滑稽の構造 著者 田河水泡 講談社

1981年8月10日第一刷発行 0011-267342-2253(0)

滑稽の構造表紙画像

滑稽の構造表1  滑稽の構造表2

まえがき

 この本は滑稽(こっけい)作品の収集にはじまり、それを分類する必要から滑稽の構造を探る破目(はめ)になって、苦心惨澹(さんたん)した結果ようやくコレクションの分類整理ができましたという研究報告みたいなものです。
 しかし研究報告というものは何んの場合でも退屈なものですが、幸いに多くの漫画家の協力を得て優れた作品の提供をうけたので、その作品の紹介を兼ねて分類の例題としました。
 そのおかげでこの本は解説付き漫画集として笑話と合せて充分に滑稽の快感を楽しんで頂けるものになったと思います。
 先ず順序として滑稽作品の収集から話をはじめましょう。
滑稽作品の収集
 私は、面白いと思う笑話があるとノートに書止めたり、面白い漫画をみると切抜いてそれらを溜めて楽しむことを続けてきました。
 初めは集めて溜めてそれをどうするという目的はなかったのですが、私は滑稽を創る職業にたずさわっている者として、一般の人のようにちらりと見ただけで捨てるようでは滑稽という概念を粗末にすることになるので、これを集めようという気になったのです。
 作者が一点の小品を創るにもさんざん頭を搾って生み出すのですからその精進を思うと捨てる忘れるでは済まないと思うのです。とはいってもおびただしい刊行物の中から私の目にふれるのは九牛の一毛にも及ばないほんの僅かなものですが、それでもその中から面白いと思うものに出会うとそれをコレクションに加えているうちに、だんだん量張(かさば)ってきて、何んとかしなければということになってきました。
 収集とは量的にただたくさん集めればいいというものではなく、体系的な分類整理が伴わなければ収集の意味がないと聞いています。
 そこでコレクションを整理したいという願いが起こるのですが、それには滑稽がどんな構造で組立てられているかを知らなければ分類のめどが立ちません。
 これを大別すればコミックとナンセンスですが、それだけでは整理がつかないから更に細別するために、滑稽の分類法というような便利な本があればと探しても、そんな本はないので、そこで諦めちまえば後で苦労しなくても済んだのでした。
 しかし顧みれば、私は滑稽を創ることで生涯を生きてこられたのですから、一般が滑稽を軽んじていることに同調して、滑稽とは他愛もないことだ、などといって済ましていては滑稽さんに申訳ない、と妙なところで義憤を感じて、滑稽の構造を調べてみようという気になったものです。
滑稽は論理の誤り
 かねてから滑稽は論理の誤りだということはたびたび聞いていました。
 そこで論理がどう誤れば滑稽になるのか、論理学を読めばその構造が分かるだろうと思って、古本屋の哲学書という棚から論理学の本をみつけてきて、どこかに滑稽という文字があったらそこを手がかりにしようとパラパラめくってみても、滑稽だのおかしいだのという言葉は一言半句もみつからないので先ずがっかりしました。
 私は大学いもは食ったことはあるけれども大学なんか行ったこともないので、論理学のろの字も知らない、学問の門外漢です。
 それが難解な論理学と取組んでみる気になったのは大それたことだと思うけれども、必要がそうさせるのですからともかく読みはじめてみると「論理学と倭正しい思考作用の形式を研究し、且つこの形式によって科学的知識を獲得し、これを組織ずる一般的方法を論ずる科学である」と定義していることから始まって「論理学の対象は思考作用である」と規定し、更に「思考には正しい思考と正しからざる思考とがある。前者は真なる思考であり後者は偽なる思考である。心理学では思考の真偽を問題とせずに思考の働きを、研究するが、論理学では常に正しい思考、即ち真なる思考のみを研究対象とする」と規定しています。
 まだあります。「論理の誤りは虚偽であり、虚偽は科学の対象にならない」とここできびしく論理の誤りをこきおろしています。
 そうなると論理の誤りである滑稽は、正しからざる思考に属して虚偽として論理学から切捨てられ、虚偽は科学の対象にならないとして論理学者からは見限られていることになります。
 これでは滑稽はごみ溜に捨てられた屑のようなもので、そのうえ誤りだ、不正だ、虚偽だ、とまるで悪ものででもあるかのように扱われたのでは浮ぶ瀬もありません。
 学者は真理の探究はするが虚偽の追求はしない、といっても論理学を読んでみると論理の誤りになる例は随所にあります。
すべての動物には理性がない
すべての人は動物である
故にすべての人には理性がない
 これは論理を誤っているから滑稽だといえるのに、論理学ではこれを四個概念の誤謬といって滑稽とはいわないのです。
 そのほかにも論理の矛盾によって起こる誤りが滑稽になる例がたくさんありますが、それらも中概念不周延の誤謬、両前提否定の誤謬、両前提特称の誤謬などと呼んで滑稽とはいわないけれども、滑稽になる例を幾つも取上げているではないか、どうして四角張った学術用語ばかり並べたがるんだろう、ほんとにつき合いにくいったらありゃしねえ、とやけっぱちんなってSPなら胡瓜はカッパだなどとチャカして読むからますますらちがあきません。
 飽きあきして放り出したり、また気が向いて読み直したりしていると、或る日ハッと気がついたように論理学が滑稽という用語を用いないわけがやっと分かりました。
滑稽は心理的感情
 心理学では思考の真偽を問題とせずに、思考の働きを研究するが、論理学では常に正しい思考、即ち真なる思考のみを研究対象とする、とはじめに述べたように、論理学は感情を働かせてはならないので、滑稽という感情を伴う言葉を用いないのでした。
 そんなことは始めから分りきったことですが、そこが独学の徒の弱点で、頭が論理学にこびりついていると何んでもそれで決めようとする観念から離れないので、感情が働けば心理学の分野だということに頭が回転しなかったのです。
 それでは滑稽は心理学に属するものならば、心理学で分類できるかとなると、これがまた厄介なことに感情は主観で動くから、或る人がああおかしいと快感を覚えても、他の人には何んだくだらないと不快感を与える場合もあるし、突発的に出た洒落が非常におかしく感じても、二度繰返されると陳腐になって快感が減少することなどわれわれがよく経験することです。
 そのように一定の法則を決めることができないので、滑稽を心理学で分類することは先ず困難なことだろうと思います。

