日本の民話400 永田義直 編著 金園社  19741013刷 0039-12802-1382

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まえがき

 母親から子供へ、子供から孫へと、遠い昔から語り継がれて来た日本の民話は、私たち日本人にとっては、貴い文化的遺産であるばかりではなく、長い長い世代をしっかりと結びつなげて来た魂の綱なのです。
 ですから、民話に接した時には、誰しも必ずや遠い祖先たちの素朴な心と、飾らない純真な声を聞くにちがいありません。
 こうした民話に、手を染めるようになってから、私はもうかなりの長い年月がたちました。その間、強く感じたことは、この民話の全貌を一巻にまとめたものがあったら、どんなに便利で、いろいろの方面に役立つだろうかということでした。これは多少でも民話に触れたことのある者には、同感であろうと思います。
 そこで、ともかくも民話のすべてを集めて、これを三つの大きな柱に分け、それをそれぞれの項目に分類して、事典式に要領よく、しかも読物としても興味を失わないよう、一巻にまとめる仕事に取り組んでみました。これはなかなか容易な仕事ではなく、到るところに困難が伴いました。分類上にも、その取扱いに迷う点が多々ありました。しかし、ひとまず大切な民話の大綱は、網羅することが出来たと信じます。
 どうかこの企てが、一人でも多くの人びとに利用され、民話の永遠の生命を保持するために、役立ってくれれば幸いと思います。
 この本が作られるまでに、ずいぶん多くの人たちのお力添えを得ました。お名前は一々挙げませんが、これを深く感謝します。  著者

凡例

○民話を「本格民話・笑話・動物民話」の、三つの種類に分けました。そして、それぞれのものを、項目別に分類し、第一に一つ一つの民話の内容を、梗概式に記しました。これはその民話の基本的なもの、代表的な形のものを採用しました。
○梗概式に掲げるのについて、民話の持つ本来の姿を害して、興味も香りも失せてしまうことを怖れました。最後の( )内に記した地名は府県名で、例えば(長野)は長野県、(大分)は大分県の意です。
○「型式」は、その民話の伝えている標準の形を、略記しました。
○「分布」は、それが多く分布している地方を、府県別に見たもので、その他の地方にも勿論語られています。
○「参考」は、その民話に関するいろいろな方面の、留意すべき事項を記しました。従って、成立に関するもの、他の文学との関連、鑑賞と私見、内容の持つ意義-と、多方面に亘っています。
○終りにまとめた「索引」については、本書に用いた題名の他に、一般的に呼ばれている異った題名を加えて、検索の便に資しました。

分類項目表

Ⅰ 本格民話
1 長者話/2 水神の国/3 宝の呪物/4 誕生話/5 婚姻話 A異類女房/6 婚姻話 B難題婿/7 婚姻話 C動物と女/8 隣の爺/9 大歳の客/10 兄弟話/11 継子話/12 逃竄話/13 人と狐たち/14 動物の報恩/15 愚かな動物
Ⅱ 笑話
1 愚か者の話 A愚か村/2 愚か者の話 B愚か男/3 愚か者の話 C愚か婿・息子/4 愚か者の話 D愚か嫁・女/5 狡猾者の話 A狡猾者/6 狡猾者の話 Bおどけ者/7 巧智者の話 A業くらべ/8 巧智者の話 B和尚と小僧/9 誇張話
Ⅲ 動物民話
1 動物の分配/2 動物の競争/3 動物の争闘/4 動物の社会/5 動物の由来

項目別 目次

Ⅰ 本格民話

1 長者話
蜻蛉(だんぶり)長者…夢買長者…藁しべ長者…炭焼長者…いざり長者…天福地福…取っつく引っつく…味噌買橋…産神(うぶがみ)問答
2 水神の国
黄金(こがね)の斧…竜宮童子(どうじ)…沼神の手紙…浦島太郎
3 宝の呪物
塩吹臼…宝の下駄…宝の瓢箪…五郎の欠椀…生鞭死鞭(いきむちしにむち)…狼の眉毛…犬と猫と指環
4 誕生話
桃太郎…瓜子織姫…一寸法師…栂指太郎…田螺(たにし)息子…力太郎…蛇息子…子育て幽霊…鷲の育て子
5 婚姻話 A 異類女房
天人女房…笛吹聾…鶴女房…狐女房…竜宮女房…魚女房…蛤女房…蛇女房…蛙女房
6 婚姻話 B 難題聟
絵姿女房…蛸長者…蜂の援助…嫁の輿に牛…博徒の聟入…鳩提灯…娘の助言…山田の白滝
7 婚姻話 C 動物と女
猿聟入…蛇聟入…蛙報恩…蟹報恩
8 隣の爺
猿地蔵…地蔵浄土…鼠の浄土…腰折雀(こしおれすずめ)…舌切雀…花咲爺…雁取爺…瘤取爺・・・鳥呑爺…竹伐爺…見るなの座敷…蟹の甲
9 大歳の客
笠地蔵…大歳の客…大歳の火…貧乏神…厄病神…宝手拭…猿長者…大歳の亀
10 兄弟話
三人兄弟…なら梨採り…山賊の弟…漆掻(うるしかき)と蛇
11 継子話
米福粟福…皿々山…継子の栗拾い…継子と鳥…お銀小銀…姥皮(うばかわ)…手無し娘
12 逃竄話(とうざんばなし)
牛方山姥…食わず女房…三枚のお札…天道さん金の綱…旅人馬…鬼の小綱…妹は鬼
13 人と狐たち
髪剃狐…叺(かます)狐…八化け頭巾…尻のぞき…風呂は肥壷…狐の立聴き…似せ本尊…山伏と狐
14 動物の報恩
文福茶釜…猫檀家…猫又屋敷…狼の報恩…鶏の報恩…忠実な犬…猿の報恩…鼠退治…猫の絵と鼠
15 愚かな動物
猿神退治…鍛冶屋の婆…猫と釜蓋(かまぶた)…猫の踊…山姥と糸車…猫と南瓜(かぼちゃ)…狸の八畳敷…ずいとん坊

