最後の狩人たち-阿仁マタギと羽後鷹匠 長田雅彦 著 無明舎出版

1977620日初版発行 19791102刷 装幀 宮本康男  写真 長田雅彦

最後の狩人たちカバー画像

目 次

序 関 和夫

阿仁マタギ昨今

【マタギたち】
■クマ追い■山に住む■あだ討ち■シカリ■空気投げ■頭撃ち■雪男探索■変わる山郷■後継者
【狩り場にて】
巻き狩り■冬のウサギ狩り■春グマ狩り(命中)■春グマ狩り(吹雪とガス)■春グマ狩り(授かり物) ■春グマ狩り(厄日)
【山の幸】
■ケボケ■クスリ■クマの習性㊤■クマの習性㊥■クマの習性㊦■乱獲と乱開発■獲物たち■滅びゆく動物
【マタギ文化】
■料理■猟犬■山入り■山神様と言葉■禁忌■厄よけ■装備■猟具■山の心得■万事万三郎■火縄銃■旅に出る■名人列伝■戊辰戦争■山達考

最後の鷹匠

■訓練■狩り■人間とタカ■生態■捕獲■稼業■道楽■装備■歴史■援助

取材ノート  長田雅彦

解説  野添憲治

 山形県境に近い秋田県羽後町で51年2月、タカの訓練に出かけた一人の鷹匠が不慮の事故で亡くなった。古来の伝統を受け継ぐ現役鷹匠では、全国でも同町に二人しかいなかった一人という。
 秋田に赴任して間もない私は、実はいまどき鷹匠が残っていたことにびっくりした。驚きはまだあった。秋田の山村にはマタギ集落がいくつか残り、奇習ともいえるその風俗も伝えられていることを知った時だ。
 近ごろはどこへ行っても、農漁村おしなべて生活様式が画一化し、合理化されて来た。昔ながらの宿場街を旅した時、あるいは村祭りの笛太鼓の音に、わらべ歌の中に、わずかに土臭い郷愁を見出すにすぎない。秋田にだけ、なぜマタギ習俗が生きているのだろうか。もともと、東北地方特有のマタギ集落の中でも秋田マタギは全国に名をはせていたが、開発から取り残されたことのほか、人々の心の純朴さも大きいような気がする。
 とはいえ、時代の波は秋田の山村にも容赦なく押し寄せている。禁忌や潔斎、神技的な名人芸を伝える古老たちは数えるほどしかいなくなった。ライフルや四連銃など新鋭猟具の前に、山の神を畏敬する風習が消えるのも時間の問題だろう。
 そんな実態を見つめ直そうと、52年1月から3月にかけ、朝日新聞秋田版に「阿仁マタギ昨今」と「最後の鷹匠」を、続いて同年5月、同東北版に「奥羽山脈の春グマ狩り」を連載した。連載中から本にならないか、との読者の要望が多く、無明舎のご厚意もあってこの三部作をまとめたのが『最後の狩人たち』である。
 意外だったのは、彼らの生活が徹底した自然保護思想で貫ぬかれていたことだ。獲物を山の神の恵みとして感謝し、必要以上に乱獲せず、祈りとタブーで己を律して来たマタギ習俗の中に、奥羽山脈の厳しい自然と闘いながら先祖代々培った生活の知恵の凝集を見ることができた。
 日本列島で唯一の狩猟民族ともいえる彼らのおいたちへの興味も尽きなかった。
 なお、この本は「朝日新聞秋田支局編」となっているが、支局員の長田雅彦君か一人で書いた。51年秋口から取り組み、カンジキをはいて何度も山に入り、マタギや鷹匠と酒をくみ交わし、時には命の危険を感ずるような山歩きに同行した。すでに失われた猟法や習俗が多く、鷹匠は文字通り一人だけだったし、マタギも現役といえるかどうか。「いまを逃がしたら書くチャンスがない」というあせりも、長田君の情熱をかき立てたようだ。
 先人たちの文献も大いに参考にさせていただいた。厚く御礼申し上げたい。
朝日新聞 秋田支局長 関 和夫(現朝日新聞宇都宮支局長)