 

やっぱり滑稽は論理で分類
 ドイツの有名な哲学者リップス(18511914)も、滑稽とは論理的価値の生滅にある、といっています。これほどの大家がそういうのですから間違いないでしょう。
 そこで再び論理学に戻って論理がどう誤れば滑稽になるのかについて考えてみることにしました。
 論理学には原理論と方法論とがあって、原理論では初めに概念があり、概念が発展して判断となり、判断が発展して推理となるとあります。
 その間にはややこしい規則がありますが、初めにも述べたように論理の誤りは虚偽であり、虚偽は科学の対象にならないと論理学から突っぱねられているので、滑稽を分類してもこれは科学でも学問でもないと決まればこっちも気がらくですから、学問的な規則は無視して概念だけに焦点を当ててみることにしました。
 初めの概念に誤りがあれば判断も推理も誤るのだから先ず概念だと見当をつけたのが当って、ここに手がかりを把むことができました。
 この概念の誤りが滑稽の生じる元になつていて、同時に方法の誤りが複合されていて、必ず二重構造になつて現われます。
 このことは例題集の解説を読んでみればすぐ分ります。
 ですから方法の誤りは後から組合わせるのではなく、滑稽作品の中から発見するものなのです。しかしこれは省略しても20項目もあるので、これを誤りなく分類するには多少の慣れが必要でしょう。
 私はそのやり方は考えたものの、分類には慣れていないので、かなりいい加減に押っつけたものもないとはいえません。その点はご容赦のうえ誤りをみつけたら訂正しておいてください。
 例題集の作品は、落語のように長いものは滑稽の部分を採り、笑話は行数の少ないもの、漫画は四コマ乃至一コマとなるべく短かくて現代活躍中の作者のものを選びました。
 笑話に江戸小ばなしが多いのは、二百年を越える江戸時代に既にあらかたの滑稽の型が創られていたことを示したいためで、参考のため巻末に噺本の創作年代表を添えておきました。
 最後に用語のことですが、これは学問ではないのだから論理学の用語を避けて、もっと平易な日常語に置き替えたいと、いろいろ工夫してみたのですが、これはだめだったので、不本意ながら論理学の用語をそのまま借用することにしました。学術用語を使っていると科学性があるように錯覚しますが、これは当初に述べたようにコレクションの分類整理のための趣味的便法に過ぎません。
 多少の判断の誤りがあっても乱雑が整理されればそれだけでも気分がいいものです。
 いろいろ型の変った作品を集めて観賞し、滑稽の快感を楽しむことが収集の目的ですから、むずかしく考えずに気らくにやるつもりですが、何せ相手が論理学だからやっぱり骨が折れました。

