通天閣の下の赤ちゃん 増井 英 著 編集工房ノア 
装幀 増井 英 写真撮影 和田友之助 
2003718日 ISBN4-89271-110-1 C0093

通天閣の下の赤ちゃんカバー画像

浪速新世界を舞台にした、昭和初期の子どもの遊び、飴屋の一代記、時代風物、庶民群像を色濃く描く、三編。 第18回織田作之助賞佳作受賞-帯より

通天閣の赤ちゃん
非行老人
ポンポン 飴屋

具体によって大阪の町を愛惜する-解説にかえて  杉山平一

 増井さんはもともと画家である。
 ところが、絵を本業とする人は、文章を書くのに難渋するらしい。名随筆で知られた小出楢重にしても、切腹の絵を描けば見る人はそれで納得して、凄いとか厭らしいとか勝手に思ってくれればよく、解説の必要はないが、文章の場合は「切腹した」と書いただけでは、誰が何処でどんな顔してと原因結果道筋などせんさくする文章という仕事は神経衰弱になりそうで御免だ、といっている。また映画の市川崑監督は、「漠然」ということを映画でなら表現できるが文学で書こうとするとどういう風に表現していいか困ってしまう、といったりしている。
 画家の横尾忠則氏は、よく文章を書くが、「文章を書き出し、言葉でものを考えるようになったが、そうすると、絵を描く以前に頭の中で考えを作ってしまい、その考えを絵にする、絵解きをするようになってしまった。言葉でものを考えると間違えたことがわからないで、とんでもない方向にいってしまう、言葉はウソをつくが絵はウソをつかない」とまでいい切っている。
 つまり、言葉という抽象言語のあいまいと、造型という旦ハ体表現のせめぎ合いを語っているのである。言葉は内面や息づかいなど精神世界を語るのに力を発揮するようである。
 そのため画家は一般に文章が拙く、自らを語るのに、絵を見てくれ、という人が多い。
 ところが、増井さんは文章が巧い。読み易くわかり易く飽かせない。それでいて、文字による文学的描写や表現は使わない。もっぱら、具体事実ものそのものを読者に提供する。
 「通天閣の下の赤ちゃん」「ポンポン飴屋」は作者の回想思い出であるが、人物の目鼻立ちや作者の心情よりは、風俗、習慣、流行などものそのものによって時代と人間を描いて行く。それは、画家の本領発揮の壮観である。おそらく時代の資料としても貴重な面白さである。
 「通天閣の下の赤ちゃん」は子供同士の喧嘩果し合いの話であるが、ここに述べられる昭和初期の子供の遊びの数々は、当時を知る者には、たまらないなつかしさであり、よくも書いて下さったという気持になる。
 南京虫退治や、動物園の餌の泥鱈を盗んで小遣いを作って遊ぶなかに、児雷也、猿飛佐助、広瀬中佐、タンクタンクロー、冒険ダン吉らのべッタン(めんこ)、キューピーをプリントした菓子バコ、セルロイド人形、おいど(お尻)めくり、竹トンボ、着せ替え人形、水鉄砲、さらにカルメ焼き、スルメ、などなどの中に、圧巻は鉄独楽の一種のバイの遊びの描写であろう。またベッタンに油を染みこませて、隅を少しまげる角打ちの勝つ方法など、作者が子供の目になって書かれていて、いきいきしている。五寸釘を線路に並べて作る手裏剣も出てくる。
 大人の世界としては、下駄の歯入れの商売や、ゴーストップ事件という、警察と軍隊との対立という軍国主義の台頭に大阪の警察が一矢を報いた事件をもってきて時代を描いてあるのも興味ぶかい。
 「ポンポン飴屋」は、それより更に時代をさかのぼるのだが、織田作之助の短篇「黒い顔」に「デンキ飴」として登場するのが、作者の実家の「ポンポン飴」であることから、その家業を盛り上げた祖父の一代記というべき物語である。ここでも時代風俗がものによって活写される。
 場所はやはり托鉢や虚無僧の登場する通天閣本通りだが、「雨がショボ、ショボ、降る晩に」などの、はやし言葉や「イラハイ、イラッシャイ」の手拍子やチンドン屋の口上や、「淀川(よろがわ)の水(みず)のんで腹だだくだり」の流行語から、上町台地の坂の「押し屋」からはじまる祖父の商売の遍歴が、徴兵のがれに「命売ります」という男から戸籍買いをしたり、川さらいのガタロをして、そこで金庫を拾い、その金を今宮戎神社に寄進して「義理と揮はきっちりと締めて」の飴屋商売がはじまる。
 新世界の勧業博覧会への出陳に、「煙の都」大阪を象徴しようと「びっくりさせたうか」根性から機械化した飴づくりをはじめ、さらに「汚のう働いて、奇麗に暮らす」モットーで、政治家を使って宮内庁へ多額の献金して、御用達認定を貰って、菊の御紋章の花びらを一枚ふやした
17枚にしたマークをつけて大儲け、さらに日露戦争の捕虜収容所の世話役をして、捕虜を通じてラッコの毛皮やコニャックを手に入れて儲けさらに新世界の遊園地ルナパークを舞台に活躍する、新世界の女浄瑠璃、パークキネマ、公楽座、大山館などに隼(はやぶさ)秀人、スタンローレル、オリバーハーデイ、アノネノオッサン、目玉の松ちゃんなどの状景も貴重な記録である。
 夏祭りのさきがけの「愛染まつり」の男女和合という愛染の説明から、祖父の芸妓遊びのいきさつも、北の新町が線香一本十五銭に対し南新地が一本十銭なので
(一時間十一本)もっぱら安い南新地をひいきにして、女は顔や心ではない道具やと、顔は悪くても、肌は絹ごし豆腐のような女体を讃美するなどの祖父の性格描写の問にガラスのポッペンや、大阪の商家が山片幡桃や天文の間重富、西夏語の石濱純太郎、電気の橋本宗吉ら学者を育てたことや丁稚の藤吉から藤七、番頭になると藤助となるしきたりから、「ホナ、ホナラ、ホヤサカイ、ホンデ、カラシテ」など生きた大阪弁などの背景列挙もぬかりなく、グリコの一粒三百米のオマケに負けて、ポンポン飴が没落するまでを、ことこまかな風物によって描いてみせている。
 ほどなく消えてしまうであろう時代色を、情緒をまじえずに物と物・具体によって大阪の町を愛惜する筆致は息もつかせぬ面白さである。 (詩人)