庶民の戦後 生活編-戦後大衆雑誌にみる 山岡明 著  太平出版社

編集 長津忠 装幀 小島輝身 1973130日第1刷発行

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目次

Ⅰ 廃嘘を彷徨する

歴史から抹殺されている廃墟の時代
  敗戦直後の占領下6年間(194551)の、飢餓と騒乱と廃嘘の時代のことは、意外に知られていない。というよりも、罪を犯さずに生きていかれるのは刑務所に服役しているものだけといわれたほどの時代で、あまりにもみじめだったため、一種の拒絶反応もあって、できるだけ忘れようとして忘れ去られているからでもある

 また、アメリカ軍による占領下という特殊な事情にあったため知ることができなかったことも多いし、情報機関としての新聞は用紙事情のせいでペラ一枚、つまりわずかにニページだけだったし、電波産業もテレビはもちろんまだなかったし、ラジオもNHKのみだったので、記録やニュースを収めきれなくて、かなりなものをとりこぼしてもいるのだ。官庁などの資料や記録にしても、やはり混乱などのため、この時代のものはなかったり、あっても、あいまいだったりする。

 ところで庶民生活や世相、大衆精神文化などは、その時代の大衆雑誌に色濃く影をおとし、刻みこまれているものだ。そして当時の大衆雑誌には、ペラペラの新聞からこぼれ落ちたものや拾い忘れたものが拾われていて、記録やニュースは新聞などよりも豊かでくわしいといってよいほどなのである。また当時の執筆者たちは、あまりのすさまじさにひどく刺激を受けたのだろう、生活や世相・風俗を執拗に追いつづけているほか、悪性インフレに痛めつけられたのがよほど腹にすえかねて、せめてものうさ晴らしなのだろう、ヤミ商品やヤミ値のことを、目の敵のように書きのこしている。だから当時のことを知る手がかりとなる重要な資料であり、証言者でもあるのだが、しかしこの時期の大衆雑誌は、印刷用紙の不足から、チリ紙を転用した紙質のよくない仙花紙という代用印刷用紙をつかっていたのにくわえて、つくり方もやはり物資不足のため粗雑なものが多く、そのうえ混乱にまきこまれるという事情もあって、ほとんど散逸しているといってよいだろう。またなかには、内容が刺激が強すぎるということで、そのころやはり氾濫し、キチガイ水とまでいわれた悪酒であるカストリ焼酎になぞらえて「カストリ雑誌」と呼ばれ、悪書として蔑視され、無視され、抹殺されたものもあって、散逸に輪をかけたのである。そして大衆雑誌のこうした散逸が、戦後庶民生活史の空洞をいっそう大きくしているのは、いうまでもない。

 困難だが、発掘をしてこれまでの空洞を埋めなくてはなるまい。さきにもいったように、実際に経験し、知っているといっても、思い出したくないという一種の拒絶反応があるし、また、思い出そうとしても、記憶というものはとかくあいまいなものなので、記憶をたどるよりも、当時の大衆雑誌の記録をたどるほうが、そのころの姿をいっそう鮮烈に再現できるのである。

 本書は、筆者が発掘収集した大衆雑誌による敗戦後六年間の「庶民生活史」である。
わびしくみじめな食べ歩き人生
 新橋、新宿、渋谷、浅草、中野等を始めとして、どんな小さな駅も、駅という駅の近所には、必ず闇市がひろげられている。主として食物である。怪しげな屋台が並んで難し立て、客を呼んでいる。五ツ六ツの女の子が父に教えこまれたらしい、せりふを、抑揚のない声でくり返している姿も珍しくない。
 私は新宿の屋台の一つ、誠実で清潔らしい店を選んで首をつっこむと、先客二人、一人は妙齢の婦人、一人は十歳位の少年、烏賊の丸煮にくらいついている。
 その少年の背に大きな風呂敷包が背負われている。少年は十円札二枚を支払って口をぬぐいながら悠々と立ち去る。その少年の財布には札が相当つめられているのを私は見た。
 「おじさん、小さい子でも随分金を持っているね」ときくと、「あの子も仲間の一人ですよ。荒い金使いをして大変な鼻息でさあ、毎日田舎からいろんなものを背負ってくるんですがね、帰る時又、鍋や釜や田舎にないものを背負って帰るんでさ、両方でもうけるんだからすごいもんでさあ」と屋台のおやじ舌をまいている。おでんは大抵十円で一皿五円は野菜やいもで、烏賊がつかない。
 いわゆる新円が登場したのは、このころである。新円が発行されることになったのは1946年2月16日で、25日から交換がはじまり、3月3日からそれまでの旧円は廃止された。そして預金は封鎖され、給与も500円以上は封鎖預金として渡されるようになった。また国家公務員のこのときの給与ベースも、500円と定められた。もちろんインフレ対策だったが、根本的な解決策ではなかったので焼石に水であり、インフレはますます悪性化していくのである。
 ところでこのレポートが書かれたのは、新円の登場よりも少し前と思われるが、一皿5円のおでんや一杯5円の芋汁粉がどれほど高価なものだったか、おわかりいただけるだろうか。いまの価値にあてはめるなら、500円、いや1,000円くらいにもあたるだろう。だからふつうの庶民には、烏賊つき一皿10円のおでんにまでは、いくらノドが鳴っても、手を出しかねることになるわけだ。
世の中が不潔で汚れきっていた
 金は無くなるが、物はいくらでもある。これでは犯罪がふえる筈である。
 売り手が「光」1本1円40銭ですといったのは、わざとではない。ヤミ値が高すぎたので、1本売りをしていたのである。10本入り一箱のままだと、もちろん14円だ。
 このころの「光」の公定価格は60銭で、1946年1月のヤミ値が1750銭だったという記録もある。
 石鹸も貴重品だった。だから洗濯も十分にできなかったし、入浴も思うにまかせなかった。燃料不足で、風呂そのものが聞に合わず、大衆浴場など、文字どおりの芋を洗うような混雑だった。そのせいか、まちじゅうがなんとなく不潔で、・・・・
青ざめた顔がうようよと
 (浅草には)当時はまだヒョウタン池があって、まわりに屋台店が軒を連ねていたものだった。やがて池は埋められて、新世界ビルがつくられたが、そのビルもついさきごろの72年夏にこわされて姿を消した。
 甘いという饅頭が五つで10円、ところ天が2円。いや又食べ物屋ばかりよく並んでいることよ。
 しかし何と言うものか、思ったように客足はないのだ。それは、観音様のおみくじと同じ様に、急に少なくなった客足だった。昔はひっきりなしにつづいていた観音様の参詣者が、いまは、仮堂とはいえ盛装凝らして出現しているのに、まったくまばらにしか参詣する人がないのである。苦しい時の神だのみ、ということばがあるが、苦しさがここまで来てしまうと、神や仏にすがる気持まで何処かへすっとんでしまうのだろうか。それはその筈だった。5円単位の食べ物屋には余り客足が並んでいず、鰯のフライ、2円也の店には、山の様に人だかりがしているではないか。(中略)これが飢えている東京である。(中略)5円単位の食べ物には手が出ず青ざめている大衆がうようよしているのが東京である。
ひもじさは人びとの心を狂わせた
 主食の遅配・欠配つづきで、とにもかくにもひもじい時代であった。ひもじいとはどのようなものであるか、この時代のことを知らないものには、想像もつかないだろう。この時代をなんとか生きぬいてきたものたちも、さきにもいったように一種の拒絶反応があって思い出したくないだろうし、また、まったく忘れてしまっているかもしれない。
 ひもじさは、人びとの心を狂わせた。食べものをめぐっての争いが絶えなかった。あげくの殺人さえおこった。1946年3月16日未明におこった、2歳の幼児を含めた歌舞伎女形の片岡仁左衛門一家5人殺しは、『犯罪実話』第一巻第三号(194710月・畝傍書房)などの記事によると、食べもので差別され、ひもじい思いをした22歳になる同居の座付作者見習による犯行であった。一家は銀シャリと呼ばれていた米の飯ばかり食べていながら、犯人と子守をしていた12歳になるかれの妹は配給のメリケン粉ばかりを与えられていて、その恨みから薪割りでめったうちにしたのである。
 そしてその一方には、裁判官であるという職業上、ヤミ買いを拒絶し、配給の食糧は子どもたちに与え、自分たち夫婦は汁ばかりをすすり、そのあげく、194710月に死亡した山口判事を頂点とする餓死者たちがいた。
敗戦前からすでにヤミ市はあった
 1945年7月12日の夜、空襲さなかの宇都宮に近い山中での三回目の犯行についての部分で、被害者は22歳の娘である。死体は犯行から約七か月のちの翌1946年2月10日に、白骨化したものが、雑木を拾いにきた農夫によって発見されている。
 小平は犯行の晩遅く帰京し、翌13日には渋谷駅前の露店で、奪った時計を、釜、庖丁、俎(まないた)、バケツ、シャモジ(130)と交換し、50円を受取っている(古物商の供述)
 なお小平が最初の犠牲者に襲いかかったのは、この年の5月22日で、この連続強姦殺人事件が、あのすさまじかった東京大空襲のさなかに始まっていることを、考えていただきたい。そしてこの三回目の犯行は8月15日よりもまえだが、こうした犯罪記録にさえ、盗品の時計をカマやマナイタなどの日常生活用品と交換するなど、当時の生活風俗がにじみ出ているではないか。
 「戦後」になるよりもまえから、廃嘘のまちには、すでにヤミ市が栄えていたことも、この記録は物語っている。
 もちろん金さえあれば、どのようにすさまじく高価なものでも口にできたが、一般の人たちは、そうはいかなかった。東京では一杯10円の素うどんどころか、「5円単位の食べ物屋には余り客足が並んでいず、鰯のフライ、2円也の店には、山の様に人だかり」をし、もちろんそんなことでは飢えをいやすことができなくて、「蒼ざめている大衆がうようよ」していたのである。
 そしてこうした状態は、悪性インフレの進行とともになおもつづくが、朝鮮半島に戦火が燃えひろがった1950年を境として、廃櫨からの復興のめどがつき、不況や社会不安、それに速度はゆるめたもののとどまるところをしらない物価の上昇はともかくとして、飢えの季節からは、いちおう脱け出すことができたのだった。たとえば1949年のはじめから、それまで制限されていた都会地への転入が解除されたし、一方、その年の4月から野菜が、11月から甘藷・馬鈴薯がそれぞれ自由販売になった。