第一部 序説

概念の話
 収集には分類整理が伴うものなので、滑稽の収集はこれから述べる方法で分類することができます。
 論理的概念で大別すると、方法の誤りが現れて滑稽が細別されるのでその構造が分ります。
 そこで先ず概念の話から取りかかりますが、これも論理学の受売りで、その種類を書き写せばいいと思っていたら、概念には内包と外延とがある、と聞いたこともない用語がとび出すので、とたんにとまどいました。
 しかし論理学を勉強するつもりではないから、そんな学術用語は黙殺してやれと思ったら、これが概念の分類に重要な役目をもっていたのです。
 これを平ったくいえば、概念の内包とは概念の本質で、外延とは概念の範囲をいうのです。
 なぜそんな区別が必要なのかというと、たとえば自動車という概念の本質は、燃料でエンジンを動かして道路を走る車、であって、その範囲は乗用車・バス・トラック・ライトバン・救急車・消防車・バトカー・レンタカー・何んだカーと範囲を追ったらきりがありません。
 また郵便切手という概念の本質は、郵便物に料金として貼るために法で定められた紙片、としておきましょう。その範囲は小額から高額までの各種の通常切手と、数百種に及ぶ記念切手、その他世界各国の外国切手もあるし、範囲を拡げたら、ぼうだいなものになりましょう。
 そういうわけで概念の範囲にかまけていては、まとまりがつかないから、滑稽を概念で分類するにはその本質だけに搾る必要があるのです。
 論理学では主として本質による概念の種類を次のように区別しています。
本質による概念の種類
A 同一概念と不同一概念
B 同類概念と異類概念
C 積極的概念と消極的概念
D 単純概念と複合概念
E 抽象的概念と具体的概念
F 対象概念と属性概念
矛盾概念と反対概念
絶対的概念と相対的概念
 このほかに範囲による概念の種類がありますが、必要がないので省略します。
 以上のうちAからFまでの記号は、分類項目を決めるため分類記号として私が勝手につけたもので、便宜的なものです。
 これら一対の概念が互いに混同誤用されると矛盾が起こりこれに方法の誤りを組合せると滑稽が生じます。
 少々長くなりますが例題を添えながら解説してみましょう。
本質による概念の種類
A 同一概念と不同一概念
これは二個以上の概念の本質と範囲が同じかどうかで区別するものです。
しかし厳密にいえば世の中に全く同一というものはないのですが、ここでは自分と私、父母と両親、信州と長野県というような場合を同一とします。 
B 同類概念と異類概念
これは二個以上の概念がその類を同じにするか否かによって区別するもので、昔から概念の本質の異ったものを、木に竹を接いだようとか、お月さまにスッポン、つまり雲泥の差などといいますが、本質が共通しないものを異類概念とするのです。
C 積極的概念と消極的概念
この概念は、或る性質をもっているか否かで区別するもので、積極的は肯定的、消極的は否定的と覚えておくと便利です。
 積極的概念とは、成功・幸福・健康というような肯定的なものをいい、消極的概念とは、失敗・不幸・無理・非運・否決・失恋というような否定詞がつく場合が多く、しかし否定詞を冠しても、不戦勝・無病息災・失業救済などと肯定に戻るものもあります。
 また造語によっては、永遠の青年・不老不死・万病の妙薬などというと積極的に聞えるけれども、そんなものは実在しないのだから消極的概念として扱います。
D 単純概念と複合概念
 これは論理学ではむずかしい用語で書いてあって、私にはそれを平易に説く学識がないので、知ったかぶりをするよりは兜を脱いで、読んで字の如しとしておきます。
 理屈は分からないけれども大体そんなものです。
 なおこのほかに、範囲に属するもので個別概念と集合概念がありますが、作品の分類でその方が適していると思われるものはこの枠に納めることにしました。
E 抽象的概念と具体的概念
 これは概念の性質によって区別するもので、抽象的という言葉は学説によって解釈が異なるものだそうですが、ここではごく一般にいわれているように、抽象的とは知覚することのできない観念的なものをいい、具体的とは実物を示すことのできる事物的なものとします。 
F 対象概念と属性概念
 これはものを判断するときに、概念の占める位置によって区別されるものです。つまり、対象概念は常に判断の主語の位置にあり、属性概念は常に判断の客語の位置にあるということです。
以上六種類の概念が滑稽を分類する基になるので、滑稽は六種類の型に大別されることになります。
なお、そのほかに、矛盾・反対・絶対的・相対的の概念を残してありましたが、これらは滑稽を作る素因、または性質を区別するために残しておいたものです。 
矛盾概念と反対概念
 矛盾とは本質を異にして両立し得ない二つの概念が互いに否定し合うもので、たとえば有と無、生と死というようなものをいいます。
 これらはその両者の間に他の概念をさし挾むことができないもので、有るけれども無い、生きてるけれども死んでいるなどは矛盾です。
