てまで生き抜いた、守り子唄の二つの極北としての、五木の子守唄/宇目の唄げんか。五木の子守唄が守り子たちの孤立の深みに降り立つことで、流れものの譜(うた)である守り子唄の極北に到り着いたとすれば、宇目の唄げんかは逆に、群れの文芸としての守り子唄の可能性を、その極北まで歩き通すことで拓かれていった世界を垣間見せてくれる。守り子唄の陰/陽が織りなす、思いがけず不思議を孕んだ光景といえるだろうか。

「唄で争う」から「唄を争う」へ。この展開が果たされたとき、ほかの地方の守り子唄がついに到達しえなかった固有の場所に、宇目の唄げんかはたしかに立った。子守り仲闘の内なる対立を越えて、たとえつかの間の連帯感情のなかではあれ、ある精神的な浄化と救済の時-空間を手に入れた。宇目の唄げんかには幽かな救いがある。五木の子守唄を浸している、救いを断たれながら、流されてゆく守り子たちの自己慰安のモノローグの眩きとは、決定的に異質な何かがある。

ここも旅じゃが、またゆく先も、おなじ旅なら、ここがよい、そう、宇目の守り子たちは歌った。諦めの唄ではない、出立の唄だ。いま/ここに生きてある現実を、そのままに引き受けることだ。したたかなる肯定と、秘められた戦いへの意志。群れの文芸としての守り子唄が辿り着いた、もうひとつの極北の世界が、この宇目の唄げんかには豊かに宿されていたと、わたしは思う。

 

 

 

あとがき

ネエヤの子守り唄の底に埋もれた精神史を掘る旅は、ひとまずここで終わる。

ネエヤは守り子と呼ばれた。その守り子たちの唄は、たしかに暗い。暗い湿りを帯びて、忘れられた近代という時間の昏がりから、幽かな眩きの声を響かせてくる。この湿潤な風土が日本の子守り唄を暗く湿らせてきたのか。いや、そうではない。風土や国民性といった、いかがわしい手垢まみれの観念の鋳型に押し込めて、わかった振りなどしてはいけない。それは守り子たちの抵抗の唄だ。

おどんが憎けりゃ 野山で殺せ

親にそのわけ 言うて殺せ

幼い子守りの娘たちが、捨て身で、何か巨大な黒い影に向けて、孤独な戦いを挑んでいる姿が、ここにはある。そんな五木の子守唄を前にして、それでも子守り唄への甘やかな郷愁に酔うことはできるか。わたしにはできない。

現代にかろうじて残し伝えられた守り子唄の群れは、風土という幻想も、身勝手に紡がれつづける郷愁も、ともに拒む。日本の近代だけが、その黎明期に、守り子という奇妙な存在を数も知れず産み落とした。その守り子たちが自己慰安のモノローグとして、ときには対話形式をもって、囁くように、また高らかな声で歌い交わした、それが守り子唄である。

五木へは三度の小さな旅をした。

はじめて五木村を訪ねたのは、五年ほど前の晩秋であった。やがてダムの水底に沈もうとしている村のなかを、一人、ただ黙々と歩きつづけた。いくつかのお堂があり、かたわらには村の人々の苔むした墓が並んでいた。おどま勧進かんじん、ガンガラ打って歩(さる)こ、チョカで飯炊(ままち)ゃち、堂(ど)でとまる……、お堂の縁に腰を降ろしたわたしの耳には、遠く、子守りの娘たちのかすれ声が聴こえた、それを信じることだけはできた。

村役場では、一枚の紙をもらった。五木の子守唄の七十の歌詞を連ねた紙だった。それが、上村てる緒さんの『挽歌・五木の子守唄』から、出典も示さずに無断借用されたものであることを知ったのは、はるか後になって、ようやくこの本のコピーを手に入れたときのことだ。わたしは何年も、この一枚の紙に並べられた七十の歌詞を眺めつづけた。夢想の糸を紡ぐように、その歌詞の背後に埋もれている世界へと想いを馳せてきた。そして、はじめての旅から数年後に、「五木の子守唄考」(『漂泊する眼差し』新曜社刊、所収)と題する五十枚ほどの論考を書いた。

その「五木の子守唄考」を承けて、今回ここに書き下ろした『子守り唄の誕生』は、もはや原形をまるで留めていない。ささやかな辿るべき階梯ではあった。可能なかぎりの資料は集めたが、それにも限界があり、また、参照に値するだけの研究もごくわずかだった。多くの示唆と手掛かりを与えてくれたのは、本文中でも触れたように、上村てる緒さんの『挽歌・五木の子守唄』と安藤隆さんの『宇目の唄げんか』である。地元の研究者の手になる、こうした地道な研究はとかく無視されがちではあるが、きちんとした評価がなされるべきだと、あらためて痛感する。

はじめての五木への旅のとき、わたしは頭地の小学校の校庭で、二人の少年に出会った。縄文の遺跡と巨きな樹を背景にして、写真を撮った。二人の少年とは、手紙を添えて写真を送る約束をした。その少年たちとの約束を果たせぬままに、時間はいたずらに過ぎてゆき、名前と住所を記したメモもどこかに紛れてしまった。五年後の、やはり秋も遅くに、五木村を訪ねた。三度目の旅だった。小学校の教員室で、居合わせた先生に写真を託した。少年の一人は、すでに中学生になっていた。その少年からは手紙が届いた。

ところが、わたしはじつは、いまだに返事を書いていない。そろそろ約束を果たさねばならない。この本が出来上がったときには、二人の少年に、短い手紙を添えて真っ先に送ることにしよう。

わたしにとっては、とても愛着の深い本となった。どれだけ、守り子唄の生きられた現場に届きえているか。書き終えたばかりのわたしには、判断がつかない。ともあれ、近代の闇を幼い背に負った守り子たちの幽かな声に耳を澄ませつづけた日々には、とりあえずの区切りをつけなければならない。

取材の旅に際しては、多くの方々の世話になった。ことに、人吉市のご自宅を訪ねた折りに、上村てる緒さんからはいくつかの有意義な話を伺うことができた。また、宇目町の教育委員会の柴川英敏さんには、貴重な資料を見せていただいた。慎んでここに御礼を申し上げたいと思う。そして、五木への旅に同行してくれた編集者の林辺光慶さんにも、むろん感謝の意を表さねばならない。

1994年1月7日の朝に    赤坂憲雄

 

 

参考文献

本文中で引用、または参照した文献のなかから、主要なものを以下にあげる。なお、本文中で出典を示さずに引用した守り子唄の歌詞は、すべて『日本伝承童謡集成』子守唄篇に拠っている。

守り子唄の歌詞の引用にあたっては、適宜、表記・字体などを改めたことをお断わりしておく。

北原白秋編『日本伝承童謡集成』子守唄篇(国民図書刊行会、1947)

『日本わらべ歌全集』全27(柳原書店、19791992)

尾原昭夫『近世童謡童遊集』(同上第27巻、1991)

熊本県教育委員会編『熊本県の民謡』(熊本県文化財保護協会、1988)

『球磨民謡集』(球磨民謡保存会、1973)

『熊本のわらべうた』(熊本県、1978)

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柳田国男全集・第18巻『民謡覚書』『民謡の今と昔』(ちくま文庫、1990)

岡田希雄「鎌倉時代末期の子守歌」(『歴史と地理』第19巻第1号、1927)

赤松啓介『女の歴史と民俗』(明石書店、1993年、初版は1950)

『村落共同体と性的規範』(言叢社、1993)

松永伍一『日本の子守唄』(紀伊国屋書店、1964)

安永寿延『増補・伝承の論理』(未来社、1971)

臼田甚五郎『子守唄のふる里を訪ねて』(桜楓社、1978)

宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫、1984)

黒田日出男『〈絵巻〉子どもの登場』(河出書房新社、1989)

ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫、1991)

右田伊佐雄『子守と子守歌』(東方出版、1991)

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上村てる緒『挽歌・五木の子守唄』(株式会社エコセン、1973)

木村祐章「五木の子守唄について」(『熊本放送』196311月号)

「熊本の子守唄について」(同上、196312月号)

高群逸枝全集・第4巻『女性の歴史1』(理論社、1966)

米村竜治『殉教と民衆-隠れ念仏考』(同朋舎出版、1987年、初版は1979)

林黒土『五木の守子唄物語』(熊本出版文化会館、1992)

前山光則『球磨川物語』(葦書房、1979)

山本文蔵『秘境五家荘の伝説』(私家版、1969)

丸山学「山師の伝承」(『日本民俗学』第2巻第3号、1955)

黒木章「殿と名子」(『社会と伝承』第2巻第3号、1958)

佐藤光昭「五木の地頭」(「社会と伝承」、第2巻第4号、1958)

「五木村の焼畑作業」(同上、第4巻第2号、1960)

柳田国男編『山村生活の研究』(国書刊行会、1975年、初版は1938)

宮本治人『ふるさと絵姿集』(熊本日日新聞社、1989)

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安藤隆『宇目の唄げんか』(奥宇目民俗保存会、1954)

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熊本商科大学民俗学研究会編『五木 民俗調査報告書』(1972)

五木村総合学術調査団編『五木村学術調査』人文編(五木村役場、1987)

『宇目町誌』(宇目町、1991)

『宮崎県史・資料編』民俗2(宮崎県、1992)

『西米良村史』(西米良村役場、1973)

『椎葉村史』(椎葉村役場、1960)

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赤坂憲雄「五木の子守唄考」(叢書・史層を掘る・第5巻『漂泊する眼差し』新曜社、1992)

「勧進/聖論のための覚書」(『結社と王権』作品社、1993)

日本の子守り唄はなぜ暗いのか。重く湿った匂いはどこから来るのか。近代の闇の底から聴こえてくる、数も知れぬ守り子たちの眩きの唄を解読し、忘れられた精神史の風景を掘り起こす。

