日本の原像-国つ神のいのち  著者 上田正昭  文藝春秋 装幀 粟屋充 19701130日第一刷

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目次

序 歴史の虚実

空白への模索/未知発掘/神話と歴史と
 以下は「序」からの抜き書き
 人間生活のいとなみを伝えた史料としては、まず文字に記録された文献がある。たしかに文献は、歴史を探究してゆく上での不可欠の素材だ。けれども記録や文書などだけで、歴史を追跡することができるかというと、問題はしかく簡単でない。文献には必ずといってよいほど、その筆録者の立場なり筆録者の心なりが投影されている。往々にして主観的となり、時には虚偽のよそおいさえがつきまとう。文献批判が必要になってくるゆえんである。
 文献史料の有無によって、有史とか闕史とかいう言葉を使った時期がある。有史とは何か。闕史とは何か。考えてみればおかしな言葉である。文献史料があるからといって、それが歴史のすべてがわかるはずのものではない。闕史といっても、存在としての歴史がなかったわけではない。文献偏重の歴史学は、文献そのものの史疑なしには、とんでもない破綻に陥りかねない。
-銅鐸の存在は、そこに歴史があったことをはっきりと物語っている。その謎にいどむコースは、けっしてたんたんたる道ではない。永遠にその謎はときあかせないかも知れぬ。けれども、その不思議に迫るのが歴史する者の喜びである。わたくしの脳裡には、いくつかの仮説がひらめく。そして1940年に出版法違反事件で起訴された津田左右吉博士が裁判所に提出した上申書の一節を想起する。
 いわく「何ごとについても、これまで知られていなかったこと、わかっていなかったこと、考えられていなかったことが多いのであります。いいかえますと、すべてのことがらについて疑問があるのであります」と。その徹底した懐疑と真実への模索のなかから、存在としての歴史が、認識の歴史としてよみがえってくる。歴史の空自をいたずらに悲しみ嘆く必要はない、なぜなら、かえってそこにこそ歴史究明への可能性が大きく開かれているのだから。 
 日本の歴史に対する国民の関心は、戦後、それまでとは比較にならないほど高まった。いわゆる「国史教育」によって「国体の精華」がやかましく説かれたそのおりよりも、国民の歴史する心は、広くしかも深いのである。
 それは歴史書のあいつぐ出版、歴史ものシリーズの驚くばかりの売れ行きにも反映されている。人は巨額の宣伝費による、つくられた歴史ブームであるというかもしれない。しかし、たんにそれだけでは、こうした人気の持続するはずはない。かつてのような与えられた歴史ではなく、おのが眼で自由に歴史を追求しようとする姿勢がそこにある。
 国破れて逆に、日本とは何か、日本人とは何かと、みずからたしかめようとする、歴史に学ぶ心が昂揚してきた。いったい民衆にとって国家とはなにものなのか。歴史をになった人々の生活は、いったいどのようなものであったのか。太平ムードの背後にひそむ危機的状況のなかで、改めて祖国の歴史が模索されつつある。世の歴史家や歴史教育者が、果たしてこうした期待にこたえうる仕事をしているのか。かえりみてその仕事の重みを痛感せずにはおられない。
 戦前、戦中の国定歴史教科書は、神話から歴史へという叙述の体裁をとった。それについても、国民の多くが疑問をいだいている。だが早合点してはなるまい。戦前とはいっても、明治14年の小学校教則綱領で「建国の体制」が強調される以前の歴史教科書は、必ずしもそうではなかった。たとえば、明治13年に刊行された小学校児童用の『新編日本畧史』は、その例言に『神代ばくえんたり、故に断じて橿原以降を記す」とのべている。神代のことは"はるかであって、わからない"とする教科書はこのほかにもあった。徳川光圀の志を発端とする『大日本史』が、その修史にさいして「神代の事、ことごとく皆怪誕」とみなしたのに似ている。「怪誕」つまりあやしくとりとめもない話と考えて、別にあつかおうとしたのである。
 戦後の教育における神話の取り上げ方は、少なくとも三転してきた。「神話伝説などから解放されて科学的態度を育てる」ことにした時期から、やがて「古典にみえる神話や伝承などについて正しく取り扱う」時期へと転換し、さらに「日本の神話や伝承」が「古代の人々のものの見方や国の形成に関する考え方などを示す意味をもっていることを指導する必要がある」という段階にはいった。
