メヒコの自由学校  山崎満喜子 著 現代書館 19811115日第1版発行

カバー写真★林 和子/中扉挿絵★山崎まどか★リウス/装幀★足立秀夫  0030-20138-1935

メヒコの自由学校カバー画像

プロローグ

メヒコへ
 1977年、5月18日、ロスアンジェルス経由でメヒコ(メキシコ)へむかう飛行機の中で、まどかは父親の友人から贈られたノートに、カラーマジックで熱心に絵を描いていた。ひとしきり描いてシートにもたれて寝入ってしまったひざから、そのノートをとりあげてパラパラとめくると、三枚の絵が私の眼をひいた。
 一枚目は、飛行機が海に墜落し、逆巻く波にまさにのみこまれようとして両手をあげてなにやら叫んでいるのは、なんと私たち三人で、余白にはようやく書けるようになったたどたどしいひらがなで"はずれ"と書いてある。二枚目は、空港とおぼしき所に(遠方に小さな飛行機とヘリコプターがとまっている)、私たち三人が降り立ってニコニコ笑っており、余白には"あたり"。三枚目は、中央に家が一軒、大きな窓があいていて、そこから私たち三人が笑顔で外をながめている。余白には"おおあたり"とあった。笑いだしながら、門歯が未だ生えきらない口を微かにあけて眠っている顔に思わず見入ってしまう。
 あんなに愉しみにしていた小学校生活も入学してわずか一ヵ月足らずで、先生やおともだちにさよならを言わなければならなかった。父親の海外研究のために見知らぬ国へ旅立つ幼い心の不安に充分につきあう余裕もなく、私たち両親は出発の準備に明け暮れた。
 「メヒコって、どんな国?」「そうねえ、一年中暑くて、日本みたいに季節がないの。お祭がたくさんあってたのしい所みたいねえ」。これから暮らそうとする国についての予備知識は、もっぱら旅行者のためのガイドブックによるもので、夫ですら専門領域の知識以外、日常生活のきれはしもイメージが湧かないといったありさまだった。
 そして、三人三様の希望と不安のうちに旅立ち、今、子どもは三枚の絵を描いた。"はずれ""あたり""おおあたり"と……。1979年5月までの二年間、メヒコでの私たちの生活が、わずかなつまずきやホームシックに悩んだ日々があったにせよ、優しい友人や楽しいすてきな出来ごとにみちた時間として、ことにまどかにとっては、まさしく"おおあたり"の連続になることは、誰にも予測できなかった。
"トラウィカ学園"に出会うまで
 私たちが旅装を解いたのは、モレーロス州の首都、クエルナパーカ市で、メヒコ市(メキシコシティ)から南方へ車で一時間ちょっとの距離にある。街の中央(セントロ)には、スペイン人の征服者、フェルナンド・コルテスの邸が(現在は博物館として)残っているように、この地の温暖な気候を愛して住みついた人びとは多く、古くから保養地として栄えてきた。クエルナバーカの本来の名は、ナワトル語で"クウアウアナック"と言い、"木の多く茂る所の近く"という意味を持つ。その名のとおり、メヒコ市から車で街に入る時には、眼下に緑したたる美しい町がひらけ、白く輝く家々が緑の中に点在してみえる。家々のへいにからんで波打つ赤紫色のブーゲンビリアの花は、はじめて出会うこの南国の町の象徴のように私の眼に灼きついた。
 私たちはまず、外国人学生に向けて作られた、宿泊・三食付き一日ひとり五ドルの"下宿"に落着いた。"下宿人"は、おもに米国から観光をかねてスペイン語を習得にやって来る大学生で、市内にあるいくつかの語学学校に通う。夫婦や恋人同士のカップルはいくらもいるが、私たちのように"子持ち"はめずらしかった。
 夫は下宿からバスで10分ほどの"シドック"内の語学学校へ、私もバスに乗って20分ほどの"教育コミュニティ・セマナワック"に通い始める。シドックは近くて便利だったが、セマナワックの方は、スペイン語コースのほかに、私が長い間やりたかった"オアハカ織コース"を併設していた。
 下宿には、50代のセニョーラ(奥さん)のほかに、娘のベアトリスと、一歳になる孫娘のユリがおり、私たちは、このユリがまどかの良い遊び相手になるのではないかと期待した。しかし、ひとりっ子で育ち、スペイン語がまったくといっていいほどわからないまどかに、それは最初から無理な話だった。それどころか、両親が学校に出かけてしまう昼間は、彼女にとって幼いユリの存在が予想外に重荷だったらしい。