Ⅱ 瓦礫のまちの泣き笑い

ああ今日も食えない夜が更ける
 たしかにGHQ天然資源部長の分析どおりであった。1946年4月ごろから主食の遅配・欠配がますますひどくなり、食糧メーデーが行なわれるなど、飢餓と騒乱と廃櫨の季節がいよいよ本格化していくのである。それまでは騒乱のなかには、奇妙な静けさが感じられたものだった。
 隠匿物資と呼ばれたものも含めた、戦争中の在庫品で、食いつないでこられたからである。いわばタケノコ生活で、それが底をついてしまったのだ。そのうえ戦争による破壊で設備や施設は荒廃し、物資も不足のため、復興はおもうように進まないし、生産もままにならない。こうして食糧事情は、46年の初夏にどん底となったのである。ほかの物資は、だいたい46年いっぱいぐらい、タケノコをつづけられたと考えてよさそうだ。出版界でいうと、翌47年の後半になって、代用印刷用紙としての仙花紙が出まわるようになり、いわゆる「カストリ雑誌」時代を迎えるわけである。
菜っ葉汁の雑炊をすすって食いのばす
 それではどのようにして食べつなぎ、生きのびてきたか。『旬刊ニュース』第11(1946年7月・東西出版社)の海野稔「東京都民お台所調べ」でみていただくとしよう。警視庁保安部生活課の調査をもとにしたもので、少し堅苦しい数字がつづくが、しんぼうしていただきたい。
 調査対象は136世帯で、うちわけは会社員25、労働者37、商人38、官公吏14、無職17、雑5である。なお雑は医師・事業家・重役・布教師・農業がそれぞれ1となっている。
 東京都では、米や麦の配給は高々一カ月間に2日か3日分、その他はパンとか小麦粉などはいい方で、罐詰や澱粉などおよそ主食としては考えもつかなかったようなもので代用された。警察応急米制度も廃止になっているし、これに代った特殊の場合にのみ交付する救護米制度も絶対量が極めて僅少なので、逼迫の一時的緩和など思いもよらない今日、一般家庭は一体どうした生活を続けているか?
まず、一日にどれだけ米のメシを食べているかについて。
 一日三食共米飯を食べている家庭は会社重役100%、医師100%、商人47%、無職12%、会社員12%、労働者11%、官公吏0.7%であるが、例外として事業家が一日一回米、二食代用食とあって、一寸三食米食より落ちるように見え事実はそれ以上というのがある。これは一食の代用食が実は洋食又はその他で、むしろ米食より以上の暮しというのである。三食共雑炊というのは、無職の12%、労働者の11%、会社員の0.8%以外にはないが、その内容は雑多で、雑炊だけだから直ちに困っているだろうと考えることは出来ない。
 一日中代用食で暮している家庭は無職の29%、会社員の12%、労働者の11%、商人の5%だけであるが、これは雑炊と異り全然米をもっていない家庭らしく、パン、すいとん等の高級品から糠団子、菜っ葉汁という最下等の食料迄あって、これらの家庭にこそ真の困窮者がある実状である。
 フスマという、牛や馬の餌にする小麦の皮の屑も、ふかしパンにまぜて食べられたものだった。あの、ざらりとした舌ざわりを忘れられない人も多いにちがいない。
 菜っ葉汁の雑炊をすするにしたって、たとえわずかな量であっても米がいる。しかし遅配・欠配つづきで、配給はあてにできない。いったいどのようにして補っていたのだろう。
 闇買、物交、持込等で食糧を入手しているものは、95%、正規の配給物資のみに依存している家庭は6世帯であり、その中一軒は農家なので真の配給依存家庭は僅かに5世帯と云っていい。これらのものも配給物資に工夫を加えて食い延したり、野菜を大量に混入したりして苦しいながらも暮らしをたてていた。全世帯中一日まるまる欠食している家庭は一軒もなく、朝、昼、夕の中一回を抜いているものが10世帯(会社員4、無職3、商人2、官公吏1)しかも大部分は昼食抜きで、米麦不足で弁当携帯の困難さを物語っている、
サラリーマン残酷時代だった
 食糧不足を補うため、各種の方法で入手が続けられているが、その中闇買をしているものは47%、物交23%で他は何れも郷里等から月一、二回の割で持込んでいるものだが、例外として医師、布教師などは患者又は信徒からの贈与によっており、面白いのは補給方法の職業別利用状況である。即ち補給状態を全般的にみれば、会社員、商人の100%を筆頭にして、労働者、官公吏、無職、雑の順になっているにもかかわらず、闇買利用では商人および雑の58%が第一位で、会社員、労働者、無職となり、官公吏は僅かに11%よりなく、なお闇買を買出しと居買に分けて居買の方をみると、商人が33%で第一位、次が30%の無職、雑29%、会社員23%、労働者18%の順で官公吏は全然利用していない。
 これは、官公吏は職業柄、家を知られたくないために買出しの方法をとっているためである。
 「物交」はもちろんタケノコ生活のことである。「居買」とはなかなかうがった表現で、買出しにいかず、家にいて持ちこまれるものを買うことをいう。そしてここに、カツギ屋が登場することになるわけだが、このカツギ屋については、あとでふれることにする。
都下板橋第三国民学校での960名の保護者に対する調査
 まず「弁当を毎日持参させることは困るか」との問いに対して、困るというのが全体の68%654名、困らぬが12%122名、残りの174名の母親は困るとも困らぬとも書いていないが、そのどちらにも書けなかったところに子を思う親の愛情がかえってうかがわれる。なお困る点については主食というのが30%、おかずが5%、両方ともというのが65%を占めている。
以下も、960名の父兄保護者に対する調査結果のうちの一部である。
つぎに三食中、何度かゆ食かという問いに対して、
一度もかゆ食しない 2%
三食ともかゆ食 27%
二食がかゆ 46%
一食25%
また、主食の闇買いについては、
他から求める家庭が圧倒的に多くて87%
闇買いせぬというのが、あるいはしたくても新円がなくて出来ぬというのが13%
婦人の進出と好調で女装カツギ屋出現
 かつぎや仲間でノコギリというのがある。これは行きも帰りも稼ぐというわけで、買出地になにか品物を持って行ってこれを売りサヤをとり、その金で食物を仕入れて帰り消費地でまた儲ける。
 少々旧聞に属するがノコギリ屋のよい例にこんな話がある。
 大阪の男が二百円の資本を持って静岡にでかけた。ここでミカンを貫目四十円で五貫目仕入れ、東京を素通りして一路福島にゆく。ここで五貫目のミカンは約一斗の塩とかわり、彼の足は更にのびて山形にゆく。山形で一斗の塩は二斗から三斗の米に交換される。彼は山形からこの米を背負って真直ぐに大阪に帰るのである。
 当時一升二百円の相場を唱えていた大阪で彼は悠々と四、五千円を手に入れる。これがせいぜい三日位の仕事だ。ノコギリもこの位になると二度ビキとか三度ビキということになるわけである。
 「近頃はあいつ等の方がよく稼ぐ、捕ったときには泣きの一手があるし、取上げられたって俺達より手心が加わっている。特に若い女にはかなわねえ……」
 男女同権になったときには別に女になってみたいとも思わなかったかつぎ屋連も、近頃はしみじみ女に生まれればよかったと考えるらしい。
 こんなためか、最近は女装をした男の買出常習者がボツボツ現れたという。
まさしく必要は発明の母であった
 「取締り当局は目の敵。市民にとっては便利な存在。-カツギ屋は統制経済が生んだ畸形児。アプレゲールの仇花」と前文にあるとおり、当時の庶民生活とは切りはなすことのできない存在であった。
カッコ内は扱い商品。
A氏(鮮魚)43歳、黒皮ジャンパーにコール天ズボン、ゴム長。
A氏 私は戦時中徴用で工場に行っていたんですが、終戦になってもう職工でもないと思ってね、十何年か経験のある魚屋の腕を何とか伸して行きたいと思っているうちに一月近く遊んじゃったんです。その頃鰯を持って来て売る者がある、どこから仕入れたかと聞いてみると船橋だ、それでは一つ自分も出かけてみようというのが始まりです。 
B氏(粕取-カストリ焼酎)27歳、茶背広上着にツギのある軍袴、赤ネクタイ。
B氏そうですね、私はもと市役所(横浜)に勤めていました。役所では食えんのでこれはいかんと思ってスパッと辞めました。僕の学生時代の友達が焼酎をやっているのでそれをやってみようというのが一番初めで、いやでしたねえ。罐をブラ下げて今日は如何ですか……。
C氏(繊維)32歳、茶ズボンに軍上衣、ガラ紡のマフラー。
C氏 私は大体機屋に生れたんですが工場が全部とられッぱなしなんで、困っている処へ夜の女たちが洋服をひっぱりだこだと聞いて、プリント物なんかを少しずっ持ってきたんですね。
Dさん(米)33歳、銘仙の着物、羽織、買物に出た中年の奥さん風。
Dさんは主人が戦争にいったまま生きているのか死んでいるのかわからない農家の主婦で、近所の人がやっているのに刺激されてはじめは野菜を新橋に持っていっていたが、19468月ごろから米専門となる。
 Eさん(炭)18歳、赤い頬、黒ズボンをはいて映画雑誌を片手に。
Eさんは町の工場で働いていたが、給料が安かったこともあって、友達にさそわれるままずるずると、カラス部隊に。
Fさん(芋)43歳、手が荒れて巌丈な顔をした小肥の人。
後めたい気持から早く脱け出したい
三木氏 家の建った人もあるでしょう。
A氏 どうやら。それで店も持って登録店にもなりましたが。家を建てたものは、ほかにもいた。
B氏 私もどうやら家だけは建ちました。何しろ家族が七人で自分一人ですからね、働いているのは。一昨年あたりやった人は倉まで建てたね。
 呑んべえがカストリ焼酎で悪酔いしているとき、そのカツギ屋のなかには、家どころか倉まで建てたものがあるのである。
 これからどうしようと考えているか、参考までにA氏の場合を紹介しておこう。
A氏 私は登録店にもなったし、自分でかつぐことはもうしない積りです。何でも大っピラに売れる様になれば、こんな後めたい気持にならないですむんだから、早くそんな世の中が来ないですかね。

Ⅲ ヤミ物資をめぐるアノ手コノ手

どうしようもないモノのないみじめさ
 むかしなら、むっとするくらいあたたかくなっている大手術室に、火の気がまったくない。病人をはこぶ車へきものをすっかりぬぎすてて、病人は手術室のまんなかの手術台に、うつされる。病人のからだは、手術をする場所だけをのこして、つぎつぎと手順よく布でおうわれてゆく。はじめは消毒のしてない布、そのうえに消毒した布。消毒した布は、消毒用のまるいいれものから、看護婦がつぎつぎととり出して、手術者にわたす。わたくしは、この布を見ておどろいた。どれもこれももうつかいふるして、こげ茶色になっている。手術者がひろげるのを観ていると、あちこちに「つぎ」のあたったのがあり、二つをつないだのがある。
 外科医は緒方富雄の友人なのである。
  「布がありませんでね。ずいぶん無理をして、さがさせているのですが……手術の道具も、十年まえならすててしまうようなのをつかってます。はさみなんか、さきのあわないのがあります。みじめなものです。消毒につかうアルコールも手にはいらないしまつです……」
 彼はふたたび手術台にかえって、いよいよ手術の身がまえをした。看護婦から手ぶくろをうけとってはめている。おやゴムの手ぶくろをはめない。助手のはめる手ぶくろは、指さきが焼けこげている。
 わたしは、このさむざむとしたありさまに、これまでの、目のまぶしいほどにまっしろな布でつつまれ虎手術台のまわりの光景をおもいうかべずにはいられなかった。 
一億総ブローカー時代の右往左往
『探偵通信』創刊号(19484月・洋文社)の記者の「魔の夜行列車に乗って」で、列車は東京駅2240分発の準急大阪行、もちろん車内は足の踏み場もないほどの超満員である。
 執筆者は1月18日夜だったと明記している。
 「大阪商人は、金があって商売度胸がありますからな……そこであんたは、今どんなことをやっています?」
 「大阪にベルトが沢山あるという話を聞いたもんですから、それを探しにいくところです。何しろ近ごろ農村電化とかいって、猫も杓子もモーターを据えつけるようになったが、肝心のベルトがなくて弱っています。心当りはありませんか、いい値で買いますぜ」
 「わしもベルトを頼まれています。なんでもゴム製でニインチものが尺20円、三インチ半で30円、革製ならばニインチ32円とかいってますよ、これは東京相場ですがね」
 「ところが、東京には、なかなかありません。仕方なく大阪へ行って、やっぱり夜行で日帰りするつもりです。この通り弁当を持えて来ましたよ」国民服の男が、大切そうに膝の上に乗せている大きな風呂敷包みえお撫でまわした。
天文学的棚ボタ式オクリモノの正体
 ノドから手が出るほどモノがほしいだけに、ついうっかりすると、こんなこともおこりかねない。『特ダネ雑誌』第二巻第一号(194712月・スクープ社)の池辺たかね「消えた宝船」は東京都庁を舞台としたテンヤワンヤである。
一、さば塩もの2万5千貫
一、あじ乾もの5千貫
一、黒砂糖5千斤
一、米50
という大そうもない目録。
 エエと米が一升200円だから、ヤミ値にして40万円、サトウ一貫目3,600円として、-ウワッ助けてくれ、といいたくなるような途方もない莫大なこの代物を、買ってくれというならばともかく、ぞろりとロはで差しあげようという、当節あるまじき申出なのである。昭和22929日、所は水害さなかの東京都庁。申し出た人は鹿児島県西之表島町長、使者と称する第一住吉丸船長。
 「船なんかいねえよ」
 心配そうな顔をした。
 さてはということになった。この話、少しおかしすぎるのではなかろうか。
 なによりおかしいのは、一刻も早くこの話を都庁の耳に入れようと陸路を取ってきたという宝船の使者近藤鉄美の行動である。彼はこの天文学的棚ボタ式贈物の話に三拝九拝しえてよろこんだ都側から、大井海岸の「清楽」という都の指定旅館へ案内せられ、海の幸、山の幸の途方もない大もてなしをうけ、紀文大尽より豪華な夢を波の音のかよう枕にむすび、明けて翌日、宿を出たままどこかへ姿をけしてしまっているのだ。
 このペテン師、なかなかのシロモノで、なおも暗躍をつづける。
カミを食いものにした天才ペテン師
 この時代のペテン師といえば、「狸御殿」の主、豊沢一馬をあげないわけにはいかないだろう。印刷用紙をネタにして、1,000万円も詐取したのである。1946年当時の1,000万円といえば、いまの3億円どころか、5億円、いやいや10億円にもあたるのではなかろうか。そればかりではない。その1,000万円を一年ほどで、文字どおり湯水のようにつかったのだから、目をまるくせざるをえないではないか。
 タネを明かせば、だまされるほうがどうかしているようにみえるが、なかなかどうして、冨山房など著名出版社が軒なみに被害を受けているのだから、豊沢の手口は巧妙のうえにも巧妙で、天才的な詐欺師だったのだ。
 さて、豊沢はこの金を、どのようにつかったのか。まず宇都宮市材木町にあった結城屋ダンスホールのダンサー五井敏子(22)に熱をあげ、通いつめたあげく同居し、戸祭町の元第一銀行支店長の大邸宅を50万円で買いもとめて移り、札束乱舞の生活をつづけたのである。その邸宅が、暮しようのあまりの異様さから「狸御殿」と呼ばれるようになるのだが、そこに移るまえ、すでに「即製社長夫茨敏子の衣服、タンス、鏡台等目にもまばゆい身回品は成田方八畳間に並べ切れない位仕度されていた。その総価格数百万円と称せられる」とある。 
時代の欲求不満をふきとばす清涼剤
 その豊沢が宇都宮署員に逮捕されたのは1947年1月9日である。もちろん詐欺と、王子製紙に対する脅迫の容疑だった。それにしても豊沢は、なぜこのように札ビラをきり、豪遊する気になったのだろう。
 三度目に彼が捕まった時、新聞記者に向って、「せめて、私のやり方を見て、世間の人が朗かに笑ってくれたら本望だ」などとうそぶいていたのも彼の本領を発揮していて面白い。
 先日、検察庁から護送中、看守の隙をうかがって逃走したが、数日して捕ったところなども如何にも芝居がかっている。
 このようなことをいうと、被害者からは叱られるかもしれないが、豊沢一馬の仕業をみていると、憎めなくなってくる。痛快ですらあるのだ。ある意味での人気さえあったが、あらゆるものに飢えて欲求不満がみちあふれているとき、夢のような金をまさしく湯水のように浪費したことに対して喝采したいものがあったからなのだろう。それはともかく、敗戦直後は、紙を材料にして、これだけの金を騙しとることができたのである。
悪性インフレの元兇の一つ-隠匿物資
 この時代の物資をめぐる騒ぎで、「隠匿物資摘発」と呼ばれたものを、忘れるわけにはいかない。隠匿物資は隠退蔵物資ともいわれていた。戦争中の在庫品のことで、なかには軍放出物資ということで、正常なルートを通じて市場に出まわったものもあったが、いずこへともなくかくされたものも多かった。
 本土決戦にそなえて、日本中に分散されていたのである。それが隠匿物資であり隠退蔵物資であって、ヤミ市場の大きな部分を占めたのだ。悪性インフレの元兇の一つだったといってよいだろう。
 さて世耕事件の内容を簡単に紹介すると、自由党の現代議士世耕弘一が、内務政務次官在任当時、時の溝口防犯課長を通じて、各府県警察部長宛に出した「隠匿物資の摘発について協力を求める紹介状」(五十通)と、ついで経済安定本部隠退蔵物資処理委員会副委員長就任後、独断的に彼自身で発行した「仮隠退蔵物資摘発指令書」(百四十三通)がまきおこした諸問題がこれである。
 だから、この指令書をもらっても、摘発は必ず官憲とともにおこなわなければならず、本来なら、いくら世耕がこの指令書を出そうとも不正事件などおこるはずはなかった。だが世耕は「官僚はアテにならない」とばかり、腹心の関根事務官(自由党系)を唯一の相談相手として、ブローカーや街の顔役や青年団体など、相当いかがわしい民間人まで使って情報をあつめ、摘発をおこなわせた。そこで、この紹介状および指令書をめぐって、詐欺、横領、文書偽造、恐喝等無数の不正事件が発生し、指令書のにせ物も横行して各地の農業界、水産業界、引揚者団体に被害者が続出、その中には被害団体22、金額1,400万円にのぼる「同胞厚生協力会事件」というような大きなものも出て来たのである。
すべてのヤミは大阪にはじまる
 まだ戦災の臭が大阪の町々にくすぶっていた1945年の9月末、大阪駅や道頓堀の焼跡に建てられたバラックにはもうなべ、かまはもちろん、石けん、洋服、米、砂糖、果物など喉から手が出るようなものばかりがずらりと並べられていた。大阪には何でもある!という声は、すぐに全国にひろまった。こうしておびただしい物資がまず大阪から闇へ闇へと流れだした。だがこれらの物資のほとんどが、今度問題になった大阪造兵廠をはじめ大阪の陸軍軍需品廠、被服廠、燃料廠、中部軍経理部や海軍軍需部等から流れだしたものだということは世間には余り知られていなかった。(中略)それから二年余が過ぎた。その間におびただしいせん維品、金、銀、鉄鋼、ダイヤモンドなど戦時中に国民の一人一人から取り上げた家宝や財産が、旧軍関係者の手から大工場や大会社、ボス政治家などへうやむやのうちに渡されていたことが、判ってきた。
 大阪造兵廠では他の部隊や諸関係庁と同様に、早くも終戦を予知していたので、昭和20年の8月初旬から疎開と称し、せん維、鉄鋼、木材、油脂などの重要軍需物資をぞくぞくと民間の諸工場や会社の倉庫などに運びだしていた。ところが鈴木内閣は8月14日の最終閣議で「軍その他の保有する軍需用物資、資材の緊急処分に関する件」を決定した。阿南陸相はこれを同月17日陸軍機密第363号命令として次のように全軍に指示した。
一、軍需品、軍需物資の破壊、散逸、隠匿を禁ずる
一、軍需品中、国民生活に利用しうるものは民間に払下げ、もしくは保管転換を行う
一、払下げまたは保管転換の相手は原則として地方官庁、その他民間団体とし、個人が利益を独占するのを防ぐ、払下げ、保管転換は原則として有償とする
洪水の勢いで流れ出した軍需物資
 しかし軍はすでに崩壊しており、敗戦という現実もあって、一片の「命令」など、効果があろうはずはなかった。
 これを受取ると大造はじめ各地の軍需物資は洪水の勢いで流れだした。この大混乱におどろいた東久魎内閣は同年8月28日、これを禁止し、残された物資を整理して調査目録を作成し、連合軍に引渡す準備をした。この期間に民間に放出された数量は、陸軍が全国総量の三分の一、海軍は当時の価格で一千万円といわれている。問題の大造は鉄鋼類だけでも当時の陸軍総保有量の約四割を持っていたといわれるから、その放出量は想像以上である。
 どのように保管または隠匿されていたかというと、1946年3月2日にわかったことだが、大阪の東成区のある小学校の焼け残った七つの教室に、綿布や麻糸などがトラック58台分のほか、ゴムホースや電線などが大量にしまいこまれていたという例もある。
 一般庶民は戦争中ばかりでなく戦後にまで、軍のひどい仕打ちを受けたことになるが、それはともかく、悪性インフレの元兇となったこれらのヤミ物資も、1946年から47年にかけて食いつぶされてしまい、復興と生産が思うにまかせなかったので、インフレはいよいよ悪性化していくのである。