Ⅱ 笑話

1 愚か者の話 A 愚か村
芋ころがし…炬燵入り…蟹の揮(ふんどし)…手水をまわせ…葱を持て…床をとれ…茶の実…高声無用…能善葛(のうぜんかつら)…旅学問…ここも日本…尼裁判…犬の目じるし…梯子の逆降り…鯛の煎じ滓…飛び込み蚊帳…引っ張り屏風…牡丹餅で洗面…嬶見所(かかみどころ)…元結素麺…白糸素麺…蝋燭蒲鉾…馬刀貝(まてがい)…傘は腰…鯛の芽…数の子
2 愚か者の話 B 愚か男
米倉小盲…とろかし草…栃まなこ…打出の小槌…茗荷(みょうが)宿…唐丸駕籠…墓場の草…長い名の子…魚石…粗忽相兵衛(そこつそうべえ)…味噌と糞…本殺しと半殺し…藁(わら)の贈り物…縁起かつぎ…「し」の字嫌い…猟経…後生を買う…俄か和尚…閻魔の失敗…福禄神の頭…三日月餅…風鈴踊り…もとの木阿弥…傘売り…三人の商人…馬鹿をなおす薬…鳩の立聴き…こんな顔…寝て食われる…親父を焼く…胆試し…無情くらべ…金儲けの胸算用…吝(しわ)い屋…金を拾ったら…寝小便…出目入目…嘔兵衛鋤…鳶になる…貸家札…無事の手紙…平林(ひらばやし)…聞き違い
3 愚か者の話 C 愚か聟・息子
馬の尻にお礼…屏風見舞…菊の見舞…婿の挨拶(山は火事型)…婿の挨拶(粟蒔型)…婿の挨拶(魚篭型)…沢庵風呂…糠の道しるべ…餅は化物…結つけ枕…菜漬と薬罐…酢あえ…団子聲…買物の名…素麺と鬼の面…尻に団子…標(しるし)の石…糸の合図…謡の合図…塵溜で高砂…聟の糞汁…鉤(かぎ)に褌(ふんどし)…投げ上げ饅頭…鶴亀の謡…茶栗柿…一つ覚え(物貰型)…一つ覚え(物売り型)…枯木見舞…法事の使い…病人と坊主…瓶の尻…酒の粕…咽突き団子…熟柿(じゅくし)の糞…首掛け素麺…頭巾と土蔵…卑下する
4 愚か者の話 D 愚か嫁・女
鶯言葉…首通し…猫のように…子供のように…唖嫁…二階に馬…便所は法事…雁取屁…三人屁…草刈ろう…仁王か…誰だっぺ…屁っぴり嫁…屁一つで村全滅…屁の悲劇…豆こ話…'蛸の脚…土竜(もぐら)の嫁入り…三人泣き…死んだ女房…姑を毒殺…肉付の面…婆いるか…幽霊の歌…掻くための爪…大きな草鞋(わらじ)…鶯の谷渡り
5 狡猾(こうかつ)者の話 A 狡猾者
嘘八卦(うそはつけ)・・・遠国の火事…金ひり馬…金ひり小犬…馬の皮占…俵薬師…知恵有殿…最後の嘘…仇討くらべ…三人の盗人
6 狡猜者の話 B おどけ者
馬とも五十銭…薪買い…栄螺(さざえ)買い…瓶(かめ)買い…底のない壷…片目の牛…雉子と雀…牛の鼻ぐり…牛の鼻欠け…臼を負うて馬に乗る…蝦の塗り…槍すぐめ…馬の田楽…虎の油…泥鰌(どじょう)汁…筍(たけのこ)の使いもの…馬鹿の仲間…鴨汁…肥桶の酒…褒美の片荷…火事の知らせ…山火事で尻…鎌を忘れる…夏冬一緒…星を落とす…蚤は薬…虱(しらみ)の質入れ…薙刀屁(なぎなたべ)…闇夜の黒牛…高知草鞋…火事の小分け…涎(よだれ)がこぼれる…日はどこから暮れる…薬と鑢(やすり)…かな椎(しい)…鰹節の歳暮…仕事は弁当…代官だまし…座頭の喧嘩…酒と小使…借金取りの香奠(こうでん)…鼠の名作…金福輪(きんぷくりん)…生き絵…金の鳥居…出たものは切る…牛の毛三本…吉五の天昇り
7 巧智(こうち)者の話 A 業くらべ
狸の巣…烏の巣…中ぶらりん…どうもとこうも…蚤の牙…鳥居を踏みおる…そんなことはない…二反の白…てんで持ち…嘘の種…嘘つく槍…庚甲待(うこしんまち)の謎・・・話千両…尾張が遠い…仁王と賀王…長命くらべ…無言くらべ…宝くらべ・・・法螺くらべ…法螺吹き童児…大力くらべ…大食くらべ…屁の問答…伐りたくもなし…和尚と田楽豆腐…りんの歌…十五夜の歌…餅の分配
8 巧智者の話 B 和尚と小僧
梨は毒…卵は白茄子…鮎は剃刀…和尚と焼餅…和尚をおどす…小僧の改名…菎蒻(こんにゃく)問答…柄皮(えかわ)孫左衛門…指合図…耳に蒲団…馬の落し物…小僧の小便…餅は本尊様…餅のお代り…親棄山…金の茄子…侍と小僧…狐の鳴色
9 誇張話
隠れ蓑笠…尻鳴り箆(へら)…源五郎の天昇り…鴨取権兵衛…鼻高扇…八石山…田之久…何が一番怖い…石肥三年…雀捕り・・・鬼の面…三人聟…怪我の功名…若返りの水

Ⅲ 動物民話

1 動物の分配
狐と狸と兎の分配…貉(むじな)と猿と川獺(かわうそ)の分配…拾い物の分配…猿の仲裁…蜂と蟻の魚分配
2 動物の競争
十二支の由来…蚤と虱の駈けくらべ…田螺(たにし)と狐…猿と蛙の旅…狐と虎と獅子…虎と亀の競走…鷦鷯(みそさざい)は鳥の王様…鳥の王様選び…大鳥と蝦…猿と蟹の寄合餅…猿と蟹の餅競争
3 動物の争闘
尻尾の釣り…魚泥坊…川獺と狐…猫と猟…百舌と狐…狐と狸の化けくらべ…猿蟹合戦…雀の仇討…かちかち山…古屋の漏り
4 動物の社会
亀に負けた兎…豆と炭と藁…猿の生肝…田螺と烏の問答…百足の医者迎え…百足と蛞蝓(なめくじ)の競走…百足の使い…犬と狐の旅
5 動物の由来
梟(ふくろう)の染物屋…猪と亀…土竜と蛙…割れた亀の甲…雲雀の博徒…雲雀の金貸…蚯蚓(みみず)の歌と蛇の眼…虱と蚤の由来…蚤と蚊の由来…犬の脚…時鳥(ほととぎす)の沓造り…時鳥と百舌…蚯蚓と土…かせ掛け蚯蚓…雀の孝行…時鳥の孝行…馬追鳥(まおいどり)と母子…郭公と母子…鳶の不孝…山鳩の不孝…水乞鳥の不孝…時鳥と継母…時鳥と物数え…時鳥と庖丁…行々子(ぎょうぎょうし)と草履…よしとく鳥…蝉の兄弟…片足脚絆