 これに対して反対概念は、本質を異にする二つの概念が対立するときに生じるもので、大と小、高と低、美と醜などの場合、その間に中または普通という概念を容れることができます。その点で矛盾と区別されています。
絶対的概念と相対的概念
 最後に絶対的概念と相対的概念ですが、これは概念が独立性を有するか否かで区別するとされていますが、私はこの概念を使って、滑稽の性質の区分に応用することにしました。
 滑稽には、コミックとナンセンスの性質の異なるものがあるので、絶対的概念をナンセンスに当てはめることにしました。
 ナンセンスは実在も科学も無視して、架空から不合理な滑稽を作り出す。いわば発明された滑稽がナンセンスなのです。
 相対的概念はコミックを当てました。コミックはわれわれの生活身辺に実在するものを対象として、そこから滑稽を求めて作り出す。いわば発見された滑稽がコミックなのです。つまり滑稽には発明された滑稽と、発見された滑稽とがあるということです。
 このほかにユーモアと呼ばれる滑稽がありますが、これは美的快感という主観による感情で動くものなので、論理的な分類の枠には当てはまりません。だからそれには触れないことにして、概念の話をこれ終わります。
  方法の誤り
 さて次は方法の誤りですが、これは論理学の創始者といわれるアリストテレスが、方法の誤りを分類整理して誤謬論をまとめてあるのです。紀元前の大昔によくもそんなことができたものだ、と驚くのほかはありませんが、アリストテレスの誤謬論は演繹(えんえき)的推理だから、これに帰納法を加えなければ片手落ちだとして、英国のステユアート・ミル(18061873)が修正して完成したものだそうです。
 そのように先哲が誤謬論を設けておいてくれたおかげで、それに学んで滑稽の分類ができるわけですから、尊重しなければならないのに、あんまり詳しすぎるので、私は都合のいいようにそれを圧縮して分類枠の数を揃えたから、学者のそれとは違う不完全な項目になっています。
 誤謬論はどうせ学問ではないし、誤謬論だから誤謬はあるさ、と洒落でごまかしては、アリストテレスさんが苦い顔をするでしょうが、まあなんとかこれでおっつくらしいと見込んで分類枠を決めました。
 方法の誤りには、言語的誤り、内容的誤り、資料的誤り、論証の誤りの四種の区別があって、その各一が幾つかの誤りをもっていますが、私はそれを整理して各ヽが五個ずつの誤りをもつように直しました。
言語的誤り
これは言語の構造またはその使用上から生ずる誤りで、これには、一語多義・一文多義・多語一義・語義解釈の誤り・比喩の誤りの五つの誤りがあります。
1一語多義
同じ発音、またはアクセントの相違であいまいが起こりやすいもので、同音多義ともいいます。
2一文多義
これは文章の構造のあいまいさから生じる誤りで、文章に誤りはなくても、読み方によって意味が全く変わるものです。弁慶がなあ、ぎなたを持って、と読む弁慶読みもこの型です。
 3多語一義
同じことを不同一のように重ねていうので重ね言葉、または同義重複ともいいます。これは誤謬論の項目にはなかったのですが、少ないながら該当する例題があるので加えたものです。
4語義解釈
誤謬論では言語強調(アクセント)の誤りとなっていますが、アクセントだけでなく、言葉の意味を誤解するいろいろの場合を含めることにします。
5比喩の誤り
比喩とは、全く違ったものの間に一致するもののあることを見出したり、機智によって作り出したりするものです。
比喩の誤りとは比喩が誤っているというのではなく、比喩は比喩にすぎないのだから、それを真とすることは誤りだというのです。
 内容的誤り
 これは思想内容の誤りをいうのですが、分類の中ではこの部分がいちばん難しくて判断に迷うことが多く、私にはうまく処理できないものもあります。従って例題の分類は正確を欠くものもあるはずです。独学で精一杯やってるんだから多少のことは大目にみてください。
 これは、結合・分離・一般特殊・特殊一般・特殊特殊に分かれていて、説明にも骨が折れます。
6結合の誤り
これは個別を集合に結合することで、一部分が真(または偽)であるから全体も真(または偽)である、と断定するのは誤りだというのです。
たとえば「37も奇数である。これを寄せると奇数と奇数だからその和は奇数である」という誤りのことです。 
7分離の誤り
みんなが集まれば全体で竜になるけれども、各個に分離すれば各ヽは竜の部分にすぎません。
それでもおれの彫りものは竜だというなら、それを分離の誤りといいます。
8一般特殊の誤り
一般より特殊を推す誤り、略して一般特殊としますが、概念には本質的属性と偶有的属性とがあって、本質的属性からみて真であるものを、そのまま偶有的属性に適用すると誤りが起こるとされています。
9特殊一般
 特殊より一般を推す誤りで、これは一般特殊の反対で、或る具体的特殊から抽象的普遍をみる誤りです。
 例えば、自分が財布を盗まれた。誰が盗ったか分からないがこれからも用心しなければならない。だから人を見たら泥棒と思え、と決めますね、これは不当帰納です。不当帰納はまた概括を誤っているので、こういうのを不当概括ともいいます。
 10特殊特殊
