『青鞜』の女たち 著者 井手文子 海燕書房
写真 高木 健 装丁 甲田好実 1975年10月1日第一刷 1021-75021-1087
写真:平塚らいてう
扉のカットは、のちに高村光太郎夫人となった長沼千恵子が、『青鞜』創刊号の表紙に書いたもの
写真:伊藤野枝
目次
Ⅰ 平塚明子と『青鞜』の創刊
1 『青鞜』の誕生/2 塩原-雪の情死行/3 天才への翹望/4 『青鞜』の女たち
Ⅱ 「近代的自我」のめざめ
5 女のうた/6 五色の酒と吉原登楼/7 茅ケ崎へ 茅ケ崎へ/8 明治の女-一葉批判
Ⅲ 「新しい女」と呼ばれて
9 女性の社会進出/10 文芸集団からの脱皮/11 新しい女と世評/12 底辺の女と「新しい女」
13 恋愛と自立/14 生活の重荷
Ⅳ 伊藤野枝と『青鞜』の終焉
15 『青鞜』の譲渡/16 野性の女-野枝/17 母性と社会変革/18 転身と終焉
あとがき 人名索引
1 『青鞜』の誕生(冒頭から抜き書き)
元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
偖(さ)てここに「青鞜」は初声を上げた。
現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。
女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。
私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
そして私は少しも恐れない。
併し、どうしよう女性みずからがみずからの上に更に新にした差恥と汚辱の惨ましさを。
女性とは斯くも嘔吐に価するものだろうか、
否々、真正の人とは-
私共は今日の女性として出来る丈のことをした。心の総てを尽してそして産み上げた子供がこの「青鞜」なのだ。よし、それは低能児だろうが、奇形児だろうが、早生児だろうが仕方がない。暫くこれで満足すべきだ、と。
果して心の総てを尽したろうか。ああ、誰か、誰か満足しよう。
私はここに更により多くの不満足を女性みずからの上に新にした。
女性とは斯くも力なきものだろうか、
否々、真正の人とは-(以下略)
(平塚らいてう「元始女性は太陽であった」)
「元始、女性は太陽であった」という言葉が誕生してから、もう半世紀以上も年月がたつ。
女は太陽、などという言葉は現代では力づよさというよりも、むしろ空しさの表現だといわれるかもしれない。
だが、かつて女性を太陽になぞらえた二十世紀の初頭、近代日本の青春ともいえる時代にあって、この言葉は、リアリティをもっていた。それは女の自由のシンボルとしてわたしたちに語るりつがれ、神話として残される言葉となった、
わたくしたちは時代に先駆けて、このような吐息をもって祈った女たちの思いを、いま一度追体験する必要をもっている。ことにこの言葉を産みだした女性、平塚らいてうが、85年の寿命をまっとうしてしずかに宇宙に帰ったいま、いっそう彼女ののこした貴重な遺産を、もう一度たしかめねばならない思いにかられる。
平塚らいてうはこの言葉を『青鞜』という雑誌創刊号のエッセイに、はじめて使ったのであった。彼女はそこで「元始、女性は太陽であった。今、女性は月である」という句を、リフレインのように繰り返した。なにものにも囚われない人間の自由と輝きは、彼女にとって具体的実感的な姿としてとらえられず、いかにもまぶしく中天に輝く太陽のように、熟視できない願望として、シンボリックにえがかれたのである。わたくしはこの言葉をこの世に送りだした『青鞜』という雑誌の出発と運命を、ここで語りたいとおもう。なぜならその歴史は、女性の近代の出発であり、わたくしたち自身の出発にほかならないからである。
あとがき(抜き書き)
最後にこの仕事にかかわることになったわたくしの経路を書かせていただきたいとおもう。
第二次世界戦争がおわったとき、日本の女たちはさまざまな自由と可能性を、自分の掌に握ったようにおもえた。男女平等の婦人解放政策もそのひとつであった。さまざまな知識人が家族制度からの解放を解説し、婦人労働者の権利を語り、また女の歴史を書いた。そのなかで井上清氏の『日本女性史』(1948年初版)が、ベストセラーになっていた。