民話関係用語の解説

民話
 元来がFolk-taleの訳語である。民間説話を略称したものであろうが、これは昔話・伝説・由来譚・世間話などを、常識的に総括した呼称であるとされている。が、これにもいろいろの解釈が存在していて、民衆の中に生まれ育った文芸であるとして、一部の創作文芸までも含めるものもある。
 なるほど昔話の中にも、その長い年月の伝承過程において、創作意識もあったろうし、あるいはその作者も存在していたかもしれない。しかし、これは民謡と新作民謡、芸能と舞台芸能の関係のように、どうも明確な概念を定めることは困難である。
 また、この語の科学的な概念や範囲については、ボルテ(J.Bolte)1920年に、伝説と対比させて、その信憑性や定着性・様式の有無を基にして、その概念を規定しており、フィンランドのアアルネ(A.Aarne)は、1910年に動物昔話・本格昔話・笑話をその範囲として、昔話と呼んでいる。わが国でもこの説が採用され、本格民話・動物民話・笑話を、その生成・発展の過程から別個のものとして、これらを総括して「民話」というとする考え方もあり、この概念の基準が広く通用している。(「昔話」の項を参照)
昔話
 一定の型式を備えた口承文芸の一種である。民間説話・民譚(みんたん)・民話・お伽話・童話などは、これと類似した概念に立脚したことばであり、いずれもFolk-taleの訳語であって、内容や型式もよく似通っている。
 これらの中で「説話」というのは、文献に記された伝承文芸を指していう場合が多い。そして、これに「民間」の語を加えて、「民間説話」ということばもある。「民譚」というのは、「民間の物語」のことであるが、その発音や文字のまぎらわしさから、あまり用いられなくなっている。
 「民話」については、近頃はその使用が盛んであるが、これも明確な概念は規定されていない。(前項「民話」を参照)「お伽話」については、戦国時代以降に日夜君側にあって、主君の話相手となったお伽衆に関連したもので、これは話の内容よりもその雰囲気や場所に、よったものである。
 また、「童話」は昔話が子供たちの手から移されたもので、古くは子供たち専用のものではなく、むしろ昔話を童話とは致し難い。これは大正時代の、『赤い鳥』運動以降のものである。そこでこの「昔話」であるが、これは古くからの慣用語で、「昔の話」とは区別されて、学術用語として採り上げられ、現今でも「ムカシ」「ムカシコ」と呼んでいる地方もある。
 この昔話の型式の特色としては、「むかし、むかし、あるところに……」といった式の句ではじまる。これは『伊勢物語』が、「昔男ありけり」ではじまったり、『今昔物語』が「今は昔」ではじめられるのと共通している。こうして、話の内容がまず事実話ではないことを、はっきりとさせている。そして、その進行には聞き手が「はーりゃ」「げい」などの相槌ことばを入れ、昔話が語り手と聞き手の両者から、構成されていることを示している。(「相槌ことば」の項を参照)結末には「あったげな」「あったとさ」などと、話の内容には責任を持たないことを、明らかにするのである。
 昔話の分類については、「本格民話」「動物民話」「笑話」の、三つの群に分ける。本書では「本格民話」はこれを更に15項目に、「笑話」を9項目に、「動物民話」を5項目に分けた。柳田国男氏は昔話を、「完形昔話」と「派生昔話」に分け、「完形昔話」については本格民話と大体同じであるが、笑話や動物気話を完形昔話から派生したものとしている。
 しかし、これらの昔話は、広く世界的に分布したもので、一つの民族や国家のみに関係したものではない。そこで、その国際的な比較研究も、国内的な比較研究と併せて進められる必要がある。従って、昔話の発生と伝播の追及は、重要な問題となって来る。
伝説
 神話や昔話・縁起などと、しばしば混淆(こんとう)されたり交流したりしているが、これは一族・集団の由来や信仰を、後世に伝えるために、これを支持する人々に口承で語られた物語の一種である。従って、現在の伝説には、その二次的三次的な発生伝説をも含めているので、いずれの時代相を重視するかで、その概念も異ってくる。その上に、その集団の信仰や、社会生活・自然的な環境に影響されるので、伝説の概念や定義は明確にされ難い。
 伝説の特色としては、具体的な事物と結合して語られていることで、大木・岩石・池水・塚などにも結びついている。従って、古い昔の話にも、現在でもその記念物や証拠物件が存在している。その内容については、空想的なものであっても、それが全くの事実の如く信じられて、しばしば歴史と混同している。これは伝説に歴史化・合理化せんとする働きが、存在するからである。また、時には脚色され文芸化されても、それが仮空の文芸とは考えられてはいない。昔話などに比較すると、一つの定形もなく、韻文化もされず、始め終りの文句もなく、厳粛さもない。形式的には世間話に近いが、それよりは公的であるというに過ぎない。
 こうした伝説の分類については、まだ十分なものはないが、伝説にはその記念物や証拠物件を伴うので、それによって『日本伝説名彙』に、次の如くに分類している。
① 木の部-腰掛松・逆さ松・片葉芦などの木や植物の伝説。
② 石・岩の部-夜泣石・馬蹄石など。
③ 水の部-橋・清水・井・湯・池・川・渕・滝など。
④ 塚の部-椀貸塚・十三塚など。
⑤ 坂・峠の部-坂・峠・山・谷・城趾など。
⑥ 祠堂の部-地蔵・薬師・不動など。
このほかに、まだその内容の上から、
A 長者伝説-没落の由来や廃墟の説明。
B 神霊の訪問によって現われるという信仰伝説-高僧や貴人の巡回によるとする伝説。
C 祭儀や呪法によるとした伝説。
D 神霊が木石に憑依してあらわれる伝説。
E 民話などの伝説化。
など、いろいなものが考えられるであろう。
口承(こうしょう)文芸