取材ノート  長田雅彦

 「正月企画にマタギをやろう」こんな話が出たのは51年の秋ごろだった。新聞社にとって正月から始める連載は、その年の目玉商品だ。各地方支局でも力を入れ、一カ月ぐらいの準備期間を置いて入念な取材を積み重ねるのが普通で、テーマの選択にはことさら気をつかう。
 この本のきっかけとなった「阿仁マタギ昨今」の場合は、12月5日投票の総選挙に支局員が全力投球した関係で、そんな余裕はなかった。
 「秋田はマタギの本場だし、まだ、面白い話が残っているのでは」という程度の考えでスタートしてしまった。
 それまで、私のマタギについての知識は、子どものころ読んだ本や、最近流行の劇画などによるもので、山奥に住みクマなどを狩って暮している神秘的な猟師たち、といった程度だった。
 前の任地の新潟県には、先祖の民具類しか残っていなかった。もともと農耕民族だった日本人のなかに、狩猟で生計を立てていた人がいたという点はかねて興味を持ったが、もう遠い昔の話だ、と思っていた。
 秋田に来て、同じ東北の他県に比べ、昔からの盆踊りや祭りが数多く伝承されているのを見て、ひょっとしたらマタギも残っているのでは。いつかは取材してみたい-そんなおぼろげな考えは持っていた。
 取材を始めるに当たり、県立博物館主任学芸主事の木崎和広さんからいろいろご指導をいただいた。木崎さんは民俗学を担当しておられ、県教委が39年にまとめた、「狩猟習俗調査報告書」の執筆者の一人。マタギはもとより鷹匠の習俗にも精進しておられ、この本に収録した「最後の鷹匠」「奥羽山脈の春グマ狩り」へと続く一連のシリーズのヒントを与えて下さった。
 木崎さんによると、秋田県内の山村にはマタギを専業にしていたところがかなりあり、なかでも北秋田郡阿仁町、仙北郡田沢湖町、同西木村、由利郡鳥海村などのそれぞれ奥地がマタギ村として知られていた。
 とくに阿仁町の大阿仁地区に現在も色濃くその名残りがとどめられているとのことで、まず阿仁マタギに焦点を絞った。
 マタギに関する資料を集めたが、これが非常に少ない。そんな中で「狩猟習俗調査報告書」は、マタギを多くの角度から調べたもので民俗学的価値が高く、大変参考になった。いまから十数年前の調査であるため、その間に失われた記録の穴を埋める意味でも大いに助かった。
 しかし、マタギの実際の体験談、狩猟の様子に関するものはほとんど見つけることができなかった。
 阿仁マタギのふる里を訪ねたのは、5112月下旬から52年1月中旬にかけて。体験談、マタギが生業として成り立った当時の習俗の聞き取り、マタギに関する古文書と道具類探し、それに二日間だったが獲物を求めて彼らと雪山を歩き回った。折から例年にない異常寒波と大雪で、最後のところは車を捨て、自分の足に頼らざるを得ない。
 秋田市から百キロ余。一回三泊-五泊の取材はすべてマタギの家にお世話になった。
 マタギの人たちは一般に口が重い。いや、見ず知らずの若僧がひょっこりやって来て、いきなりいろいろ聞かれたからだったかもしれないが、とにかくとっつきにくかった。しかし、マキストーブにあたり、酒をくみかわすうちに次第にそれがほぐれ、都会では味わうことのできない温みを存分に満喫できた。
 ことに狩りに関する話になると、まさにとどまることを知らずといった具合で、いくら聞いても聞き飽きないほど面白い。雪山の厳しさ、動物たちのしぐさや鳴き声までが身振り手振りではいり、文字で再現するのがもどかしいほどだった。
 体験談のなかでも最も興味深かったのは、やはり60歳以上の長老たちからのものだった
 本来の意味でマタギといえるのは、プロの猟師としての修業を経た彼らだけだし、それだけに狩猟に対する考え方は若いハンターたちと根本的に違う。山や獲物たちなど自然への接し方は、信仰ともいえる敬けんな気持ちに裏打ちされており、第一、狩猟に出た頻度が若いハンターより格段に高いから、話の内容も非常に濃かった。彼らの話の最後には必ず「いまのマタギは娯楽だから」と慨嘆とも無念さともつかぬ言葉が出た。戦前と比較すると現在のマタギのあり方は大きく違っている。銃器の発達で、もはや旧式の村田銃は影をひそめ、ライフルの時代になった。