 あきれるばかりに変わってゆくのである。これでよいのかという疑問が起こるのは当たり前である。神話から歴史へという発想は、いかなる意味においても転倒している。神話がまずあって、その後に人問の生活が始まったのではないからだ。神話は神をあおいだ、素朴な人間的思考の産物であり、人々の信仰のなかにはぐくまれたひとつの文化遺産であった。
 ところで、わが国の神話は、46年度から実施される「改定指導要領」(小学校)もまた、はっきりと認めているように「およそ八世紀の初めごろまでに記紀を中心に集大成され、記録されて今日に伝えられたもの」を主としている。民衆のあいだに生き生きと語りつがれた神話ではなく、奈良時代の元明・元正両女帝の代に最終的完成をみた、書かれた神話なのである。為政者の編集目的にしたがって、宮廷史家が集大成した神話は、高度の政治性をおびている。それは「古代の宮廷人のものの見方や国の形成に関する考え方を示す」ものといった方がよい。
 およそ文字に表現された文書や記録のたぐいには、必ずといってよいくらい、筆録者の立場や思想が投影されている。特定の目的をもって述作された場合には、いっそう作為や潤色の度合いがいちじるしい。したがって神話の虚実をみきわめるためには、まずどうしても文献批判の態度を欠かせない。その基礎的作業をなおざりにして、誤れる解釈の上に構築された史論は、それがどんなにはなやかなものであったとしても、結局は砂上の楼閣としてついえさらざるをえないだろう。
 書かれた歴史の限界を克服するためには、書かれざる歴史に迫らなければならない。だんだんと教育の場で軽視されつつある考古学の研究成果に学ぶところが大きいのである。
-いまもし仮に、応神陵や奈良県桜井市の箸墓などのような王室墓ないしその関係墓と称されている古墳の全貌が、慎重かつ厳密な調査と研究によって明らかにされるならば、どんなにかすばらしかろう。四世紀から五世紀にかけては、今日さまざまな推論が行なわれている。臆測の打破にもきっと役立つ。それは多年の夢でありあこがれである。
 わが国の教育における日本神話の取り扱いは、まさしく変転してきた。年輩の人々であれば、旧憲法下の神話教育の昔をいまもまざまざと思い起されるに違いない。臣民教育としての「国史教育」が強調された時期にあっては、『古事記』や『日本書紀』は神典とみなされ、『古事記』の上巻や『日本書紀』の巻一、巻二にのべられているいわゆる記紀神話は、疑ってはならぬ史実であるかのように主張された。
 ところが戦後、国家と神道の分離が指令され、「日本の諸島は神に起源を発するが故に、あるいは特殊な起源を有するが故に、他国にまさるとする」極端なる国家主義的イデオロギーの弘布が禁止されるにいたって、教育における神話の取り扱いはいちじるしく変貌した。たとえばその一端は、1951年の「学習指導要領」(中学校)に「神話伝統などから解放されて科学的態度を育てる」と記されているのにもはっきりと読みとることができる。
 だが「六三制再軍備へと返り咲き」と揶揄されるような内外の情勢変化にともなって、神話にたいする態度は、しだいに微妙な変化を示すにいたった。1959年の頃ともなれば「古典にみえる神話や伝説などについて正しく取り扱う」ことが、上から必要とされるようになり、「国家の成立に結びつけて取り扱うべきこと」が、「学習指導要領」の内容に唱われはじめた。そしてそのような方向は、咋今においてますますいちじるしい。
 記紀神話を主軸とする「建国神話」への回帰の姿勢は、周到に軌道にのせられた感が深い。良識ある職場の先生方がとまどいをおぼえるのは、全く無理もない話である。だが、いたずらに神話教育の復活をいきどおっているだけでは、問題は前進しない。神話とは何か、その本質にたちもどって、あるべき教育のなかみを検討することが今や重要である。その方がより積極的であり、またより緊急であるとわたくしなどは考えている。
 神話の悪しき歴史主義的解釈では、記紀神話における虚構と真実を解明することはできない。まして神話と伝説を混同して神話の礼讃をおこなってもはじまらない。ミュートスのミュートスたる所以を、神話の本源にたちのぼって掘り下げることが大切であろう。記紀神話のみが日本神話のすべてではない。神話の本質をみぬき、史実と神話の相違をまず明らかにすることなしには、神話教育はいたずらに空転するばかりである。神話の本源を忘却の彼方に葬り去って、現代の神話を讃美するわけにはいかないのである。