Ⅲ ひらきがありすぎた天国と地獄

空地利用の家庭菜園が花ざかり
 都市における宅地ないし空き地利用として作られる作物の種類は麦、雑穀、芋などの所謂主食となるものよりも、副食物として、無機塩類、ビタミン類の給源として欠くことの出来ない野菜が喜ばれ、特に新鮮なものに於て価値の高い種類がよい。
 狭い面積に於て、日照、水湿、地味その他環境条件の変化の多い場所での栽培には、作物の種類、品質の選択は勿論、栽培法なども特別の考慮が払われねばならぬ。(中略)10坪ないし20坪の土地があれば、これを上手に活用することにより、一人一年間の消費を充たすに足り、五人家族で五、六十坪ないし百坪近くの土地があるならば極めて豊かな自給野菜の生産を挙げることが出来る。
 『MEN』第一巻第二号(194710月・スタア社)の永沢勝雄「新しき土への出発」の一節で、執筆者には千葉農専教授・農学博土の肩書がある。また同誌は「男だけの雑誌」であることが強調されているが、このような種類の雑誌にさえ、こうした文章が掲載される時代だったのである。脱落しないためにはヤミ買いもしなければならなかったし、このように空地を利用して食糧の生産もしたのだった。
苛酷な運命にもてあそばれて地獄へ
 打算と冷酷と、そして功利にのみ徹した人間共が、あくまでその生活を保証され、なお暖衣飽食が許されているのに、同じ都会の空の下に彼らは差し迫った飢えをこらえて、一片の食、一枚の衣類を乞い求めて居るのだ。勿論浮浪者の中にはいわゆる先天的の放浪癖や精神喪失者もあるが、現在浮浪者として収容されている者を調べて見ると、都営の板橋養育院及その分室学園等の収容人員1,657(2月18日現在)中、男子1,078名、女子579名であり、先天的浮浪者は約2割、残りの8割約1,300名が戦災者或は復員軍人、軍需工場の解雇者達である。尚民営である上野の厚生会館に就いて見ても、精神耗弱者約2割・他の8割は戦災者であり、戦災者のうち軍需工場の解雇による失業者がその6割を占めている実状である。
あくどさは戦後の突然変異ではない
 -食糧生産地としてのそのころの農村を、『食と生活』創刊号(1946年5月・食と生活社)の原実「食糧窮乏期の保健衛生」のなかで見てみると、こんなぐあいである。
 昨年度は明治38年以来の不作で4千万石足らずの収穫量に過ぎなかったと農林省は発表している。
 毎年約6千数百万石の平年作であり、それでもなお且つ1千万石以上の不足を告げていた主食である。しかも僅か4千万石の産額でありながら極めて供出不良な現状である。まことに憂慮に堪えない状態に直面している。此の僅かな米産額から国民一人について計算された見込み消費量(生産量から種子用、飼料用等を除き且つ貯蔵中損失量及び非常食分をも除いた純食用量)l210グラムに過ぎない。今後之が補給として他の穀類や芋類の増産にまって不足を補う事は吾々の責任であり義務である。
 210グラムといえば、約一合五勺である。配給が二合一勺とか二合三勺といわれた時代で、配給量でももちろん足りなかったのだが、米をその半分しか確保できなかったことになる。こうして芋が大きな顔をしたり、菜っ葉汁がすすられたりすることになるのである。文中にある「極めて供出不良な現状」の部分を、べつのもので見てみよう。『旬刊ニュース』第21号(1947年1月・東西出版社)の秋月俊一郎「農村風景・隠れンぼの田」では、次のように記述されている
「困ったもんじゃナ、これは。誰も彼も嘘ばッかり書き出しやがって」
 輿望をになって-というのもすこし大袈裟であるが、とにかく最高点の投票が集ったために、いやいやながら、U村の農業会長におさまった杉村幸次郎は、就任早々、紊乱しきった農業会の会計経理をどうにか整頓してしまうと、次に村の耕地の調査にとりかかったところが、その調査に、ほんとのことを書いて出す百姓がきわめて少ないという事実は、かねて予期していたこととはいいながら、さて実際にぶつかってみると、あンまり気持のいいものではなかった。
 しかし、「ああ、気色がわるい」といっているだけでは、ことはすまない。何しろ問題はU村五百何十戸の百姓が、(家族をいれると二千九百人からの)生命をかけて、毎年の冬にはそれこそ死狂いになる米の供出にからんでくる話なのだから、あだやおろそかのことではないのである。
農村はのんきであり天国ですらあった
 さて、ある秋の日の午後-
 わが若き農業会長杉村幸次郎は、一枚の紙片を眺めて、何やらしきりにほくそ笑んでいた。
 その紙片には、
清酒特配券
一、二級酒二石○○升
一、配給所四村酒店
一、通用期間○月○○日
              ××地所事務所
 と、あって、その地方事務所の大きな四角い判がペタリと捺してある。といって何も彼はこのうちから何升ピンをはねてやろうか、などという、さもしいことを考えているのではなかった。
 おせッかいにも地方事務所は、その特配切符に添えて、その「二石の清酒(しかも二級酒)を専業農家二戸につき五合ずつ配給せよ」と指図してきているのである。
 「誰がクソ、こんな指図に従うもんじゃ」
 そして、どのようなことがおこったのか。
 砂はさっそく岡田書記を呼びよせた。(中略)
 「お役人はどうして、こう農村の事情にうといンかな。そこで、この酒さナ、こいつを一反歩に一合ずつ専業も副業もなしに割ったらどうでッしゃろ」
 「甲乙なしにナ、そら、よろッしゃろ」
 専業農家にもいろいろあって、つくった米が飯米にしていい範囲内だからといって一粒も供出しなくとも専業農家だし、大量に供出していても、家族の一人が町の工場にでも勤めていたりすると、副業農家ということになる矛盾があったからである。
 「きンの酒の配給券をもろたがナ、会長さん、これ、ちょッと、まちごとらしませんかいナ」
 実際の耕作面積と、届出のものとがちがう。つまり「かくれん坊」をさせてあるものがあるためだが、背に腹はかえられぬ、いや、酒のためにはそんなことをいっていられなかったのだろう。
 「わしンとこは、そのう、八反四畝つくっとりますンじゃで、一反に一合ですげなで、八合四勺もらえるつもりでおりますんじゃが……(中略)ところが、この切符には六合五勺こそ書いてないんですのじゃ」
 「どれどれ……」
 真面目くさって農業会長は耕地調査表の綴をとりあげ、ページをゆっくりくってから、
 「ふうむ、お前さんとこは六反五畝の作りじゃなかったかのウ」
 「そんなことはあらしません、たしかに八反四畝ですンじゃ」
 こうしてあと一合九勺の配給切符にありつくわけだが、その反対給付として、一反九畝の「かくれん坊」をしていた田ン圃が明るみに出ることになる。
童話ではなく実話だという、ただし書
 「とにかく、今年は鮭が、沢山のぼっております。私の区でも、十匹は獲得しました、じゃが、鮭のいるのも、大きな川に限りまして、田圃に水をひくクリークには、えへん、絶対におりません。供出米を鮭に例えるなら、わが山の中の貧しい村M村はそのクリークであります……」
 皆は、そうだ、そうだと拍手した。しかしその時、窓側に坐っていた区の実行組合長が、わっと叫んだのである。鮭をみつけたのである。それを聞くと、演説していたU区の部落会長は、すぐ演説を止めて、一番先に外へ飛び出していた。
 この村にも「かくれん坊」をしていた田があったかもしれないが、そのことには触れられていない。またここでは、そのことは問題にしないでおこう。
 ぞれから一時間後である。村長、部落会長、組合長たちは、大きな鍋に煮立った鮭をつつきながら、にぎやかに、談笑しながら、手弁当を食べていた。彼等の頭の上に、明かるく電灯が点いた。
 「とにかく、クリークに鮭が上って来たからには、山の村も供出せねばなるまい」
 「そうじゃ、そうじゃ」
 雲行きは「鮭」を中心に逆転していた。
目出度く供出完遂の相談が談笑のうちにまとまった。
童話ではなく実話であるというただし書を、もう一度ゆっくり、噛みしめていただきたい。
 いまにつづく天国と地獄の流れ
 35万の勤労大衆が声をそろえた赤旗の歌は、宮城前の広場をゆるがし、えんえんたる行列は、首相官邸を完全にとりまいた。これは1月28日のことであった。
 その同じ日に、これとは全く毛色のちがったこの行事が東劇で行われた。都下各地花柳界連合の温習大会だ。
 14の芸者組合がそれぞれ選手をおくって、その芸をきそった。
 さて、その観衆は場内にひしめきあい、昼夜二回にわけて声援をおくった。
 ここではインフレもゼネストも問題にならない。街には武装警官がデモの通過にそなえて見張りをしているが、この会には一人の警官もいない。
 日を同じくし、処を同じくする東京の中心地帯において、この二つのことがらが同時に行われているこの姿、これが日本の現状をそのまま現わしたものだ。そして多くの犯罪は、この二つの流れのうずの中から生れているといっても過言ではあるまい。
 いわゆる「二・一スト」と占領軍によるその中止措置へと騒然となっていたときのものだ。「戦後」は一つではなく、天国と地獄の大きな二つの流れにわけることができるのを、この文章は鮮かに描いている。そしてそれはいまにつづいているのである。

