雑談・にっぽん色里誌  小沢昭一 著  講談社

1978324日第1刷発行  1978415日第2刷発行 装幀 山藤章二 003943536722530

雑談・にっぽん色里誌カバー画像

目 次

1部 色里仕掛人誌

浅箪の「銘酒屋」(めいしや)-松蔭(まつかげ)夫婦
明治末から大正始め、吉原より安くて、美人をそろえ、最盛期には約二千軒を数えた浅草の私娼・銘酒屋。その銘酒屋の金田屋こと松蔭が語り明かす浅草、玉ノ井の色模様。
従軍慰安所長-須川昭さん
慰安所長こと"おとうさん"の大陸での巡業記。旧制女学校をでた慰安婦、オシッコ代をいつも払った将校さん。ガンキでしぼられた慰安婦あわれ。
七十歳の現役春婦伝-神田千代さん
京都の宮川遊廓で、騙(だま)されて満州へ売りとばされ、戦後も、小倉、東京、岡山、広島、、別府、大阪を転々。男に惚れて、男に騙された七十年。春をひさぐ手練手管も御開陳。
にっぼん色里通-石沢徳太郎さん
北の端から南の果てまで、全ての色里を体験しつくした羨しいお話。「まわしをとる、とらないの境界は浜松」、「トルコ芸人のオカヨさん」など、思わず身を乗り出す色里史。

2部 色里遊び人誌

三遊亭円遊師匠
銘酒屋でガタガタふるえながら、二十歳(はたち)のときに初体験。"ツボ移り"で泣かされても、やめられないのがこの道。しかし、なにごとも、すぎたるはおよばざるがごとしです。
高砂家ちび助師匠
おいらんを遊ばせてこそ、ホントの遊び人。「ちび」だからこそ味わえた艶種(つやだね)無数。「大宮の北海道」のいい女、「唐紙破り」とやら、「三時半の男」の奇想天外の色道修業、一部始終。
古今亭志ん好師匠
抱いた女郎が三百八十余人、とうとう女房にも女郎上りを。「左褄(づま)・右褄」「辰巳芸者の一つ紋」「おいらん道中」「冷やかし」-。聞き逃がせない廓(くるわ)の仕来たり、興味津津(しんしん)。
桂枝太郎師匠
電車賃が十四銭、女郎が七十銭、朝のおしんこが三銭、銭湯が三銭、石鹸・手拭いが一銭、どじょう屋で六銭、観音様へお賽銭一銭、鳩の豆代一銭、朝刊が一銭。計一円の廓遊び。

はじめにより抜き書き

 ショーバイニンという言葉がある。もちろん商人のことではない。ミズショーバイに従事する人々のこと。
 だから、ショーバイ女といえば、芸者、女郎など、色を売るショーバイを指した。クロウトともいった。「あの女はクロウトあがり」といえば、ミズショーバイ出身のこと。
 古い「職人尽絵」を見ると、遊女はリッパに職能人として扱われているから、彼らはもともと玄人、商売人であったのだろう。
 色を売るシヨーバイの歴史は古いが、『万葉集』に「遊行女婦(うかれめ、あそびめ)」と出てくるように、また『塊偶子(くぐつ)記』に「定居なく当家なく宆盧氈帳-きゅうろせんちょう-(小屋をかけ)水草を追いて以って移徙(いし)し・・・・女はすなわち愁眉の啼を為し折腰の歩、齲歯-くし-(むしば)の咲く(わらい)を粧い、朱を施し粉を伝(つ)け、倡哥(しょうが)淫楽以って妖媚を求む」とあるように、売色は漂泊民のなりわいであった。
 漂泊民は土地を持たない人々である。
 わがニッポンは農耕社会であったから、支配者は、土地をはなれず農耕に励む定住者中心に社会のしくみを作りあげ、政治から道徳まで定住者の側の規範が確立した。だから、必然的にその規範から逸脱せざるをえない漂泊民は、定着民より蔑視をうけることになる。
 その蔑視は今もって続き、はやいはなし、住所不定といえば、「社会的信用」はゼロなのである。
 カタギとショーバイニン、シロウトとクロウト、といった分け方は、そのまま定着民と漂泊民の区別の延長にあるようだ。
 芸能者もまた漂泊民であった。
 私としては、カタギの側-定着民の規範からではなく、ショーバイニンの立場でものを考えねばならないのだろう。色里のことも。-
 さて-。
 どうも、話がいつのまにか、それたようなそれないような、いや、はじめっからそれてしまっていたような……。
 この本は、色里の〈売り手〉と〈買い手〉から伺った雑談集(よもやまばなし)だ。
 くどくどと、私がいま述べているようなヤボな話は出てこない。ショ-バイニンはヤボな話はしないものです。
 週刊誌で対談の聞き役をやらせてもらったとき、ぜひ、こんなお話の聞ける人を・・・・と、多少私の要望も入れてもらった。
 週刊誌では、紙面に制限があるから、長時間のお話でも、その一部しか載らない場合が多かった。そこで、これぞというショーバイニンのお話を、できるだけタップリとここにご紹介するわけである。

おわりにひとことより

 あたりまえのことだが、話というものは、おおむね、するほうが損をして、きくほうが得をするものだ。
 私にとってはタメになるお話ばかりだった。
 お話をきかせて下さった方々、ほんとうにありがとうございました。
 この対談は、昭和497月から、一年二ヵ月にわたって『週刊ポスト』誌上に連載されたものの中から選んで、原テープを全面的に起こしなおしたものである。
 だから、この本ができたのは、その対談のお膳立てをすべてして下さった池田弘志さんのお力によるところが大きい。御礼を申しあげます。
 そして、この本を作って下さった講談社の古屋信吾さんにも大感謝。
 昭和五十三年初春
獅子舞 冷やかな街に おどけけり