その一冊を手にして、わたくしもそれを書いてみたいとおもった。それはうちひろげられた視界を、自分の足で進みたいという気負いに違いなかった。もちろん同じような規模で書く力量などわたくしにはない。だが何人かの仲間と顔をよせあって読むうち、日本最初の婦人集団としての青鞜社に心をひかれ、自分のテーマにして勉強しようとおもい至った。それは民主々義科学者協会婦人問題研究会という小さなグループで、三井礼子さんのような先輩もいたが、だいたいは学業に無縁の若い女たちであった。みな職業や家庭をもっていた。
それは今から二十数年も前になる。こうして青鞜社の時代をテーマに選んだわたくしの仕事は、まず『青鞜』を読むことからはじまった。はじめてこの雑誌にふれたのは、まだ国会図書館ができるまえの上野図書館の、火の気のない冬の午後だったとおもう。
それからしぼらくして、わたくしは平塚らいてうさん(以下敬称を略す)の家に蔵本されていたこの雑誌をみせていただくことになった。わたくしはそのころ三、四歳であった娘の手をひいて、小田急成城駅のすぐ前にあったその家に何週かかよった。
-らいてうはたいていしぶい紬のような着物を着て出てこられて、わたくしに『青鞜』を手渡し、そしてお茶を机にのせて「ごゆっくり」と言って部屋を出ていった。わたくしはおずおずとノートをひろげるのだった。
-彼女はいつも背をしゃんと立て、威厳のあるやさしい表情をくずしたことがなかった。しかも彼女の生きた時代の美的生活を決して失うことがなかった。それ以来、世を去るまで、何度かその姿をみる機会があったが、どのように年齢を重ねても、静謐な美しさは変わることがなかった。
けれども、その静かさは、若い時代の激しい血潮や肉体の重みを賭けたたたかいを越えてつくりだされたものにちがいなかった。明治、大正、昭和という年代をへて結晶した日本近代の精神文化が、そこに輝いていたのである。女性として数少ない思想家とされる彼女の軌跡は、女性の近代的自然の確立を身をもって示したことであった。いってみれば彼女は二十世紀一〇年代から、七〇年にかけての婦人運動のシンボルともいえる存在であった。そして彼女の青春は、この雑誌と集団の歴史に重ねられており、それゆえに青轄時代は彼女の生涯の出発といってよかった。
彼女はこの時代の回想を何度も公にしている。
1926(大正15)年「青鞜時代のおもいで」『婦人公論』一月号
1937(昭和12)年「黎明をゆく」『婦人之友』(三月ー五月)
1939(昭和14)年「青鞜前後」『新女苑』十月号
1940(昭和15)年「青鞜を出て」『婦人公論』六月号
1949(昭和24)年「青鞜時代」『塔』五月号
1955(昭和30)年『わたくしの歩いた道』新評論社
1971(昭和46)年『元始、女性は太陽であった』(上・下)大月書店
このほか小冊子や新聞にのせた小論や、論文集、座談会その他多数にのぼっている。
これらの著述によって、『青鞜』および青鞜社の歴史は、平塚らいてうによって、ほぼ全貌がつたわっているといってもいい。だがそれは少なくとも彼女自身の眼に照らしだされたものであり、初期の刻明な記録にくらべると、後期の伊藤野枝が主宰した時代は薄められていて、らいてうの記憶や判断だけにたよることがおおい。そうした理由から、いま一度ちがった立場と視野から、この時代の映像をとらえることも無意味ではないとおもわれた。らいてうの聰明で深い人間的魅力にひかれるとともに、彼女とともに運動を支えたこの時代の女たちの姿をとらえてみたいとおもわずにはいられなかった。こうして、伊藤野枝や富本一枝や小林哥津、野上弥生子らのひとびととの出会いがあり、その魅力にひかれながら辿ったのが、この著作の出発である。
わたくしがはじめて『青鞜』という名の単行本を世に問うたのは、1962年の秋だった。それはたしかに情熱のこもった仕事であったが、わたくしの基礎知識の不足からたいへん不充分なものであった。この著作のこころざしをまっとうするには、いま一度改訂して出すことであり、それはわたくしの義務だとおもいながら、ほぼ十年の年月がたった。
いまこうして永年のおもいがかなったわけである。
わたくしの生涯にもいくたびか人のやさしさをうけたが、このささやかな著作がかたちになったのもそのひとつである。深い感謝をささげたい。
1975年9月1日 井手文子