はじめに

 子守り唄のある風景は、きまって甘やかな郷愁を漂わせている。子守り唄など聴いたことのない者らの耳にも、それはどこにあるとも知れぬ故郷のイメージとひとつになり、そこはかとない感傷の淵へと誘いかける呪文のような旋律と化して、心地よく響く。それはまた、誰しもがくぐり抜けてきた、しかし、永遠に失われた幼年期のはるかな記憶に意識することのないままに重ねられ、さらに深い郷愁を掻き立てることになる。
 たとえば、「赤とんぼ」(三木露風作詞・山田耕筰作曲)に歌われた懐かしい風景の向こう側からも、かすかな子守り唄のメロディが聴こえてくる。
夕焼け小焼けの赤とんぼ
 負われて見たのはいつの日か
山のはたけの桑の実を
 小かごにつんだはまぼろしか
 子守りのネエヤの背に負われながら見た、暮れなずむ茜色の空のしたを飛びかう赤トンボの群れ、そして、ネエヤが山の畑で背中の自分をあやしつつ、小籠に摘んでくれた桑の実……。この童謡を耳にしたり口ずさむ者はおそらく、それがいつか自分の見た幼き日の原風景であるかのように、知らぬ間に錯覚する。かぎりなく牧歌的な、好情詩のひとかけらにも似た情景には、人を酔わせるものがある。
十五でねえやは嫁にゆき
 お里のたよりもたえはてた
 そのネエヤは十五歳で嫁にゆき、やがて里の便りも絶え、消息も知れぬ遠い人となる。ネエヤはどこに行ったのか。そして、ネエヤの記憶のなかに、この夕暮れの子守りの情景は、いったいどんな思い出として残されたのか。ネエヤとは誰か。ネエヤはどんな旋律に乗せて、どんな子守り唄を歌ったのか。はたしてその唄は、赤子へのやさしい愛を籠めて歌われたか。懐かしい黄昏の子守り唄のある風景の底に、まるで陰画のように沈められたネエヤのうしろ姿に、ふと眼を凝らしてみたい気がする。
 ネエヤは子守りの少女である。どこか、よその村から子守り奉公に雇われてきた、十歳をいくらか越えたばかりの少女であろうか。子守りはたいてい少女の仕事であったが、その子守り娘にもいくつかの種類があった。幼い弟や妹を親に言いつけられて背負う場合、同じ村内で互いに助け合う目的をもって子守りをさせられる場合、そして、よその村の農家や町の商家に子守り奉公に出される場合である。第三の場合は、もっぱら貧しい農家が口減らしのために、七、八歳から十二、三歳くらいの娘を、比較的に裕福な家に年季をかぎって住み込み奉公させたものだ。「赤とんぼ」に歌われたネエヤはたぶん、この、他郷へと奉公に出された、第三の子守り娘の群れのなかの一人であったはずだ。
 子守り唄について語るためには、すでに近代という時間(とき)の水底(みなそこ)に没してしまった数も知れぬネエヤの姿に、その俯きがちなうしろ姿に、とりわけ眼を凝らさねばならない。子守り唄それ自体は、いつの時代にも、どの民族のなかにも見いだされるものだ。しかし、どうやら日本に固有と思われる、ある一群の子守り唄が存在する。子守り唄にもいくつかの種類がある。寝させ唄、遊ばせ唄、そして、子守り娘の唄である。この、第三の、子守りの少女らの自己慰安のモノローグともいうべき子守り唄は、じつは欧米には存在しない。そこには「赤とんぼ」のネエヤがいなかったからだ。
 日本の子守り唄には、暗く湿った印象がつきまとう。母親がゆり籠を静かに揺すりながら、囁くように赤子に歌いかける子守り唄とは、およそ肌合いを異にした世界が、そこには広く、深く沈澱している。聴こえてくるのは、母親のやわらかな愛といつくしみの声ではない。無数のネエヤたちの、たとえば哀しみと怒りと憎しみにまみれた、眩くような幽(かす)かに響きあう声である。ネエヤの存在こそが、日本の子守り唄に固有の彩りを添えた。ネエヤなしには、日本の子守り唄そのものが存在しない。
 あらためて、ネエヤとは誰か、ネエヤの歌う子守り唄とは何か。ネエヤと、その子守り唄の発生から衰滅へといたる歴史を辿る、ささやかな旅を始めることにしよう。それが、日本の近代を通底する精神史的な風景のひと駒を掘る道行きでもあることは、いずれ明らかになるだろう。ネエヤの子守り唄の精神史へ。

第一章 守り子唄への道

子守りという労働のはじまり/
16世紀末、イエズス会宣教師ルイス・フロイス「われわれの間では普通大人の女性が赤児を首のところに抱いて連れていく。日本ではごく幼い少女が、ほとんどいつでも赤児を背に付けて行く」
ここでの子守は家事労働の一種として、兄や姉たちに課せられたものであり、いまだ年季奉公としての子守りではなかったと想像される。
子守り奉公にしたがう娘たち、守り子やネエヤの登場。守り子は群れ寝させ唄でも遊ばせ唄でもない、守り子唄の誕生。
守り子、そして守り子唄の誕生/
近世の文献に見る子守り歌の歌詞-多くは寝させ唄か遊ばせ唄。江戸や京・大坂の都市文化の匂いを色濃く漂わせる内容。発生的には明らかに大人の女たちの子守り唄。
明和91772)年刊行民謡集『山家鳥虫歌』志摩地方の子守り唄
勤めしょうとも 子守はいやよ
お主(しゅ)にゃ叱られ 子にゃせがまれて
間(あい)に 無き名を立てらるる
18世紀後半には、子守りを労働として専業的にになう守り子の群れが現れ、守り子唄もまた歌われはじめていたことは確認される。
七七七五調の守り子唄/
長い子守り唄-歴史は古く、物語性を持って組み立てられたもの。近世の文献資料
七七七五調の子守り唄-水陸の交通が盛んになった近世以降に、広く行われた新しい民謡のタイプ。簡潔さと融通無碍な性格。
鬼っ子と正嫡のはざまに/
わらべ唄-子どもたちが自分の遊びのために歌う唄
子守り唄-乳幼児を眠らせたりあやしたりするために、母親・祖母・守り子らが歌うもの。
守り子唄-守り子たちが守り子自身のために歌う特異な仕事唄と化している。紡績工場に集まった女工の唄に近接するもの。
藪田義雄は、子守りが自身の慰めに歌う子守り唄を、子守り唄本来の性格からは逸脱するものと位置づけている。半ば首肯しつつ、しかし、むしろ逆に、その守り子唄こそが日本の近代にあっては子守り唄の本流をなし、豊かな個性を形作ってきたことを指摘しておかねばなるまい。
守り子という資本主義の子ども/
第一には、奉公子守りにしたがう娘たちの発生について。赤松(啓介)によれば、そうした子守り女の出現は、さほど古いものではない。幕末から明治時代にかけて、めざましく商品経済が発展した結果、商業的ないし高利貸し的な資本が農村へ侵入して、その社会的な解体を促していった。子守り女を雇おうとする中小地主や商人たち、月給生活者などの新しい中間層が形成され、また他方では、維新後の徹底した堕胎禁圧によって、人口も急速に増大したために子守りにたいする需要も激増した。そこに、群れとしての子守り娘が登場してくる背景が横たわっていたと、赤松は考えている。
守り子の発生にかかわる社会=経済史的な説明としては、要を得たものといってよい。わたしが注目したいのは、赤松が奉公子守りの女たちを、近代の「働く女性」の先駆として見定めていることである。近世末期に登場した子守り女は、上代の貴族に奉仕した子守りとも、中世の武家に勤仕した子守りとも、あきらかに範疇を異にするものであった。それはいわば、近世の封建制社会の内部に胎動しはじめた、資本主義的な要素が産んだ子どもである、と赤松はいう。むろん、日本女性史の隠された貌は、その一点から読みほどかれてゆくだろう。
第二には、守り子唄/女工唄の関わりをめぐって。この二つの唄のあいだには、相通ずる点が多く見られる。赤松はそれについて、以下のように説いている。すなわち、近代資本主義が農村深く浸透するなかで、子守り女たちのもっとも大きな需要先であった中小地主層は没落してゆく。年若い娘の一群は、子守りよりも有利な職場をあらたに紡績工場に求め、女工へと姿を変えて転身する。そうして、農村からも都市からも子守り女の影が消えていった。紡績産業が地方の貧農の娘たちを吸収したのである。
守り子唄/女工唄のあいだに相通ずるものが多いのは、守り子/女工が出身基盤や生活環境を同じくし、子守りに出ていた娘が成長して女工になった証拠である、黒煙が地を這う都市の一隅では、まさしく守り子の生まれ変わりの姿である女工が、今度は機械の子守りにやつれ果てている……、そう、赤松は書いた。守り子から女工へと連続する線は、確実にあった。
守り子唄はどこからやって来たか/
赤松啓介の仮説-守り子唄はまず大阪を中心として発生し、それが各地に拡大・伝播していった。
あらゆる守り子唄を網羅する系統図といったものへの欲望は、わたし自身にはない。出自と境遇をひとしくし、生活的ないし社会的な感情を共有している守り子が群れとして存在するところには、よく似た守り子唄が生まれ、それが相互に干渉し合い混合(アマルガム)を起こしつつ、特有の分布地図を描き出すにいたる。とりあえずは、そんな了解に立っておくことにする。
群れの文芸としての守り子唄/
柳田国男が守り子唄を群れの文学としておさえていることである(彼等はたちまち群れをなし群れの空気をつくり、一朝にして百二百の守唄を作ってしまった)。守り子唄には特定の、固有名詞をもった作者は存在しない。しかも、他者からのいっさいの強制なしに、誰か守り子の口ずさんだ唄はいつしか、守り子たちの共有財産として歌い継がれるに至る。私はそれを、群れの文芸と名づけている。
その発生母体となるのは、社会や群れが共同化している空気であり、場であり、感情である。だとすれば、たとえば、ある地方の子守り唄の背後に横たわる精神史を掘る試みとは、そうした社会(その地方の習俗や信仰をふくめた社会の関係のあり方の総体)や群れ(守り子の集団)が共有する、空気・場・感情の深い流れをつかみ出す作業とならざるをえないだろう。
守り子唄のある風景から/
柳田国男が『民謡の今と昔』のなかで、守り子唄の特色を五点ほどあげている。
①唄のことばがその土地の俗語のままであること。
②眼前の情景以外のものを題材としないこと。我と我が身を憐れんで子守りの苦労を歎ずるか、朋輩や家刀自の批評、背の子の問題、たまたまほかの題目といえば、周囲の天然か路上往来の人にかぎられること。
③唄に争気ともいうべきものがあること。「当てる」と称して、ただの会話では言い表わしえないことを、唄の文句で遠慮もなく言ってのける。かならずしも悪意を含んだ口いさかいでなくとも、しばしば気の利いたことばで相手に歌い勝とうと努め、一方は負けまいと張り合うところに、愉快な興奮があり、転じて幸福なる感情を誘いえた点は、古来の恋歌の贈答なども同じであった。
④秀句・頓作(即興の作)のもっとも重んじられたのは、そうしたトーナメントの必然の結果であること。七七七五調といったありふれた形式を後生大事に守り、咄嵯のあいだに心持ちをその型に詰めこむために、語句の選択はつねに注意深いとはいえない。
⑤駄作・濫作がたいへん多く、その場限りのでたらめのなかから、いくらか優れたもののみが記憶されて、我々のところまで伝わっていること。

