日本の民俗-ゼミナール  著者 上田正昭・大林太良・大島建彦・和歌森太郎・今野圓輔・牧田茂・宮本常一・池田彌三郎  朝日新聞社 装禎・山本耕三 図版・吉沢家久 1974925日第一刷発行 朝日新聞社 朝日ゼミナール「日本の民俗」から-    0339-254069-0042

日本の民俗表紙画像

歴史と民俗 上田正昭

書かれた歴史がそのまま真の歴史ではない/宇治橋断碑をめぐって/「死んだ歴史」と「生きた歴史」/柳田民俗学/津田左右吉と民俗/学歴史学と民俗学の接点-折口学の場合/民俗それ自体に歴史がある-新嘗と五月五日をめぐって/大衆の史心
「日本のゼミナール」序論として-歴史学と民俗学とをめぐって考えていること民俗学の立場においても文献は軽視されてはならないし、文献史学の立場にあっても民俗資料の持つ意味を無視するわけにはいかない。
 考古学はもちろんのこと、民俗学の成果にもおおいに学んでいかなければならない。われわれは、文献史学の制約を克服し、-新しい歴史学の発展に向かっていかなければならない。
 多くの日本の国民が、いま、日本の歴史というものに大きな関心を寄せている。それは単に出版ジャーナリズムによる宣伝費の投入だけにもとつく問題ではないと思うのです。自らの歴史する心のたかまりは、かつてなかったほどに深くしかも広くのびつつあります。
 そうした新しい学問を支持していく、支えていくのは、柳田国男氏の言葉を借りるならば、それは"大衆の史心"つまり、歴史する心に負うところが多い。
 柳田さんは『国史と民俗学』で次のようにいっておられる。「歴史がいつとなく小説になっていく傾き、又は面白く興あるものを歴史として信じたがる癖は、全くこれに対する大衆の史心の立ちおくれに基づいておる」と指摘されています。この指摘は、今日もなお私どもが自戒すべきことではないかと思います。(1973.8.3