 獲物が手前に来るまで半日も待ったり、動物たちと知恵比べする必要性が簿れてきた半面、猟師としての腕前は落ちているという。マタギが職業だったころは、プロとしての厳しいルール、気構え、技術が要求されたのに対し、職業となり得ない現在は、それを求めるのが無理だということを、長老たちもよくわきまえている。
 時代が変わったのだという現実を突きつけられた彼らの、やるせなさみたいなものが感じられて仕方がなかった。
 伝統的なマタギのしきたりなどについては、70歳以上の長老に聞くしかなかったが、それも記億が簿れ、かなり断片的だ。記録として現地に残っているのは、阿仁町根子地区の佐藤正夫氏所有の「根子村の概要」で、組織から装備、猟法、おきて、マタギ用語に至るまでかなり詳しく記述されている。佐藤氏の父君の正氏が昭和7年にまとめられたもので、当時のマタギ村の習俗を伝えるものとして、大いに参考になった。学問的にも貴重な資料だと思う。また同氏宅には藩政時代、佐竹藩がマタギを保護し、藩の軍備強化にまで彼らを用いていたことを裏付ける古文書類も多数残っており、快くそれを見せて下さったご好意は大変有難かった。
 阿仁町でも、マタギ村として栄えた代表的なところは根子、比立内、打当の三地区だが、昔の面影を色濃く残すのはもう打当地区しかない。根子や比立内より交通の便が良くないことが理由だろう。マタギ習俗の大筋は三地区とも共通しているが、用語や儀式のやり方に少しずつ違いがみられた。数キロずつしか離れていない隣同士なのに、面白い現象だった。しかし、根子地区の資料を除いては、一般的に記録や道具類などの民俗的資料が非常に少ない。県は十数年前、126点の資料を重要文化財に指定し、阿仁第二中学校に保存しているが、半数近くがすでに散逸している。
 また各マタギの家に伝えられている資料も全体に保管状況が良いとはいえず、早急な対策の必要を感じた。
 狩りには計四回同行した。一、二回目は厳冬期のいわゆる寒マタギで、三、四回目は雪どけ期の春マタギ。一回目は511224日、「クマが出た」という情報を聞きつけ、無理に追跡をお願いした。結局、クマには出会わなかったが、胸までもぐる新雪を踏み分けることの苦しさ、マユ毛やマッ毛が凍りつく寒さと猛吹雪など、計五時間の山歩きでマタギの厳しさをいくらか感じとれた。
 二回目は52年1月7日、森吉山で行ったウサギ狩りだった。クマ狩りに比べれば規模は小さいものの、マタギ独得の巻き狩りの手法を見るためだった。
 新潟県で何度かウサギ狩りについて行ったことのある私の経験からも、この日の射手五人、勢子人というのは小人数だったが、射撃の腕とウサギを追い出す技術は最高だった。ウサギが現れても黙って逃げるにまかせ、しばらく離れてから一発で仕留めたマタギが「近すぎるとウサギに大きなキズができるから」と言ったのには舌を巻いた。
 冬には珍しい快晴で、素晴しい奥羽山脈の雪景色を初めて味わうことができた。三、四回目は52年4月30日と翌5月1日のクマ狩り。マタギの真価は、何といってもクマ狩りに発揮される。マタギを取り上げた以上、ぜひこの目で見たいと思っていたが、冬の取材期間中は時季はずれだったため、春グマ狩りまで待っていたのだ。県鳥獣保護センターで動物の研究をしている米田一彦さん、県林政課で狩猟行政を担当する藤岡浩さんも一緒に同行した。地元の猟友会の予定では4月29日から三日間連続でやるはずだったが、初日は暴風雨で中止になった。
 二日目は予定通り出発。朝方は晴れていたのに、途中から吹雪、強風、濃霧と一転して最悪のコンディションになった。下界ではとっくに春なのに、山の天候の厳しさを見せつけられた。