これは特殊より特殊を推す誤りです。或る特殊において真(または偽)であることを、他の特殊にもそれを当てはめて真(または偽)とする誤りで、不当比論とも呼ばれています。
 仁王が観音の用事で涅槃の釈迦へ使いに行ったが仏頂づらをして帰ってきたので、観音がどうしたときくと、わざわざ行ったのに釈迦が寝転んだまま挨拶するので、腹が立って帰ってきました、という。すると観音が、おまえも大方突っ立っていたんだろう。(『すすはらい』)
仏像が対象ですが、仏像には座像・臥像・立像などがあって、その姿勢は属性です。
涅槃の釈迦は臥像、仁王は立像で共に特殊な姿をしていることに取材したものですが、なかなかよくできた江戸小ばなしです。
 資料的誤り
これには研究方法の誤りとして、観察の誤り、実験の誤り、因果関係の誤りがあり、また統斉方法の誤りとして、定義の誤り、分類の誤りがありますが、これらには不当の文字を冠して用語を圧縮してあります。
11不当観察
観察とは誰にも同じように分かるというものではないそうで、同じものでも人によってまちまちな観察をするものだそうです。
これは先入観、僻見、錯覚などの属性的な判勘が邪魔をして本質を見落とすこともあるし、その他いろいろの事情がからむことによるものだそうです。
12不当実験
 実験とは観察の一種ですが、実験は器物か材料を用いて観察することなので、ただの観察と区別されています。これには実験者が不当な方法を用いる場合と、器物材料が不能で実験にならない場合とがあります。
13不当因果
これは原因と結果の関係を不当に認定する誤りですが、因果関係にはいろいろの場合があって非常にややこしいものです。
それにかまけていてはきりがないし、その必要もないので、理屈は抜きにして、因果関係が誤っていると思うものをここに集めます。
 14不当定義
 定義には論理的定義だの記述的定義だのといろいろ規則はありますが、滑稽になるような不当定義は、定義の規則なんか無視したもので理屈はないのですから定義とは何かなどと開き直る必要はありません。
(A14)  眼は人間のまなこである。
 こんなのは唯命的定義といって作ればいくらでもできますが、くだらなくふざけると滑稽の品位を害して不快感を起こすことになるので自重が必要です。
15不当分類
 これにもやかましい規定があって、分類原理が必要だとされていますが、そういう原理に反くものが不当分類なので、誤っておかしければそれでいいのですから理屈の紹介はやめましょう。
 しかし滑稽の分類をしているのに、分類原理を省略すると、これが即ち不当分類ということになりますかね。
論証の誤り
 論証とは、或る判断(主張していること)が真であることを、他の真なる判断(根拠)によって確かなものにすることです。
 でもそうなっては滑稽が成立しませんから、滑稽の場合には論証がどこかで誤っていなければなりません。
 そこで論証の理屈は飛ばしてその誤りだけを分類すると、不当仮定の誤り、複問の誤り、論点変更の誤り、論点仮託の誤り、論証不足の誤り等があります。
 詳しくいうとまだこのほかにもありますが、しかしいままで方法の誤りを五項目に納めた都合上、これも五項目にしぼると整然として数の目が揃うので、はみだしたものはこれらのどこかに突っ込んで処理することにしました。
 まあ圧縮して多少ごまかすわけですが、不自由もなく、なんとか納まるものです。
6不当仮定
まだ解決も証明もされていないことを根拠(前提または理由)として論証すること、つまり未解決の問題を証明もせずに勝手に仮定して結論する誤りです。
17複問の誤り
本来ならば二度以上に分けるべき質問を、一つの質問としてイエスかノーかを求め、どっちを答えても相手が不利になるように仕組んだもので、これはまともな論証ではなく一種の誕弁です。
(F17) 「五百円もって郵便局へ行き、百円の切手を三枚買って帰る途中、道ばたに百円玉が落ちていた。いま僕の財布に現金はいくらあるか」
 落ちていた百円玉が対象、それを拾ったか拾わなかったかは属性。落ちていたとはいったけれども、拾ったかどうかは言わなかったから、答えは二つになります。
 18論点変更の誤り
これは或る主張をしているときに、根拠が薄弱で都合がわるくなったときに、その論旨を変えるもので、これには知らず知らずやってしまうこともありますが、故意に行うこともあります。どっちにしても詭弁です。
19論点仮託の誤り(こじつけ)
論点仮託とかたく読むとむずかしくなりますが、平たくいえばこじつけのことです。
こじつけとは口実をつけることですから、自分の言っていることの論拠が薄弱な場合に、口実を設けてまことしやかに繕ろうことです。
もともと筋の違っていることをいっているのですから、どれだけうまくこじつけたとしても正しい論証にはならないものです。
20論証不足の誤り
 十分に結論を証明できないものを前提として、論証不十分のまま結論する誤りで、結論すべきでないものを結論するのは、いい替えればでたらめということにもなりましょう。
 でたらめといえば言葉は悪いけれども、承知の上で敢えて矛盾を犯して滑稽を作ることもあるので、論証不足を一概に否定することはできません。