神話と民俗の系譜 大林太良

日本の神話・民俗は単一系統ではない/狩猟儀礼と山の神/殺された女神/歌垣と焼畑/弓祭りの源流/鶴がもってきた稲/稲を盗んだ話/綱引きと水稲文化/日本語の起源/建国神話と支配者文化/哀悼傷身
「神話と民俗の系譜」という題で私がこれから申します内容は、いくつかの点でこの「日本の民俗」ゼミナールのほかの講師の方のお話と、ちがうところがあるのではないかと思います。
 つまり、第一に私のテーマが、日本の神話と民俗の系統論である。したがって私は、日本内部だけをみるのではなくて、日本の外との関連において日本の神話とか民俗を考え、あるいはまたいいかえれば、日本の外から日本をみるのです。
 それから第二の点としては、とりあつかっている時代が、ほかの方と多少ちがうのではないかと思います。つまり日本民俗学、いわゆるフォークロアでは、わが国における文化的あるいは政治的な統一ができあがってから後、いわゆる「日本民族」と呼ぶべきものが成立してから後の時代における民俗の変遷が、おもな研究の対象、関心事であるということがいえるかと思います。ところが私がここでとりあつかいますのは、むしろそういう日本民族文化が形成する前の段階です。つまり、その形成に参与したおもな構成要素の系統は何かということが私の中心的関心となっているのです。-
 第三点は、第二点で申したことと関連しますけれども、いわゆるフォークロア、日本民俗学では日本の各地の習俗とか伝承を、全日本的に共通なパターンとその地域的な偏差というかたちで研究する傾向がみられます。要するに日本全国共通の民俗の存在を想定し、地域的なちがいは、共通のパターンからの変化にみる傾向が強いのです。事実、柳田国男以来、日本民俗学はそういう立場から、いろいろすぐれた研究を出してきました。
-私の立場としましては、いわゆる日本の伝統的な生活様式が形成されるにあたっては、決してそれはひといろではなかった、いくつもの系統、いくつもの由来のちがった生活様式、あるいは文化複合というべきものが参与していたのではないかと考えます。さまざまな系統の文化複合、たとえば、あとで申しますような、おそらく中国南部から来たと思われる焼畑耕作の文化とか水稲耕作にもとづく文化、そういうさまざまな複数の文化複合が、日本の伝統的な生活様式の形成に参与していたとわれわれ民族学者は想定しています。-歴史時代において日本の各地にみられた民俗の地方差、地域差というようなものも、ある程度まではこのような文化の系統の相違というものの結果生じたのではないかというのが私の立場であるわけです。
 それから第四点としましては、柳田国男以来、日本民俗学においては、日本の伝統的な生活様式が稲作、ことに水稲耕作を基盤としたものであるということが強く主張され、かつ、繰り返し、繰り返し述べられてきました。もちろん私も、水稲耕作が日本文化の形成に、きわめて重要な影響をもったこと、非常に大きな役割を果たしたことは、喜んで承認するものです。
 しかしながら私の考えでは、この水稲耕作にもとついた文化だけで、日本の伝統文化を説明することはできない。これは日本民族文化のたくさんある構成要素の中の一つにしかすぎない。たとえば、さきほどちょっと申しました焼畑耕作にもとづいた文化複合の重要性も、私としましては強調しておく必要があるのではないかと思われるわけです。
 第五点はどういうことかと申しますと、いわゆる日本民俗学では常民-この常民というのも、正確にどういう概念かというのは非常にむずかしい問題ですけれども、一応伝統的な生活様式をしている、民俗のにない手であるというくらいにここでは理解しておきます-いわゆる常民、ことに稲作を行なっている農民の伝統というものが、非常に重要視されてきたわけです。もちろんこれはまちがいではないと思います。
 けれども、それにたいして、いわゆる支配者層の生活様式、これの研究が非常に遅れていたということも指摘できると思います。つまり柳田さんが日本民俗学という学問をはじめたときには、古い文献には支配者層のことがいろいろ出ている、そういう文献に出ていない名もない庶民の生活の歴史を明らかにしなくてはいけないという立場からこの日本民俗学という学問を育てました。これには然るべき理由もあるし、重要な意味もあることはもちろんです。
-世界中、日本に限らずヨーロッパでもそうですけれども、階級社会においては、いわゆる庶民の生活というものはいろいろなかたちにおいて、支配者層の生活様式の影響を受けてきているのです。そして古い時代における支配者層の流行が、庶民の生活のほうに、いわば沈下して残るというような現象もしばしばみられます。そればかりでなく、そういう支配者層には、いわば支配者のイデオロギーとかあるいは論理というものがある。そしてまた支配者的な習俗というものもそこにあるわけです。しかも、支配者層のイデオロギーないし論理が、民族の社会文化全体を統合するうえでも重要な役割を果たしています。したがって、日本文化を考える場合においても、「常民」と呼ばれている農民とか漁民の生活様式やものの考え方とならんで、支配者層の習俗やイデオロギーにも然るべき考慮が払われなければならないのではないかと思うわけです。
-日本は民族や神話においても、決して世界のなかに孤立しているのではない。そういうことを皆さんにお考えいただくきっかけとなれば、私の講演もその目的を達することができたと考えております。(1973.8.10