Ⅴ 甘いものに飢えていた

十中の九まで期待はずれの甘さだが
 甘さにも飢えていたのである。『趣味』第1巻第3号(1947年6月・月刊趣味社)の甲南草人「甘味料の家庭科学」で、関西の場合を見てみよう。
筆者は大阪道修町のある製薬会社に十数年勤め、栄養剤、ビタミン剤、スルファミン剤、あるいは現代流行の寵児たるサッカリン、ズルチンとも甚だ縁が深い。戦時中(勿論今も)薬品資源の不足に頭を悩まして、いろんな薬草の栽培、薬種の採集なども実地に試みた。現在市販されている種々の「甘味料」は、考えるまでもなく殆んど医薬品の部類に入り、昔は専門家しか知らなかったものが多い。故に筆者のその間の経験あるいは集めた文献や記録等から、「甘味料」に関する家庭常識とも云うべきものを抜粋し深刻な甘味料不足に悩む読者各位の家庭への贈物とすると同時に、一般家庭で正しい甘味料の科学常識を備えていただきたい念願のもとに執筆した。
 甘いはずなのにときには苦いことも
 さて、執筆者はさらに、サッカリンとズルチンの性質とその相違について言及する。
 御承知の方も多いが、サッカリンもズルチンも、石炭の副産物を原料としている。故に、化学製品であって、(中略)糖分とは全くちがう。
一、栄養価は全くない。舌の味覚神経をごまかすだけで「甘さ」も舌の上だけであり、体の中を素通りする。
二、疲労恢復の効果はない。熱量もゼロだし、もちろんビタミンなど入っていない。
三、甘さだけは同量の砂糖に比べてサッカリン450倍、ズルチン250倍ある。
 これを例えれば絹とナイロンが匹敵する。生きた植物から採った糖分と鉱物から採った化学薬品とでは、砂糖の代用品がサッカリンなのではなく、全く別種のものなのである。しかし同じ化学製品であるズルチンは正にサッカリンの代用品である。これもハッキリ頭に入れておいていただきたい。
 一般家庭では、ほんものの甘さに縁がなかったことになる。たいていサッカリンかズルチンをつかって、感覚のうえだけでの甘さを味わっていたのである。
 感覚のうえだけの甘さを味わうにしても、苦労は多かったものだ。甲南草人の心づかいは、使用法にまでおよんでいる。
①サッカリンは加熱すると甘さが逆ににがくなる。ズルチンは加熱すればするほどあまくなる。だから例えば同じコーヒーに使うにしても、サッカリンはコーヒーを沸かして各自のコーヒー茶碗に入れてから後に入れる。ズルチンは水の時にコーヒーより先に入れ、充分沸騰したあとでコーヒーを入れる方がいい。
 使い方をまちがえて、甘いはずなのに、なんともいえない苦さが口のなかにひろがり、いつまでも消えなかった記憶をお持ちの方も多いと思う。
②しるこ、ぜんざい、あまいお汁物などは断然ズルチンがいい。永くトロ火で煮つめるものとか、乾物とかにもいい。特にあまい煮付を好む人は、最初水の時からズルチンを入れ充分煮て、鍋や釜を火から上げる間際に、サッカリンを入れる。サッカリンはすぐ溶けてズルチンの倍も甘いから、両方の特性が生き実にうまい。この方法はすき焼にも応用できる。
③つめたい飲物、酢の物、わり下等には水に可溶性のサッカリンに限る。ズルチンを水に入れてもなかなか溶けない。
④サッカリンは粉末のままで持っていると無駄使いしやすいから、サイダー瓶、一升瓶などに水を入れ溶かしておく方がいい。入用の時にそのサッカリン水で煮炊きすればいい。大家族でも、サッカリン一ポンドを一升瓶二十本位の水に溶かしておけば一年はゆっくり使用出来よう。
 さきに紹介した、「サッカリン効かす手際へ婚期過ぎ」の句のかなしさを、ゆっくり噛みしめていただきたい。
 甘党ばかりか辛党まで血眼になって
 以下、紹介されているものは、懐かしのメロディならぬ、懐かしの味覚であり甘さである。これらに舌つつみをうったひとは多いはずだ。
一、柿の皮-剥いた柿の皮を捨てずに充分天日に乾燥し、すり鉢か、粉挽機で粉末にする。くだもの特有の実にうまい甘味料となる。
二、桑の実・柿の実・山葡萄-粉末にするにはむかないが、ジャムを作る。ゼリーにもなる。よく熟したのを鍋に入れ約半量の水を加え、実が溶けるまで煮、布で濾しその汁をトロ火で、焦がさぬようにかき混ぜ、水飴のようにトロリとなるまで煮つめる。ズルチンがあれば入れるとよいし、なくても充分あまい。これでパンの時に重宝なとてもうまいジャムが出来る。これに寒天を少し入れて固めればゼリーが出来る。
三、甘茶・あまつる・あまね(ちがやの根)-御存じの方も多いが甘茶、あまつるは葉を、ちがやは根を取って蔭干しにしておく。入要の時煎じて飲めばズルチン、サッカリンなどとちがって自然の豊かな甘味飲料となる。
四、甘藷の如で汁-むしいも、ゆでいもの後の湯は捨てずに飲むと実に甘い。これは手巻の「のぞみ」に霧ふきで吹きかけておくと、たばこに仄かなあまみが出てうまい。
 そのほか、けやきの実や菱の実、かやの実、かぼちゃの種、西瓜の種なども、煎って食べればおやつになる。栗の実や銀杏の実も同じことであるとも書いている。『食と生活』創刊号(1946年5月・食と生活社)の大坪栄「蒸しパンの材料について」の、調味料の部分はこうである。
 塩、砂糖は今時なかなか手に入りませんから甘味のある野菜、人参、ほうれん草、玉葱等御利用下さい。香味としては果汁、カレー粉、胡椒等が適当で御座います。
とにもかくにも、あの手この手と、苦労が多かったのである。
 ホンモノの甘さは高嶺の花であった
 食糧事情がいくらかよくなる1949年にはいると、甘味のほうもましになっていく。『旬刊ニュース』第54(1949年4月・東西出版社)の剣持鍾太郎「東西味自慢」は汽車の窓からの見聞記である。
 万事乾からびた近頃の旅行ではあるが、それでも汽車の窓から覗いた食気の世界程、旅情を豊にするものはない。
 一時ペチャンコになった駅売りの名物が追々と復活して来たことは、旅人にとっては何より嬉しいことだ。今比較的うまくて、体裁もよく、然も車窓から簡単に買えて、昔が想い出されるようなものを、東と西から一つずつ拾ってみよう。
 東海道線大船駅の「鎌倉ハム」などが東のチャンピオンであろう。(中略)一折40(18)で、万丈の気を吐いている。昭和五、六年頃の一円の折詰は、油身のコッテリした色彩の濃い桃色のハムが、いっぱい(55)詰っていて、優に三人前の饗宴に供するに充分だった。-
 では関西はどうなのか。
 西の方で復活したものでは、京都の八ツ橋、五色豆、神戸の瓦せんべいといった所であろう。-八ツ橋の家元「聖護院」は戦前一日に米三石八斗、砂糖七、八百斤を使って、約220貫を製造したそうだ。
 砂糖と米御持参の方に限り、委託加工致しますなんて、さぞ八ツ橋さんもつらかろうが、それでも最近漸く16枚が100円で、ボール箱に入ったものが、車窓で買えるようになった。
 国家公務員の給与ベースが3,971円のころだから、ものの価値はいまの20分の1から30分の1と考えていい。そのころの一折40円のハムとか一枚20円の瓦せんべい、16100円の八ツ橋が、どれほど高価なものであったか、おわかりいただけると思う。もちろん一般庶民には、車窓から手を出したくとも、なかなか出せないものであった。

Ⅳ 思い出はほろ苦いカストリ焼酎

思わぬ伏兵に悲鳴をあげたマ元帥
 その翌日17日の新聞には、太平洋米軍総司令部発表として「米憲兵及び日本側警察は東京、横浜の街頭で闇売りされている酒類の没収を命じた。理由は悪性酒のため米陸海軍将兵間に数名の死者及び重態者を出した為である」と出ている。
 アメリカ占領軍は日本の軍隊の抵抗は受けなかったが、思いもかけなかった伏兵の襲撃を受けたことになる。マッカーサー最高司令官も、相手が相手だけに、悲鳴をあげたのではなかろうか。
 11月4日の新聞には、米国第八軍渉外局の発表が出ている。101日以降、死者既に20名、重傷11名、とある。なるほど、これではマ元帥悲鳴の伝説も出来る訳だ。
 元来このメチル禍は、この頃始まったものでなく、私が少年の頃、飲酒家であった父からよく聞いた言葉である。これを飲むと眼をやられるから、即ち「眼散る」であるなどその頃の駄洒落など私は記憶している。
 それが、今度の戦争となり、酒類が欠乏してくるにつれ、だんだんメチル軍の侵出が頻りとなり、更に終戦後に至るや、軍や工場の放出物資が民間に流れて、ついに今日の如きメチルの世の中となって了った。
 メチル酒も、戦争中の在庫の一つであり、流出した軍需物資の一つだったことになる。それはともかく、死んだり失明したりはしなくとも、酔い潰れた翌朝、眼ヤニで眼がくっつき、もしやとおののきながら、指で眼をこじあけてほっとした経験をお持ちの方は、多いはずである。
メチル酒からカストリ焼酎へ
 このメチル酒も、戦争中の在庫品だったほかの物資と同様に、だいたい1946年いっぱいで飲みつくされて姿を消し、メチル騒ぎもなくなって、酒の世界は「カストリ焼酎」の時代となる。バクダンというのもあったが、これは夢声式分類の「4 ガソリンのドラム罐に、燃料用のアルコールを詰めたもの」である。もっとも、徳川夢声は次のようにも書いている。
 所で、進駐軍側の発表によると、目下日本で飲用している酒類には、殆んど例外なくメチルが含まれていると云う。ほんの微量であるにせよ、これが連用され、毒物が蓄積さるる時、人体に及ぼす影響や如何にと只今研究中なりと云う。
 さて、カストリ焼酎はキチガイ水とまでいわれて、メチル酒と混同されがちだが、まったく異なったものなのだ。もちろん密造酒である。もともとは酒の粕を原料とした、まともな蒸溜酒なのだが、このころのものは米や芋を原料とした速成品で、独特の臭味を持っていた。また、店によって、同じ店でも日によって、透明であったり、濁っていたりと、見かけはまちまちだったが、酔いようはいずれも、キチガイ水と呼ばれるのにふさわしい乱酔をもたらしたものだった。
『東京』第4巻第3号(1948年3月・新生社)の呉尾八十郎「カストリ繁昌記・工場探訪」
で、つくり方などを見てみよう。
-カストリ工場とはチットもいえない。煙突だってブリキをグルッと巻いた家庭の風呂場の類に属する貧弱さである。(中略)組立式のウス汚い蒸溜器が四台と、未完成なのが二台。あとで聞いたが、これをボイラーと呼ぶんだそうだ。名前だけは立派なもんだ。ゴム管が何本もウネウネしている。
 場所は東京の中心部を賄うカストリ工場地帯であるFE町。ここに来てから知り合った、一見下級役人風の中年親爺であるカストリ焼酎のカツギ屋に案内してもらうのである。
 莚に積んであるオカラのような、テックスをほぐしたようなのを指差して、「あれは何かね……」と切り出したら「大麦の糀だろう。米とまぜてドブロクを造るんじゃねえかな。瓶に入れて莚で巻いてネカシておきゃあ冬場なら一週間で出来らあ」
 その親爺の話すカストリ製造法。
 「いくらも取れやしねえんだ。インフレだから売れるってものさ。釜ん中にドブロクを入れてね。アルコール分は、そうだな、ドブロクだから15ボーメくれえかな。下で薪をくべると温度75度でアルコールが蒸発すらあ。うまくやりゃあ味もいいんだが、火が強すぎてカストリ特有の臭えのが出来ちゃう。蒸気は逆さの樽で水滴になってゴム管から出て来る仕掛さ。出て来る奴は65ボーメもあって、強くて飲めやしねえ。半分くれえ水で割る。一日かかって一斗半かな」。
 これで独特の臭味の原因が、おわかりいただけたと思う。こうしたカストリ密造工場地帯は、東京付近ではほかに川崎にもあって、ときどき手入れを受けたものである。
政府が先頭に立ってヤミ酒大売出し
 上半期(22年4月~9月)に比べて、目立つのは、40万石(成年男子一人一月三合平均)であった家庭用が約四分の一に減らされ「家庭配給の犠牲」に於て自由販売酒がニュー・フェースとして登場したことである。この分は価格もぐっと張って、清酒は一級550円、二級500円、ウィスキーは一級(サントリー級)1,000円、二級720円、三級480円、ビール100円というから現在の闇価と大差なく、その上新円の札束に吸い寄せられて了うから、何れにせよサラリーマンには縁なき代物だが、税金の滞納で、歳入にドカリとあいて了った百億円の大穴を六十億円がとこ埋める苦肉の策で当方の心中も察してほしい、とは大蔵省の弁。
 「現在の闇価と大差のない特別な自由販売酒」、というところにご注目いただきたい。清酒二級一升が500円となっているが、この時期の公定価格は200円、そしてヤミ値は約750円だったと記録されている。政府みずからが公定価格の二倍半もするヤミ酒を、大っぴらに売り出したわけで、ヤミが公認されたようなものだったのである。しかし庶民にとっては高嶺の花だったのだから、ひどいものだ。
せめて浮世のウサをカストリ飲んで
 どうせ足りねエ赤字家計だ。カストリの一ぱいも飲んで、浮世のウサをはらそうじゃねエか。とは云うものの、七・五政令で飲むところもねエし、くそ面白くもねエ政府だ。大体、大臣なんてしろものは、一級酒のパリッとした奴を何々料亭、何々倶楽部なんてところで、堂々とやっているに違いねエんだ。それにも拘わらずだ、俺達にはカストリの一ぱいも飲ませねエなんて、労働者の党が聞いてあきれらあ、岩戸神楽の昔から酒とお天道様は一緒についてるものだ。カストリは飲むな1,800円で食ってゆけ、少しは安月給取りの悲哀を考えてもみて頂戴よだ。酒はのみたし、カストリ屋はなし、どうせ浮世は癩のたねか。
『旬刊ニュース』第33(194712月・東西出版社)の埋草「裏口営業裏から覗く・カストリ屋の巻」である。
 二階があり、梯子は取りはずし自由で、二階にあがってから梯子をひきあげ、出入口は閉ざしてしまい、おもむろに酒宴がはじまるという密室形式の店もあった。
当時の酒の値段は現在より高かった
 ビヤホールが復活したのは1949年6月1日からで、半リットルジョッキが130円だった。このビヤホール復活など、酒が店で自由に飲めるようになったのは、「裏口営業」という流行語を生んだ政令による飲食店の休業措置が495月から解除になり、自由に営業することができるようになったからである。
 そしてこのときから、さきにもいったように、カストリ焼酎時代はおわりを告げてだんだん姿を消していき、安くて早く効くものとしては、「トリス」に代表される二級ウィスキーがかわって登場し、愛用されるようになる。この種のウィスキーは飲食店営業再開前の、4812月の公定価格が62060銭で最も高く、営業再開一年後の50年4月には430円と、少し値下げされている。容量を、720CCから640CCと少なくしての値下げだが、それでも安くなったことはたしかで、その後もいくらかずつ値下げされていき、もはや戦後ではないという声などが聞かれるようになった1950年代の後半ごろから、トリス・バーとかオーシャン・バーなど、ウィスキーの商品名をそのままのスタンド・バーが氾濫するようになり、値段も300円までさがるという経過をたどって現在に至っている。現在は少し値上がりして、340円である。