 「まず、この国で暮らすにはスペイン語が不自由なく話せるようにならなければ…ね。三人で暮らし始めるのに、ことばがうまくなければお買物だってできないでしょう?まどかはひとりでお留守番できるわよね?」と説得し、「でも、もうすぐ三人でお家を借りて暮らすんでしょ?それまででしょ?」と不安そうに何度も念を押してやっと納得してくれたのに、私が学校から帰ると、まずみんなのいるリビングルームから二階にある私たちの寝室まで母親をひっばりあげて、いろいろなことを訴えるのである。「セニョーラは、階下のテープルで絵を描いたり本を読んだりしてもいいっていってるよってママ言ってたけど、きょう絵を描いていたら紙もクレヨンもユリちゃんにメチャメチャにされたの」「ユリちゃんはなんでも私のものをほしがるの。なんでもとりあげてしまうの」。
 ユリは二歳たらずで未だなにもわからず、思いがけなく自分の家にちん入してきた年上の少女を追いかけまわしているだけなのだが、スペイン語が理解できないまどかには、セニョーラが時折かけてくれる慰めめことばもわからず、ひとりぽっちでただ心細かったのである。それでも、このユリとの攻防戦で、"ミーオ(私のもの)"ということばをおぼえた。
 ある日、私たちが学校から帰ると、セニョーラがしきりに「すみません」と謝まる。まどかが、ワンピースのすそをめくると、おなかに紫色に残った歯型がついていた。ユリが、いっこうに相手にならないまどかにかんしゃくを起こして服の上からかみついたのだった。もう痛くはないとケロリとしているが、大泣きに泣いたあとだと聞いては、私もせつなかった。
 メヒコの学校では、新学期が始まるのは9月である。9九月まで待って、市内のどこかの小学校に一年生として入学させるつもりだったが、日々閉鎖的になり、一日中、日本から持って来た本を読んで暮らす子どもを見ていると、それも限度だという気がした。高校の英語の教員をしているユリの母親が、"トラウィカ学園"の話を持って来たのは、そんな時だった。
 漫画家、エドワルド・リウス氏の奥さんが、市内のどこかに5年ほど前に小学校を開いた。小規模で自由な学校としてたいへん評判がいい。幼稚園もあるから、そこへまどかを入れたらどうか、というのである。
 エドワルド・リウスについては、以前から夫に話をきいていた。彼の漫画は、メヒコだけでなくヨーロッパや米国にわたって翻訳され、広い人気を持っており、とりわけ『初心者のためのマルクス』(邦訳・現代書館)、『資本主義発達史』は傑作だという。メヒコでは、彼の作品は若い知識人や大学生の愛読書で、その知名度はそうとうに高い。
 ただ小規模で、かのリウス氏の経営する学校であるなら、日本の常識から考えて、そんな時期はずれに突然たずねていっても、受け入れてもらえるものかどうか大いに不安だった。けれども、まどかには、緊急に同じ年令の子どもたちが必要であり、メヒコ到着後、最初にめぐりあった"リウスの学校"の情報は、たいへん魅力的なものだ。なにはともあれ、その学校に出かけてみるべきではないだろうか。住所を調べてもらい、ユリの母親が友人を介して校長先生であるリウス夫人に連絡をつけてくれて、クエルナバーカ在住の夫の友人とともに、まどかと私ははじめて"自由学校-トラウィカ学園"をたずねた。
 雨季に入る直前の、クエルナバーカのつかの間の"暑い夏"の中を歩きながら、不安と期待でいっぽいになって、私の手をしっかりと握っていたまどかの汗ばんだ小さな手を思い出す。
 メヒコに到着してから、すでに三週間目が過ぎ去ろうとしていた。
自由学校-トラウィカ学園・幼稚園部に入学
 学校は、市の中心街から少しはずれた閑静な住宅街にあった。子どもたちの歓声やざわめきがなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうなごく普通の家の門に、自由学校-トラウィカ学園"と表札がかかっている。
 校長室に通されて、はじめて逢ったディレクトゥーラ(女性の校長先生)30代半ばの非常に魅力的な女性だった。私はいっしゅん、彼女が、これから私たちの会おうとしている校長ではなくて、この学校の説明をしてくれる女教師なのではないかと思った。リウス氏の年令は知らなかったが、漫画家としてのその実績から考えて、なんとなくリウス夫人を40代から50代のどっしりとした女性として想像していたからである。けれども、ライトブルーのドレスを着たきゃしゃな美しい彼女は、笑顔で「校長のロシータです」と名乗った。
 開校以来、カナダ人や米国人の子どもを預かったことはあるが、日本人は、はじめてのケースだと言い、短い説明の後に、実にあっさりと「よろしけれぽ、明日から来て下さい」と言う。授業料や具体的な手続きについては、「学校は、あと10日で夏休みに入りますから、なにもいりません。彼女に、今すぐ幼稚園が必要なら、それで良いではありませんか?」。
 そして、まどかを受け持つことになる5歳児クラスの担任、マリアエレーナに紹介された。賢そうな眼をした落着いた女性で、20代後半くらいにみえる。「先生」と呼びかけると、「どうぞ、マリアエレーナと呼んで下さい。この学校では、大人も子どももみんな名前で呼びあいます。校長先生のことも、みんなロシータと呼びます」と言われた。