 

以上で序説を終ります。
 一般には序説に続いて本論があるものですが、この本には本論はありません。
 というのはまえがきで述べたように、収集した滑稽を分類する必要からいろいろ調べてこのように整理ができたことの研究報告ですから、コレクションの紹介と解説が本論に替わることになります。
 いままで窮屈な話で辛抱して頂いたのですから、ここで気分を変えて、多くの漫画家が趣向をこらして創ったさまざまな作品を観賞して頂いて、それがどんな構造でできているかを解説することにします。
 終わりにひとこと申し添えますが、例題解説の中にしばしば何々の誤りという字句がでてきますが、作者が誤っているというのではなく、論理の誤りの意味ですから、それをおかしみと解釈して読んでください。
方法の誤りを一覧表にまとめてみると次のようになります。
方法の誤り一覧

第二部

例題漫画
A同一不同一/B同類異類/C積極消極/D単純複合/E抽象具体/F対象属性

第三部

例題笑話
A同一不同一/B同類異類/C積極消極/D単純複合/E抽象具体/F対象属性

 

引用咄本一覧 武藤禎夫編『江戸小咄辞典』による

『按古於当世(あごおとせ)』文化4年(1807)/『新落はなし いちのもり』安永4年(1775)/『大きにお世話』安永九年(一七合)/『落噺(おとしばなし)仕立おろし』天保8年(1837)/『かす市頓作』宝永5年(1708)/『鹿子餅(かのこもち)』明和9年(1772)/『聞童子(きくとうじ)』安永4年(1775)/『戯言養気集(ざげんようきしゆう)』元和年間(161524)
『口合恵宝袋(くちあいえほうぶくろ)』天保15(1844)/『古今秀句おとし噺』天保15(1844)/『さとすずめ』安永6年(1777)/『春笑(しゅんしょう)一刻』安永7年(1778)/『寿々葉羅井(すすはらい)』安永8年(1779)/『醒睡笑(せいすいしよう)』寛永5年(1628)/『高笑い』安永5年(1776)/『鹿子餅譚嚢(たんのう)』明和9年(1772)/『御存知かるくち露がはなし』元禄4年(1691)/『鳥の町』安永5年(1776)/『笑笑顔(はなのえがお)』安永4年(1775)/『福茶釜』天明6年(1786)/『富来話有智(ふくわうち)』安永3年(1774)
『おとしばなし福来(ふくら)すずめ』天明9年(1789)/『福禄寿』宝永5年(1708)/『室の梅』天明9年(1789/『咄ノ会三席目 夕涼新話集』安永5年(1776)/『和漢咄会(はなしかい)』安永4年(1775)