 口頭で伝承された文芸という意で、民間文芸と同一であるとはいえないが、同義語として用いられることが多い。しかし、口承文芸が民俗学の研究対蒙として採り上げられて、その蒐集と研究は柳田国男氏によって、民俗学の一分野とされた。これには諺・謎・唱え言・民謡・童唄・民話・伝説など、いろいろな項目が含まれている。これらのものは、民俗学的な意味で、口頭によって古くから伝承された文芸で、今なおその生命を保っているものであり、一定の形式と同一の内容のものが、異った場所に多く存在し、しかも特定の作者のないことが特色である。
 こうしたものは、記録以前にも口承の時代があり、記録時代後も両者は併存しており、変改されつつも記録に残されている。つまり、稗田阿礼の暗諦していた『古事記』や、そのほかの伝承の編入された『日本書紀』、民間古伝承の多い『風土記』をはじめ、『日本霊異記』『今昔物語』などの説話、『平家物語』『曽我物語』などの唱導文学、浄瑠璃、説話などの語りもの-、すべてが口承文芸とはいわれないまでも、その背後には口承文芸の分野が大きく存在している。
 最近はこうした口承文芸への認識と研究が向上し、その成果も挙がりつつあるが、更に民俗資料の十分な蒐集と分析によって、その比較整理の進展と相俣って、口承文芸の辿った道も、明らかにされるであろうと思われる。
世間話
 口承文芸の一部門ではあるが、文芸としては形の未完成な、前段階的なものまでも含まれている。これらはその時代によって、種々様々なものがあり、型式などはないように見えるが、その集団の中では共通した話題が多い。そして、それらの話題-天変・神異・怪異に関するもの、近隣者や権力者に対する批評など-は、一時代の集団の常識を基にしたもので、それが集団の一種の基準ともなり得た。
 しかし、この世間話は、民話などとは違って、それが架空な珍奇な話であっても、いつ誰がどこでと、その事実を示そうとしている。口承文芸の一部門とはいっても、学問的にはその分類も範囲も、明らかに研究されてはいない。
童話
 これを「子供のための文学」と意義づけと、大正時代に鈴木三重吉の『赤い鳥』運動以降に、はじめて起ったものと見ても差支えはない。それ以前のものは、子供たちに語られていたからといって、昔話を童話とすることは誤りである。これはただ、昔話の管理者が子供たちの手に移されたという、一っの社会的な現象に過ぎない。古くはこれらのものが、子供たち専用のものでは、決してなかったのである。
 しかし、この「童話」という語は、たしかに近世の末には存在していて、京伝や馬琴なども使っており、これを「むかしばなし」「わらべのものがたり」と詠(よ)んでいる。が、これらは昔話を指してはいるが、今日の文学者のいう観念とは、まったく違ったものである。
本格民話
 前の「民話」の項で説明したように、民話の類型を分類する方法は、古くからいろいろに試みられているが、フィンランド学派のアアルネ(A.Aarne)の分類方法が、最も広汎で組織的である。アアルネは昔話を、(1)勲物昔話、(2)本格昔話、(3)笑話の三つに三大別しており、この中の「本格昔話」に関しては、次の四つの群に分けている。
① 呪的昔話-A 超自然的反対者。B 超自然的または呪力のある夫()や、その他の関係者。C 超自然的課題。D 超自然的対象物。E 超自然力や知識。F その他の超自然的契機。
② 宗教的昔話-キリスト教的モチィーフを持った昔話。
③ 小説的昔話-前記のものよりも更に現実的な昔話。
④ 愚かな悪魔の昔話。
 しかし、こうした分類を、その後アメリカのタムスン(Thompson)が、モチィーフの分類を基準とする方法に基いて訂正し、更に一層広汎なものとなって、これがヨーロッパにおける昔話蒐集の体系をなしている。
 わが国では、柳田国男氏によって、その分類が試みられたが、本格昔話を完形昔話とし、動物昔話を含んだ自然説話や笑話などを、派生昔話とした。その他、分類方法については、さまざまなものがあるが、ここには民話を全体的に三つに分類して、それぞれの分類は機能的に関連した一群の民話を、個々の型によって配列した。
 それが、(1)長者話、(2)水神の国、……(15)愚かな動物に区分したものであるが、必らずしもこの区分方法が、決定的なものではないことは勿論である。また、個々のものの配列についても大いに批判があろうし、奔放自在なモチィーフの結合によって、一つの民話が何を説こうとしているかの判別に、苦しむこともある。そのほかにも、いろいろな難問がそこに横たわっていて、その分類一つにしても、なかなか容易なものではないのである。
笑話
 「本格民話」や「動物民話」に対して、笑いを中心とした民話の一種である。本書では、(1)愚か者の話、(2)狡猾者の話、(3)巧智者の話、(4)誇張話に分け、これをその内容の上から、次のように区分した。
(1)愚か者の話-愚かな人たちに関した話。A 愚か村、B 愚か男、 C愚か聟・男、D 愚か嫁・女。
 これらのいずれも、愚か者の愚かな行動をその主題としたもので、その中には特定の人物に結びついものもある。
(2)狡猾者の話-ずるい者やおどけ者を主人公とし、おどけた言動を主とした話。A 狡猾者、B おどけ者。
 狡猾者では、「嘘八卦」「遠国の火事」「金ひり馬」「俵薬師」など、ずるい者が智謀によって富を得る話である。おどけ者では、「馬とも五十銭」「底のない壺」「山火事で尻」「片目の牛」のような、主人公のおどけた言動や、吉四六話などがある。
(3)巧智者の話-大人同士の知恵くらべや、年少者と年長者の智的闘争で、年少者が勝ちをおさめる話。A 業くらべ、B 和尚と小僧。
 前者では「中ぶらりん」「二反の白」「無言くらべ」などがあり、後者では「梨は毒」「和尚と焼餅」「菎蒻問答」などがある。また、歴史的な人物の逸話としても語られている。
(4)誇張話-とんでもなく誇張した話。「隠れ蓑笠』「源五郎の天昇り」「田之久」などのように、極端な空想が中心となった喜劇的な話である。
その他、内容そのものを語りの興味においた、「果なし話」などもある。