 幼稚園の生徒は帰宅したあとだったけれど、マリアエレーナについて学校の中を案内してもらう。生徒数は幼稚園も含めて80名、先生は10(全員女性)。建物全体は、メヒコで、中産階級の上程度の家族が住む典型的なタイプで、一階には、幼稚園のために二部屋とガレージを改造した広いフロア、その他に事務局と校長室があり、階段下に少し広いホールがある。裏手には用務員のための住まいと台所も付属している。二階には、一年生、二年生、三・四年生合同、五・六年生合同の各教室が四部屋と、図書室、かなり広い屋上テラスと、バルコニーがついている。トイレは一階、二階ともにそれぞれ二つずつ。校庭だけは、残念なことにこうした建物におきまりの、コンクリートでおおわれた広い中庭がついているだけだった。
 教室もホールも、いかにも子どもが自由にとびまわった形跡にみちていて、日本の小学校のように整然としたイメージはまったくない。壁には、子どもたちの絵も貼られてはいるが、それ以上に、彼らのつけた絵の具の汚れや、手形のあとも歴然としている。マリアエレーナのクラスは、ガレージを改造した一番明るい広いへやで、床には赤と青の小さな椅子が円形に置かれていて、そこにいない子どもたちが残していった愉しげな雰囲気が漂っていた。
 マリアエレーナは説明した。「幼稚園は、小学校よりも一時間遅く9時に始まり、一時間早く12時に終わります。10時半から11時まで全校生徒に30分間お休み時間があって、その時におやつを食べます。子どもたちは、この時食べるおやつだけを持ってくればいいのです。そうですね、甘いお菓子よりは、果物やチーズのサンドウィッチなどの方が良いと私は思います」「そして、マドカ…」と、彼女は子どもの手をひいて部屋の入口につれてゆき、「ここに来たら、あなたはまず、自分の名前の下に、こうしてしるしをつけましょうね」と言った。それは、一種の川席表で、壁に貼られた紙に15人の子どもたちの名前が並んでおり、名前の横には出席のしるしにいろいろな色の大きめの画びょうが刺してあった。「きょう、私、あなたの名前もここに書いておくわ。あしたから、あなたもここの仲間になるのよ」。
 むろん、まどかがシー(はい)とノー(いいえ)と、自分の名前を答えるくらいにしかスペイン語を理解できないことは承知の上で、マリアエレーナはあふれるような笑顔と優しい声でゼスチュアたっぷりに子どもに語りかけていた。最初の緊張はだんだんほぐれてきて、久しぶりに出会った学校は彼女をすっかりうちとけさせ、新しい先生にアディオス(さようなら)を言って帰りのパスに乗ると、心はもうすっかり明日にとんでいた。
 翌日のおやつのためのバナナとブドウ、そしてそれを入れて肩から下げる布バッグを近くのスーパーマーケットで買い求め、夕刻には夫と二人でパーニョ(トイレ)と、アグア()という二つの単語を教えた。ほんとうは、「トイレにゆきたい」「お水を下さい」と教えたのだけれど、混乱しそうなので、しまいには、単語として間違わずはっきりと言えれば、その方がいいだろう、ということになった。この二つがわかれば基本的な失敗や苦しいおもいをしなくて済むだろう。マリアエレーナの、いかにも日常、子どもたちと過ごす人らしい、注意深い親切な様子を思いうかべながら、あとはなりゆきにまかせるほかないと思った。
 翌日から、9時にまどかを学校に連れてゆき、彼女の学校から歩いて10分の私の学校へ正確に10分遅刻して到着する毎日が始まった(私の始業時間も9時だったからだ)
後 日、メヒコで誰よりも心をわかちあう友人になったマリアエレーナは、この初日の様子を後でこう語った。
 「マドカに、『エルマーノ(きょうだい)いる?』ときいたのだけど、彼女には、エルマーノということばがわからなかったのね。それで私は中庭に走っていって何組かのきょうだいを連れて来ました。
 この学校は、きょうだいで来ている家庭がたくさんあるの。そして、みんなでマドカの前にならんだのよ。『ほら、みてごらん、マドカ。これが、エルマーノス(きょうだいたち)よ』。子どもたちの顔はそれぞれみんなとても良く似ているでしょ?マドカは、じっと彼らをみつめていたのだけど、やがてニッコリ笑って私の方をふりかえり、答えてくれたの。『ノー! マリアエレーナ(私、きょうだいはいないの、マリアエレーナ)』ってね」。
 こんなふうにして、トイレと水の次に、まどかは「きょうだい」ということばをおぼえた。そしてそれは、彼女が80人のエルマーノスと暮らすことになった学校生活第一日目の出来ごとだった。
ワタシ、日本人よ!