昔話の伝承 大島建彦

昔話の意義/昔話の分類/昔話の内容と構造/「カタリ」と「ハナシ」/昔話の伝承者/一寸法師の昔話/小さ子の昔話の範囲/小さ子の出自/小さ子の事業/小さ子の幸福/小さ子の昔話の系統
 きょうは日本民俗学の立場から、日本の昔話についてお話をしたいと思います。
 近ごろ世間では、「民話」という言葉が、たいそうもてはやされています。なにか「民話」と名のつく本だと、たいそうよく売れるのだそうです。その時世に、この朝日ゼミナールだけが、あまり売れないようにというわけで、わざわざ「昔話」という言葉を使ったとすると、まことにすばらしいのですが、実は「昔話」と呼ぼうが、「民話」と呼ぼうが、どちらでもよいわけでございます。本来ならば、英語のフォーク・テール(folktale)あるいはドイツ語のフォルクス・メルヘン(Volks-märchen)という言葉を、そのまま日本語に訳しますと、「民間説話」あるいは「民話」あるいは「民譚」となるのであります。日本民俗学の立場では、そのようなことはとっくに承知のうえで、フォーク・テールあるいはフォルクス・メルヘンという言葉に、「昔話」という言葉を当ててきたわけです。もっとも、フォーク・テールとフォルクス・メルヘンとは完全に一致するものではありませんから、両者を区別するために、「民話」と「昔話」と二つの言葉を使い分けるべきだというような主張もございます。ところが、フォルクス・メルヘンをふくめて、フォーク・テールのすべてが、これまで「昔話」と呼ばれてきたわけですから、「民話」と「昔話」とは明らかには区別しがたいのです。
 それならば、どちらでもよさそうなものですが、ただ「民話」という言葉は、何か誤解をまねきやすいのですね。もともとフォーク・テールと申しますのは、庶民の間に、世代を越えて繰り返され、受け継がれてきたものです。ところが、「民話」というからには、庶民の話ならば何でもかまわないだろうというので、古くから伝えられてきたものに、新たにつくられたものをまぎれこませる傾きがあったのです。-
 柳田国男先生のお話によりますと、この「昔話」という言葉を使っていると、どんな田舎の年寄りにもわかるということでした。ところが、時世の変化が著しいせいでしょうか、かならずしもお説のとおりにはいかないのでございます。私どもが村を訪ねて、おじいさんに昔話を聞かせてくれと頼みますと、「そうだな、わしが若いころ、日露戦争に行って……」などということを言い出すわけですね。ここで「昔話」というのは、そういう思い出話ではなくて、フォーク・テールすなわち「民話」に当たるわけです。私はまことに用心深いたちでございまして、講演の題にも「昔話」、という言葉を使って、それに「伝承」という言葉を添えてみたのであります。ここで私のとりあげますのは、あくまで民間伝承、あるいは民俗の一部門をなす昔話なのでございます。

年中行事 和歌森太郎

年中行事の意味/端午の節供の推移/雛祭りの由来/「遊び」としての年中行事/「神ごと」としての年中行事/『農家年中行事記』
 年中行事というものを定義するとどういうことになるのか。一年間のある特定の日に、ふだん毎日繰り返していることとはちがったことを、家族一同で行う。あるいは家の中の飾りつけを特別にしたりする。また外に出て、祭りや儀礼を行う。そうしたことが、私どもの人生には織りまざっています。彼岸や盆のときに、だれの命日でもないけれども、一年間のうちで、時折、広い意味での宗教的儀礼を営むことによって、毎日の繰り返しの生活の過程に一つの区切りをつけることが、互いにあるものです。それによってまた翌日からの勤労にはずみをつける。そのような意味をもっている儀礼を、私たちは年中行事と呼んでいます。昔の庶民の言葉づかいでいうならば、折り目(なまってオイメ)、あるいは時オリといいました。
 時オリとか折り目とかいう言葉に表れているように、一本の竹竿を365日になぞらえると、このフシが、漢字で記す節ですが、ごとに神にえものをして行事を営む。これこそ「節供」です。節供は、年中行事のうちの著しいものなのです。年間の生活は、フシ無しの、つまり折り目なしの連続では耐えられません。どの民族にもそれぞれにフシをつけて単調さを破ろうとする傾きがある。それがちょうど一本の竹にみるようになるということであります。
 節供という言葉に表れているように、ふだん食べないものを特別に、いわゆるハレの飲食物を用意し、これを家の神などに供え、かつ自分たちもまたそれのお裾分けにあずかる、神と相嘗めする、共に食べ合う、ということにその節供の一つの意味があります。だから節供と呼んできたものにはそれぞれ特別な宗教的儀礼が伴ってきたものです。節供という言葉は、中国の語で、日本でもそれに倣って五節供というものを受けいれたのですが、古代日本人が中国との交渉の中で、初めて節供の実質を知ったわけではありません。日本人のあいだでも、ちょうど五節供に相当するころに、年間折り目の仕事、儀礼を行って、特別な飲食を用意し、神供としていたと考えられるのです。節供を受けいれる素地となる儀礼は日本人のあいだにも行われていたのです。もちろん文字、数字で表記する暦を知らない段階に、明確に正月の一日とか三月三日とか五月五日などと限定もできませんでしたけれども、それぞれの日にほぼ同じころ、中国からの伝来の行事を受けいれる素地としての習俗があったとみられます。
 年中行事は、中国の唐を中心にした、アジア世界の中に日本がくるみ込まれた中で、その影響だけで、日本人も行うにいたったものだとはいえないのです。
 きょうお話ししたことは、民俗学的な年中行事の概論を申しあげたということではありません。やや歴史的にいろんな立場の人びとの生活や意識に民俗化した年中行事を結びつけて考える、その考え方をお話しし、その中で庶民生活の年中行事を考えてみることで、日本文化としての年中行事の意義をかえりみる若干を例示した次第です。(1973.8.24)