Ⅰ 古代の黎明

神々の故郷/邪馬台国の謎/大和朝廷の軌跡/継体朝の命運/

Ⅱ まつりの伝統

祭祀と政治と/開国原理の神々/ヤタガラスの信仰/国つ神のいのち/艮の金神の宗教/大教宣布と芸能復興/伝統行事の命脈

Ⅲ 日本のたましい

鎮魂の原点/浄の美意識/恐山生き地獄/対馬の原像/万葉挽歌の周辺/土着性の回復

Ⅳ 文化史と新国学

文化史学の課題/折口新国学の問題点
以下は「折口新国学の問題点」からの抜き書き
 篤胤のことをわざわざとりあげたのは、このほかにも理由がある。(折口信夫の)神道の宗教化を軽蔑し、そしる人に反省を求めて、「系図につながつてゐる神と、それにつながらぬ神とを区別して考へねばならぬ」とする立場は、後者の神としての造化三神を大きくうかびあがらせた。それは篤胤の神観に近い。戦時中のキリスト教者の信仰的情熱にうたれた折口信夫は、神道の政治との結合を神道の不幸とし、「再、蒙昧な有力者から利用され、乗ぜられる」ことを憂いてその責任が「我我の持ちいつく学説がもろく、誤りを含んでいたから悪かつた」ことにあるとする。その痛切ないたみは、ぬけぬけと時流に便乗した転向者と同類のものではなかった。
 神道人の信仰的情熱の欠如を鋭く批判し、しかも新しい神道神学のあるべき姿を希求した師(折口信夫)が、国学の先人のなかで篤胤をもっとも高く評価したのは、そのこころざしにおいて通うところがあったからではないか。太平洋戦争がみじめな敗北に終わった年の翌年8月、折口信夫は「沖縄を憶ふ」という一文を草して、「まだしみじみと血を分けた島の兄弟の上を思ひ得ぬのは、誰よりも、歴史・民族の学徒が、負け(受けねば、あるいは負わねば-の誤植か?)ねばならぬ咎である」と沖縄にたいする「本土知識人」の責任をとりあげている。「世の中の人が煩悶し、問題にしてゐるものを、掴まねばなりません」という、気概の国学の精神をそこにもみいだすのである。
 「折口には不条理の意識があり柳田には彼一流の合理的意識があった。折口の民俗学は、対立・葛藤・郷愁・疎外をモチーフとするいわば不幸な民俗学であり、柳田の民俗学は、日本人の幸福の追求を目的とした民俗学であった」という谷川健一の批評は、いいえて妙である。
 「不幸な民俗学」のその軌跡と重みを、いかに発展的に継承してゆくのか。「私一己の学問」としての折口学は、文字通り折口信夫の死とともに死んでしまったのか。外なる批判として、問題をうけとめることはわたくしにはできない。縁あって、その講筵に連なったわたくしは、折口学の提起したところを、おのが課題としてゆかねばならぬ。今日あらたな政治と宗教と学問の三角関係が、複雑なからまりをもってわれわれをとりまく。いまこそ新国学の四度目の出発が必要になっている。それなのに、折口信夫が力説してやまなかった新国学のいぶきは、逆に枯渇しようとしているのではないか。それがひがめであれば幸いである。
 私はかつて師の“巡遊伶人”論や“語部”論にたいする批判をこころみたことがある。政治的従属関係や歴史の変革をともすれば見失いやすい折口学の弱点を、その実態にそくして論究したつもりである。権力構造とのかかわりを遠まわしにしかいいえなかったその態度は、ややもすれば学そのものの歴史ばなれをもたらしがちになる。それは時代の制約のみではなく、折口学の根底にひそむ学の不幸であった。
 折口学の不幸は、その点を気づいてか気づかないでか、内なる批判のとぼしさにともなって倍増する。
 -“師の説”になずむ輩があまりにも多すぎるためである。「私の誤った論理を正し、よい方に育ててくれる学徒が、何時になったら、出てくれるか」という折口学の後輩にたいする期待は、いつみのりをあげるであろうか。「間違ひがあるかも知れません。間違ひは何時でも正します」という師の直接の教示をいまここに再現することはできない。いまは亡き折口信夫先生の提言にこたえる「学徒」がつぎつぎに誕生することを望みたい。
 折口信夫の新国学への展望のコースは、いかにもけわしい。そしてその課題もまだ克服されてはいない。折口学のあらたな発展は、おそらく追随の姿勢のなかからは生まれてこないであろう。追随することが大切なのではない。その批判的継承を、学問のなかみにおいて明らかにしてゆくことが「折口信夫先生への報謝」の道だと考える。気概の学は、外にのみ向けらるべきはずのものではない。折口信夫がそうであったように、内なる批判を媒体にせずしては、外への問題提起も説得力をも与えないであろう。そうでなくては「折口の実感をただなぞるだけ」という折口門流への批判は、残念ながら甘受するほかはないのではないか。「プラトォは愛すべし。真理はさらに愛すべし」という格言は、「折口信夫は愛すべし。真理はさらに愛すべし」とおきかえてもよい。新国学のかつてのいぶきを、このままにすたれさせてはなんとしても先学にあいすまぬのである。