Ⅶ 裏口営業ヤブニラミ

ポン引までいて大はやり-裏口営業の店
 もちろん裏口営業は、酒の店ばかりではない。やはり前出『旬刊ニュース』第33号(194712月・東西出版社)の埋草「裏口営業裏から覗く・カストリ屋の巻」につづく「揚げ物やの巻」によると、こうである。
 「ヘイ串かつ三本50円、とんかつ一枚120円、お持ちかえりになりますか、それともお食べになるならお隣りへどうぞ」とあんちゃんはいう。揚げた店で食べていけない政府の命令だそうで、ほかほか揚った奴を隣りの屋台へ持っていくと、そこに大年増が一人いて、番茶ならぬ紅茶の渋いのを入れて、さあどうぞと来た。きけば両方共とんかつやだったが、店で食べさせていけないというわけで、大年増の店が廃業。隣りで買って来たのを、ここで食べれば好いという。何の事か客は珍粉漢。これは新橋の店。
 なるほど、考えたものである。金儲けとなると、ない知恵もあふれてくるものらしい。
 神田では某喫茶の店先で、コロッケ、フライ類を売っている。食事時で中へ入ってから、あのコロッケをくれといったら、どうぞそとへ出て、店頭で買って、又入って来てくれという。つまり、客はどうでもこうでも、外から持って来なきゃならない。新橋のは一軒で二軒賄いをするのだから、値段もはずむ。
 一種の禁食・禁酒令だった七・五禁止令
 「裏口営業」とは、「政令118号」とか「7・5禁止令」などと呼ばれて、飲食店などの営業を政府の権限で中断させるためにできた法律をくぐりぬけるためのテクニックなのである。1946年夏からの本格的な飢餓時代に対処するために制定・施行された時限立法で、はじめの予定では47年いっぱいで効力を失うことになっていたのだが、延期がつづき、2年のちの494月いっぱいまで、効力をもちつづけた。この政令を犯して営業した店はもちろん、客も罰せられることになって、アノ手コノ手の「裏口営業」が大手を振ってまかり通った、たいへんなザル法であった。飢餓時代の食欲にかかわるものなので、ザル法となるよりほかなかったのかもしれない。当時の生活を象徴するものの一つであるが、条令の内容を忘れてしまった方も少なくないと思われるので、その全文を紹介しておこう。
政令第118号 飲食営業緊急措置令
昭和20年勅令第542号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く飲食営業緊急措置令をここに公布する
御名御璽
昭和22年7月1日
   内閣総理大臣 片山 哲
政令第118(官報号外)
飲食営業緊急措置令
第一条 現下の食糧事情に対処するための飲食営業の禁止及び制限は、この政令の定むるところによる。
この政令において、飲食営業とは、料理店、飲食店その他設備を設け客に飲食物を提供して飲食せしめる営業(待合を含む)をいう。
第二条 何人も、昭和22年7月5日から同年1231日までの間は、飲食営業を営んではならない。
第三条 外食券食堂、旅館、喫茶店その他経済安定本部総務長官の承認を受けて主務大臣の定める営業につき、経済安定本部総務長官の承認を受けて主務大臣の定めるところにより、都道府県知事の許可を受けた者は、前条の規定にかかわらず、当該許可に係る営業を営むことができる。但し、他の法令の適用を妨げない。
前項の規定による許可には、条件を付することができる。
第一項の規定による許可を受け営業を営む者が、法令又は同項の規定による許可の条件に違反したときは、都道府県知事は、一定の期間当該営業を営むことを停止し、又は許可を取り消すことができる。
第四条 何人も、第二条の規定又は前条第三項の規定による停止に違反して営む飲食営業について客となり飲食物の提供を受けてはならない。
第五条 官公署、会社等のクラブ、寮その他何等の名儀を以てするを問わず、第二条若くは前条の規定による禁止又は第三条第三項の規定による停止を免れる行為をしてはならない。
第六条 第二条若くは前条の規定又は第三条第三項の規定による停止に違反した者(前条の規定に違反して飲食物の提供を受けた者を除く)は、3年以下の懲役又は5万円以下の罰金に処す。
前項の罪を犯した者は、情状により懲役及び罰金を併科することができる。
第七条 第四条又は第五条の規定に違反して飲食物の提供を受けた者は、一年以上の懲役又は一万円以下の罰金に処する。
第八条 法人の代表者、法人又は人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関し第六条の違反行為をしたときは、行為者を罰する外その法人又は人に対し同条の罰金刑を科する。
付則
第九条 この政令は、公布の日から、これを施行する。
第十条 昭和22年5月5日前に他の法令による許可を受け、同年7月4日現に第三条第一項に規定する営業を営んでいる者は、当該営業に関しては、同年8月15日までは同項の規定による許可を受けたものとする。
  内務大臣 木村小左衛門
  厚生大臣 一松定吉
  農林大臣 平野力三
  内閣総理大臣 片山哲
料飲店自粛休業では焼石に水だった
 ところで「七・五禁止令」よりもさきに、「六・一休業」と呼ばれるものがあった。
 料理屋、飲食店の六・一休業は、ヤミ料理を食わぬと取引のできぬヤミ屋には相当痛いが.・・・・「われわれが休業して一番痛いのは官庁だろう」「もし○○省だから、○○局だからなどと裏口から宴会をやらせるような業者がいたらダンコ業者間でテキハツしよう……」これは料飲業者が一せい休業のハラをきめた30日の理事会でのハナイキである。
 しかしもっと困ったのは、料飲店のヤミ料理や残飯で暮していた浮浪者たちがめしの食上げになり、6月2日、浅草公園に約千名の浮浪者が集って「メシよこせ」デモを行った。都の調べによると六・一休業で直接打撃をうけるのは浅草約百名、下谷約五十名で、大半は子供だが結局もう一度浮浪者がりをするよりしかたがなかろうと都でも頭痛はちまき-。
 『真相』第10(1947年7月・人民社)の埋草「六・一旋風異変」である。六・一休業は業者の自粛休業だったことが、これでわかる。
なるほど、こういう手もあったのか
-甲府市内だけでも、7月15日現在で、料飲業622軒があり、そのうち36軒の料理店だけを残して、サッサと氷屋さんに転向したのが飲食店330余のうち230軒、露店飲食250のうち140、あとは何れも、休業の「格好」にある。
 旅館に早がわりと考えた連中も、一度旅館になれば、六カ月たってのち料理屋に復活はむずかしく、また転向には莫大な費用のかかることを思えばそれもならず、このところ四苦八苦だ。(中略)
-自店で危険とみれば客の家か知人の座敷を借用して、ここで「開店」、女中も出張で大饗宴。御用ときたら「いいえ、私は料理をたのまれただけで、材料も酒も向う様のもの」と申しあげる仕組。
 ところが、この手にたいし若若遊子のつたえるところでは、芸妓の家に客が出張、これに料亭の板前と女中の一行が加わり、とんだ二業をはじめ、まごまごすると、客がとまって三業となるのが流行の由。
 「二業」とは、芸妓屋と料理飲食店のこと。これに待合が加わったものが三業である。二業までは、芸者がいてもそれほどでもないが、泊まることもできる待合が登場すると、急に色っぽくなってくる。もっとも、このようなものは、当時の庶民には縁のない存在だった。
禁止令は解かれぬほうが、という声さえ
-その証拠にみて御覧、一杯飲まなきゃ取引が成立しない商人、綺麗どころを並べないと話の出来ぬ政治屋、食わせて飲ませないと印を押してくれないお役人、盗んだり、だましたりした金を早くつかわないと、冷いところへ送られる泥的サギ師。かくの如き現代日本の象徴どもが、勝手口から顔をのぞかせ、飲ませろ食わせろ、泊らせろと「顔」にあかせ、「金」にあかせてワンサワンサと押しよせる。かくして表は電気を消し「臨時休業」の看板もかけ、裏では塩の盛バナを置くという珍営業が発達する。
 「後に手が回る覚悟でなくちゃ儲からぬ」とは、エロ出版屋やヤミブローカーばかりと思ったら、この裏口屋、納税の義務のない丸儲けだけに、却て禁止令は解かれぬ方がいいというのもいる始末。
 これが書かれたころはまだわからなかったから仕方がないが、納税の義務がないどころか、休業の看板を出していても、裏口営業で儲けているはずだからといって、税務署は堂々と徴税したのである。滞納すると、もちろん、たちどころに差押えだった。罰則と徴税の、表と裏から攻められたが、政府公認の「ぬけられます」だったわけで、業者は儲かったし、ヤミ業者やヤミぶとり、そしてその取巻き連中はいい思いをしたのだ。
店により売り物により手口は千差万別
 三国人名儀でも政令違反はどしどし取締るように、GHQから命令が出ているが、対三国人問題の複雑さから、日本の警察ではその取締に手を焼いているかたち。それにつけこんでか、月五千円から七千円の名儀賃借料で三国人の名前を借り、正真正銘の日本人の経営でやっているのは東京は勿論、横浜、神戸が特に激しい。砂糖、餅菓子、肉、米飯を売るのは云わずもがな、店内で、統制ものの衣類や皮革類を売るという御丁寧なまでに罪の多い商売振り。横浜の南京町は、気の弱い客は入っていけない程の物凄いまでの御馳走の山。しかも裏口営業なんてケチなのではなく、堂々と表口営業だから恐れ入る。勿論MPの協力を得て、ビシビシ手入れをやっているが、何度やられても、手入れの明くる日から早速営業をやっている。「罰金で済むなら」とばかり、恐れげもなくやるところに根強い生活力に現代の矛盾がある。
 大衆的なものも、ないわけではなかった。
 銀座四丁目の某ビルの地下などは入口の価格標示表にはコーヒー、紅茶、しるこのオール公定ながら、一歩踏みこみゃ別天地。チャーシューメン五十円、チャーハン百二十円、よりどりみどりの違反物ばかり、食うやつも食うやつ、出すものも出すもの、給仕女も給仕女、どれもこれも生活力旺盛の面構え。
国民の九割五分が裏口とヤミで露命を
 政令休業から許されているのは甘味店、喫茶店、お米委託の寿司屋だけである。そのうち目ざましいのは社交喫茶という業種で早く云えば往時のカフェーである。音楽のバンドを専門において賑やかにやっている。召し上りものはフルウツ、コーヒー・紅茶その他アルコ-ル分のない飲みもの菓子類という建前になっているが、不透明な器に入れられる温かいものには灘の水もあるし、ウィスキーやビールの御持参やおあずかり品もあるから客をするには都合がよい。コーヒー一杯で数時間もねばる事が出来るのも特徴と云えば特徴。但しチップを十分に見込む事と席料を支払う事を予算に入れなくてはならない。
 お米委託の寿司屋も、もちろんタテマエである。もっとも、実際に持っていけば、安かったのはたしかだが。
 委託の寿司は米一合で握りなら十コくらい一つ四円が公定で種は貝類に高級魚だが、まぐろや鰺もない事はない。委託米を受けつける箱を出しておいてそこへ米を入れた人も入れぬ人も適宜な値段で弥助が食べられるからこれも重宝である。(中略)
 裏口、裏口と云って目に角を立てているようだが今日国民の九割五分まで裏口の利用者であり闇の活用によって露命をつないでいるものばかりだろう。
 衣料品にしてからが正面から切符を持って行ったんでは買いたいものが買えない。仕立見本と云う奴が店内に沢山あって値さえ出せば新しいワイシャツを買う事が出来るのと同様であろう。
 旅館と外食券食堂は休業の対象になっていない。これがなかなか便利で外食券食堂の囲りには必ず外食券を売る男が二、三人は居る。甚しいのは外食券引替のテケツ場の隣に陣どって売ってくれる。
営業は再開されたが不況と徴税旋風で
 1949年にはいると、食糧事情もいくらかよくなったし、物資もだんだん出まわるようになり、いろんな商品も戦前同様に出現しはじめた。しかし「ドッジ・ライン」と呼ばれるようになった超均衡予算で、インフレはいくらかの衰えをみせるようになったものの、どうしようもない金づまりになり、不況が吹きすさぶ一方、超均衡予算を成り立たせるたあの徴税旋風も荒れ狂った。政府首脳の一人が、中小企業の一つや二つがつぶれたところでどうってことはない、といった意味のことを発言し、安定恐慌であるといわれるようになっ元のもこの年である。酒や煙草がヤミ値同様にまで値上げした状態で自由にほしいだけ買えるようになったのも、さきにもいったように、そのなかで占める税金の割合が高かったので、重要な国の財源とするためだったと考えてよさそうだ。料飲店の営業再開も、それまで裏口営業を対象として、いくぶんのうしろめたさをおぼえながら課税していたものを、公然と、しかも思いきり高く課税しようとしてのものだったのかもしれない。