 三日目は快晴に恵まれたが、前日の山歩きの疲れが残り、猛烈にきつかった。初日も予定通りクマ狩りが行われたら、三日目はダウンしていたかもしれないと冷や汗ものだった。その点マタギたちの体力は想像以上に強い。若い人はともかく、70歳の老人でも一日三、四十キロを平気で歩く。
 それも急斜面続きの雪山を、たいして呼吸も乱さず、汗もかかずに登りおりするのにはびっくりした。
 私も学生時代は運動部におり、この取材に備えてトレーニングし、体力にはある程度の自信を持っていたが、追いつくのがやっとだった。子どものころから山で鍛え、プロの猟師として積み重ねた修業の厳しさは、アマチュアスポーツを多少かじったのとは根本的に違うことを思い知らされた。
 昔、天狗と間違えられた、という超人的なマタギの話も、あながち本当だったのかもしれない。
 見切り発車でスタートし、初めは10回程度の連載ができれば上々、と思っていた「阿仁マタギ昨今」が34回の続き物になり、「奥羽山脈の春グマ狩り」につながろうとは思いもかけなかった。長篇シリーズになった理由は、マタギというテーマが素晴しく面白いということに尽きる。
 まず、猟狩そのものがわれわれにとって本能的に興味深いことだ。年々、狩猟人口が増加しているのはその証拠だろう。まして、本州で最強の野生動物を相手にする彼らの狩りは、最も勇壮で危険が大きい。それだけにダイゴ味も大きいのだが、一般の人には経験不可能だ。その体験談は、冒険小説に夢中になる少年と同じで、だれにでも興味深いはずだ。
 私は取材中しばしば時間がたつのを忘れて話にひきこまれ、夜おそくフトンに入ってから思い出し思い出しノートにメモした。
 次にマタギの特殊性だ。わが国は昔から農耕社会であり、有史以降、肉食の習慣は薄いとされている。そのなかで、彼らのような「狩猟民族」が存続してきたこと自体、珍しいのではないだろうか。有史以前のわれわれの祖先は、狩猟と採集によって生きていたことは間違いない。農耕文化が広まるにつれ、「狩猟民族」が次第に減少し、田畑だけでは食べていけない山奥にだけマタギが残り得た。
 その最後になったのが、阿仁マタギだといえると思う。それだけでも、われわれの祖先の暮らしをうかがい知るうえで、非常に貴重なのだが、彼らの持ついわばマタギ文化は、奇妙なほどに特殊なものだ。農村社会とマタギ社会とを比べると、その特殊性がはっきりしてくる。まず、組織的には、農村社会のリーダーはごく最近まで裕福な地主に限られていたが、マタギの場合は、あくまでも実力主義だ。信仰の形態も山神が中心となり、農村と比較してひどく禁欲的だ。山岳密教との結びつきの深さがいたるところに見られるが、それがなおさら神秘性を深めている。
 またマタギ言葉に象徴される排他性、多くのタブーに秘められた宗教性が、これらのものとますます縁遠くなっている現代のわれわれに、好奇の目をもって見られるのは当然だろう。
 それに加え、まだまだ豊かな奥羽山脈の自然に囲まれての彼らの生活、自然界の法則からいささかもはみ出ない古来からの伝統といったものに対する、われわれの憧れが重なってくる。
 われわれの周囲が高度に工業化され、自然の営みとのかかわり合いが少なくなればなるだけ反動的に彼らへの興味がかきたてられるのだろう。残念ながら、これだけ面白いテーマだったにもかかわらず、結果的にはその十分の一も伝えることができなかった。事前の準備が不十分だったのが最後まで尾をひいた。素材の素晴しさに気付いたのは、すでに新聞での連載が始まってからで、あとはもう宝の山を目の前に右往左往というあり様だった。途中、社内の先輩からの指摘で気がついた時には、始めからやり直すわけにはいかないような状態で、ドロ縄式取材の連続となった。
 そのため、でき上がったものは聞き書きとも、ルポともつかない、まして民俗学的価値などからは縁遠い、どっちつかずのものになってしまった。