奇妙なハポンの猟師/ヤーイ、またお米をたべるのかい/コンドミニオへ引越し/
通りの子どもたち、学校の子どもたち
矛盾の中の子どもたち/子どもたちの受難/
はじめての夏休み
学年終了パーティー/ローラのこと/アリアエレーナの家庭教師/「順番を守る」こと
新学期前夜
未婚の母?/ホセフィーナ/入学手続き/羊がにひゃっぴき<資料>自由学校-トラウィカ学園入学案内

2

トラウィカ学園一年生

まっかなスクールバス/新入生の身上調査票/
メヒコの子ども文化
メヒコの教科書/セントロの夜風
フディの魔法
手製のカード/カラーマジック/フディの魔法/
提案し、批判し、ほめたたえる
たいせつな言葉/こども博物館コーナー/掲示板/毎日がフィエスタ
亡命チリ人のおともだち
リビアの意地悪/わたしの国、リビアの国/マリオネットの一座/フランシスコ・ジュリアン/
トラウィカ共同体
父母会活動/両親のための教育/シルビエンタ/メヒコの女性解放
グァテマラへの旅
最初のつまずき/手をつないで国境を/ベニヤとボール紙のホテル/裸足のインディヘナ/富は都市へ/
隣人は友人
すばらしい怠け者/フディの赤ちゃん/メヒコの男/ドクトル・フェロ登場/愉しいクリスマス/

トラウィカ学園の日々
日本人的勤勉さ?/トラウィカ学園の財政危機/
輝く泥のような女たち
気ちがい2月/マリアエレーナの思い出/アネ・マリア・サンチェス/
ベラクルスにて
フディのプラン/阿波さんの注意/娘の成長/
死ぬほど疲れるまで踊った日
子どもの日/ダンスの準備/教育の地下水/1年生のダンス!
トラウィカ学園の評価表
まどかの評価表/自己評価/

4

リウス一家と
リウスの漫画/ひとり娘の悩み/
子どもたちの光景
子どものデモクラシア/オニごっこと遊びのルール/まどかはエゴイスタ?/子どもが幸福であること
メヒコが一番!
日本語が思い出せない/ロスアンジェルスのメヒコ人/不幸のいろどり
ニカラグアへの熱い想い
ニカラグアの情況/サンディニスタ支援コンサート/マグァとミゲル/ポサダ
わたしはメヒコの子ども
これが暴力なんだ/小さなメヒコ人/赤い自転車/
チアパスの"時間"
カーニバルの女王/チアパスの旅の印象
メヒコにさよなら
カルロスの逮捕/黒猫のカラス/お別れパーティー/もう一度「アディオス」

5

帰れないメヒコは忘れたいメヒコ
ここはメヒコじゃない/日本の学校で
豊かな日本は鞭を鳴らしていた
A子ちゃんの意地悪
 二学期が始まったばかりのある日、まどかは意気揚々と学校から帰って来た。「わたしね、副班長になったのよ。自分で立候補したの」。とっても嬉しいと彼女は言い、私も同じおもいがした。それだけ、クラスに積極的に参加しようとしている彼女を見て、深い安堵のおもいにうたれたのだった。「班長さんはね、A子ちゃんなの、わたし、彼女を助けていろんなことをするの」と彼女は言った。
 ところが、そうしたまどかのおもいや期待は、すべて裏切られていった。それから毎日毎日、帰宅するたびに彼女は暗い顔で、いろいろなことを訴えるようになった。「A子ちゃんは、わたしの顔をみるたびにプンと横を向くの」「A子ちゃんは、毎日わたしをどなってばかりいるの。バカだの、ノロマだのって言ってるわ」「きょうは、わたしのすぐそばまで顔を寄せて『きょうから、アンタなんか無視してやる!』と言ったの」「給食の時、ミルクを唇につけていたら、みんなに『アレをみてェ!汚ないヤッだなあ。オエッ!』と吐くまねをして、班のひと全部にそれをやらせたの」「あんたのノロマのおかげでわたしたちの班はソンばっかりしているっていうの」「班のひと全部に、わたしとつきあうなと言ってるの」。
 こうした細かい報告を、毎日胸を痛めながらきいているのは辛いことだった。ある日、とうとう彼女はこう言った。「わたし、もう学校へなんか行かない。だってママ、きょうA子ちゃんはクラスのみんなにこう言ったのよ。『わたしたちねェ、山崎さんはもうイヤなの。山崎さんはもういらないから、誰かととりかえっこしない?山崎さんに比べたらマシなんだから、誰だっていいわよ…』って。ママ!"とりかえっこ"だの"いらない"だのって言ったのよ。わたしは""じゃないでしょう?人間をそんなふうに扱うことが、どんなに失礼なことかわかっていない人たちは、もうキライ!」。