 これらの笑話は、現実の生活に取材して、人間性の愚かさを露骨に画き出し、何等の奇跡も神の恩恵も求めてはいない。只々現実に即して、人間の滑稽さ機智さを表現したのである。こうしたものは、中世以降の記録文芸にも記され、座頭や旅芸人たちによって、伝播されたものであろう。
動物民話
 「本格民話」「笑話」に対して、動物がその主人公となって進展するもので、動物を中心した民話である。本書ではこれを、(1)動物の分配、(2)動物の競争、(3)動物の争闘、(4)動物の社会、(5)動物の由来に分けた。
 これらのものの中には、動物の習性・形態・鳴声の由来を説くものから、動物たちの競争や闘争、またその社会生活などに亘って、これを擬人的に叙述したものなどがある。そして、これらの一部には、本格民話の断片が孤立したものの如く思われたり、本格民話から派生したものの如く扱われやすいものもあるが、だからといって動物民話が、本格民話から生まれたということにはならない。両者は平行して存続したものとすべきであろうし、ある点では本格民話よりも古いということもできよう。
 こうした動物民話の中から、その重要なものを挙げてみると、
(1)動物の分配-「拾い物の分配」「猿の仲裁」「狐と狸と兎の分配」など。
(2)動物の競争-「十二支の由来」「虎と亀の競走」「鳥の王様選び」「猿と蟹の寄合餅」など。動物の競走や餅競争に関するもの。(3)動物の争闘-「尻尾の釣」「川獺と狐」「猿蟹合戦」「かちかち山」「古屋の漏り」など。動物の社会生活や争闘に関するもの。(4)動物の社会-「猿の生肝」「百足の使い」「豆と炭と藁」など。
(5)動物の由来-「梟の染物屋」「猪と亀」「割れた亀の甲」「雲雀の金貸し」「雀の孝行」「時鳥の兄弟」など。動物の形態や由来・習性の説明。
これらの動物民話の中にも、その一部が動物報恩の話と入りまじったり、本格民話に主人公顔で首を突っこもうとしているものもある。
異類女房
 人間以外の動物-水神に関係を持つものが多い-が、人間と結婚することを主題とした民話である。これには人間の男性と、異類の女性とが結婚するものと、人間の女性と異類の男性が、結婚するものとがある。例えば、鶴女房や狐女房・蛤女房などは前者に属し、猿聟入や蛇聟入などは後者に属する。
 大体この話の型式には、モチィーフの複合があって、厳密に分類することは困難であるが、多くは水界と結びついたものが多く、結末は幸福な結婚に終るものもあるが、その異類であることを発見したために、幸運をのがしてしまい、不幸な結末に終っているものが多い。試みに、その分類を示してみると、次のようになる。
A 三輪山型・苧環(おだまき)型・立聞型などといわれるもので、通って来る男性の衣に糸を刺し通す。その糸をたどっていくと、蛇親子の会話を聞くという式のもの。古くは三輪山の大神の話がある。
B 水乞型ともいうべきもので、親が干田に水を導いてくれた者には、娘を与えるとつぶやく。これを蛇・猿が水を入れて、聟入りを申出る。しかし、里帰りの時にその異類は死ぬ。
C 蛙報恩型ともいうべきもので、蛇に呑まれようとした蛙・蟹を爺が助けてやる。助けられた蛙・蟹は、報恩のために蛇を殺して娘を助ける。
難題聟
 難題を解き明かすことによって、幸福な結婚をするという民話である。これらのものは多く難題を付随している民話を、こういって総称したもので、その中には種々の民話群を含んでいる。「山田の白滝」「蜂の援助」「絵姿女房」など、みなその類いである。そして、これらのものを種別的に見ると、
A 蜂が難題を解決するために、援助してくれる「蜂の援助」式のもの。
B 灰縄・打たぬ太鼓に鳴る太鼓などの、三つの難題を解決するもの。
C 胆力を試されたりする、試練型のものなどがある。
 こうした民話の背景には、結婚の条件としてある種の試練を受ける民俗が、存在していたのであろうことも考えられる。こうした話が、次第に難題を解く頭の働きから、笑話への道を歩んでいったのである。
隣りの爺
 善い爺と悪い爺を、対立させて登場させて、悪い爺が善い爺のまねをして、失敗することを主題とした民話である。例えば、「猿地蔵」「地蔵浄土」「舌切雀」「花咲爺」「鼠の浄土」などがそれである。こうした民話群の総称とするほかに、こういった民話群に共通している語り方の傾向とも見られ、この型のものが相当に多く見受けられる。これらを眺めてみると、
A 花咲爺・雁取爺-「花咲爺」では、犬の助けで財宝を得、隣りの爺は失敗するが、一つの行為のたびに隣りの爺が現われる。つまり、二人の爺の抗争の反復で話が進行する。
B 鳥呑爺・舌切雀-鳥に与えたわずかな親切によって、多くの財宝を得る。「舌切雀」の場合は、同じ家族の中によい爺と悪い婆が登場する。
C 地蔵浄土・鼠の浄土・瘤取爺-地底の異郷を訪れ、地蔵に教えられたり、鼠の接待を受けて財宝を得るなどの、いろいろな型式をとっている。そして、語り方の傾向としては、Aの「花咲爺」のようなものの他に、「隣りの爺がそのまねをして失敗する」という条を、付け加えたものが多い。
 ともかく、この「隣りの爺」型のものでは、結末が財宝の獲得に、結びついたものが多いことが特色である。しかも多くは、犬・鳥・雀・鼠・猿などの動物の援助によっている。また、動物以外のものでは、「地蔵浄土」の地蔵、「塩吹臼」の白ひげの老人、「黄金の斧」の竜神、「宝手拭」の弘法大師などもある。
 こうした幸運を導く者は、異郷の神や異郷の人で、動物たちもまた一つの異郷の使者であった。わが国にこうした『隣りの爺」式の民話の多いことは、そうした恩恵は心の正しい者のみが、当然受けることのできる福分であり、表面だけのまねでは決して、その恩恵には浴しないという観念の他に、異郷人を歓待する心情が深く根ざしていたものであろう。
兄弟話
これには二人兄弟と、三人兄弟の二つがあるが、いずれもその兄弟の優劣を説いた民話である。まず、三人兄弟型のものを見ると、父が三人の兄弟に出世をして来いと、家を出してやる。すると、
(1)愚か者だとされていた長兄が、呪宝を獲得し、財宝を得て後継者になる。