Ⅷ インフレ狂騒曲

敗戦の現実を直視しないいいかげんさ
 ニュース映画でムッソリーニの逆さ吊りになったところと、マニラ市民の悲惨な死体が映ってるところを見て来た女が、あれはあまりにひどいニュースだ。あんなところまで見せて貰わなくてもよい、といって、たいそう腹を立てている。女としては無理もないことのようだけれど、私は私で、別な考えを持つ。今の日本人には、なおなお多くそういうものを見せねばならぬ、と思うのである。
なぜなら今の日本人の大多数は、敗戦の惨さというものから、横へ顔をそむけている。そうして、無理にでも安易な気分になろうとしている。これではいけない。身にしみて敗戦の惨めさを感じ、その感じの中から、勇気を奮い立たせなければならぬのである。
 『旬刊ニュース』第8号(1946年5月・東西出版社)の大下宇陀児「第二の8月15日」である。
旧円を封鎖し新円になった第一歩から
 一種のデノミネーションである通貨の交換が行なわれたのは、1946年2月25日からで、それまでの通貨は、3月3日で通用しなくなった。それまでのものは旧円、新らしいものは新円と呼ばれた。交換率は等価であったが、金額は制限され、制限以上のものは金融機関に封鎖というかたちで預金させられた。預金の引出しにも制限があり、自由ではなかった。また給与生活者は、家族数によって多少のちがいはあったが、給与は500円までは新円で支給されたが、それ以上は封鎖預金として渡された。新らしい紙幣が出来るまで、古い紙幣に証紙を貼ったものが代用された。インフレを収束するための手段であったが、まったくといってよいほど役立たなかったのは、歴史が示すとおりだ。
-封鎖切手と新円交換の公定価格がもう出来ています。封鎖切手、百円に対して、新円七十円の割であります。諸君これより安く売っては不可ません。これは闇であります。
 これをどう説明すれば、わかっていただけるだろうか。旧円と新円の交換期間は、一週間あった。そしてその間は、旧円でも通用したのである。だから、新円として通用させるために旧円に貼る証紙、つまり封鎖切手を貰いはしたものの、貼るべき旧円をつかってしまったため、証紙だけ残ってしまったものだっていたわけだ。一方、3月3日以降は、旧円は一片の紙きれになってしまったが、証紙さえ貼れば、たちまち新円として通用することになる。そこで証紙の売買が行なわれるようになったのであろう。等価ではなく、証紙のほうが安かったのは当然だろう。
それは束の間の盛気楼にすぎなかった
 しかしこの政策は、まったく効果がなかったわけではなく、わずかな期間、ほんとうにわずかな期間だが効果をあげ、次のような現象もおこっているのである。
 『旬刊ニュース』第10(1946年6月・東西出版社)の、執筆者名のない「古本街のエコノミー」で、新円初期の金まわりの悪さのことが、少し描かれている。
 売れるのはやはり文芸もの。しかし、その筆頭たる漱石全集ですら、終戦直後の八百円で仕入れて千八百円で飛ぶように売れたものが、新円になってからは八百円でも簡単には売れなくなった。(中略)学生は一年千円の本代が封鎖から引き出せるのでまだいいが、サラリーマンには欲しい本が並んでいてもちょっと手が出せないようだ。
シワくちゃにされた百円札のなげき
 千円札が登場するのは、1950年になってからで、このころはまだ百円札が最高額の紙幣であった。しかしその百円札でいくら懐がふくらんでも、価値は下がる一方だった。『共楽』第2巻第1号(1948年5月・蓬書房)の埋草「百円札の嘆き」は漫文調であるが、やはり愚痴とみていいだろう。
 俺も安っぽくなったものさ。いい加減に止して呉れればいいのに、貧乏人の子沢山で、あとからあとから無制限に生れて来やがる。チンピラ小僧から闇市の飴屋の婆アにまでいじくり回されて、うすぎたない唾をなすりつけられるのだからやりきれぬ。闇屋の大所へ行くと、一貫束にして紐でギュッと締めつけて「ホイ一束三十万円だ」と昔の屑紙扱いだ。昭和の初め、俺の親父の代は威張ったものだった。
ネズミ講はインフレの仇花なのか
 インフレの激化に伴って原稿料も次第に跳ね上っているが、原稿用紙僅か四、五枚の長さの文章で瞬く間に「億」という金を稼ぎ上げる名文家を御存じであろうか?-その見本を御紹介いたそう。
一、本会ノ会員タラントスルモノハ既入会員ノ紹介アルコトヲ要シ、入会申込ミト同時二金五十円也ヲ入会金トシテ納入スルモノトス。
一、本会々員ニシテ新会員ヲ紹介シタルモノニ対シテハソノ第六順位ニワタル子孫会員ノ総数ニ対シ一人ニ付キ金五円也ノ紹介礼金ヲ贈呈スルモノトス。
 この文章で「億」という金が儲かるのである。
 『東京』第4巻第3号(1948年3月・新生社)の白鳥正夫「当今荒稼ぎナンバー・ワン=鼠算クラブの正体」で、子会員・孫会員とひろげていけばいいとするシステムは、今度の「ネズミ講」とかわりはない。
ついに千円札発行へとなだれこむ
 そして1949年にはいり、ドッジ・ラインの超均衡予算などでいくらかの衰えはみせたものの、インフレは相も変わらずつづき、50年1月には千円札を発行しないことには、おさまりがつかないようになるのである。この千円札の発行には、金融機関からの運動もあったことを『女豹』改題『読物世界』第2巻第1号(1949年4月・青燈社)の埋草「話題ダイジェスト」は伝えている。
 「千円札発行促進署名運動」なるものが、全国銀行従業員組合連合会の提唱で銀行の窓口ではじめられている。正確に迅速に百円札と、朝から閉店まで取り組んでヘトヘトになる行員諸氏にとって千円札発行は能率を上げる点においても大助かり、ところが署名の状況を見ると、重役タイプの紳士が「インフレ助長じゃ」とばかり署名を拒否、千円札に縁のなさそうな給仕君や、勤労者が「サンセイ」。これは最近いずれも取引が高額になり何万円、何十万円は給仕君小僧君でも取扱う時代、しかも窓口で一枚々々数えることも出来ず、そのまま受取って銀行から帰って上役から二枚足りない」の何のと小言を言われたり、時には疑われたりする場合もあるので「サンセイ」は無理ない話。
 千円札の発行が1950年、一万円札が1958年であるが、それぞれ歴史の大きな曲がり角にあたるのは興味深い。

Ⅸ 復員はしたけれど

四百万人に近い海外からの復員兵
行手に大きく立ちはだかった失業問題
 本年1月までに引揚げた同胞の総数は、一般引揚げが3007,372名で、復員が3547,620名、計3996,275世帯、6554,992名となっている。
『旬刊ニュース』第25(1947年4月・東西出版社)の「引揚、復員者の失業問題」で、まさしく民族の大移動であった。
 引揚げ総数に対する各県別の失業世帯割は、大分の88%を筆頭に、和歌山の87.5%、青森の84%、東京の80%を代表的なものとして、全国的には引揚者の約8割前後が、失業していることになっている。
 これほどの大量を失業群に追い込んだ原因は、なにか-ちょっと纒った「もとで」さえあれば相当のボロい仕事のできる昨今であるのに、引揚者は一様に「無一物」であることが失業の最大原因だ。
 政府が鉦やたいこで宣伝した待望の失業資金の貸出しも、イザふたを開けてみれば、大半が封鎖で、一口最高五千円の貸出しも、現金では二千五百円、しかも庶民金庫の査定が、引揚者にはたやすく完備できないような条件を要求している。
 また都会地では、既設の営業権が確立されていて、おいソレと新入を迎えてくれないし、統制のワクにはまっている配給ルートは、新加入を認めない。
ときには悪どく生きないことには
 復員の飛行服姿であっても、もしかしたらただのやくざ者だったかもしれない。飛行服など、ヤミ市でいくらでも手に入ったのである。もっともやくざ者だって兵隊になっていたし、また集団強盗があると、予科練帰りと新聞に必ず書きたてられるほど、復員後の行動に問題が多かったときだけに、復員してからやくざになったものがいたとしても、不思議ではない。
子どもから父と呼んでもらえないとき
 10年の転戦から帰宅してみると、忘れられた父親になっていたという話もある。そればかりではない。子どもは父を恐れて家出し、盗み歩くものだから、外に出すまいとして、鎖につないでおくという仕打ちにまで発展したのだ。東京の渋谷区千駄ケ谷でおこったことで、1947年6月に事件は明るみに出ている。
 ソ連からの引揚げ再開、そして……
 そして翌49年6月、ソ連からの引揚げが再開され、27日にその第一船「高砂丸」が舞鶴に入港した。抑留中に教育されて筋金入りとなり、天皇島への敵前上陸だと騒ぐものがあったりしたものだった。直後の7月5日に下山事件がおこり、三鷹事件・松川事件とつづいたうえ、金づまりで不況風が吹き荒れてもいたのだから、騒然としたもののただ中への引揚げだったことはたしかだ。
 吉村隊長による抑留地での、いわゆる「暁に祈る」リンチ事件が問題になったのも、このときり引揚げである。またさきごろの熊沢事件で人びとの記憶を新たにした熊沢天皇こと熊沢寛道の長男も、このときの引揚げで帰ってきている。
 熊沢天皇が名乗りをあげて既に久しい。人間天皇寛道氏は今、大阪市東成区「たつみ屋料理店」を根拠地に日夜東奔西走、席の暖まるいとまもなく祖父道統の遊説につとめているのである。昨今の寛道氏はたしかに楽しげでより溌刺としている。それというのも、後事を托すべき皇太子尊信氏(26)が5年ぶりでハバロフスクから引揚げて来たからなのだ、皇太子が帰って来たのは2412月9日、今年こそは今年こそは……引揚船の再開ごとに来る年も来る年も人間熊沢天皇は待ちあぐねていたのである。
 『花馬車』第1巻第2号(1950年2月・荒木書店)の「慌しき話題二つ」のうちの一つ、「本誌特派記者」による「赤い皇太子還る」の一節である。熊沢尊信は技術者で、古河鉱業の社員だった。引揚げ後、いったんは返り咲いたが、いまは大阪で、製本会社を経営しているという。石炭から石油へのエネルギ-革命とともに、四半世紀の戦後の流れが、ここにもある。父寛道も少し前に亡くなり、もはやこの世の人ではない。