 彼女がどんなに傷ついているか、その表情や声音からよくわかったので、私はようやく学校へ出かける決心をした。A子ちゃんは、クラスの"実力者"だった。声も大きいし、行動も機敏だ。頭の回転はすばらしく早い。私は、どちらかといえば彼女が好きだった。陰にこもらない、さわやかな子どもだという印象が強かったのである。ただ、正直にいえばそうした行動的な部分がおそろしくきわだっているだけに、彼女は感情的にも非常にシンプルなタイプだった。彼女はクラス中に、「わたしは山崎さんが大キライ」と宣言した。「最初にみた時から虫が好かなかった」と。転校以来、まどかと仲良しだったたったひとりの"親友"につきまとい、まどかの心情からすれば「それまでちっとも仲よくなんかなかったB子ちゃんを、わたしからやすやすとひきはなした」のだった。
 まどかは、自分の属する""から孤立し、そしてクラス中から孤立させられつつあった。私が、そのことではじめて学校に出かけてゆき、事情を晒した最初の時は、先生の対応はじつに素早く、そして適切だった。クラスの子どもたちに、衆を頼んでひとりの子どもを仲間はずれにすることの卑怯さと、仲間はずれにされた子どもの心のいたみについて話してくれたのだ。しかし、集団の中で起こったことは、集団の中で解決してゆくという原則は、この際あまり有効性のないものだった。A子ちゃんが、非常にバイタリティにあふれた子どもだったために、彼女のまどかに対する態度はまったく変わらず、それまでよりもいっそう激しく、まどかは仲間の中の"おちこぼれ"として日常的に非難されつづけることになった。
 私は、家にこもって本ばかり読むようになった子どもに、それとなくきいてみる。「どうしてそんなにあなたのことだけ、みんなが非難するの?なにかやっぱりあなたの方に原因があるからだと思うんだけど。たとえば、最近どんなことがあったか思い出せる?」「そうねえ、きのうお掃除の時に、"ちりとり"がみつからなかったのね。それでわたしが探しにゆくことになったの。お庭をどんどん歩いて探しているうちにね、ママ、わたし自分がなんのために歩いているか忘れてしまったの。それで、小鳥小屋の前でちょっとの間小鳥をみてしまったのよ。途中で気がついて、びっくりしてみんなのところへ戻っていったんだけど、"ちりとり"は持ってゆけなかったし、みんなを待たせてしまったし、『ごめんなさい』って謝っても、やっぱりどうしても許してもらえなかったの」。
 ああ、そうなのかと私は思う。"ちりとり"を探しに出かけて小鳥に見入ってしまった子どもは、やはり非難されるだろう。みんなを待たせて時間をムダにさせてしまったのだから。しかし、それは謝っても許してもらえないほどの罪だろうか。それが、彼女のいっそうの孤立化につながっていってしまうというのは、どういうことなのか。なぜ自分がそこを歩いているのか忘れてしまい、小鳥に見入ってしまった子どもの後姿は、まるで何十年も前の私のようだ。たとえそれが私の娘の後姿ではなくても、そんな子どもに出会ったら私は、やはり昔の自分を思い出し、"ちりとり"を忘れて"小鳥"に魅せられてしまった事情を誰よりもよく理解できるだろう。そして、子どもというのは、そもそもそういうものではなかったのだろうか。
 やはり、何度も何度も彼女がふしぎそうにたずね、私自身にもうまく答えられなかったことのひとつに"帰り支度ののろさ"というものがあった。「わたしひとりが帰り支度がのろいと、班全体が迷惑するんだって。私たちの班の"成績"が下がるっていうの。どうして?わたしのためだけに、どうしてわたし以外のひとの"成績"が下がるの?」。ひとりひとりの子どもにそうした集団の規律を強制し、そのうえ、全員がお互いを監視しあうような子どもたちの""とはいったいなんなのか。ひとりの子どもの"不手際"が、全員の"評価"に関わるそのような集団のシステムとはいったいなんなのか。それは明らかに、先生の手から子ども同士の手に委託された"管理システム"だった。集団の"利益"に反する子どもは、そこで徹底的にはじき出されてゆくのだ。