(2)末弟または長兄が、呪宝を手に入れて泥坊になり、父の馬を盗んで後継者になる。
 二人兄弟の方は、継母に憎まれた兄弟が家を出て、二人の弓絃が切れたら、死んだものと思おうといい交して別れる。切らなくとも敵をたおす刀などの呪宝を獲得して、兄()が一方を蘇生させる。
 これらの話を比較してみると、いずれも兄弟話ではあっても共通点は少なく、三人兄弟の方の民話群には多少の共通点はあるが、二人兄弟の方は採集例も少ないが、決まった形がない。これは三人兄弟の中の一人が、脱落したものかとも思われるが、かえって二人兄弟の話が発展して三人兄弟型に成長したものと見る考え方もある。
 いずれにしても、この兄弟話は兄弟たちが、その優劣を競いあうものではあるが、必らずしも「隣り爺」型のような、善悪対立抗争型のものではない。三人兄弟では、一人目も二人目も失敗して、三人目になってようやく成功するといった繰り返しが、話の興味と関心度を高めていったので、そこにも話し方の発達がうかがえる。結局は「一人兄弟」と「三人兄弟」とは、その交流や関連性を裏づけることは困難で、話の成立や時期を異にしたものであろうかと思われる。
動物の報恩
動物民話では、その主体となるものは動物である。しかし、この「動物の報恩」では、人間がその主役であって、動物はあくまでも脇役である。そして、動物と人間との交渉を説く民話の中で、動物が人間に恩を返すという一群のものをいった。
この種の報恩話にも、二つの種類があって、
(1)「忠義な犬」「鶏の報恩」などのように、長い間飼っていた犬・猫・鶏などが、命をかけて主人の命を救った話である。これは動物の報恩自体が、話の中心をなしている。
(2)子供にいじめられていた亀が助けられて、その救いの主を竜宮へ連れていくという「浦島太郎」。介抱してもらった礼に、たくさんの財宝を与えるという「舌切雀」。話の中に報恩の要素が含まれているもの。
 そのほか注意を要するのは、『文福茶釜』における狸()などは、助けられたために二度も三度もその恩返しをし、「鼠浄土」では僅か一つの握り飯で、浄土へ招いて多くの財宝を与えている。これらは動物たちの異常援助で、動物が受けた助けと人間に与えた恩恵とには、アンバランスなものがある。これらは人間と動物とが、古くは対等の交渉を持っていたとする考え方が、民話の中に残されているのであろう。
愚か村
 愚か者を笑いの対象とした笑話の中で、一つの秘境ともいわれるような、俗界離れのした村落を槍玉にあげて、そこで起ったかのような笑い話を、総括していったものである。しかし、元来が責任のない笑い話なので、それがどこの国のどの村であるかは、明確にされていることはない。例えば、「鯛の煎じ滓」の話を見ると、
三人の田舎者が、町へ出かけて宿屋に泊った。「わしたちは田舎者だからといって、バカにされまい」と考えて、町の魚屋から大鯛を買って来て、大釜で煮てもらった。この鯛煮を女中が運んで来ると、三人は汁だけをガブガブ飲んで、肉は食べようとはしない。女中からそのわけを聞かれると、「何ぼ田舎者だからって、鯛の煎じ滓なんか食えるかい」といった。(福岡)
という話だとか、「芋ころがし」のように、
庄屋どんのところで祝儀があって、村人たちも招かれたが、その作法を知らない。困って和尚に相談をすると、「わしのするようにまねよ」というので、村人たちも安心して出かけていった。やがて祝儀の膳が出て、和尚が芋を一つコロコロと落すと、村人たちもさっそくこれをまねる。これに閉口した和尚は顔をしかめて、「エヘン、エヘン」と咳払いをすると、みんなもそれをまねる。和尚は怒って、肘で隣りの者をつくと、また次々にまねる。最後の者は、「わしの肘はどこへ持っていくのか」とたずねる。(京都)
 ともかく、こうした笑い話はいろいろとあるが、現実の生活に取材して、しかもつとめて現実に即して語られているので、その滑稽さや機智が自然と罪のない笑いを誘っている。「笑話」の項を参照。
愚か聟
 愚かな畳や息子を対象として、その愚かな振舞を中心とした笑話の総称である。例えば、「瓶の尻」のように、母親が甘酒の瓶を二階からおろそうとして、下にいる息子に尻をしっかりとおさえろという。息子は自分の尻だと思い違えて、尻をおさえる。母親が手を離すと、瓶はおちて割れてしまう話。また、「馬の尻にお札」のように、馬鹿聟が舅の家の新築祝いに行き、嫁に教えられた通り柱の節穴にはお札を貼ればいいという。この手を次の時にもまた用いて、馬の尻を見てお札を貼れといって失敗する話。その他にも、その例話の類いはいろいろと多い。
 これらの話の中には、なかなか巧みに、実際話のように作られているものもあり、また笑いを誘うための作為が、露骨にあらわれているものもある。いずれにしても、こうした話は座頭や旅芸人たちの手によって、広く伝播していったものであろうし、これがまた近世の落語の発達に、大きな関連を持っているのである。「笑話」の項参照。
吉四六話(きちよむばなし)
 「吉四六」は一般にこれを、「きっちょん」と詠むのが普通である。大分県の地方で行なわれているおどけ話の主人公で、すぐれた頓智者とされ、また実在の人物であると、信じられていることが多い。これを他の地方では、彦市・彦八とか、吉五・吉五郎などという名もある。話の内容は一つの頓智話を実話式にしたり、知恵をめぐらした話などが多く、「大話」なども多分に含まれている。こうした話は、座頭などによって、各地へ伝播されたものであろうとされる。
大話(おおばなし)
笑話の中でも、まったく有り得べからざるような、法螺話のことである。その中でも、特にはなはだしいエロ話を指して、「大話」といっていることが多い。「笑話」の項を参照。
和尚と小僧
 知恵を働かして、小僧が和尚をへこます型の笑話である。例えば、「餅は本尊様」のように、和尚の留守の間に小僧が仏前の牡丹餅を平らげてしまい、本尊様の口に餓を塗っておく。これを帰って来た和尚が発見して叱ると、小僧は本尊様が食べたのだという。そこで和尚が棒で叩くと、本尊様は「クワーン」という。小僧が湯の中へつけて煮ると、「クッタクッタ」という。