あとがき

 滑稽を120もの枠に分類することが私にできるだろうか、とはじめは案じていたのですが、永い時間をかけて石と玉を選り分けながらあの枠この枠とやってみると、多少は難解でごまかしたものもありますが、まあ何んとか整理がついて、これで私の乱雑な滑稽収集も、整然とまではいかないとしても分類することができるようになったので、やっと目的を遂げたわけです。
 それにしてもこうして分析してみると滑稽とはずいぶん複雑な構造をしているもので、私のような学問には縁のない者がここまで辿りつくには年数がかかりました。
 ところが驚いたことにこんなことは論理学の創始者アリストテレスが紀元前の大昔にすっかりやっちまって、ちゃんとでき上がっていたのです。
 概念には本質と範囲があることも、方法の誤りを集めて誤謬論をまとめたことも、みんなアリストテレスが済ませてあって、論理学にその地図が描いてあったからこそ、それに導かれて私はここに辿りつくことができたのでした。
 思えば今更のようにアリストテレスさんの偉大さに合掌して敬意を捧げます。
 アリストテレスは学問で、私はコレクションを分類する趣味でやったことで目的は全く違いますが、彼が切捨てたものを私が拾って滑稽の分類に役立てることができたわけです。
 分類ができれば作品の記録保存にも応用ができるので、私はかねてから思っていることですが、このやり方で漫画作品を或る程度まとめて記録に残したいと思うのです。
 滑稽の作品は、江戸時代に作られた笑話は、江戸小ばなしとして克明に記録に残されているし、落語は落語全集として幾たびも企画を替えて出版されているし、美術は美術館に、文芸は文学全集にそれぞれ保存が考慮されているのに、漫画は著名な作者は別として、グループ出版、自費出版などの漫画集にたまたま優れたものがあるものですが、作者が知恵を傾けて作った努力の作が、広く人の目に触れることもなく、見て捨てられる運命に置かれていることは、作品にとっては惜しいし、作者にとっては残念なことでもあるのです。
 同じことはすべての漫画についても言えますが、月刊週刊日刊と彪大な量が創られているので、それらすべてに亙って収集することは到底不可能なことです。
 そこで、たまたま私が出会った四コマ以内の漫画、つまりこの本で例題に紹介したような概して小品漫画の中からさまざまな構造を集めてみたのですが……。
 これによって作者と作品は記録され、分類枠に整理して保存出来ることになります。幸いに多くの漫画家の協力を得たおかげでこの本をまとめることができました。
 滑稽の構造を述べるために理屈も多かったけれども、漫画家諸氏から提供された作品も多いおかげで、面白く読んで頂けると思います。
 この本をまとめるに当たって協力して頂いた漫画家諸氏のお名前を記して謝意と致します。(敬称略)
青木久利、赤川童太、安芸ヒロシ、鮎沢まこと、家田雅司、井川ヒフミ、石川カジオ、泉昭二、磯貝幾朗、伊藤章夫、岩本久則、宇川育、ウノカマキリ、うめたにえいぞう、オダシゲ、オグラトクー、片寄みつぐ、加藤芳郎、河原崎弘司、きたのまさひと、北山竜、草原タカオ、久里洋二、国府弘昌、ジクフラムシ、篠原ユキオ、芝岡友衛、園山俊二、滝田ゆう、武田秀雄、谷岡やすじ、団士郎、千葉督太郎、つのださとし、手塚治虫、所ゆきよし、中島弘二、永島慎二、永田竹丸、西沢周平、蓮見旦、長谷川町子、古川タク、前川しんすけ、御法川富夫、宮下森、森田拳次、矢玉四郎、やなせたかし、山根あおおに、山根赤鬼。
 以上のほかにもまだ多くの漫画家から面白い作品の提供をうけていますが、頁数の都合で、割愛したものがたくさんあります。機会を得られたならば続いて紹介したいと思います。
昭和565月   田河水泡