 Ⅹ 結婚難時代うらおもて

それまでの地縁血縁がばらばらに
 現在結婚難の原因として、女性人口の過剰問題、食糧問題、失業問題、仲人結婚の中絶問題等が叫ばれているが、果してそれだけであろうか、女性人口の過剰なるは、昨年春の人□調査の結果、330万の女性人口が過剰なることが発表された、しかしその後、海外引楊者や、復員軍人の増加でその間隔は非常に短縮されて現在の過剰女性人口は100万に短縮されている筈である。
 『希望』第2巻第2号(1947年2月・希望社)の「巻頭言」である。文章はともかく、戦争による結婚適齢期の若者の戦死の結果、女性人口の過剰、つまり適齢期の女性で結婚相手のいないものがあふれ、結婚難をいわれるようになったことを端的に現わしている。「結婚雑誌」というサブタイトルのあるこうした雑誌が存在したこと、そのものが、結婚難時代であったことをいっそう象徴的に物語っているといっていいだろう。結婚難のいま一つの象徴的な出来事は、「集団見合」であった。『希望』の発行所などの主催によるものであるが、男力ともに胸に番号札をつけ、その集団に適当な相手はいないかとさがし合うという仕組であった。引揚げや復員ばかりでなく、戦災などによる四散もあって、文字通りの民族大移動と混乱がつづいたため、かつての人と人、家と家のつながり、つまり地縁血縁がばらばらに断ち切られてしまい、あげくの新らしいつながりといったものがまだそれほどできていなかったので、さて結婚しようとすると、こうした集団見合のような方法に頼るほかなかったものも多かったのである。
適齢期男性の絶対数不足が悩みのタネ
 女性の靴ミガキの繁昌ぶりを、かたわらからいまいましそうに横目で睨んでいた男の靴ミガキ、となりの同業者をかえりみて、
 「おい、なんてったって女にゃかなわねえな。男なんてものは、みんな助平ばかし揃ってやがる」と、こぼせば、となりの靴ミガキ先生「そう、あせるなってことよ。今に女が天下をとりゃあ、今度は男の靴ミガキが繁昌すらあね」。
 社会批評家や、教育者はさかんに女性の転落を深刻にとりあげているが、女性は転落できるからまだ幸福なので、男の飢餓こそ、まっさきに解決せねばならぬ問題である。現に強盗や浮浪者は男と相場がきまっているではないか。 
誰とでもいいといういいかげんな結婚
そこにつけこむ結婚サギも多かった
 しかし、危機であれ、困難であれ、いやかえってそうであればあるほど、未婚の女性は結婚にあこがれる。戦場で、または内地にいても、空襲で、夫を失った若い朱亡人とても、かわりはない。
 その女心につけこんで登場するのが「結婚サギ」である。
 結婚難のあせりはやはり女の方が多い。昨年の7月、丸の内署に挙った結婚詐欺の犯人は「女とは結局金や地位にほれる動物です。女とは欺されたい存在です」とギサ(詐欺)漢らしい定義を下して係官を煙にまいていた。結婚サギに限らず、ギサを働くほどの男はどうしても中学卒以上、小才がきいて、お世辞がよく、言葉巧みに、相当の地位にあるか、あるいは相当の地位の人と特殊の関係があり、自分の将来も相当の地位を約束されている男であるかの如く振舞うのを常とう手段としている。
結婚難だし、結婚そのものも不安なので
 町田有楽の文章は、そのころ一つのブームとさえなっていた「結婚紹介所」もとりあげる。さきに紹介した希望社も、その一つなのである。
 東京に結婚紹介所を本職とするものは、いまでは大小、おしなべて250余軒に上っているといわれる。というのは厚生省直営や都営の紹介所はやはりお役所臭ぷんぷんで、ちょいと寄りつきにくいらしい。(中略)
 この私設結婚紹介所、いかに出雲の神様の代役を務めようというのが御主旨とあっても、そこはそれ、なにしろ営利追求が第一の事業だけに、申込めばまとまろうがまとまるまいが、まず必ず入会金をとり、もし成立すればまた男女両方から何とか金を取る。成立後はその紹介所の何とか会員ということになって、つまらぬパンフレットを売りつけられたり、時々は寄付まがいの金まで押しつけられる。このごろは入会金200円、成立して500円ぐらいにはね上っているという。それでもどんな紹介所でも、毎日必ず男女双方合せて10人ぐらいの申込み、月には2~30組はまとめあげるというから豪勢だ。結婚紹介所を舞台にしての結婚サギもあったのは、いうまでもない。また紹介所自体がサギをやってのける場合もあった。
その一方では結婚ブームでもあった
 しかし、結婚が行なわれていなかったわけではない。ベビー・ブームという言葉さえ生まれたはどなのだから、結婚のほうもやはりブームだったといってよい。『旬刊ニュース』第42(1948年5月・東西出版社)の無署名記事の特集「結婚離婚悩みは果なし」のなかの「未亡人に明るい再婚の希望・結婚相談所繁昌記」に次のような部分がある。
 三越結婚式場という文字が目に入った。ものはついでだから挙式にはどのぐらい金が掛るのか聞いてみた。
 一日平均して12組も式を挙げ、5月一杯は予約済みというから大入繁昌だ。神式の挙式料が300円、控室料30円、披露室料90円、記念写真は新郎新婦が500円、-

 生きていることが犯罪であった

法令を厳密に適用すると全国民が罪人
 「朝令暮改」という便利な言葉もある位で現実にはあまり実効力のない粗製濫造法親の濫発には、国民一般が眼を回しているというのが世論らしいが、こうして雨後のたけのこの如く出てくる法令を厳密に適用したら、国民全部が刑務班行きだよと某警察署長がなげいている。まず朝起きて飯をたべる、欠配遅配つづきのこととてだれでもヤミ米やヤミ芋をくっているが、これは「食糧管理法違反」で体刑一年以下、罰金一万五千円以下にひっかかる。ともだちと会って「チョットお茶を」と十円のコーヒーを飲めば「物価統制令」で十年以下または十万円以下、売った方も飲んだ方もやられることになっちょる。その他シャボン、くつ下は「臨時物資需給調整法」で十年、家のごまかしは「地代家賃統制令」というやつがある。こう数えると国民全部が十年以下の刑務所行きになりますナ、と首をなでつつきいたらまあ刑務所の囚人だけが無罪ですナということだった。
 こう書いてあるのは、『トップ』第2巻第1号(1947年4月・トップ社)の短文「国民生活とヤミ法令」である。 
空前の暗黒恐怖時代のまっただ中で
『りべらる』第1巻第4号(1946年6月・太虚堂書房)の「巻頭言」、馬場恒吾「焼跡に巣くう」である。
 此頃になって国民の道義心が低下したことが問題になっている。私はむしろ国民に同情する。衣食足って礼節を知る。満足な食物、衣料、住宅を得ることを困難にして、ただ道義心を昂揚せよと云ってもそれは無理ではないかと思う。
 ここに於て私は日本を駆って敗戦の憂目を見さした連中と、今日われわれの復興を妨げている連中は同じ顔振れの官僚ではないかと思う。戦争中、無理な統制経済を強行し、スッカリ国民の気分を腐らした官僚群が、戦後の今日、再び公定価格や配給制度を復活せんとしている。調べて見ると戦時の経済統制をやった連中と同じグループである。戦時中官僚は威張って甘い汁を吸った。そして、此頃かれらは再び統制経済を復活した。それで日本の戦後復興を暗殺せんとする。(中略)戦争中、軍人の片棒をかついだ官僚は今尚、中央、地方の官庁や統制会に頑張って居る。それがわれわれの前途を暗くする。
いまに尾をひく荒廃しきった精神風土
 『ルック・エンド・ヒヤー』第1巻第3号(1949年6月・診療協力会出版部)の中館久平「法医学者の眼にうつった-てんやわんや時代」によると、こうである。
 終戦後の日本において犯罪がふえた。ことに窃盗、強盗、詐欺、横領が著しくふえた。日華事変の起った昭和12年には窃盗の有罪人数1万9,300有余人であったが敗戦後の21年には5万4,100有余人、22年には7万4,500有余人と毎年激増し、22年には12年の四倍にもなっている。また強盗は12年には600人であったが21年には1,200有余人、22年には7,800有余人で、12年の13倍にもなっている。戦後において窃盗とか強盗がかようにふえたことは生活苦が原因をなしていることは勿論である。
 戦後兇悪な犯罪がふえた。終戦後死刑囚が30有余名の多きに達し、戦前の2倍にもなっている。しかも二十歳未満のものが四、五人も含まれている。
まえにもいったように、「集団強盗」とか、「予科練くずれ」という呼び方をされた犯罪が多かったものだった。また「殺人狂時代」という声さえあったほど、殺人も多かった。
 その道の玄人がやれば泥棒ですむものを強盗でやる。強盗ですむものを強盗殺人でゆく。また最近の死刑囚は死刑の判決をうけても最後まで裁判をしていただいて一日でも長く生き永らえようとするものが少いそうである。かように人間の本能であるはずの生に対する執着がなく、死を恐れない犯罪者こそは怖るべきもので典型的な戦後犯罪といい得よう。死刑という極刑も何等の意味をももたなくなるのではなかろうか。戦後自分の生命であろうと他人の生命であろうと戦前の様に大きな価値が認められなくなり、戦場における敵を倒すか、自分が死ぬかの凄絶な経験は自己保存の本能を強烈なものとした。この様な精神の荒廃は直接戦争を経験した者のみに限らない。
経済犯罪の約八割は食糧関係だった
 それはともかく、敗戦の日から翌46年の末までに食糧のヤミで懲役刑を受けたものは3,921人、罰金刑は38,890人。懲役刑のうちわけは五年以上5、三年以上52、二年以上132、一年以上749、六月以上1,972、六月未満1,011である。同じ時期の、たとえばコーヒーなどでも対象となったいわゆるヤミ物資の取締法令である「物価統制令」によるものは、懲役刑は2,542人、罰金刑は35,993人。懲役刑のうちわけは五年以上10、三年以上36、二年以上107、一年以上647、六月以上1,166、六月未満567、となっており、食糧のヤミ(食糧管理法違反)のほうが多い。
このように、いったんつかまると厄介なことになるので、それ手入れだとわかると、せっかくの食糧だが放っぽり出してしまい、クモの子を散らすように四散、列車の中や駅前には、主のわからなくなった米や芋の山がうず高く築かれたのである。
コソ泥からオカユが原因の殺人まで
 最近、学童や学生の靴、傘、帽子、外套等々が、侵入者によって盗まれ、純真な学徒の心をいためているが、これはまた大がかりな学校あらしの一つ。
 茨城県の、結城紬で名高い結城町の小学校は、県下でも一、二の大きな学校で、生徒の数も三千余。しぜん校長の指揮命令も徹底を欠く憂いもあり、町の富豪山中氏、山崎産業等の寄付を得て各教室に伝声器をとりつけ、校長室からの命令が一声で伝達出来るようにしたところが、この配線が次々に盗まれて、学校当局が悲鳴をあげていると、昨今は夜陰に乗じて校舎の窓硝子をはずして持ち去られる。しかもその数が、一夜に60枚、70枚。二度三度と重なっては、
 「闇で一枚50円とすると、百枚で五千円。ろくに警戒もない場所だけに、つかまる心配もないし、うまいことを考えたものさ」
 なんて感心してばかりはいられない。
ハイジャッカー中岡達治を育てた土壌
 外勤のN巡査とS巡査は、Kマーケットの路上で喧嘩していた与太者らしい酔漢三名を検束してきた。
 その中の一人Tが、本署に近づいた時、わきの溝に何かを投げすてたのをS巡査が眼ざとく見とがめると、それは一挺の拳銃であった。本署に連れてきて身体捜査をしてみると、Tは現金三万円を持っていた。いずれ良からぬことをして得たものに違いないが、時刻も遅いし、Tもその他の二人も相当に酔っていたので、そのまま保護室に検束した。翌朝、M主任が順次呼び出して事情を聞いてみると、彼らは復員者仲間であって、すでに二回も拳銃強盗を働いており、稼いだ現金の分け前のことから喧嘩をしていたζとが判った。そこで、いずれも緊急逮捕すると共に、T地方裁判所判事宛の逮捕状請求書を作って、K川方検察庁に持たせてやり、係りの検事の手を経て右の三名に対する逮捕状を得て、これを執行した。
 ハイジャッカーの中岡達治は、こうした土壌のなかで、ペテン師としての腕を磨いていったのである。中岡達治的な人間は、かぞえきれないほど、いたものだった。ただ中岡達治は、渡米するなどして、敗戦の土壌をそのまま培養しつづけ、ついにはハイジャッカーへと飛躍してしまったといえそうだ。くりかえすが、当時は中岡達治になりかねない若者が、ほんとうにかぞえきれないほどいたのである。
(注:中岡達治について、ネット検索したところ、http://blog.goo.ne.jp/dora0077/e/86d416ebbcddde96d01fba715ad9396a
マーちゃんの数独日記に行き当たりました。