 話が前後したが、「最後の鷹匠」の取材は52年3月6日-11日までの間だった。鷹匠はマタギと同様、いまでは珍しい伝統猟師なので、「この際、マタギに続けてやろう」ということになった。クマタカを使う鷹匠は、テレビ映画「老人と鷹」の主人公で、山形県真室川町の沓沢朝治さんが有名だが、その割には秋田県南部の鷹匠は知られていなかった。
 たまたま昨年2月、残った二人の鷹匠のうち一人が事故死するアクシデントで、その存在がクローズアップされるようになった。事故後一周年を迎えた地元では、後援会が結成されるほど関心が高まっていた時期だった。
 同じ伝統猟師でも鷹匠の場合はマタギに比べ、後世に伝えられていくための条件が極端に悪い。特殊な技能が要求される割に獲物は少なく、売り物にもならなくなった。マタギにとっての鉄砲が、ここでは年中養わなくてはならない生き物であることなど、よくもまあ、いままで絶えずに来たのが不思議なくらいだ。これもまた、秋田の風土が持つ特殊性のひとつなのかもしれない。
 取材はマタギの時に比べ、はるかにむつかしかった。たった一人の鷹匠を除き、現地にはもう経験者を見出すことができなかったからだ。そのため、ほとんど武田宇市郎さんだけからの取材になったが、使っているタカは狩りの経験がなく、実際のタカ狩りを見ることができなかった。
 さらに、武田さんはタカを一人前に仕立て上げるための訓練に一番忙がしい時期であり、各報道機関の取材攻めにあっていたこともあって、じっくりとお話をうかがうわけにいかなかった。そのため、全体としてはマタギシリーズの亜流のような、不満足なものしかできなかった。
 この本に収めるのは、ちゅうちょしたが、いまの時点でのひとつの記録ということでお許しをいただきたい。登場人物の年齢は52年段階のものです。
 取材を終えて痛感するのは、マタギにしろ鷹匠にしろ、伝統猟師としての習俗が今後急速に失なわれるだろうということだ。恵まれた環境のなかで育った高度な文化ではなく、庶民の暮らしのなかから生まれた、土くさいものだけに、その実態をとらえることはよりむつかしい。
 しかし、両方ともわれわれの祖先の息吹きを教えてくれる、数少ない貴重な実例なのではなかろうか。力が及ぼないことは承知しながら、私がこの二つのテーマに取り組み、不満足な連載を続けた理由の一端はこうした思いからだった。昔を知るマタギはもう何人もいない。鷹匠も稼業として成り立たなくなった。あと十年もたったら、取材したくても不可能になってしまう、という焦りもあった。
 彼らに関する資料は、庶民の生活に根ざしたものだけにもともと少ない。また、38年の県教委の調査以来、本格的な記録の集成も絶えている。今後、早い段階での資料保存、伝承や習俗など彼らの生活の記録を伝えるために、行政面での手当てを期待したい。
 深い雪と寒さの中での現地取材は、正直いって楽ではなかった。しかし、そこで受けた温かいもてなしは、忘れることができない。阿仁でも仙道でも、狩り人たちは快く取材に応じてくれ、宿までも提供してくれた。また、足手まといになるのを承知で狩りに連れて行ってくれた親切は、身にしみるほどうれしかった。冬から早春にかけての東北の山の厳しさと美しさを味わえるのは、これから二度とないかもしれない。
 大阿仁地方の猟友会のマタギの方々、鷹匠の武田さん、タカ狩りに詳しい矢野栄三郎さんら羽後猟友会のみなさまとそのご家族に厚くお礼を申し上げたい。
 そして、いろいろご指導をいただいた木崎さんをはじめ県立博物館の方々、春グマ狩りに同行して写真やデータを提供して下さった県林政課の藤岡さん、県鳥獣保護センターの米田さん、不本意な一連のシリーズを本にするよう勧めてくれた無明舎の安倍甲さん、忙がしい時間をさいてこの本の解説を書いて下さった野添憲治さんら多くの人たちに厚く感謝したい。
昭和52年5月 朝日新聞秋田支局 長田雅彦