第二章 五木の子守唄とは何か

「五木の子守唄」の向こう側へ/
人吉市の小学校教師であった田辺隆太郎が、はじめて「五木地方の子守歌」と「五木四浦地方の子守歌」を採集・採譜したのは、昭和51930)年のことである。その当時、五木村ではすでに、この子守り歌はほとんど歌われていなかった、という。固有名詞としての五木の子守唄もまた、そこにはいまだ存在しなかった。
昭和28(1953)年に、照菊がキングレコードから出した唄が大ヒットし、日本中に広まった。
戦後歌謡としての「五木の子守唄」と、五木村を中心とする球磨地方で歌われていた五木の子守唄とが、まったくの別物であることは、聴き比べたことのある者ならば誰にでもわかる。地元で五木の子守唄として歌われている唄も、歌い手によって微妙に旋律や肌触りが異なっている。そこには正調も元唄も存在しない。
普通名詞としての五木の子守唄、それがわたしの必要としているものだ。
守り子唄から五木の子守唄へ/
高群逸枝の『女性の歴史』第三章の末尾には、五木の子守唄に触れた一節がある。その冒頭で、高群はこう書いている、屈辱時代の終焉への花束として、熊本五木の子守唄をささげたい、と。女のなかでももっとも下積みの女とされた、江戸封建期の子守り娘たち、その娘たちが血を吐く思いで歌いあげた唄の数々……、このとき、女性史研究の先駆者・高群逸枝の眼には、それら五木の子守唄こそが、隷属と屈従の時代に4きた女たちのシンボルでありえた。
その高群がみずからの幼年期の、五木の子守唄のある光景について、以下のように回想していた。
この歌は五木のみでなく、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、一〇、二〇人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた。ただし、歌詞は、平地から山地へと入るにしたがって深刻となり、球磨の五木へんで絶頂にたっしていたとおもう。そのわけは、……そのへんが子守たちの大量給源地であったからだろう。
五木の子守唄が実際に歌われていた場を描写した記録といったものは、ほとんど残されていない。高群の記述はわずか数行のものだが、あるいはこれは、その貴重な記録のひと齣であるのかもしれない。高群は明治27(1894)年の生まれであるから、描かれた情景は明治30年代後半あたりのものと想像される。
守り子の多くは、他鄕から雇い入れられたよそ者であった。守り子唄はその成り立ちと性格からして、複数の土地の人と言葉の交配によって生まれてくる。いわば雑種性を宿命として負わされた子守り唄である。球磨地方のそこかしこで歌われていた守り子唄は、だから、五木の子守唄ではない、たんなる普通名詞としての守り子唄であった。
この守り子唄を最後まで温存した五木という土地には、やはり、守り子唄の極北の形としての五木の子守唄をはぐくむ土壌があった。五木の地から、球磨地方の一群の守り子唄を読み抜いていく方法的な必然もまた、ここにある。
流離してゆく守り子唄/
守り子唄はたえず移動している。たんなる知識や情報としてではなく、それを携えた守り子たち自身とともに流離することを宿命としている。そして、流離していった土地で、異種交配を繰り返しながら生成と変容を遂げてゆく。寝させ唄や遊ばせ唄といった一般の子守り唄が、知識や情報のレヴェルにおいて伝播してゆくのにたいして、その点が決定的に異なっているといえるはずだ。
ナゴの娘たちの抵抗の唄/
五木三十三人衆とよばれる地頭となって五木一帯を支配していた。
かれらダンナ(旦那)たちは、村内の大部分の土地を所有し、そのもとに多くの小作百姓かナゴ(名子)として隷属させられていた。経済基盤は主として、山の傾斜地を利用した焼畑農耕であった。ナゴはダンナから耕地を借りて焼畑の経営をおこない、現物納・トウド賦役労働)・奉公(ニシヤ=下人、メロウ=下女)などを課せられた。そうした貧しいナゴの娘たちが、ダンナ家や相良の城下町・人吉へと、子守りやメロウとして年季奉公に出されたのである。
このダンナ/ナゴ制に支えられた、五木村に固有の人と人との絆や社会の関係のありようを歴史的な後景として配するとき、ダンナに仕えるナゴ百姓の娘らの抵抗の唄とみなす、五木の子守唄の通説的な理解がうまれる。
守り子は本来、他郷から雇われてきたよそ者であった。五木の子守唄を浸している、痛切なまでのナガレモン(流浪の民)としての自覚は、とうてい村内からの雇われ守り子には見いだしえないものだ。五木の守り子たちもまた、その多くがよそ者であった。だとすれば、五木村に特有に見られるダンナ/ナゴ制の内側に、五木の子守唄の全体を囲い込もうとする了解にたいしても、ただちに従うわけにはいかない。
「旦那さん」「よか衆」「じこか人」を、はたして五木村のダンナ衆にことさら擬する必要はあるのか。たとえば、人吉の商家の主人であってはいけないのか。解釈はつねに開かれている。五木という土地に還元することを周到に避けながら、しかも、五木という土地に
拠りつつ守り子たちの唄を読みほどくこと。そんなひき裂かれた方法しか、ここにはない。
被差別の民と守り子のあいだに
松永はその論考「五木の子守唄」のなかで、五木の子守唄の発生をめぐって唱えられてきた、ダンナ/ナゴ制に還元する理解とは方位をたがえる異説をいくつかとりあげ、検証を加えている。そのうえで、みずからの仮説を提示してみせた。
第一に、一向宗の禁制に反発した娘たちの抵抗が、五木の子守唄の発生を促したとする説。この地方には宗門改役がおり、春と秋には一向宗・キリシタンの厳重な取り締まりもあったが、それがこの唄になったと解しうる具体的な証拠はない。
第二に、防人の唄とする説。防人とこの山奥の平家の落人たちは、いかなる形で繋がりをもったか、両者のあいだの心情の授受関係が説明できない。
第三に、乞食の唄という説。歌詞にみえるカンジンを、「勧進」/「非人」のどちらにするかで多少ニュアンスが異なってくる。完全な乞食の唄としてしまうのは好ましくない、と松永はいう。
第四に、朝鮮戦役に駆りだされた農民たちが、現地の唄の旋律に和して望郷の念を歌ったという説。まったく根拠がない。
第五に、朝鮮から連れてこられた陶工たちが、望郷の念をアリランの唄に託し歌っていたので、人吉で働く子守り娘たちも、その旋律に近い唄を作りだしたという説。いくらかの可能性はある、と松永は見ているようだ。
さらに第六に、被差別部落の人々の唄だとする説。長いあいだ非人間的な差別に苦しめられ、死後の世界への不安と怖れをもつ被差別の民と、村を出て流浪の痛みをいやというほど味わわされている子守り娘たちとは、絶望感において合流しないはずはない。運を天にまかせるほかない子守り娘たちにとって、被差別部落の人々は共感しあえる友であった、という。
松永はどうやら、この第六番目の仮説に魅力を覚えているらしい。それゆえ、松永はいう、-五木の子守唄は、被差別部落の民と子守り娘たちとの合作であり、精神の深みに根ざすリアリズムが流浪の痛みをかろうじて癒そうとした共感の声を、わたしはいま、風韻のように耳にすることができる、と。
松永の仮説も、被差別の民の関わりといったものが、具体的に歌詞そのもののなかから浮かび上がらない限り、他の仮説群と同じ程度の信憑性しか持ち得ない。