民間信仰 今野圓輔

その特色/生き神信仰/四百近い神々の名/霊魂認知論/神々と若者たち/氏神さま/現代供養ブーム/自動車にも魂を
 桜井徳太郎氏は、その著書『日本民間信仰論』の中で、民間信仰の特色として、次の三つをあげておられます。
 第一は、すでに申しあげましたように、民間信仰は、わが国民の原始的信仰のうえに、さまざまな信仰、宗教が重なりあってできあがったものであり、重層的構造をもっていること。第二には、たとえば「苦しい時の神頼み」といった諺が示しますように、招福除災つまり災を防ぎ払い幸福をもたらす福神的性格、現世利益的性格を濃厚にもっていること。さらにそうした招福除災の目的を達する、いわば手段としての呪術的性格を強くもっていることの三点を指摘しておられるのです。
 民間信仰とは何だと問われたとき、ひと口に定義することは、簡単のようで、きわめてむずかしいのです。われわれのカミサマ、ホトケサマは、あまりに多すぎ、また信仰・信心の相手、祈願の対象は、まことに複雑です。で、とりあえず、「民間信仰とは、国民大衆のあいだに長く伝承されてきた信仰現象全体をいう」といった-これはどうも大ざっぱすぎる定義で恐縮ですが-一応それに従って話を進めていきたいと思います。
 どうも話が興味本位に流れて、肝心の氏神・祖霊信仰とか、無縁仏の話などが抜けてしまった点をお詑び申さねばなりません。(1973.8.31)

日本人の一生 牧田茂

身のまわりの疑問から出発/折口信夫/柳田国男/死をめぐる習俗/魂が抜け出す/両墓制と弔上げ/誕生の習俗/お産と小石/魂は成長する/魂のふるさと
 「人の一生」の問題を扱うときに、民俗学では通過儀礼とも申しますし、また人生儀礼という言い方もあるわけでございます。通過儀礼という言葉は、バン・ジュネットという人が使い始めたのが、学問的には早いわけでございます。つまり、人生の節々にいろんな儀礼が行われます。それを研究するのが、通過儀礼の研究にあたるのです。
 私は「日本人の人生」というものを、さきほど折口先生のところで申しあげました三本の柱-「まれびと」と「常世」と「たま」、その三つ目の「たま」つまり霊魂の問題を中心にして、組み立ててみたいと思います。(1973.9.6