参考文献

秋田県文化財調査報告第四集「狩猟習俗調査報告書」(秋田県教育委員会)
武藤鉄城著「秋田マタギ聞書」(慶友社刊)
戸川幸夫著「マタギ・狩人の記録」(新潮社)
秋田魁新報社編「秋田マタギと動物たち」(秋田魁新報社刊)
上田和男・高守史・福田アジオ・宮田登編「民俗調査ハンドブック」(吉川弘文館)
朝日=ラルース週間「世界動物百科」(朝日新聞社刊)
季刊アニマ「鷲と鷹」(平凡社刊)
秋田経決大学雪国民俗研究所篇「雪国民俗第二集」(秋田経済大学刊)
矢口高雄「マタギ列伝」(講談社刊)

解説  マタギとは何か   野添憲治

 日本は国土が狭いうえに、山林原野なども比較的早くから開発が進められたことや、諸外国と違って大型の野獣があまり生存していないこともあって、狩猟が独立した生業として成立する条件には、あまり恵まれていなかった。したがって日本の狩猟は小狩猟であり、その多くは個人猟が主体であって、遊猟か、あるいは農・山村民の季節的な副業として、兼ねおこなわれてきたものが大半であった。こうした環境に置かれていただけに、日本では狩猟を専業とする狩人の数が、もともと非常に少なかった。
 しかし、こうした日本の狩猟の中にあって、かなり規模の大きな共同狩猟をおこない、しかも特殊な狩猟儀礼を持った専業的な狩人団が、最近まで上越国境から北の一帯にかけて存在していた。「マタギ」である。これらの地方の山岳部には、こうした狩猟者たちの一団が定住した集落がいくつも見られる。かつてはかれらも居村でいくらか農耕作業もやったが、主業はあくまでも集団的な狩猟であった。農耕作業は女性たちにまかせ、狩猟期の冬と春には山岳を歩いて狩猟に専念した。また、夏と秋の狩猟の少ない期間には、熊胆(くまのい)や薬草などを原料として製造した、薬物の行商に出る人も少なくなかった。
 だが、人口の急速な増加と、耕地が狭く貧しい農民たちの山や森への進出、鉄砲の大幅な普及などによって、山野の獣が激減してくると同時に、マタギで生計を営む人たちも減少していった。また、狩人と里人との接触が深まってくるにつれて、次第に狩猟民の農民化がもたらされていったし、また野獣の減少によって捕獲する獲物が少なくなり、主業の狩猟では生計を維持していけなくなるにつれて、狩猟から農業への比重が強まっていった。
 こうして狩猟民の農民化が進むにつれて、次第に狩猟は副業化していったが、現在では山村に定住はしているものの、そのほとんどが農民化しており、冬と春の一期間だけ狩猟に従うという生活形態をとっている。近年までこうした生活をつづけてきたところとして、三面(新潟県岩船郡朝日村)、根子(秋田県北秋田郡阿仁町)、檜枝岐(福島県南会津郡檜枝岐村)などの集落が、一般にひろく知られていた。
 こうした狩猟者の中でも、東北地方(とくに秋田・青森の両県)で大狩猟を主とする生業をしてきた人たちのことをマタギと呼び、その人たちが居住するところをマタギ集落といっていたが、このマタギという意味からしていまだに明確にされていない。新潟県地方では「マタギ」を人間に対する山詞として用いているが、自分たち狩人のことをマタギとは言わない。
 また、アイヌ語で狩りを意味する「マタタ」という言葉があるが、四国地方では狩人を「マトギ」と呼んでいるため、アイヌ語説もとれない。また、狩人が山岳を跋渉する時に、下の部分が股になっている杖を持ち歩くので、股木からマタギになったのではないかという説もあるが、いまだに定説はない。
 菅江真澄はマタギに関して多くのことを書き残しているが、「筆のまにまに」(1811)の中では、「マタギ」は「マタハギ」からきたのではないかとしている。「マタ」というのは級の木の波で、これを剥いで布を織ったり、縄をなったり、蓑をつくったりしたが、これを業とする山賤(やましず)が狩りもしたために、出羽・陸奥の狩人をマタギと呼ぶようになったと推定している。