第三章 守り子たちの日々

守り子唄という身辺雑記/
五木の子守り唄の70あまりの歌詞を眺めている。ここには意外なほどに具象性が乏しい。五木の子守り娘とはいったい誰か。その出身地をあきらかに読みこんだ唄は、皆無にひとしい。守り子はどこにいるのか。その奉公先の土地の姿が、それなりの個性を持って立ち上がってくるような唄も、ほとんど見られない。
いわば、守り子唄の本質は身辺雑記である。身近な現実から大きく離れることがない。そして、その意味では、五木の子守歌の漂わせる抽象の匂いは逆に、この一群の守り子唄がまさに、守り子唄としての具体性を帯びてあったことを暗示している。
 親は薩摩に 子は島原に
   桜花かよ ちりぢりに
ともあれ一家離散の唄である。他鄕に奉公に出された守り子たちが、身上を仮託しやすい歌詞であったにちがいない。だからこそ、それは五木の子守り唄として歌い継がれることができた。
山里にいる守り子たち/
五木の子守唄は五木村に根生いの唄ではない。むしろ、球磨地方の子守り奉公の娘らがすくなからず共有していた守り子唄である。にもかかわらず、ここには稲田の広がる平地や町や海を思わせるような歌詞はない。五木の子守唄から濃密に匂い立つのは、やはり山の暮らしとそこに生きる人々の息遣いである。五木の子守唄の舞台は山であった。
おどまいやいや この山奥で
  鹿のなく声 聞いて暮らす
おどまいやいや この山奥で
  花の都が 見てみたい
山の谷間で なく鹿さえも
  親が恋しと いうてござる
ところで、守り子はこの山里へどこからやって来たのか。山に生まれ育った娘の感慨としては、どこか山の暮らしへの距離が感じられる。平地の里から雇われてきた娘らの唄であったのか。
残念ながら、残された70あまりの歌詞は、町場にくだった山の娘たちの肉声を響かせてはいない。
ひそやかな憎しみと殺意/
子守り娘の年齢は7、8から123歳であったという。
貧しい農家の口減らしに、娘たちは小学校へも行かせてもらえずに子守りに出された。村それ自体が貧しいのだ。村のなかに奉公先がたくさんあるはすもない。たいていは見ず知らずの村や町に奉公に出された。給金などはむろんなく、ただ食べさせてもらい、正月と盆に粗末な着物をこしらえてもらうきりだった。
おどま馬鹿馬鹿 馬鹿ん持った子じゃっで
  よろしゅ頼んもそ じこか人
子守り娘の日常は、明け方から夕暮れまで赤ん坊を背に負い、その背を雪隠にされながら、むずかればあやし、機嫌をとり、眠らせることに尽きる。それゆえ、守り子唄の歌詞には数も知れず、眠らずに泣く子へのやり場のない恨みつらみと、静かな眠りへの祈りにも似た思いが歌いこまれることになる。
おどまいやいや 泣く子の守りにゃ
   おどま泣かん子の 守りがよか
こん子よう泣く ヒバリかヒヨか
   鳥じゃござらぬ 人の子よ
抗いと諦めのあわいに/
五木の子守り唄には、食べ物と着物の話題がくりかえし登場する。
 子どん可愛いけりゃ 守りに餅食わせ
    守りが転(こ)くれば 子もこくる
 おどまいやいや 泣く子の守りにゃ
    絹の小袖に 巻かりゅとも
年季奉公としての子守り/
 おどま一年奉公 二年ちゅちゃおらん
    後(あて)にゃよかとの 気にいっと
 今年やここん水ま た来年は
    どこん流れ川(ご)の 水のもか
年季が明けて暇をもらったところで、守り子はそのまま家に帰れるわけではない。娘を子守り奉公に出さねばならなかった事情には変わりがない。来年はまた、どこの村の、どんな旦那の家で水を飲むことになるのやら……、他人の飯にすがる奉公の日々はこれからも続く。なんしぇろ、きょーじゃがうーかったで(なにしろ兄弟が多かったから〉と、眼を細めながら語った老婆のことを、上村てる緒が書き留めている。
群れをつくる守り子たち/
守というものは、浅ましいものよ、道や街道で、日をくらす(兵庫)-と歌われたように、守り子たちの日々は路上を舞台としてくり広げられた。赤ん坊を背負った守り子たちは、神社や寺の境内、原っぱや河原などに群れつどい、日がな一日遊んで過ごした。五木の子守唄には、しかし、そうした守り子たちの群れとしての生態を窺わせるような歌詞は、ほとんど含まれていない。
わずかに三例ほど、手掛かりになりそうな唄を拾うことができるだけだ。
おれとお前さんな 姉妹なろや
 お前や姉さま わしゃ妹(いもつ)
お友達衆、つまり子守り仲間である。義理を尽くすのはみな、わが身のためだ、という。醒めた批評のまなざしにつらぬかれた唄だ。わが身を守るために義理があり、仲間としての絆がある。少将・中守り・大将守りといった階層秩序が、その子守り仲問のあいだには存在した。まるで牢名主に媚びるかのように、新参の、また幼い守り子は、大将守りの娘にひと粒の豆を献上しようと擦り寄ってゆく。そんな光景が、椰楡を交えて歌われている。
その守り子の群れにも、大きく分けて二種類があった。よそから来た守り子だけで子守り仲間を組む場合と、村内の子守り娘を加えて仲間を組む場合、である。が、どちらの場合であれ、たいていは村の娘仲間には加えてもらえず、子守り仲間は一段低く見られていたという(赤松啓介『村落共同体と性的規範』)。いわば、守り子の群れは、さらに大きな村の娘集団によって厳しい排除と蔑視をこうむっていた、ということだ。守り子たちは多くが、他郷からの一時的な訪れ人であり、よそ者であった。旦那家の人々だけではない、村の異物としての小さな守り子らには、村それ自体が巨大な敵であったのだ。
それにしても、いま/ここで闘うべき相手は、同世代の娘たちのなかにいる。
守り子たちの恋と性/
五木の子守唄のなかには、こんな夜這いの唄が含まれている。
思うてきたかよ 思わできたか
   わたしゃ裏から おもてきた
夜中の密会の光景を歌ったものだろうか。下屋(げや)に眠る少女を呼ぶ声がする。足音を忍ばせて、裏木戸を抜け、そとで待つ若者のもとへ駈け寄ってゆく少女の黒い影法師。性の歓びを知った少女のからだは、熱くほてっていただろうか。
裏/表の対比の妙。「おもて」が思て=表の掛け詞であることは、指摘するまでもない。守り子たちの創作ではない。球磨地方の「米つき唄」ないし「米ふみ唄」からの、まったくの借用である(『熊本県の民謡』)。しかし、その大人の夜這い唄を、五木の子守唄のメロディに乗せたときには、それは紛れもない守り子の唄となった。少女の揺れる恋心を託された守り子唄となった。
初潮を迎えたとき、守り子たちの奉公の日々はやがて終幕に近づいている。若衆に夜這いをかけられるようになった娘は、逐われるごとくに村を出る。その幕間に、つかの間の恋の唄が花を咲かせるのだ。そして、女となった守り子はどこへ帰ってゆくのか。
守る守るて みこなしゃするな
  あけて三月つぁ 花嫁ご
『熊本県の民謡』に収められた、御船町の守り子唄である。多くの守り子は、たとえ貧しい家ではあれ、一人の若い働き手となって帰ってゆくことが許されたにちがいない。そのまま花嫁として、どこかの家に迎えられる守り子もいた。花嫁となる、それが守り子という境涯、そして、その後の女工や女郎に売られる運命から脱出するための、もっとも手っ取り早い逃げ道ではあった。赤松啓介が兵庫県のある村で採集した、こんな守り子唄がある、-苦労して、苦労したその後で、女郎に売るとは、どうよくな。女郎に売られていった、かつての子守り仲間のことを噂に聞いた、年下の守り子の唄でもあろうか。
運よく玉の輿に乗った守り子ともなれば、もはや伝説である。
諷刺文学としての守り子唄
-みずからが寄食者として不本意な滞在を強いられている村のなかで、少女が自身をイゲの花と自嘲してみせるほかない現実が横たわっていたことだけは、否定しがたい。イゲの花は美しい、しかし、その可憐な姿態を愛で手折ろうとする人々を傷つけずにはおかぬ、不幸を徴づけられた花だ。
あるいは、次の歌詞のなかでも、守り子はみずからをイゲの花になぞらえている。そこに浮かびあがるのは、噂の震源地としての守り子の群れである。
山でこわいのは イゲばら木ばら
   里でこわいのは 守りの口
子守り娘の口を封じることはできない。奉公先の家に起こったできごとは、あることないこと構わず、ひとかけらのスキャンダラスな噂に増幅されて、家のそとへと垂れ流しされる。それが狭い世間を窺いつつ生きる人々にとって、脅威でなかったはずはない。背に赤ん坊を負うた、惨めな境涯をともにする守り子の群れは、過剰なまでの噂の震源地として、旦那家の人々を、いや村そのものを脅かすのだ。まるで、それだけが守り子たちに可能な、ぎりぎりのところで許容された復讐の手段であったかのように。

第四章 流れものの譜(うた)