 その他、「和尚と焼餅」では、和尚が餅をもらったが、一人で食べて小僧には少しもやらない。ある時、近所で建前があるからといって、小僧を出してやり、そのあとで和尚はひとりで餅を焼いている。小僧は出かけたように見せかけて、これをのぞき、急に帰って来て和尚が灰の中に埋めた餅を火箸で刺して、建前の報告をしながら、みんな掘り出して食べてしまうという話。また「梨の毒」「餅のお代り」など、みなこの式の笑話である。
 これらの話は、古く『宇治拾遺物語』や『沙石集』などにも見えて、近世の『一休咄』や『醒睡笑』にも類話がある。その分布については、外国にもあって、その範囲は広いものである。
動物の競争
 動物同士がお互いに力比べをしたり、競走をしたりする民話である。この種のものでは、例えば「田螺と狐」の話のように、
田螺と狐が駈けくらべをしようといって、一二三の号令で飛び出した。田螺はすばやく狐の尻尾に飛びついたが、狐はそれを知らないで夢中で走った。そのうちに狐は疲れて来たので、足をとめると、その拍子に田螺は狐の尻尾から離れて、一間ほど先ヘピョンと落ちた。そして、「どうしたね、狐どん。わしはここにいるぞ」といったので、狐は「ウーン」とうなって、この駈けくらべは田螺の勝ちとなった。(熊本)
 といった類いである。こうした競走の相手としては、鼬と田螺とか、虎と狐とか、田螺と虎とか、いろいろな組み合わせがある。
 この型式を持ったものは、韓国や東南アジア方面の国々にもある。また、イソップの「兎と亀」の駈けくらべに相当するものに、「蚤と虱の駈けくらべ」があるが、全く同型のものは見当たらない。
五大お伽噺
 五つの大きな昔話とも童話ともいわれて、桃太郎・かちかち山・猿蟹合戦・花咲爺・舌切雀を、指していっている。あたかもこの五つのものが、日本の昔話の代表的なものの如くにされたのは、まったく偶然による筆録である。近世の中期に至って、これが赤本の類いに採り上げられて流布し、末期の『童話長篇』などで編集されて、いよいよ昔話の基本的なものとして固定された。そして更に国定教科書などにも載せられるに至って、これが一般に決定的なものになっていったのである。従って、以上の五種のものが、日本の民話の標準的・基本的な、すぐれた作品であるというわけではない。
因縁話
 困果応報だとか、前世の因縁によって人間の運命は、すでに決っているとかを、主題とした民話である。例えば、
二人の友達が、三年後には故郷へ帰ろうと約束をし、江戸へ働きに出た。一人は金を儲けたが、他の一人は働かない。その帰途、小夜の中山で友達を殺して金を奪う。その後、殺した男は金も無くなったので、江戸へもどった。小夜の中山を通ると、先年殺した友達の骸骨が歌っているので、これで金儲けをしようと骸骨を拾って行った。しかし、かえって骸骨は大勢の前で、「心許すな悪い友達に……」と歌ったので、罪がばれてしまい、とうとう罰せられた。(福島)
 といった「歌い骸骨」の話などが、それである。これらの因縁話は、主として仏説と結合して語られているが、おそらくは仏教関係者の手によって、伝播されたものであったかもしれない。
運定め話
 人間は生まれながらにして、運命がすでに決められていて、山の神や産神が相談をして、その運命を決める話がはじめにある。これには大体、型が三つある。
 第一の型は、「炭焼長者」の話とも、密接なつながりを持っていて、同じ夜に生まれた子供の中で、女児のみが福分を持つといった話。第二の型は、水神に命をとられる筈になっていた子供が、何かの偶然な機縁で助けられるといった話。第三の型は、手斧で死ぬことに決められていた子供が、虻を追い払おうとした手斧にふれて死ぬという、「虻と手斧」型の話である。
第一の型のものでは、ある男が山の祠に寝ていると、神々が彼等の家に生まれる子供の将来を話している。聞いてみると、女児には福があるというので、男児の親はその許嫁にした。結婚して後は裕福に暮らすが、夫は妻を嫌って離婚すると、夫は貧しくなる。女は再婚して酒泉を発見して富む。先夫は物乞いに行くと、元の女房は握り飯の中に小判を入れてやる。先夫はそれに気づかずに捨てる。またこれを知って、前非を悔いるというのである。これはすでに古く『今昔物語』や、『大和物語』などにも見えているものである。
第二の型のものは、女房が身重になったので、男は地蔵堂に籠って願をかける。他の地蔵が迎えに来たが、来客があるからと断わる。やがて他の地蔵が帰って来て、「寿命は十八、川の主にとられる」という。男は家に帰ると、男児が生まれていた。子供が十八になって、川に洪水があって親に代って普請に出る。親たちは葬式の用意をしていたが、子供は途中で餅を食べ、来合わせた娘にも与えてやる。娘は百貫の餅を食べ、川の堤めで来ると、「私はここの主だ。餅のお礼に十八の寿命を、六十一まで延ばしてやる」といったことになっている。
第三の型のものは、六部が村の祠に泊っていると、山の神が二人して、「斧で死ぬ、七歳まで」と話しあっている。七年後に六部はまたその村へ行くと、子供の傍らで仕事をしていた大工が、子供の顔に虻がとまったので、それを手斧で追い払おうとして、誤って子供の頭を割る
といった風の話である。これもまた『今昔物語』に、見えている話である。「産神問答」の項を参照。
秀句話(しゅうくばなし)
 「婚姻話」中の、「難題聟」などと結びついているものが多く、連歌や狂歌などを即席に作るといった話である。例えば、
 ある家で二代目をほしいと望んでいたが、明日は十日市なので、そこに「一把の藁を十六把にしたら、娘の聟にしよう」と、市に高札を出した。すると、一人のおどけ者がやって来て、藁を一把ほおり投げて「こちらの庭(二把)の隅に、鍬(九把)がごんす。婆さんの顔には皺(四把)がござる。これで投げた一把が十六把になるでごんしょう」といって、聟入りをして大福長者になった。(新潟)