 また、古くはマタギのことを「やまだち(山立.山達)」とも言った。これについては、良民を苦しめる悪党のことを一般に鬼と言ったが、やまだちはこの狂暴な鬼をも退治するだけの腕前を持っているので、その鬼よりも強いために又鬼と名づけたという説も伝わっているが、マタギという語源は、古く狩人を意味したやまだちと関係があるらしいと考えられている。
 マタギには、日光派と高野派と呼ばれる二つの流派がある。日光派のマタギは「山達根本之巻」を、また高野派のマタギは「山達由来之叓」という巻物をそれぞれ所持している。しかし、この二流派はかならずしも区別が明確ではないし、両者の伝承にも混交がみられ、それぞれ多少の違いはあるものの、同じ源から発しているとされている。だがこの巻物は、内容的には史実にほど遠いものだが、かつてはマタギたちの精神的な支えになっていた伝書なので、次に簡単に要約しておく。なお、マタギの流儀は、小玉流、青葉流、重野流の三流があり、本書で扱っている根子マタギは重野流に属していることを付記しておきたい。
「山達根本之巻」(日光派)
 清和天皇の時代に、日光山の麓に万事万三郎(磐次磐三郎)という弓の名人がいて、日光権現に助力して赤木明神との合戦に勝った。日光権現は喜んで京都に上って内裏に言上したが、その功によって内裏の御朱印を与えられ、今後は日本のどこの山へ行ってもよいと「山立」が許された上に、「伊佐志大明神」として祭られた。山立の祖先はこれであるため、どこの山岳に行っても狩猟は御免になっているほか、山で獣を食うことも許されている。産と死の火を忌むのも、この祖神にたいしてのことである。
「山達由来之叓」(高野派)
 これは高野山開基にちなむもので、三人の狩人が高野山へ狩りに出かけて空海上人と出会う。
 空海上人は生類を殺して業とするのは罪深いことだから、すぐに止めるように言ったが、狩人は猟をしなければ生活ができないと言い張った。そこで上人は、三人のうち一人が自分の弟子になって一生つかえるならば、生きていくための最少の猟を許し、獅子引導の経文を授けると言ったので、三人は承諾した。これは高野山の旧記にある、丹生明神(狩場明神)の縁起によっている。
 前にも書いたように、これらの伝書は史実には遠いものであり、正統史家がこれに一顧すら与えないのも無理はないし、郷土史家たちがなんとかして正史に合わせようと解釈に苦心しても、その位置さえ得られないのも当然であろう。だが、この伝書をマタギという特殊な生業を生きた人たちを背景にして考えるならば、そこにはまた違った歴史的な意義を見い出してくることができる。
 狩猟の起源説話や狩猟民の山の信仰については、柳田国男が『後狩詞記』『神を助けた話』『山の人生』などで早くからすぐれた業績を残している。その中でも『後狩詞記』では、日光派と高野派のほかに、第三の「椎葉型」と呼ばれる流を紹介しており、これらについては『神を助けた話』で詳細な考証がされているので、ここでは詳しい紹介をはぶく。
 ただ、一例だけをあげてみると、荒唐無稽とも見えるこうした伝承を、わが国の民間伝承の一つである山の神と対比しながら考えると、まったく違った様相を見せてくる。秋田のマタギたちは、万治、磐司、あるいは磐次磐三郎などと呼んでいるが、これらは磐神、すなわち岩の神の信仰に由来するものと考えられ、峠や山頂などの巨石を通じて山の神を祭ったことを反映しているのではないかと、柳田国男は推定している。