親のない守り子の墓/
黄昏のせまりくる頃合い、背後には茜色に美しく灼けた西の空がひろがっている。背に負うた赤ん坊は泣き疲れたのか、眠りこけている。小さな肩におぶい紐が喰いこんで、痛い。が、そんな痛みも気にならぬほどに、少女は疲れ果て、そしてなにより腹を空かしている。少女の口元からは、こんな子守り唄が眩き声に洩れていたかもしれない。
人の守りこは 哀れなもんよ
    どこで死んでん 墓もなか
五木の子守唄には、意外なほどに、こうした死の主題が濃密に歌いこまれている。守り子は哀れなもんよ、どこで死んでも墓がない。墓がないとは、何を意味するのか。守り子の墓とは何か。たんなる感傷が分泌した唄としては、あまりに重く、深い。五木村では葬儀は集落の共同の仕事であったという、あらかじめ村の秩序から排除されている守り子である。守り子が死んだとしても、村の人々と同列に葬儀が営まれたはずはない。
柳田風に、子守り唄の題材が守り子の身辺のできごと・批評・問題に限定されているといえるならば、この死の主題に関しても、子守りの少女らの生の内側から了解の途が探られねばならないはずだ。なぜ、幼い守り子たちは子守り唄の旋律に乗せて、けっして甘やかではない死への親和をくりかえし歌ったのか。五木の子守唄ばかりではない、それはわたしたちの風土が産んだ守り子唄一般に通底する、ある固有の貌であったのだ。むろんそれは、少女による子守り奉公という特異な社会現象と無縁ではありえない。
守り子唄のなかの「親のない子」には、どうやら二種類あるらしい。親が死んでしまって、この世に現実にいない守り子と、はるか故郷に健在ではあるが、いま/ここで自分を守ってくれる親はいない、いわば不在の親を内に抱えこんだ守り子である。よその村や町に奉公に出された守り子がひとしく、この後者の「親のない子」であったことは言うまでもない。
それゆえ、おどま親なし、という五木の子守唄の文句もまた、字義通りに受けとることはできない。むろん、親のない子も実際にいただろうが、この歌詞が親のあるなしに関わりなく群れの文芸として共有されえたのは、自分たちはみな親に棄てられた子どもだ、という強烈な疎外の意識ではなかったか。守奉公に、出すよな親は、親だないぞえ、子のかたき(愛知)、と歌われもした。だからこそ、ときには自分の死の風景のなかにすら、その死を嘆き悲しむはずの母も父も登場してくることはない。つかの間の涙を流してくれるのは、姉妹の幼い契りをむすんだ子守り仲間だけだ、そんな諦念が透けてみえる。
ナガレモンとしての守り子/
五木地方では、外来者に対するもっとも一般的な呼称はヨソモンである。そのほかに、町場からの移住者をさすマチモン、役場の寄留簿に現住所だけ登録する、一時的な滞在者であるイリキリ者(入寄留者)・キリュウ者(寄留者)、そして、移動や漂泊をつねとする人々をさすナガレモンといった呼称があった(『五木村学術調査』人文編)
典型的なナガレモンとしては、守り子唄にも歌われたゴゼやヤンボーシ、また、ザツツ(座頭)・ケギョウ(検校)などと呼ばれ、琵琶を弾きつつ説経節などを語った地神盲僧たち、諸国を遍歴した行脚の僧であるロクブ(六部)、浪花節語りやダンモン語り(祭文語りか)、そして、箕直しなどがいた。炭焼きや山師のように数年で居住地を去り移動してゆく者も、ナガレモンの一類であった。
守り子たちがヨソモンであったことは確実だが、そのうえに、年季奉公と子どもという特異な条件が相乗的に附加される。口減らしのために異郷の地へと奉公に出された幼い少女たちは、もっとも弱い、いっさいの権利を剥奪されたヨソモンであった。そして、今年やここん水、また来年は、どこん流れ川の、水のもか、と歌うナガレモンでもあった。
勧進をめぐる歴史の黄昏に/
おどま勧進かんじん ガンガラ打って歩(さる)こ
    チョカで飯炊(ままち)ゃち 堂(ど)でとまる
おどま勧進かんじん かんじん袋さげて
    あんしゃよか人 かた情け
七十あまりの五木の子守唄の歌詞のなかでも、とりわけ異形の匂いのする唄である。わたしはカンジンだ、そう、守り子が歌う。ガンガラ(ブリキ缶)を鳴らし、カンジン袋を提げて歩き、お堂に泊まって、チョカ(急須か鍋の類)で飯を炊く、物乞いのカンジンだと、守り子たちが歌う。類歌は球磨地方にいくつも見られる。これもまた、五木村に独自の守り子唄ではない。
勧進はもとは仏教用語であった。人を勧めて仏道にはいらせ、善根・功徳を積ませることを一般的に意味する言葉であった。古代も末にいたると、神社や寺の堂塔の復興や写経・鋳鐘、仏像の修造、架橋や津泊の修築などのために、広く貴賎にあいわたる男女に勧めて米銭の寄付や労働力を募ることへと、大きく意味を変質ないし転換させた。そうした作善を通して、死者を供養し、罪業を滅ぼし、往生の祈願が果たされる。勧進は仏教的な救いの回路であった。
中世には、そうした勧進のにない手は、聖と(ひじり)呼ばれる民間遊行の宗教者であった。勧進の歴史は、それら聖の歴史でもあった。その活動はしだいに、体制化と堕落の道を辿ってゆく。代表的な聖といえば、諸国を巡りつつ納骨供養を勧めてあるいた高野聖が浮かぶ。その高野聖は、中世末期になると、呉服聖・衣聖・売僧(まいす)などと称され、卑賎視をこうむるにいたる。勧進の聖たちの成れの果ての姿であった。勧進はもはや、仏教的な救いの回路としては断ち切られ、やがて物もらいや乞食の別称と化してゆく。勧進の最期の時代が、そうして始まった。
その意味では、五木の子守唄の時代には、すでに勧進は乞食や物もらいと同義であった。
かんじんは勧進でなければならない。とはいえ、たとえば子守りの少女たちが、勧進などという難解な漢字を知っていたはずもなく、まして、勧進という言葉が背負ってきた分厚い歴史を知っていたはずもない。そこにもまた、微妙な意味の揺らぎやズレが生じてくる。カンジンという音なり声なりが喚起したであろうイメージにこそ、眼が凝らさねばならない。
『山村生活の研究』に収められた、鈴木裳三の「村に入り来る者」によれば、宮崎県西米良村では、修行者・山伏・六部・行者などをクワンジと称し、物乞いともいった。豊後山師には肥後勧進などという言葉もあり、軽蔑し油断のならぬものとしている。熊本の球磨村神瀬でも、カンジン袋をさげた物乞いをカンジンと称している、という。
昭和十年前後の宮崎・大分・熊本近辺における、カンジンなる言葉が孕んでいた意味の輪郭程度は、そこから窺えるだろう。五木の子守唄に歌われたカンジンの原像は、カンジン袋を手に物乞いにやって来る漂泊の民(=ナガレモン)といったところに、絞りこまれてゆくはずだ。すでに引いた歌詞のなかに見えていた、旅のヤンボシドンがカンジンの徒の一人であったことは、あらためていうまでもない。
守り子は路上の人であった。そのかたわらを、カンジンの徒はつかの間過ぎり、歩み去ってゆく。かれらがガンガラを打ち鳴らし、カンジン袋を携えて米や銭を乞いもとめ、チョカで飯を炊いて、お堂に泊まる姿は、とりわけ路上の人である守り子らにとっては、日常のごくありふれた光景のひと駒であったにちがいない。そのカンジンの徒に、子守りの少女らはみずからを仮託して、おどま勧進かんじん、ガンガラ打って歩(さる)こ……と歌ったのだ。子守り娘とカンジンの徒とのあいだに、一定の精神的な紐帯が結ばれてあったことは否定しがたい。
門付けして歩く人々/
はるかな守り子唄の極北へ/
チョカで飯炊ゃち、堂でとまる、という歌詞にこだわってみたい。同じくナガレモンにくくられるにせよ、たとえば箕作りらしい者たちが勧進箴(=裁縫用のほそい竹の針)を売り歩く姿とは、微妙に異なった印象がある。かれらは鍋や釜をもって渡りあるき、ガマ(洞穴)に泊まって、竹細工にしたがったという。
箕作りあるいは山窩(さんか)は、村人の目にはナガレモンと映るにせよ、常民の共同体の外に、もうひとつの強固に閉じられた共同性を結んでいる人々であった。彼等の漂泊ないし遍歴は、あくまで組織的なものであり、すくなくとも組織に支えられる共同化された行為でありえた。しかし、五木の子守唄に歌われるカンジンの徒には、どこか孤絶の匂いがする、
流浪の宿命を負わされた生きはぐれ者たちの低い坤きが聴こえてくる、そんな気がする。
『山村生活の研究』に所収の、守随一の「村ハチブ」から、村八分をめぐるいくつかの呼称を拾ってみる。鹿児島県大川内村(現在出水市)では、村のヤクヮンにする、村からヤクヮンにした、というふうに表現され、宮崎県西米良村でも、ヤクヮンメシといった。ヤクヮンというのは器の形が小さく、一人前の飯しか炊けない、つまり孤独を意味するのだとい
い、これで飯を炊くとき小豆をいれておくと米とよく混じらぬから、村八分にたとえたのだともいう。あるいは、同系統の表現として、九州にはベツナベ(カブラセル)・カンナベ(カルワセル)といったものが多くみられるらしい。
村八分という共同体からの排斥行為が、あたかも逐われた者らのその後の生のありようを凝縮して暗示するかのごとく、ヤクヮン・ベツナベ・カンナベといった、命をつなぐためにもたされる唯一の所持品によって表わされているのだ。むろん、村八分が村からの追放まで求めた例は多くはない、ともいう。その意味では、比喩的な表現に留まるのかもしれない。比喩ではなく、現実にカンナベを背負って生きる人々、つまりは乞食同然のナガレモンたちが、まず眼の前にいる。村八分がそれに重ね合わせにされることで、そうした表現は生まれたということか。
しかし、村からの追放は、けっして比喩のレヴェルには留まらなかった。五木村では、屋根の葺き替え・家の修理・道普請・祭礼・葬式など、村人が全員参加する行事は「衆議」で決定された。この衆議にたいする違反者は、「衆議ばなれ」と称して村八分にされ、ときには集落から追放されることもあった。よその村に行っても、地頭(旦那衆)の了解がなければ受け入れてもらえない習わしになっていた、という(『五木村学術調査』人文編)。
こうしたカンナベ的な制裁も、明治になると幾分かはゆるんだ。とはいえ、カンナベを背負っての流浪の生活が、たんなる比喩や昔話ではなかったことを忘れてはならない。カンナベがもたらす精神的な圧迫は、わたしたちの想像をはるかに越えるものであった。共同体から生きはぐれた者らの孤絶の境涯への怖れが、人々を呪縛していた。チョカで飯炊やち、堂でとまる、という五木の子守唄の歌詞を、こうした文脈のなかにおいて読んでみたい誘惑に、わたしは駆られている。
子守り娘のかたわらを行きすぎるカンジンの徒が、みずからの身の上話を語って聴かせることなどありえない。しかし、お堂に泊まってチョカで飯を炊く人々の背後には、象徴的にカンナベを負わせる村八分の痛ましい光景があり、さらには、実際にカンナベを背負ってあるく、群れを逐われたはぐれ者たちの酷たらしい人生があった。守り子がそれを看てとることは、じつに容易なことであったはずだ。
守り子もまた、群れをなす。が、その群れはひたすらに孤独な群れだ。だからこそ、守り子は孤独な物乞いのカンジンたちと自己の境涯を二重映しにして、おどま勧進かんじん、ガンガラ打って歩こ、チョカで飯炊やち、堂でとまる……と、暗い共感とともに歌うことができたのだ。自分たちだって、あの人たちと同じように、物乞いのナガレモンだという強烈な自覚がないかぎり、それは群れの文芸として共有されることはなかった。守り子とカンジンとのあいだに芽生えた、ある精神的な紐帯なくして、その歌詞は成立しえなかったということだ。
それにしても、異形の守り子唄であることに変わりはない。うちのお父たん、大阪で乞食、藁の着物きて、椀叩く(兵庫)-、そんな、父親は乞食だと歌う守り子唄はたしかにあった。挟くわえて、門に立つ、そう、たとえ唄を歌いもした。しかし、守り子がここまで直接的に乞食や物もらいを自称してみせた唄は、どこにもない。おどま勧進かんじん……と歌ったとき、球磨の守り子たちは社会の最下層に降り立ち、戦闘開始を宣言したのだ、と高群逸枝は書いた。
いずれであれ、五木の子守唄はこの一群のカンジンの唄によって、守り子唄の極北に辿り着いた。数も知れぬ守り子たちの悲惨と抵抗の歴史は、ここに忘れ形見のように刻印されている。五木の子守唄は諦めの唄ではない、はじまりの唄だと眩く、守り子たちの声が聴こえる、そんな気がする。
隠れ念仏と勧進聖の唄
おどま勧進かんじん・・・・と歌ったのは、五木村や球磨地方の守り子たちである。それゆえ、わたしはこれを守り子の唄として読みほどいてきた。しかし、それをもし勧進の聖みずからの唄として読むとすれば、どうなるか。米村竜治の『殉教と民衆-隠れ念仏考』は、その一節で、まさにこうした試みを実践している。
すでに古くから、五木の子守唄の発生を、この地方の隠れ念仏との関わりで説く研究者はあった。相良藩が禁制とした一向宗の門徒たち、つまり隠れ念仏の信者たちを、子守り唄の「おどま」の秘められた主体と見なし、五木の子守唄は球磨の隠れ門徒の抜け参りの唄である、という解釈が示された。松永伍一がそれを、根拠のない仮説として斥けたことには触れている。
これにたいして、米村は相良藩内の隠れ念仏の歴史を辿るなかで、五木の子守唄についての新しい解釈を語った。米村によれば、五木の子守唄とは本来、飢えと流浪を日常としつつ御霊信仰を背負って遊行・漂泊した勧進聖の唄であった。この子守り唄には、後代になるにつれて付け加えられた歌詞がかなり混入しているが、主要な部分はまさしく勧進の聖の唄である、という。
百歩譲って、五木の子守唄が勧進聖の唄を母胎として生まれてきた、と想定してみる。そのとき、五木の子守唄の解釈には新しい地平が開かれるか。わたしはそれを疑う。なぜばらば、守り子の口ずさみの唄となったときには、その前身が毛坊主の唄であれ何であれ、それは守り子の唄として読まれなければならないからだ。
隠れ念仏の歴史など知る由もない子守り娘たちが、仮りに毛坊主の唄を受容し、それを子守り唄のメロディに乗せたのだとして、そのとき、それらの歌詞はただちに、守り子の身辺雑記に変容を遂げていることを忘れてはならない。守り子唄とは、群れとしての守り子たちの生きてある日々とその心情が託される、やわらかな容れ物である。守り子たちの具体的な生の現場を離れては、守り子唄は沽渇する。