 よくよくきいてみれば、クラスの中で"いじわる"されているのは、まどかばかりではないのだった。原因はそれぞれ微妙に違ってはいたが、何人かの子どもは先生のいう"非常にうまくいっている学級運営"の中からの"おちこぼれ"として、いつも仲間はずれにされたり、あからさまな愚弄の対象になっていた。「Bくんは、ちょっとハナをたらしていることが多いってだけで、いつもバカにされてるの。どんなにバカにされてもこづかれても、じいっと下をむいて黙ってるの」「C子ちゃんは、どうしてだかわからないけど"C子菌"と呼ばれていて、近寄るといろんな子がギャッと汀って逃げるのよ」「C子ちゃんと遊ぶと""がうつるといって、遊んだ人まで仲間はずれにされるのよ」。
 彼女が報告する話に、私は日々呆然とする。子どもは、一日の大半を学校で過ごす。その長い時間の中で、そうした意地悪に苦しまなければならない子どもの不幸が胸を刺すのだ。
登校拒否
 10月に入ると、まどかはよく登校時に気分が悪くなった。ベッドに横たわったまま、頭がボウッとしていて動けない、というのである。熱も少しある。学校を休ませると、時計の針が10時をすぎる頃に気分が良くなって起き出して来る。「学校へ行くのがイヤだったのじゃない?」「絶対にそんなことはないよ。ほんとうに気分が悪かったの」。まどかは、頭の中で学校へは行くべきものと固く信じている。ボウッとした頭で、少々気分が悪くても「もし、ほんとうにダメだったら早退していらっしゃい」といって送り出すことが多くなった。いずれにせよ、学校をやめるわけにはゆかないのだ。
 一学期、二学期を通じて、彼女がもらって来た成績表や答案用紙は、彼女が授業についてゆけないから集団の中で落ちこぼれているのではないことを、なによりもよく物語っていた。彼女は純粋に生活的な意味での"落ちこぼれ"だった。だからその頃、私は愚かにも"学習の面だけでも愉しければ、学校へ行く意義はある"と思っていた。
 三学期に入ったばかりの授業参観に出席した時、活発に手をあげて自分の考えを発表するクラスメイトの谷間で、消しゴムを両手でもてあそびながら、じいっと下を向いているわが子の姿を私は見た。先生に指されると、蚊の鳴くような声で「××さんと同じです」と答えてまた下を向いてしまった。
 これが、あのまどかかしら?一年生になったばかりの頃、自然科学の時間に知っている限りの、たった数語のボキャブラリーをよせあつめて少しも臆せず「日本、水いっぱいある。でも、メヒコ、いっぱい水ない。なぜ?」と質問して、いたくフディを感激させた、あのまどかかしら?人よりも早く自分が理解できたことは、先生と一緒になって惜しまずに説明し、いつも授業の中心にいたいきいきとした子どもの姿は、もはやそこにひとかけらも残っていなかった。彼女のたたずまいは、まさしく"肩身のせまい"人びとのそれだった。なによりもそのことに、私は胸つかれるおもいがした。
 それから少したった頃のことだ。わが家にA子ちゃんが遊びに来て、まどかと何時間かトランプをして遊んだことがあった。私と夫は隣室にいて、彼女たちの遊びの様子をききながら、何度も顔を見合わせて暗然としなければならなかった。彼女は、四六時中こうどなっていた。「ノロマ!」「バカヤロ!」「このウスノロ!」「トンマ!」。そして、彼女に対応するまどかの態度は、いっそう私たちを暗然とさせた。彼女は、ヘラヘラと笑い、なりひびく怒声にまったく抵抗できず、さらに道化を重ねて罵倒されるのだ。
 なにが彼女をこうも変えてしまったのか?「おともだちの関係は平等なのに、みんなデモクラシアを知らないんだ!」とジョランダを怒ったあのまどかはどこへ行ってしまったのか?彼女がそこまで追い込まれていったプロセスを考えつつも、A子ちゃんが帰った後で、私は厳しくまどかを叱った「バカと言われ、ウスノロと言われて笑っているあなたは、ほんとうにバカでウスノロなの?」と。
 翌日、彼女は緊張で心ふるえながら、やっとのおもいでA子ちゃんに「わたしを、バカだのウスノロだのってどなるのは、もうやめてくれない?」と申し入れた。そして次の日、彼女ははじめてA子ちゃんに突き倒され、背中を何度もけられるという"暴力"にであったのである。けりながら「てめエなんか関係ないんだよ。ひっこんでろ!」と彼女は叫んだのだという。ずっと今までバカだの、ノロマだのと言われて黙って来たくせに、なぜ急に今頃になってそんなことを問題にするのかと、彼女は憤っていた。