家とムラ 宮本常一

故老からの聞き取り-その変化/まず山の木が気になる/条里・村・お宮の森/地主神と鎮守神/「里」と「村」/奥能登、火宮部落/集落、その移りかわり/ミョウシュからナヌシへ-時国家の場合/家-西と東/職業分化と家の解体/民俗学は未来をはらむ
 かつて、東大の文化人類学をやっている人たちが、日本のいろいろな習俗の分布図をつくろうとなさって、アンケートを出された。それを見せてもらったことがあるのですが、その中に、「一番初めの子供はどこで産んだか」というのにたいして、瀬戸内海地方は、お嫁に行った先で産むというデータが出ておりました。ところが、私が昭和十年代に瀬戸内海の島々を歩いて調べて聞いたところでは、一番初めの子はほとんど里へ帰って産んでおります。二番目の子はお嫁入りの先で産む。それが三十年あまりの間にすっかり変わっている。そうすると、アンケートのデータで結論を下すと現状はわかっても古いことの推定はできない。
 そこで、どうしてもそういうまちがいをできるだけ少なくしていくような方法を考えなければいけない。それには文献に頼ることが大事なことになってくる。民俗学では、文献にたよらないようにしているが、まず文献によって事実の明らかになる部分は明らかにしておく。
 それからもう一つ大事なことは、文字以外にいろいろの古いものが残されております。その残されたものを検討し直してみるということが大事ではなかろうかと思います。考古学という学問は、土中に埋蔵しておる前代の遺品を発掘し、比較して、それによって年代を決め、文化を分類し、過去の人たちの生活を探っていこうとしております。ところが文化というものは、土の中に埋蔵せられるだけでなくて、人文景観の中にも歴史を探り当てる方法があるのではないかと思っています。きょう、いちばん話をしてみたいことは、そういう人文景観の中に、どれほどわれわれの先祖の残したものが残っているだろうかということ、それについてみていってみたいと思うのです。(1973.9.14