第五章 守り子の父は誰か

守り子の父と母をたずねて/
ダンナ/ナゴ制のなかの父/
山にいるのは、焼畑農耕を行うナゴ百姓の父ばかりではない。それとは異質な、一群の父親たちが山奥にはいた。そんな父親を歌った守り子唄が、五木の子守唄のなかには含まれている。
守り子の父は山から山へ/
おどんがお父っあんな 山から山へ
      里の祭にゃ 縁がない
おどんがお父っあんな 山から山へ
      宮座みやざにゃ 縁がない
子守り娘の生きられた日常に根ざすことのない歌詞が、群れの文芸として歌い継がれていたとは考えられない、という立場をわたしは選ぶ。守り子の父は山にいる、むろん山が生業の舞台であったからだ。かれらは焼畑のために山にいたのか。そうかもしれない、と同時に、そうではない、とわたしは思う。
おどんがお父っあんな、あん山あおらす、と歌われた。山中の出作り小屋で焼畑耕作にしたがうナゴ百姓の父を偲んだ唄と解することは、そこではまだ可能だ。しかし、おどんがお父っあんな、山から山へ、里の祭にゃ、縁がない、と歌われたときには、もはやそうした解釈では届かない。たとえ、村の身分的な下層に位置づけられたナゴ百姓であれ、どうやら村祭りから排斥されてはいない。出作り小屋で一年の大半を過ごすナゴ百姓ですら、村の祭りやつきあいには村へ帰ってくるのだ。
山から山へ、という歌詞の意味は、焼畑農耕と関連づけることではまったく了解しがたい。里の祭りや宮座には縁がない、という歌詞と重ねあわせにしてみるとき、ゆるやかに浮上し像を結んでくるのは、村の秩序のそとを漂泊・遍歴してゆく人々=ナガレモンたちの姿である。焼畑をするナゴ百姓たちは、山から山へと渡り歩くことはない。ナゴの娘がみずからの父について、山から山へ、また、里の祭りには縁がない、と歌うことはありえない。これはナゴ百姓の娘の唄ではないのだ。
川流しを父にもつ守り子/
おどんがお父っあんな 川流しの船頭
     さぞや寒(さん)かろ 川風に
五木の渡り山師たち/
むろん、これが五木の子守唄に歌われた、川流しの船頭の姿であった。ここにいたって、「船頭」の字は改めねばなるまい。おそらくそれは、一人前の山師、もしくは多数の山子を率いたグループの頭である「杣頭」を指していたはずだ。おどんがお父っあんな、川流しの船頭、と歌われたのは、川辺川を材木とともに押し流されてゆくナガシ山師の父の姿であった。川流しの杣頭でなければいけない。
ナガシ山はいつでもできる作業ではなく、洪水が起きれば材木が海まで流されてしまうバクチにも似た危険な仕事であった。そのために、雨期や台風の季節を避け、天候の落ちもみ着く十月から四月頃までのあいだにおこなわれるのが通例であった。五家荘の櫻木谷から人吉まで流送するには、長いときには二、三ヵ月かかった。ナガシ山師は川の流れに沿って移動してゆくので、ほかの山師のような小屋は作らず、山中の河岸にある集落の家を借りたという。
命懸けの川流しにしたがう父親を思い、子守り娘たちは、さぞや寒かろ、川風に、と歌ったのである。まさに、ナガシ山つまり川流しの季節は、川風が身を切る晩秋から初春にかけてだった。
木挽唄から守り子唄へ/
群逸枝はこう書いている、子守り娘の供給源は小作や水呑みの百姓を中心として、山師・川流し・渡り桶職・山窩などであった、と(『女性の歴史』)。みずからの体験や見聞にもとづく指摘であったにちがいない。球磨の守り子のなかには、山師や川流しの父をもつ娘たちが実際にも含まれていたのだ。渡り桶職や山窩については、わたしには確認する術がなく、保留せざるをえない。
球磨地方は山師の本場であった。木挽唄は球磨の山々に入った山師たちが伝えた唄であり、地域差はまったく見られず、歌詞には重なるものが多い。里の祭りには縁がない、花の都には縁がない、と歌われる。山から山へと渡り歩く生活から縁遠いものが、里の祭りと花の都であった。竹の柱に萱の屋根とは、山中に建てられる山師小屋を指すのだろうか。
最後の土方の唄は、あきらかに木挽唄からの転化・借用である。山の仕事を離れた山師が、道路工事や土木・建築現場に流れる例はしばしば見られた。さらに崩しとひねりを加えれば、土方さんたちゃ、旅から旅へ、どこの港で、果てるやら、といった唄へと転がってゆくだろう(『球磨民謡集』)
球磨の、そして五木の守り子たちが、これらの木挽唄に接する機会は多かった。守り子の群れのなかには、山師の娘がいた。渡り山師か、地山師か、そのいずれであれ、山師の父や仕事仲間が歌う木挽唄をじかに聴いたことがある娘たちがいた。その一部に変更を加えて、子守りに出された娘たちは、おどんがお父っあんな、山から山へ、と歌った。それが五木の子守唄として残った。守り子の群れのなかに、山師の娘たちがすくなからず混じっていたことが、そこには暗示されている。
木おろし唄と木挽唄/
五木の子守唄を浸した流浪の哀しみにつうじているのは、はたしてどちらか。いうまでもあるまい、家族や子をもつことを許されぬナガレモンの山師の世界である。ダンナ/ナゴ制や焼畑農耕に還元することでは、五木の子守唄に歌いこまれた異相の風景の奥深くにまなざしを届かせることはできない。この守り子唄がなぜ、たんなる死への憧れではなく、流浪の果ての死をくりかえし歌わねばならなかったのか、うまく了解することができない。その一点にこそ、五木の子守唄の発生をめぐる謎が集約されていることは、おそらく想定して誤りではあるまい。
こんな木挽唄があった。
山で子が泣く 山師の子じゃろ
   山師ぁ男だ 子はもたの
類歌には、山師やもめで、子はおらぬ、と歌うものが多い。あるいは、ほかに泣く子が、あるじゃなし、とも歌われる。山師は里の女には手をかけぬ、木挽する身は空飛ぶ鳥だ、娘たちよ、木挽の女房にはなるな、そう、幾度となく歌いながら、山師は里の女と恋に落ちる、子が生まれる、それが誰の眼にもあきらかな現実だった。そうしてこの世に生を享けた娘たちは、やがて里に出され、守り子となる。山師の娘の守り子唄がそこに誕生する。おどんがお父っあんな、あん山ぁおらす、おらすと思(も)えば、行こごたる……、そのとき、それは山師の娘が山奥で木挽する父を慕う唄ともなった。
唄を運んだ山師たち/
その問いはひとまず措くとして、問われるべきは山師との関わりである。紀州はいうまでもなく、山師の一大中心地であった。それゆえ、近代のはじまりの季節に、木挽唄を子守り唄のメロディに乗せて歌う守り子たちが紀州にいたとしても、すこしも不思議ではない。そこには渡り山師の娘も含まれていたはずだ。
その紀州と球磨や五木地方との繋がりが、予想をはるかに越えて深い。紀州山師の足跡を辿り、ふたたび五木の地へと還ってゆかねばならない。
紀州山師と守り子の唄
五木村に初めて紀州人が入ったのは、明治25年頃であった。そうして紀州からやって来た木炭山師と材木山師が中心的な担い手となり、五木地方の山林開発を大きく進めることになった。五木の山の作業やナガシ山の作業には、紀伊半島の吉野地方と名称を同じくするものが多い。吉野林業の流れをくむ紀州山師の技術が、五木の山中で主流であったことを想像させるものだ。
五木の人々もそこに地山師として加わり、しだいに高度な技術を学び、渡り山師に劣らぬすぐれた山師となってゆく。球磨や八代郡、そして米良・椎葉などの山林開発にも参加した五木の山師がいた、という。紀州や土佐、九州の各地から集まっていた渡り山師のなかには、やがて五木村に定着して家を構える者が現われる。それが、明治以降の五木村の戸数増加の背景であった。
守り子は紀州からやって来た山師の娘であった。そして、むろん、紀州の守り子たちが歌う、うちの父さん、川舟舟頭、冬は寒かろ、川風にーという歌詞を知っていた。それに類似の歌詞であってもいい。五木の守り子の群れのなかに混じりながら、この紀州出身の守り子は、川流しの杣頭である父親の姿を、その歌詞を引用しつつ歌ったのだ。かたわらには、幾人もの紀州山師の娘たちがいた。その守り子たちも歌った。そうして、それは五木の子守唄の一部に組み込まれていった。
紀州山師が初めて五木に入ったのは、明治時代の半ばであった。川辺川で川流しが盛んに行なわれたのは、明治の末から大正にかけての時期である、という。だとすれば、あの五木の子守唄の誕生は、明治20年代から大正期という、ごく限られた時間のなかに特定されてくることになる。
おそらく、昭利も20年代にいたり、五木の子守唄としてくくられることになる守り子唄の群れは、その、異文化との出会いの衝撃のなかに誕生したのである。近世以来の、ナゴ百姓がダンナ家に差し出してきたメロウ奉公の子守り娘たちが、これほどに陰影に富んだ守り子唄の世界を織りあげることはない。おどま勧進かんじん、ガンガラ打って歩こ……と、流浪の悲哀を歌いあげることはない。
たしかに、数多くのナゴ百姓の娘たちの唄も含まれてはいた。ダンナ衆への憎しみと抵抗の唄であった。しかし、それもまた、近世の封建的なダンナ/ナゴ制が解体してゆく、その綻びの隙間から流れ出してきたものではなかったか。社会=経済的には、明治初年から始まった、村のそとなる商業資本の浸透・拡大があった。それとともに、村の懐深くに入り込んできた商人・炭焼き・渡り山師といった外来者(ヨソモノ)たちが、五木地方の旧秩序にたいしてして揺らぎを与える。おそらくナゴ百姓の娘らの抵抗の唄は、それをバネとして誕生してきたものであった。
五木の子守唄の誕生について、思いを巡らしてきた。あるいは、その誕生の時期は、明治維新より以前に遡ることができないのかもしれない。わずかな手掛かり、そして状況証拠によって断定することが危ういことは、むろん承知している。しかし、五木の子守唄の向こう側から聴こえてくるのが、近代の匂いを濃密に漂わせた守り子たちの沸騰する呪誼の眩きであることは、否定しがたい、そう、わたしは思う。