 もともと山の神は生殖生産に深くかかわり合っているのに対して、狩人、炭焼き、杣夫、木地屋などの信仰する山の神は、山に棲む獣類や樹木を支配する神としての機能が強く意識され、祭りなどもかなり特殊化されているが、これはマタギという生業とも深くかかわり合っている。というのは、近代的な登山がはじまる以前の山岳は、山の神が支配する神聖な世界であり、山の神の許してくれる一定の期間だけに限って、特定の作法に従ってのみ入山が許されていた。山へ自由に出入りができるのは、行法を修める修験者だけであった。山開き、女人禁制、あるいは山中でのさまざまな禁忌伝承が残っていることは、そのことを物語っている。一般の人たちが山入りをする場合には、修験者たちの指導の中でおこなわれていた。
 狩人たちが山の神との特殊な関係を強調し、しかも狩猟の自由が保障され、殺生肉食を特免されていると説く由縁も、また修験者と参与している形跡が見られるのも、こうした背景を考えると十分に理解することができる。
 それに、狩人の仕事の場は、人の住まない山岳地帯であり、しかも仕事の期間が冬から春にかけての気象条件の悪い時でもあるため、常に危険を背負っているといっても過言ではない。
 出猟前には厳しく禁忌を守り、入山した後の山小屋でも厳しい作法と禁忌とで自己規制をおこない、山言葉という特殊な言葉を用いたのも、実は長い期間にわたって男だけの集団生活を維持していくための規律であり、知恵だったのでもある。こうした面は他の職人の世界にも見られることだが、こう見てくると荒唐無稽のように見える狩人たちの伝承も、その裏では山村生活やその歴史と、深くかかわりあっていることがわかる。
 しかも狩人の伝書は、山界の支配者である山の神から与えられた特殊な特権を社会的に認めさせようとしているが、これは山岳地帯になると大名の領国支配がさほど明確ではなかったとしても、他領他国への移動が制限されていた時代とも関係してくる。他領他国への移動は制限されていたが、しかし狩人たちの行動範囲は非常に広く、秋田の根子マタギの場合を見ても、県内の山々はもちろんのこと、東北の山々をはじめ、遠く越後の八海山、越中の立山、信州と越中境の白山、信州と飛騨境の乗鞍岳、穂高山、加賀の白山、さらには吉野連山にまでも足を伸ばしていたことが、古老たちによって語られている。
『北越雪譜』の著者として有名な鈴木牧之が、1826年に秘境として知られていた信越国境の秋山郷に入った時の紀行文『秋山紀行』の中にも、秋田の猟師雷蔵のことやマタギのことなどが詳しく書かれている。この秋山郷にも早くから秋田マタギが入っていたといわれ、秋山郷にもマタギの作法が伝えられている。これは秋田の猟師の上杉長之助が、この土地の女性と結婚して住みついたためだというが、筆者も20年ほど前にこの秋山郷を訪ねた時に、古老たちから秋田マタギのことを聞かされた経験があり、またその子孫にも会っている。
 他領他国への移動が制限されていた時代に、しかもマタギたちの行動範囲がひろかっただけに、自由に山岳を狩猟して歩ける理由を、いつも確保していなければならなかった。そのため、狩人の祖先が山の神に助力した特権として与えられた「日本国中山々岳々、不残知行   下置、無不行所山立御免也」の恩恵に、その子孫である狩人たちも浴しているという伝書は、狩人たちにとっては旅行手形のような意味を持っていたようである。そして同時に、無人の山岳地帯で狩猟生活をつづける狩人たちの心に、このことが誇りと張りを持たせる役目も荷なっていたのである。
 このように見てきてもわかるように、日本的な風土の中では狩猟業が一般化することが少なく、しかもその大半が遊猟や個人猟が主体であった。こうした中で、東北地方のマタギはかなり規模の大きな共同狩猟を主とする、専業的な狩猟民であった。その意味でも、マタギはかなり特異な存在であり、その習俗は狩猟の古い形態を示している貴重なものだが、現在はそのマタギの衰退とともに、その古い形態が狩人からも、マタギ集落からも失われてきているのはきわめて残念なことであり、さらに入念な記録の作成と保持が望まれている。