 86歳のSさんが「私の幼馴染で、JALをハイジャックしたのがいるんですよ」と。そこにいた4・5人皆吃驚。年齢を考えてもそんなことありえないと思いました。
 「中岡達治と言ってね、私と昭和小学校時代6年間何時も机を並べていた同級生。『よど号ハイジャック事件』から2年後の1972年の50歳くらいの時にやったんですよ」とも。
 帰宅してネットで「中岡達治」で検索すると、一項目だけ登場して来て「昭和47年の衆議院運輸委員会」の議事録に確かに載っていました。その議事録を読むと、「1972年11月6日、日航福岡行第351便((注:「よど号」と同じ便)がハイジャックされたが、怪我人も無く犯人無事逮捕」と書かれていました。長い、長い議事録故、犯人名はここでは読みとれませんでしが、この犯人がSさんの幼馴染の西岡達治という事なのでしょう。
 その後折を見て、西岡達治なる人物についてSさんに伺うと、概略の話「実家は不忍通り沿いのパン屋さん。駒込に支店があり、R大学へ進学しラグビーをやっていたが、中退しアメリカへ渡り、そこで結婚し、映画会社を起こして成功した」との事。そんな人物が何故現金要求の「ハイジャック」などを起こしたかは謎だそうで、懲役10数年で出獄したとの事。長く生きてこられた方はいろいろなことに遭遇し、また知っているものと感心しました。
 ほかには、1973年1月の「テレビ時評」に岩間芳樹さんが、「乗取犯・戦中派中岡達治像」というのを書かれているのがありました。
悪と汚れの時代の恐るべき子どもたち
 『旬刊ニュース』第22(1948年1月.東西出版社)の戸川行男「世相随感・子供のいれずみ」に書かれていることは、もっと深刻である。
 年のころ十二、三とまでゆかない子供が三、四人ずらりとならんで楽しそうに煙草をすっていた。或る人の話で、子供が煙草の火を借りているのを見たらすっかり憂欝に成ったという。国民学校で、ばくちがはやる、近頃はいれずみがはやる、時間のあいまの遊びは闇やごっこやデモ行進だという。方々の家庭できくことは、子供が親の金銭を無断で持出して闇の菓子を買った等々の話である。

 そのころの東京の盛り場

耐乏生活などどこ吹く風の銀座通り
 少しアングルをかえてみよう。『モダン日本』第19巻第1号(1948年1月・新太陽社)の石黒敬七「銀座瞥見」はこう書いている。
 此頃、銀座に出ていちばん娯しいのは生死不明であった昔なじみに会えることだ。これは大通りよりは、むしろ五、六丁目辺りの裏通りに多い。ただ遺憾なのは、それらの昔なじみに会っても、一寸一ぽいはおろか、吾々の気にいったカフエの少ないことだ。(中略)
 大通は常設歳の市の如く露店で一杯だ。銀座八丁悉く人道の車道側がそれだ。品(ヒン)はないが賑やかなことこの上なしだ。(中略)ライター屋が多い。吸う煙草もロクにないのによくもライター屋の多いこと。銀座七不思議の一つといってよかろう。七不思議といえば果物屋などもそうだ。百匁百何十円のぶどうを初めリンゴ、ミカン、梨の見事な山だ。見ていると余り売れてもいないようだが矢張りいつの間にか新陳代謝してゆくのであろう。
東京から露店が姿を消したのは195312月である。そしてそれは、路面電車の退場へとつながっていく。 
ヒョウタン池がまだあったころの浅草
 焼けた旧本堂と仁王門との間に、四間四方位の仮本堂が建てられた。付近一帯に露店が出て、水族館前から劇場街の方へ賑やかにつづいている。その間にある白い易者の天幕が、鮮かに人目をひく。二人の子供をつれた四十歳前後の田舎の女が、本堂の横の交番で、リュック・サックの中を調べられている。サツマ芋とメリケン粉の包みがころがり出した。子供は早く行こうと母親にせがんでいる。
観音堂の裏にまわってみよう。
 右手に主のいない団十郎の銅像、左手に淡島堂が昔のままの姿で残っている。中央の噴水のある泉水のまわりは、浮浪児や夜の女の憩いの場所だ。浅草に夜がなくなってからは、昼はこうして浅草へ来て、夜の疲れをいやしている。彼女達の中の一人が、すっとんきょうな声を出して、泣くな小鳩よ、と歌い出す。復員者風の若い男や浮浪者が旨い旨いと拍手を送る。それがきっかけとなって女達と男達はたちまち親しくなる。(中略)
 水族館の裏に、花の家という茶店があるが、その茶店とヒョウタン池との間の広場と道路、そこが泥棒市場と呼ばれている界隈だが、-
 上野公園の墓地にアオイ部落があった
 そのころ上野というと、いまの東京都文化会館のところにあったアオイ部落のことがよみがえうてくる。墓石の間につくられたバラック部落であった。
 上野寛永寺の墓地部落は、つい一年ほど前には、ホンの四、五軒にすぎなかったけれど、いつの間にかふくれあがって、いまではゆうに五十軒はあるだろう。(中略)
 身寄りのない老人や、未亡人の場合はともかく、-きょ年、地下道を追い出された浮浪者たちが、千葉、埼玉、栃木県のテン場(乞食部落)からテン場へ、転々と渡り歩いた果てに、どうやらまた上野へ舞い戻って、これはまたと無い極楽浄土だと、この墓地を狙っていた。(中略)ホヤの黒くなったランプを手許にたぐり寄せて、野山千代(三十歳、仮名)はしきりに竹の皮をふいていた。ヤミ寿司の包装用だが、彼女は浮浪者相手のヤミ寿司の売子であった。二個十五円だが二割が彼女の儲けである。同じこの墓地に、寿司屋の親爺が住んでいて、夜のうちにこさえるのを、翌日の朝、二、三人の売子が夕方までかかって売り捌くのである。売り子はみんなこの墓地にいた。
代用石鹸と飴で騒然となった「アメ横」
 戦後の上野のいま一つの顔は、「アメヨコ」と呼ばれているアメヤ横丁だ。『旬刊ニュース』52(1949年2月・東西出版社)の野一色幹夫「シャボン部落と飴横丁」で見てみよう。
 ガアド下の夜明けは、どこかの国にある白夜もこうかと思う、容易に陽の出ない青白い朝である。眠れなかった若者が、どこよりも早く店を開け、こびり着いた石鹸くずで石のように固くなった台の上へ、色とりどりの石鹸を積み上げながら、しょざいないままに喋っている。
 シャボン部落と呼ばれていた石鹸部落は、上野駅から御徒町へかけてのガード添いにあった。
 省線電車で御徒町から上野へ向う人は、右側のシャボン部落と共に、左側におびただしく並んだ飴横丁の雑踏に驚くことと思う。これこそ、まさしく飴の降る街であり、飴を考えて明け、飴を売って暮れる人たちばかり五百軒は下らぬ集団問屋街である。早朝から午後までが、ものすごく、夜は割合にひっそりとして、マ-ケットの凸凹道を立ち話をする男女を見掛ける。(中略)ここは、シャボン部落と反対に、冬になると活気がある。真夏はトロケルから、焼菓子、和菓子などに転向するが、時季こそ来れ、日暮里の飴市から古巣へ戻った面目に賭けても、いい正月を迎えたいーと、思ッてるかどうだか知らないが、頬っぺたに傷のある兄ンちゃんも、汚れたズボンに赤い鼻緒の下駄を突ッかけたネエちゃんも「さあいらッしゃい」「どんどん持ッてけ!」と積み上げた「バタボール」「鉄砲玉」「カワリ玉」「ベッコウ飴」などの山から首を出し、顔中を口にして怒鳴る。
それは「光は新宿より」にはじまる
 戦後東京の歓楽街で最も股賑を極めたのは、何といっても新宿である。此処は銀座や浅草のように、伝統と個性をもたぬ植民地的市街なのだ。終戦直後、新橋の泥棒市と競って、いち早く「光は新宿より」のモットーを掲げて起った侠客0氏の育てた街だけに、現在でもまだ殺伐な空気が街一帯に漂っている。
 新宿駅の線路沿いに雑然と屯している和田組マーケットは、一時「カスバ街」と称ばれた程陰惨で絶望的な地域であったが、漸く一月中に取払いと決って、多くのカストリゲンチャ達を慨嘆させている。しかしカストリ同好の士よ、御安心あれ。現在のマーケットは僅かに二十数米離れた武蔵野館裏に再建されるそうだから。
『花馬車』第1巻第2号(1950年2月・荒木書房)の特派記者K1生によるドキュメント「新宿街裏表」の書き出しの部分で、以下、女にまつわる夜の世界をおもに探訪している。

付 戦後大衆雑誌興亡記抄

 本書は『旬刊ニュース』からの引用が非常に多いが、同誌はニュースと写真頁の多いB4判の特異なグラフ雑誌だ。編集スタッフだった青山鍼治の話によると、東西出版社の設立は194510月、そして同誌は46年1月号を創刊号としている。
 ところで私は五年ほど前から、あらためて当時の雑誌の収集を始めた。自伝ふうな小説も書いていて、混沌としたそのころを知るためには大衆雑誌とその興亡をさぐれば手がかりがつかめるかもしれないと思いついたのだ。『旬刊ニュース』を含めて約1902,250冊を収集した。私の考えは正しかった。いや、それ以上で、懸案の小説をまとめることができたばかりでなく、『カストリ雑誌にみる戦後史』も上梓、さらに本書へとそれはひろがり深まってきたのである。
 それはともかく戦後大衆雑誌のパイオニアは『旬刊ニュース』と同じころ登場した『りべらる』で、風俗系の『赤と黒』や『猟奇』はそれよりも10か月ほどあとだ。なお福島鋳郎編著『戦後雑誌発掘』は敗戦直後の雑誌出版にくわしいが、戦争中の在庫品の印刷用紙による総合誌・文化誌時代のもので、194647年にかけて在庫品が食いつぶされるとともに姿を消し、雑誌界はかわって登場した代用印刷用紙の仙花紙の浸透につれて、大衆雑誌時代となる。そして『りべらる』の成功に刺激されてカナ誌名のものが文字通り氾濫するが、飢餓状態を切りぬけるのに精一杯だったうえ誌代が高すぎたことなどもあって、出版界は不況がつづき、三号雑誌どころか創刊号だけで姿を消すものが続出、さらに1949年3月末に「日配」が戦争に協力したということで閉鎖されて負債が棚上げされ、それにドッジ・ラインによる不況という打撃も加わって、「東販」や「日販」など新らしい取次店はできたが、大衆雑誌の群れはなだれのように壊滅していく。
 さて、それまで週刊誌大のB5判が主流の大衆雑誌は、この波瀾を転機に49年6月創刊号の『夫婦生活』を頂点とするB6判の小型誌に変貌、なんとか生きぬこうとする。そしてその一方、用紙事情の好転から、たとえば『文芸春秋』や新聞社系週刊誌が急速に伸びる。それから1956年に『週刊新潮』が登場、「高度経済成長」を背景として読物色の濃い出版社系週刊誌の時代となり、今日に至るのである。

あとがき

 このごろ、若者たちの間ばかりでなく、精神の不毛とか、心の荒廃などと、しきりにいわれる。つまり心の渇悶であり、精神の飢餓である。そしてそれは、いまの豊かさの、一つのかげとしてうまれたようにいわれているが、ほんとうはそうではなく、戦後のあのころ-敗戦とそれにつづく飢餓と騒乱と廃嘘の時代を源としていると考えるのが正しいのではなかろうか。「昭和元禄」といわれるようになってから芽ばえたものではないのだ。
 あのときおぼえた渇悶感・飢餓感は、物質的・肉体的なものばかりでなく、精神的なものもあつたはずである。そして物質的なものは物資が豊かになるにつれて癒されていき、いまやあり余る物資のなかで溺れてさえいる。しかし肉体の奥深くに受けた傷は、どうなったのだろう。また、精神的なものは、物質的なものといっしょに癒されることなしに、そのまま残っているのではなかろうか。そしてそれが、いまの精神の不毛、心の荒廃となっているのであろう。あのころ幼くて、いま若者になっているものも、同じことだ。幼い心を傷だらけにした飢えの記憶は、物資の豊かさにどっぷりとひたっているいまになって、かえって精神的な底の知れない飢えとなって残り、心をうずかせているのだろう。
 くりかえすようだが、すべては敗戦直後のあのころを源としているのである。そこから考えなおすことが、いまいちばん大切なのではなかろうか。
 ところで、当時のことを思い出してもらい、知ってもらうのが本書の意図だが、そのために当時の姿をそのまま再現して伝えようとすると、当時の記述をそのまま生かすほかないので、どうしてもごらんのような引用部分の多いものになった。使用させていただいた資料の発行者・編集者・執筆者のうちの幾人かのかたには、お目にかかって了承していただいたが、まえもっておねがいできないまま使わせていただいたかたも多い。こうした「研究書」的な性質ももつものなので、そのかたたちには、この場所をかりておねがいすることで、ご了承いただきたい。よろしくおねがいいたします。
 なお本書のなかには、『噂』『月刊ペン』『小説新潮』『素面』『創』『調査情報』『電電ジャーナル』『別冊新評』の各誌に発表したものが、ごく一部ではあるが収められている。
また、当用漢字・新かなつかいが制定されたのは、1946(昭和21)11月である。当時の雑誌は、制定以前はもちろん旧漢字・旧かなつかいであり、制定後もすぐには統一されず、混乱がつづいた。本書の場合は、その性質上、当用漢字に統一することはできないので、特別な場合をのぞいて最低限、字体を新字体にしたほか、新かなつかいにあらためたことをおことわりしておく。さらに、文中の敬称も略させていただいた。
1973年1月 山岡 明