追いたてられる子ども
 これをきっかけに、私は何度も学校に出かけていかなければならなくなった。先生に叱られるたびに、A子ちゃんのまどかに対する攻撃は陰険になり、"暴力"がいけないと言われた後は、じつに巧妙ないじわるの罠をいたるところに仕掛けるようになったからだ。まどかは、今までよりもいっそう辛い針のむしろに座らされ、一日中誰からも口をきいてもらえなかった。まどかをのぞく周囲いったいにヒソヒソ話がひろがり、ヒソヒソ話の冒頭にはごていねいに必ず「山崎さんはねー!」という台詞がつくのだという。
 そして、別の側面からも事態はもっともっと悪くなっていった。先生と私の間での話し合いという、それまでの単純な構造は、そこにA子ちゃんのお母さんが加わることで奇妙にもつれ始めたのである。先生の態度は日に日に変わってゆき、ある日、ついに彼女は私にこう言った。「山崎さんのおっしゃっているような意地悪は、私のクラスには存在しません。学級運営は非常にうまくいっています。意地悪が存在しない以上、それを意地悪と感じるのは、その子が異常だからです」「A子ちゃんは、御両親に、わたしはけっして意地悪などしていないと再三にわたって言っています。あちらのお母さんが、このことでどれだけ胸を痛めているか、御存知ですか?お父さんが、『よその子のために、もしもウチの子が登校拒否児童になったらどうするのだ?』と奥さんを叱ったほどなんですよ」。
 また、あるクラスメイトのお母さんは、こう言った。「A子ちゃんは、ああいうお子さんですから、一朝一夕に変わるとも思えません。それならコトを荒だてないためにも、まどかちゃんがガマンするよりないのじゃありません?」「集団の中ではどうしたって起こることでしょう?こういうことは…。少しくらい辛いことは誰だってガマンして成長するのですから。今、まどかちゃんが意地悪されていると主張することは、けっきょく、無為にA子ちゃんを傷つけることにならないでしょうか?よそのお子さんを傷つけてまで、あなたは御自分のお子さんを守りたいわけですか?」。
 げんに意地悪されている人間が、「私は意地悪されている、これは不当なことだ」と発言することが、これほどむずかしいものだとは思ってもみなかった。弱者が、弱者の位置から発言すると、よってたかってその発言は不当だというのだ。意地悪されている子が、黙ってガマンしてさえいれば、コトを荒だてず、今までの秩序を守ってゆけるが、弱者としてのサイドからそれを告発するとなると、その子をいけにえとしてそれまで保たれて来たすべての秩序が崩壊してしまう。そうはさせないために、状況によっては教師から母親たちまでが、弱者を黙らせることに加担するのだ。眼にみえる損失が、多数者のものでない限り、少数者としてこうむる被害には目をつむってガマンしろと強制されて、私は、はじめてこうした論理が正々堂々とまかりとおる空間に、自分の子どもを送り出していた自分の愚かさに気づいたのだった。
 子どもは日々成長するために学校へゆくのに、そこで身も心もボロボロになるほど傷つき緊張して一日を終える。学校という義務にからめとられた空間の中の、小さな囚人として。むしろ、「学校へなんかいかない!」というさまざまなサインを外部へ送り出せる子どもの方が幸いだ。多くの不幸な子どもたちは、なんとかその非情な空間で、生きのびる道をみつけなければならない。バカ!と言われ、ウスノロ!と言われても、薄笑いをうかべてお追従を言うようになったまどかのように…。必死で生きのびる道をみつけた子どもたちは、それ以上の問題は起こさないかもしれない。そこで大人たちは言うのだ。「子どもは、大人が思うほど傷ついていない」と。
 学校という空間が、ひとりひとりの子どもの尊厳を守ってやれないなら、どうして親として、そこへは是が非でもゆかなければいけないのだと強制することができるだろう。
 まどかが育ったトラウィカ学園は、いわば愛にみちた"大家族"だった。まどかは、"幸福を味わうために"毎目、嬉々として学校へ行った。学校と子どもは、深い信頼のきずなで結ばれていた。場所や規模が変わっても、学校とはそういうものであるはずだと、私は思い込んでいたのだ。