あとがき

 本書は1964年の7月からおよそ6年の間に発表した二十篇の論稿で構成されている。これ以外にも必要に応じて公にしたものもあるが、結局は古代文化、とりわけまつりや日本思想の底流にひそむ国つ神的伝統に関するものを中心としてまとめることになった。
 日本の文化を天つ神的世界と国つ神的世界に類別して考えるようになったのには、つぎのような理由がある。神と人の住むところを、海と陸、天と地において認識する二元的な思考は、古くから存在する。だが日本の場合においては、記紀神話がそうであったように、支配者にまつられる神は天つ神となり、民衆にまつられる神は国つ神として、きわめて政治的に集約されるようになった。海と陸という水平的な思考よりも、天と地という垂直的思考が支配的になり、それは時として政治的秩序における神と人との編成原理となった。タテワリの社会構造が、ヨコワリの人間関係に優先するのである。人間平等の理念よりも人間差別のしくみが具体化してくる。
 例を神話における高天原観念にとってみよう。高天原の本源は、記紀完成時の古代貴族が信じたような、権力の所在に直結する「天上」の世界にはなかった。むしろ「海上」の世界であったという方が適当である。にもかかわらず、「天上」の神としてまつりあげられた天っ神は、為政者の権威をたかめる“神典”の神となった。そして民衆の文化に生きる国つ神は、まつろわざるあしき神とみなされるようになる。
 こうした権力による虚構が、その後も幻覚のなかにはぐくまれて、日本文化の歴程に大きな作用をおよぼすのである。歴史における虚と実は、圧迫と不幸のなかによみがえる国つ神のいぶきにおいて鮮烈に浮かびあがってくる。忘却されがちな国つ神の世界にこそ、むしろ日本文化の命脈があるのではないか。
 そのいのちを模索するなかで生まれた作品が、この書の主要な部分になった。一部補訂したが、大部分は発表年次のままである。正直にいって長短あいととのわぬ論稿を集めて世に送りだすことには、ためらいがあったが、思いきってまとめることにした。これからの仕事の一里塚にしたいと考えたからである。最後になったが、熱心に出版をすすめて下さった文藝春秋の金子勝昭氏、なにかとお世話になった同社の藤井康栄さんにあつく感謝する。
1970年9月   上田正昭