にあんちゃん 安本末子 ちくま少年文庫7 筑摩書房
さしえ 久米宏一 1977年7月8日初版第1刷発行 8095-04507-4604
もくじ
読者に(編集部)
第一部 お父さんが死んで・・・・
兄さん、ねえさん/「なんでこんなにお金が・・・・/べんとう/大雨の日/滝本先生/病気/「ストライキは私の大かたき」/首切り/わかれ、わかれに・・・
第二部 兄妹四人・・・・
友だちの誕生日/兄さんからの手紙/五年生になる/人間の運命/学校の生活/どん底に落ちる/にあんちゃん
解説 この日記に思うこと 佐藤忠男
読者に
この日記は、1953年1月22日から54年9月3日まで、著者が小学校三年生から五年生までのあいだに書かれたものである。当時は、日本の社会が敗戦後の混乱からようやく脱しはじめた時期にあたる。
著者は三歳のとき母に死にわかれ、またこの日記を書きはじめる四十九日前には父まで失って、炭鉱の臨時労働者としてはたらく長兄(喜一)のわずかな収入で兄妹五人が暮らさなければならないという、どん底生活に陥った。そのため、まもなく姉(吉子)も他家に住み込みではたらくこととなり、にあんちゃん(二番目のあんちゃん・高一)とふたりで、貧乏の苦しさ、悲しさ押しひしがれながら、けんめいに耐えて生き抜いてゆく。
日記の舞台は、佐賀県東松浦郡入野村(現在の肥前町)にある、大鶴鉱業所という小さな炭鉱の長屋。
読者は、この本を読んでゆくうえで、日記が書かれた二十数年前と現在では物価にかなりのへだたりがあるため、とまどう個所もあろうと思われる。そこで、当時と現在の米の値段を掲げておく。参考にして比較していただきたい。
1953年の消費者米価(配給米、平均) 1㎏68円
1976年の消費者米価(うるち米中等、12月の東京の場合) 1㎏369円
なお、原文はかなりかな書きが多く読みとりにくい個所があったので、編集部で部分的に漢字に直したところがある。また日記の一部は著者が担任の先生に見せ、それに先生の感想が書かれていた。それは文末の( )に小活字で入れてある。
編集部
解説 この日記に思うこと 佐藤忠男
ふつう、ストライキは労働者の権利を守り、賃金を上げるためにおこなわれるものなのに、なぜそれが「大かたき」かというと、安本さんのお兄さんはりっぱな労働者なのに臨時雇いで労働組合に入れてもらえないからである。ストライキがあって働かないと、その間の給料がもらえない。それでも組合員なら、ストライキでかちとったボーナスがもらえるからいいが、臨時雇いはそれがもらえない。お金がなくなって困っても、日本人ではないからといって組合も金を貸してくれない。「しまいには、うえ死にするばかりです」と、安本さんは悲痛に書いている。
在日朝鮮人というのは、明治時代の終わりに日本が朝鮮を侵略して領土にしてしまってから、めちゃくちゃなやり方で朝鮮の農民から土地をうばったため、職を失って日本にやってきたり、また、太平洋戦争のとき、炭鉱労働者がたりなくなったため、朝鮮からむりやり連れてきて働かせられたりした人びとのことであり、また、日本で生まれたその子どもたちのことである。
日本人には、自分たちのほうが人数が多かったり、多くの武器をもっていたりすると、人数の少ないグループや、武力のおとった者をいじめるという悪い性質がある。-
日本人は、自分たちがひどいめにあわせて故郷にいられないようにしたこの人たちが、しかたがなく日本に来ても、いい仕事にはなかなかつけないように差別した。だから在日朝鮮人には貧しい人が多いのである。
安本さんのお兄さんは、臨時雇いなので、賃金も低く、ボーナスももらえず、仕事が少なくなるとまっ先にクビにされてしまうのである。クピになると会社の家に住んでいることもできなくて追い川される。そんなとき日本人なら、どこかに親戚がいるからたよって行けば助けてもらうことができる。しかし在日朝鮮人は故郷は玄界灘のむこうだから、日本には助けてもらえる親戚などい瓶いことが争い。安本さんたち兄妹は、どんなに不安だったことだろう。末子さんと、にあちゃんこと高一君は、とうとう住みなれた家を出なければならなくなって、他人の家を転々としなければならなかった。それでも彼らはくじけることなくがんばった。