第六章 宇目の唄げんか

豊後山師と五木の子守唄/
宇目と五木とのあいだに、そうした山師の往来があったか否かについて知るための手掛かりは、わたしの知見の及ぶ範囲では見当たらない。しかし、宇目のナバ山師やスミ山師が、明治十年代からあとに五木地方に入った可能性はかなり高い、と想像される。五木側の資料に登場してくる豊後山師のなかには、宇目の山師も当然含まれていたと思われるからだ。
とはいえ、それら山師(の娘たち)が、宇目地方で歌われていた守り子唄、つまり宇目の唄げんかを五木に運びこみ、それが風土化して五木の子守唄となっていったとする佐藤光昭の仮説には、ただちに従うわけにはいかない。宇目の唄げんかのもっとも際立った個性は、掛けあいによる集団歌唱という形式にある。五木の子守唄には、この掛けあい形式の深まりや展開が見られず、また、ほかに影響関係を云々するだけの強い裏付けがあるわけでもない。可能性のかけら程度は認めつつ、ここでも保留の立場を選びたい。
宇目の唄げんかとは何か/
唄げんかはきまって、夕暮れの橋のたもとや街道で始まる。夕暮れは守り子にとって特別な時間であった。子守りに明け暮れた一日の終わりも近く、疲れ切った守り子たちの背中では、母の乳房を欲しがる赤ん坊の泣き声がひときわ高くなる。守り子の背はおしっこでぐっしょり濡れている。赤ん坊の体の重みが、遠慮なく肩に食い込んでくる。子守りのつらさが凝縮されたようにのし掛かってくる時間、それが夕暮れだった(以下、安藤隆『宇目の唄げんか』による)
はじめから約束して落ち合うわけではない。一人の守り子が歌いだすと、向こうの群れの守り子の一人が、それに応じて即座に唄を返してくる。それが唄げんかの仁義だった。そうしてどこかで唄げんかが始まると、仲間の守り子たちが馳せ集まってきて応援した。いつ、どこで、何人で、といった規則はいっさいなかった。二つの守り子の群れが自然とできあがり、小川や道をはさんで対峙しあいながら、唄げんかに興じた。
①あん子面(つら)見よ 目はさるまなこ ヨイヨイ
       口はわに口えんま顔 ア ヨーイヨーイヨー
  いらん世話やく 他人の外道(げどう) ヨイヨイ
       やいちよければ 親がやく ア ヨーイヨーイヨー(以下、唯し文句は省略)
   いらん世話でむ 時々ややかにゃあ
       親のやかれん 世話がある
   旅の者じゃと 可愛がっちおくれ
       可愛がらるりゃ 親とみる
相手方の守り子の顔を椰楡し、挑発すると、すかさず、いらぬ世話を焼く奴らだ、焼いてよければ親が焼く、と激しい文句が返ってくる。すると、いらぬ世話でもときには焼かねばならぬ、親の焼けない世話もあるものだ、とはじめの群れが歌う。あとの群れはやや転調をはかり、旅の者だと可愛がっておくれ、可愛がられれば親と見る、と媚びるように歌ってみせる。
当て唄から唄げんかへ/
たとえは、この宇目の唄げんかに関して、たやすく予想されるところではあるが、万葉の相聞歌や上代の歌垣の風習に通じるものがあると語る研究者があった。国文学や民俗学が陥りやすい罠といってよい。しかし、宇目の唄げんかは守り子唄である。あくまで、それは守り子唄の現場から読み解かれるべきもので、位相の異なる領域の手垢にまみれた知見を押しつけて裁断してはならない。
唄げんかも終幕に近付けば、二つの群れは戦いの鉾を納めて、互いの子守り奉公のつらさをエール交換のごとくに歌い合う。子守りはつらいもんだ、身は親方に預け、心ばかりが自分のものだ……、奉公の身だからこそ、お前のような奴でも、おし主(しゅう)様だと奉ってやっているだけのことだ……、そう、子守り相互の憎しみはそっくり旦那家への恨みに転じられ、その共通の敵の前で、守り子たちの幼い連帯感が確認される。それから、正月や盆の一日も早い訪れを願い、ささやかな夢の情景とともに、唄げんかは幕を閉じる。
様式美をもった唄げんか/
宇目郷一帯に見られる、喧嘩文句のやりとりに終始する唄げんかは、まったく同一の旋律の単調かつ平凡なくりかえしである。それにたいして、奥宇目型の唄げんかの場合には、二つの群れabは、あきらかに異なった旋律に乗せて喧嘩文句の送り/返しをおこなう。安永寿延が『増補・伝承の論理』で指摘したように、ここでは旋律そのものが唄げんかの対話的な発想を強く誇張しているのである。
唄げんかの場は自然発生的に形作られる。とはいえ、その場に参加する守り子たちのあいだには、あらかじめ暗黙の了解のようなものが成立している。同じ守り子という境遇を生きてあることに根ざした共感、そこに生まれる精神的な絆が根抵にあり、そのうえで唄げんかという共同の様式ないし場への参加があった。
守り子唄の二つの極北へ
安藤隆が『宇目の唄げんか』のなかで、次のような示唆に富んだ指摘をおこなっている。すなわち、五木の子守唄は「おどん」(一人称)/「あん衆(し)たち」(三人称)の対立が基底にあり、子守り奉公の苦しさを呪い、他国者のひがみや、自己の境涯をひとり嘆く「独白」体となっている。それにたいして、宇目の唄げんかは「俺(わし)」二人称)/「お前」(二人称)の対立で構成され、守り子同士で互いに喧嘩文句を歌い交わす「対話」体を形造っている。そこに、もっとも根本的な相異点が見られる、と。
卓見である、と思う。印象批評に寄り掛かりつつ、いたずらに珍説・奇説を撒き散らすのをつねとしてきた貧しい研究史を思えば、安藤の、この先駆的な仕事は十分に評価されるべきだろう。二つの守り子唄のあいだの決定的な差異が、よく抉り出されている。
今年やここん水 また来年は
    どこん流れ川(ご)の 水のもか   (五木の子守唄)
ここも旅じゃが またゆく先も
    おなじ旅なら ここがよい  (宇目の唄げんか)
いま鮮やかに、ひとつの構図が浮き彫りになってくる。守り子唄の可能性と限界をその果てまで生き抜いた、守り子唄の二つの極北としての、五木の子守唄/宇目の唄げんか。五木の子守唄が守り子たちの孤立の深みに降り立つことで、流れものの譜(うた)である守り子唄の極北に到り着いたとすれば、宇目の唄げんかは逆に、群れの文芸としての守り子唄の可能性を、その極北まで歩き通すことで拓かれていった世界を垣間見せてくれる。守り子唄の陰/陽が織りなす、思いがけず不思議を孕んだ光景といえるだろうか。
「唄で争う」から「唄を争う」へ。この展開が果たされたとき、ほかの地方の守り子唄がついに到達しえなかった固有の場所に、宇目の唄げんかはたしかに立った。子守り仲闘の内なる対立を越えて、たとえつかの間の連帯感情のなかではあれ、ある精神的な浄化と救済の時-空間を手に入れた。宇目の唄げんかには幽かな救いがある。五木の子守唄を浸している、救いを断たれながら、流されてゆく守り子たちの自己慰安のモノローグの眩きとは、決定的に異質な何かがある。
ここも旅じゃが、またゆく先も、おなじ旅なら、ここがよい、そう、宇目の守り子たちは歌った。諦めの唄ではない、出立の唄だ。いま/ここに生きてある現実を、そのままに引き受けることだ。したたかなる肯定と、秘められた戦いへの意志。群れの文芸としての守り子唄が辿り着いた、もうひとつの極北の世界が、この宇目の唄げんかには豊かに宿されていたと、わたしは思う。

