小説 黄金バット   加太こうじ 著  筑摩書房

1990830日初版第一刷発行  ISBN4-480-80296-7-C0093

小説 黄金バット カバー画像

小説黄金バット 2  小説黄金バット 3

目 次

第一章 黄金バット出現

プロローグ/夜景/黄金バット出現/紙芝居屋群像/黄金パットの正体/警察/トンネル長屋/活劇

第二章 追いつ追われつ

新年/春/電車/後継者/泥亀/鉄火場/敏子の運命

第三章 街に吹く風

続・敏子の運命/偽せ者/街景/訊問/幸福/長雨/似顔/正体/敏子をめぐって/救出/大団円

あとがき

 この小説は1988年から1990年へかけて、隔月刊の「東京文芸」という同人誌的な雑誌に、二年余を連載したものである。「東京文芸」は加太こうじとその仲間の発表機関誌といえるる。小説、評論、詩、短歌、俳句から漫画まで、それぞれの作品を発表し合うのだが市販はしない。
 題名は、はじめは『小説・黄金バッド“街”』としたのだが、単行本化に際して“街”をとって『小説・黄金バット』とした。しかし、超人黄金バットが活やくするSFではない。子ども向きでもない。それでは紙芝居「黄金バット」についての実録かというとそうでもない。この小説は紙芝居で『黄金バット』がはじまった頃-昭和6年頃の、東京の裏街で生活している人たち、特に紙芝居屋とその関係者をえがいたもので、一種の風俗小説だと私は規定している。
 事件も登場人物も実際にあったこと、実在した人にヒントを得た創作であって、ときにそれが本当に近いこともある。また、まったくの架空の話ということもある。
 この小説にでてくる馬車屋あがりの紙芝居の親方石田森男は、実在した池田守雄という馬車屋から転じて紙芝居屋の親方になった男がモデルである。鈴木一朗という紙芝居「黄金バット」の作者は実在したが、この小説にでてくる鈴木一朗とは別人である。実在した鈴木一朗は本名鈴木平太朗で餅菓子屋の職人だったが昭和4年に失業して紙芝居屋の群れにはいった人で、戦後、六十余歳で病没した。
 この小説の鈴木一朗は創作した人物であって実在した鈴木平太朗とは関係がない。
 画家の松永という人がちょっとでてくるが、これは永松健夫という画家が、紙芝居「黄金バット」の最初の画家だったので、小説中では松永とした。
 実在した紙芝居屋の師匠の村尾三夫と木村義喬という二人をくっつけて村尾光夫とした。木村は小学校の教師をやめて紙芝居屋と付き合った人。村尾は、絵物語の紙芝居創始者の一人で、人形作りを内職にしていたが、荒川区の尾久で紙芝居関係者の指導をしていた。村尾の近所にいる少年絵描きの勝田一彦はもちろん加太こうじ自身がモデルだが、ほんの少ししかでてこない。
 岡部刑事は警視庁捜査二課に戦後いた岡という紙芝居屋あがりの刑事がモデルで、岡は加太の文学仲間だった。もう一人の駅沢刑事にはモデルはいない。
 ほかの人物にもモデルのいる者は数人ある。実在した昭和初期の怪盗説教強盗は、本名妻木松吉、その伝記は加太こうじ著『昭和大盗伝』になっている。戦後、私は妻木松吉と近しくした。彼が生き形見として私にくれた一着のオーバーコートは今も私の洋服箪笥にある。妻木松吉は八十余歳で1989年春に病没した。
 私がこの小説を書く理由は何もなかった。気まぐれに黄金バットと紙芝居の話を小説にしてみようと思ったので、おりから仲間とはじめた『東京文芸』に連載したのだった。書きだしてから、さまざまな考えがうかんで、テーマらしいものもできたが、それは、終りまでお読みいただければわかってもらえるだろう。
 とにかく、軽い気持で書きだした小説で、結末は少し重くなったようだが、暇つぶしのつもりで、電車のなかやベッドでお読み頂ければ幸甚である。
 私は日本語とその文章-表記について『思想の科学』という雑誌で、一年にわたって意見を発表した。その意見をもとにしてこの小説の文章と文字の使い方ができている。ただし、大方の人には、そんな理屈があってできた文章とは思えないだろう。
 この小説を単行本化するに当っては、橋本靖雄氏はじめ筑摩書房の方がたに大変お世話になった。長期の連載をいそがしいなかでしたので、まちがい、重複、話の矛盾などがやたらにあったのを、くわしく調べて訂正してくださった橋本氏や筑摩書房の校閲関係者に、厚くお礼を申しあげる。 1990年・立秋の頃    加太こうじ