神と芸能 池田彌三郎

はじめに/たま・かみ・もの/鎮魂と芸能/かみの種類/大きな神・小さな神/神迎え/俳優と観客/主客の対立/まつりの諸段階/小さなかみの素性/第三の登場者/芸能伝承論
 かみについての考えを、私なりに受け取って、整理してみますと、折口信夫は、まず「たま」ということを考えています。このたまも、魂という漢字をすぐに思い浮かべずに、「たま」と表記しておきます。そのたまが、まずあって、これが、肉体なり、物体なりに宿って、そして活動を始めてくる。それがいわば高い状態になったときに「かみ」であって、低い状態になると「もの」とうことになる。そういう簡単な図式を一応考えてみることができます。しかし折口信夫は、この図式一つにまとまっているわけでもなくて、「もの」ということに置き換えられずに、たまがかみとなると同侍に、たまのままで残っていく、というようにも考えています。-
 そういう「かみ」と、芸能とが、どういうところで関係してくるかということを考えていくわけですが、少し話が先走りますけれども、尊い「たま」を尊いおからだに入れる、その技術が「むすび」といわれております。そしてその「むすび」の技術や行動が、日本の芸術の起源の、有力な一つとなっております。
 むすびということ、あるいは動詞としてむすぶということ、これは、日本の芸能論の欠くことのできない分野であって、-たとえば、『古事記』の伝承でいちばん早く出現している、たかみむすびのかみは、むすびの技術が神格化した神で、後の『新撰姓氏録』などをみると、実に多くの神や人の、祖先の神として伝えられています。要するにその家の祖先を、神たらしめた神聖な「たま」のむすびの技術が、神であり、祖先であると考えられていったことになります。-
 とにかく、神と芸能との関係において、神のすることの一つである大事なことは、古くなった「たま」を出してしまって、新しい、強い「たま」をいれる、つまり、むすびという呪術を行う。その一連の行動が芸能化してくる、ということです。日本の芸能のもとの一つを、そこにみることができようかと思います。もちろんこれも、単純ではなくて、鎮魂といっても、「たまふり」というべき、たまを鎮定させることのほかに、体の中の「たま」が脱出し、遊離しようとするのをおさえつける「たましづめ」というべきこともあります。あるいは、体につける「たま」を呼び出してこれを迎える、ということもあり、むすびの呪術にも諸段階があります。その多方面、あるいは段取りの一つ一つで、さまざまに異なった芸能が生まれてくるわけです。-
 終わりに一言、言い添えたいと思いますことは、このお話は、「日本の民俗」という大きい題目の中での「神と芸能」という課題ですから、民俗としての芸能、民俗と芸能との関係、といったことを考えておきたいと思います。
 柳田国男先生は、はっきりと、芸能は民間伝承ではない、と言っておられます。折口信夫の没後に、32年1月10日にNHKから放送された、録音構成の「面影をしのぶ」の中で、「芸能はわたしは民間伝承じゃないといったような意見を、実は持ってるんです。なるほど民間に伝わってることは伝わってるけど、家元があるし、間違ったものがあったら上からすぐ差し止められたり、破門もときによるとされるんだから、……」(雑誌『短歌』、昭和48年十11月臨時増刊号に採録された)と、こんな風に言っています。もとより断片的な発言ですが、昭和261月刊行の『民俗学辞典』で、芸能については「民間芸能」という項目を設け、民間に伝わっている諸芸能を解説しておられるのと、表裏一体をなして、およそ先生の考え方がわかります。
 それにたいして、折口信夫も、芸能、すなわち民俗、というようには考えていませんでした。それは、私が直接折口先生に、芸能即民俗かどうかを質問したところ、折口先生はしばらく考えておられて、やがて、そうではないだろう、もし、芸能即民俗ならば、柳田先生が、芸能を私に任せるはずがないからだ、と言われました。
 その後、昭和27年度の慶応義塾大学の芸能史の講義を、「芸能伝承論」と名づけられて、その冒頭で、「わたしは今まで、芸能伝承という語を使ったことはなかった。今年は、芸能の、民俗との交渉面を見ていこうと思って、こういう題をかかげた」と言っておられます。この説明からも、折口信夫の、芸能と民俗とのかかわりについての考えがうかがえると思います。
 芸能伝承論という題目での講義は、その年の9月に、折口先生が軽い脳の障害で倒れたために、4月から6月までの、ちょうど10回で終わってしまいましたが、柳田国男の使った「民間伝承」という語に見合うことばであり、それを十分意識しての造語であったと思います。したがって、折口信夫の考えを紹介し敷術しながら話を進めてきた、この「神と芸能」という話も、芸能伝承論の一環として考えてきたつもりであります。
 まとまりがつかなかったように思いますが、いろいろな問題があるのだということの一端をお汲みとりいただければ、幸せでございます。(1973.9.21)

講師略歴

上田正昭 京都大学教授。1927年京都府生まれ。著書『日本古代国家論究』『大王の世紀』ほか。

大林太良 東京大学助教授。1929年東京都生まれ。著書『日本神話の起源』『神話学入門』ほか。

大島建彦 東洋大学教授。1932年愛知県生まれ。著書『御伽草子と民間文芸』『咄の伝承』ほか。

和歌森太郎 東京教育大学教授。1915年千葉県生まれ。著書『新版日本民俗学』『神ごとの中の日本人』ほか。

今野圓輔 女子聖学院短期大学教授。1914年福島県生まれ。著書『馬娘婚姻諦』『現代の迷信』ほか。

牧田 茂 朝日新聞社友。1916年京都府生まれ。著書『生活の古典』『柳田国男』ほか。

宮本常一 武蔵野美術大学教授。1907年山口県生まれ。著書『宮本常一著作集』(既刊16)

池田彌三郎 慶応義塾大学教授。1914年東京都生まれ。著書『日本芸能伝承論』『日本人の芸能』ほか。