あとがき

ネエヤの子守り唄の底に埋もれた精神史を掘る旅は、ひとまずここで終わる。
ネエヤは守り子と呼ばれた。その守り子たちの唄は、たしかに暗い。暗い湿りを帯びて、忘れられた近代という時間の昏がりから、幽かな眩きの声を響かせてくる。この湿潤な風土が日本の子守り唄を暗く湿らせてきたのか。いや、そうではない。風土や国民性といった、いかがわしい手垢まみれの観念の鋳型に押し込めて、わかった振りなどしてはいけない。それは守り子たちの抵抗の唄だ。
おどんが憎けりゃ 野山で殺せ
      親にそのわけ 言うて殺せ
幼い子守りの娘たちが、捨て身で、何か巨大な黒い影に向けて、孤独な戦いを挑んでいる姿が、ここにはある。そんな五木の子守唄を前にして、それでも子守り唄への甘やかな郷愁に酔うことはできるか。わたしにはできない。
現代にかろうじて残し伝えられた守り子唄の群れは、風土という幻想も、身勝手に紡がれつづける郷愁も、ともに拒む。日本の近代だけが、その黎明期に、守り子という奇妙な存在を数も知れず産み落とした。その守り子たちが自己慰安のモノローグとして、ときには対話形式をもって、囁くように、また高らかな声で歌い交わした、それが守り子唄である。
五木へは三度の小さな旅をした。
はじめて五木村を訪ねたのは、五年ほど前の晩秋であった。やがてダムの水底に沈もうとしている村のなかを、一人、ただ黙々と歩きつづけた。いくつかのお堂があり、かたわらには村の人々の苔むした墓が並んでいた。おどま勧進かんじん、ガンガラ打って歩(さる)こ、チョカで飯炊(ままち)ゃち、堂(ど)でとまる……、お堂の縁に腰を降ろしたわたしの耳には、遠く、子守りの娘たちのかすれ声が聴こえた、それを信じることだけはできた。
村役場では、一枚の紙をもらった。五木の子守唄の七十の歌詞を連ねた紙だった。それが、上村てる緒さんの『挽歌・五木の子守唄』から、出典も示さずに無断借用されたものであることを知ったのは、はるか後になって、ようやくこの本のコピーを手に入れたときのことだ。わたしは何年も、この一枚の紙に並べられた七十の歌詞を眺めつづけた。夢想の糸を紡ぐように、その歌詞の背後に埋もれている世界へと想いを馳せてきた。そして、はじめての旅から数年後に、「五木の子守唄考」(『漂泊する眼差し』新曜社刊、所収)と題する五十枚ほどの論考を書いた。
その「五木の子守唄考」を承けて、今回ここに書き下ろした『子守り唄の誕生』は、もはや原形をまるで留めていない。ささやかな辿るべき階梯ではあった。可能なかぎりの資料は集めたが、それにも限界があり、また、参照に値するだけの研究もごくわずかだった。多くの示唆と手掛かりを与えてくれたのは、本文中でも触れたように、上村てる緒さんの『挽歌・五木の子守唄』と安藤隆さんの『宇目の唄げんか』である。地元の研究者の手になる、こうした地道な研究はとかく無視されがちではあるが、きちんとした評価がなされるべきだと、あらためて痛感する。
はじめての五木への旅のとき、わたしは頭地の小学校の校庭で、二人の少年に出会った。縄文の遺跡と巨きな樹を背景にして、写真を撮った。二人の少年とは、手紙を添えて写真を送る約束をした。その少年たちとの約束を果たせぬままに、時間はいたずらに過ぎてゆき、名前と住所を記したメモもどこかに紛れてしまった。五年後の、やはり秋も遅くに、五木村を訪ねた。三度目の旅だった。小学校の教員室で、居合わせた先生に写真を託した。少年の一人は、すでに中学生になっていた。その少年からは手紙が届いた。
ところが、わたしはじつは、いまだに返事を書いていない。そろそろ約束を果たさねばならない。この本が出来上がったときには、二人の少年に、短い手紙を添えて真っ先に送ることにしよう。
わたしにとっては、とても愛着の深い本となった。どれだけ、守り子唄の生きられた現場に届きえているか。書き終えたばかりのわたしには、判断がつかない。ともあれ、近代の闇を幼い背に負った守り子たちの幽かな声に耳を澄ませつづけた日々には、とりあえずの区切りをつけなければならない。
取材の旅に際しては、多くの方々の世話になった。ことに、人吉市のご自宅を訪ねた折りに、上村てる緒さんからはいくつかの有意義な話を伺うことができた。また、宇目町の教育委員会の柴川英敏さんには、貴重な資料を見せていただいた。慎んでここに御礼を申し上げたいと思う。そして、五木への旅に同行してくれた編集者の林辺光慶さんにも、むろん感謝の意を表さねばならない。
1994年1月7日の朝に    赤坂憲雄

参考文献

本文中で引用、または参照した文献のなかから、主要なものを以下にあげる。なお、本文中で出典を示さずに引用した守り子唄の歌詞は、すべて『日本伝承童謡集成』子守唄篇に拠っている。
守り子唄の歌詞の引用にあたっては、適宜、表記・字体などを改めたことをお断わりしておく。
北原白秋編『日本伝承童謡集成』子守唄篇(国民図書刊行会、1947)
『日本わらべ歌全集』全27(柳原書店、19791992)
尾原昭夫『近世童謡童遊集』(同上第27巻、1991)
熊本県教育委員会編『熊本県の民謡』(熊本県文化財保護協会、1988)
『球磨民謡集』(球磨民謡保存会、1973)
『熊本のわらべうた』(熊本県、1978)
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柳田国男全集・第18巻『民謡覚書』『民謡の今と昔』(ちくま文庫、1990)
岡田希雄「鎌倉時代末期の子守歌」(『歴史と地理』第19巻第1号、1927)
赤松啓介『女の歴史と民俗』(明石書店、1993年、初版は1950)
『村落共同体と性的規範』(言叢社、1993)
松永伍一『日本の子守唄』(紀伊国屋書店、1964)
安永寿延『増補・伝承の論理』(未来社、1971)
臼田甚五郎『子守唄のふる里を訪ねて』(桜楓社、1978)
宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫、1984)
黒田日出男『〈絵巻〉子どもの登場』(河出書房新社、1989)
ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫、1991)
右田伊佐雄『子守と子守歌』(東方出版、1991)
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上村てる緒『挽歌・五木の子守唄』(株式会社エコセン、1973)
木村祐章「五木の子守唄について」(『熊本放送』196311月号)
「熊本の子守唄について」(同上、196312月号)
高群逸枝全集・第4巻『女性の歴史1』(理論社、1966)
米村竜治『殉教と民衆-隠れ念仏考』(同朋舎出版、1987年、初版は1979)
林黒土『五木の守子唄物語』(熊本出版文化会館、1992)
前山光則『球磨川物語』(葦書房、1979)
山本文蔵『秘境五家荘の伝説』(私家版、1969)
丸山学「山師の伝承」(『日本民俗学』第2巻第3号、1955)
黒木章「殿と名子」(『社会と伝承』第2巻第3号、1958)
佐藤光昭「五木の地頭」(「社会と伝承」、第2巻第4号、1958)
「五木村の焼畑作業」(同上、第4巻第2号、1960)
柳田国男編『山村生活の研究』(国書刊行会、1975年、初版は1938)
宮本治人『ふるさと絵姿集』(熊本日日新聞社、1989)
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安藤隆『宇目の唄げんか』(奥宇目民俗保存会、1954)
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熊本商科大学民俗学研究会編『五木 民俗調査報告書』(1972)
五木村総合学術調査団編『五木村学術調査』人文編(五木村役場、1987)
『宇目町誌』(宇目町、1991)
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『西米良村史』(西米良村役場、1973)
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赤坂憲雄「五木の子守唄考」(叢書・史層を掘る・第5巻『漂泊する眼差し』新曜社、1992)
「勧進/聖論のための覚書」(『結社と王権』作品社、1993)