 といった話や、また、
 大金持の家の三人の下男が、山へ木を伐りに行って、各おのの望みの話をしはじめた。一人は七五三の料理を食べたい。もう一人は桝に三ぽいの小判がほしい。更に一人はこの家の聟になりたいという。そこで、最後の男に姉娘が「天より高く咲く初花に、思いがけなや黒びつに」と詠む。男は「天より高く咲く初花も、落ちりゃ木の葉の下に住む」と詠み返して、めでたくその家の聟になった。(広島)
 などといった話の類いである。「山田の白滝」の項を参照
すねこたんぽこ
 豆太郎・指太郎・親指太郎・すねこたんぽこなどともいって、異常誕生をした子供が、いろいろな苦難を克服して行く話である。一寸法師系のものではあるが、その成長話や婚姻話は、されていないのが一般である。一例を掲げてみると、
 爺婆が神様に祈って、掌にのるほどの子供を得て、豆太郎と名づける。ある日、豆太郎は「今日はわたしが馬を引いて行くから、馬の用意をしておくれ」といって、馬の耳の中に入れてもらい、その中で馬を指図して行く。この馬を旅人が千両で買う。途中で豆太郎は逃げ出して、かたづむりの殻の中に休む。次の日は藁の中で休んでいると、牛に食われる。そして、腹の中であばれて牛を殺す。その腸を狼が食ったので、豆太郎は狼の腹に入る。腹の中から話をして、爺婆の家に行かせ、狼は打ち殺されると、中から出て来て爺婆のもとに帰る。(長野)
 グリム童話でも、これは「親指小僧」などといわれて有名であり、ヨーロッパからアジアにかけて、広く分布されている話である。
 鬼が島
 鬼が島はもともと、現実的な島ではなく、鬼が住んでいるといった空想の島であり、他界観に基づいた財宝の島であった。桃太郎の昔話では、犬・猿・雉をつれて鬼が島へ渡り、赤鬼・青鬼を征服して、財宝を得て帰って来る。一寸法師系の昔話でも、この鬼が島へ出かけて、打出の小槌・呪宝・金銀財宝を獲得して、帰って来ることになっている。
 また、この鬼が島を「地蔵浄土」の民話になると、地底の国で鬼たちが博変をしていると、そこへ爺が訪ねていくことになっていたりする。これは鬼が島が、海の彼方の国であると共に地底でもあり得たのである。
 その他のものでは、鹿児島県の沖永良部島の呪的な逃走話では、地底の穴に鬼が島があったり、源為朝が渡ったという鬼が島は、奄美群島の喜界島とか沖縄ともされる。こうして、近世の文芸では次第に現実的なものに化しているのである。
果(はて)なし話(ばなし)
 民話の一つの型式である。子供たちが限りもなく話をせがむことを防ぐために、子供たちに聞かせる話として、単調な文句でしかも味気のないことを知らしめるための、笑話の形をいった。長い話・きりなし語・ねむたい話などともいっている。例えば、
むかし、長崎の鼠たちが食べるものもなくなってしまったので、みんなで薩摩へ渡ろうといって相談をした。そして、薩摩へ舟に乗って向かったが、途中で薩摩の鼠たちも同じように、食べるものが何にもなくなったので、舟に乗って長崎へ来るのに出あった。話を聞いてみると、双方ともにわざわざ出かけていっても仕方がない。いっそ海に入ってしまおうといって、一ぴきの鼠がチューチュー鳴いて、ドンブリと飛びこんだ。次の鼠もまた、チューチュー鳴いて、ドンブリ飛びこんだ。(熊本)
 これなどを、どこまでも続けて話して聞かせるのである。また、こんなのもある。
橡(とう)の実が風に吹かれて、川へ落ちて流れていった。蛇が出て来たので、爺がプツリと切った。蛇が梨の木に今日もノロノロ。炉から蚯蚓がペロッと出たので、チョキンと切った。蛇をチョキンと切ると、ヘロッと出る。(岩手)
 といった類いのもので、これを長く長く際限もなく繰り返すのである。
昼昔(ひるむかし)
 昼間に昔話をして聞かせることである。この昼昔をすると、鼠が笑うなどといった伝承が各地にある。これは子供たちが無際限に、昼間から話をせがんで仕方がないので、これを防止する一手段として、今日も利用されている。しかし、この昔話が子供たちの管理下に置かれる前には、ある定められた機会に、語られたものであったろうことが、これによって推測される。『話は庚申の夜』などといった諺もあることは、昔話の特質の一つを物語っているようである。また昔話は、日待ち月待ちとか、講の寄合いなどによく語られていたが、物忌みで家の中に静かに集まっている時などは、昔話を語る絶好の機会であったろうと思われる。
げなげな話(ばなし)
昔話がしばしば、「……だったげな(だったそうな)」という風のことばで終っているからの呼称で、昔話のことをいった。この「げな」ということばの中には、話の内容に関しては、何の責任も負わないといった気持が示されていて、昔話は事実話として語り伝えられたものではなく、話者は単に話を取りついでいるだけであるという観念が含まれている。だからこそ、『げなげな話は嘘じゃげな』といった諺も、あるくらいである。
相槌(あいづち)ことば
 口承文芸にはすべて、語り手と同時にその聞き手の両者がある。そして、語り上手に聞き上手もあるはずである。民話を語る時にも、語り手の話を聞きながら、聞き手はその話を受け答えることばを発する。つまり相槌であって、語り手はこの相槌によって、聞き手の反応を確かめながら、進行していく。従って、その相槌ことばは一つの話の進行の促進剤になる。
 こうして、両者の呼吸がぴったりと合ってこそ、話の内容が盛り上ってくる。「むかし、爺と婆があったじ」と語り出すと、聞き手は声をそろえて、「はあ……」と相槌を打つ。これが出ないと、どうも後のことばが語り手にも、口をついて出て来ない。
 この相槌ことばについては、岩手県では「はーりゃ(アレハに軽い驚きのハアを加えたものという)」とか、,「はーと」とか、山形県では「おっと」とか、宮城県では「げん」(実にの意)。また、鹿児島県では「うーん」「おー」とか、地方々々によってさまざまなことばがある。

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