 今、私の眼の前にある学校は、鞭を鳴らして子どもを追いたてていた。そこで脱落する子の不幸は、思ってもみなかったほどすさまじいものだった。なぜそんな空間へ、私のたいせつな子どもを送り出さなければならないのか?なぜみんな、もっとそのことについて怒らないのか?ひとりひとりの子どもが、その両親にとって、かけがえのない存在であるならば…。
まどかにとっての幸福
 「もう少し様子をみよう。まどかは、けっこう元気じゃないか」と、夫は言った。帰宅して私たちとすごす彼女は、たしかに元気だった。しかし、彼女の心が解き放つことのできない緊張で、いわば伸びきったゴムのようになっていること、これ以上の圧力に耐えるには、非常に危機的な状況にあることを、私は直感していた。これほどまでに、"学校"が彼女を追いつめたのだった。「まどかにとって、"幸福"とはなんでしょう?彼女の"幸福"というものを、まずなによりも先に私たちは考えましょう」と言ったロシータのことばを、今こそ、帰って来た自分の国の教育状況の中で、まどかが置かれた現実の中から正確につかみとらなければならないのだと、私は思うようになった。この豊かな国で、あふれおちる"""情報"の底で、確実にあらゆる空間の管理化を図る見えない手が、柔らかい小さなのどをぐいぐいとしめつけている。意識してみわたせば、学校はその教育という機能を通じて、なによりも重要で性能の良い管理社会にされつつあるのだと思われた。"おかたづけ"がノロいから意地悪されるなんていう現象は、ほんの序の口なのだ。「教育」とは、人間を自由へ導くものだと、トラウィカ学園では教えてくれた。人びとの自由を、根源的に枯渇させるあれほどの貧困を踏まえながらもなお、「教育」に託した彼らのおもいがそこにあった。
 そして、帰って来た「繁栄する日本」で、気がついてみると10ヵ月の間に、子どもの心はボロボロに破れていた。「子どもの自由」だの、「子どもの幸福」だのと口にすれば、いつだってそれが個々の現実からどんなに遠い理想であるかという答しか返って来ない。子どもは日々成長してゆくのに、「遠い理想」と答えて口をぬぐってしまう怠惰な現実主義につきあうのは、もうたくさんだった。

エピローグ

明星学園へ
 私たちがけっきょくゆきついたのは、明星学園小学校だった。校長である遠藤豊さんの著書『学校が生きかえる時』(太郎次郎社刊)が、深く私の心を魅きつけた。「点数のない教育」が目指すものは、なによりもまず「子どもの幸福」なのだと私自身は解釈した。知識というものが、点数というかたちで個人にとりこまれてしまわずに、すべての子どもに平等に開かれている時、どれほど幸福な知的好奇心をもって子ども同士が(そして教える側もまた)関わり合えるか…。
 期待はほとんど裏切られなかった。まどかは、40分以上かかる通学時間を苦にもせず学校に通うようになった。親しい友人ができなかったごく最初の頃でさえ、「授業が愉しくて仕方がない。明日の授業を考えるだけで、心がワクワクして学校へ行きたくなるの」と言った。学校から帰るなり、声を弾ませてその日勉強したことをひととおり話してきかせる。かけ算は、地球上のある島を侵略した倍々(バイバイ)星人と「四年二組一同」の攻防戦というストーリーにそって展開し、まどかは探険隊の中の重要なポジションを得て活躍したのだという。「社会科」は""の発達で、井之頭文化園で動物生態学の専門家の話をきいて帰宅すると、その後は自分なりに考えて、犬や猫の足を観察してスケッチし、人間の手の構造との違いをもう一度確認した。学校で学んだことは、確実に彼女の知的好奇心の枝々に受けとめられ、果実のようにそこで実った。学ぶということは、こんなにもすばらしいことだったのだ。
 親しい友人ができはじめると、学校はいっそう魅力的な場所になった。交換日記をやりとりし、その世界にはもはや私の割り込む余地はなくなった。叱られても、容易には「ごめんなさい」と言わなくなった。「わたしも、ここのところが良くなかったと思うけれど、ママは、ここのところに見落としがあって、そんなふうに怒っているのだから、その怒り方は不当ではないだろうか?」というふうに反論されると、私は必死でしかめっつらをしながら、心の中で快哉を叫ぶ。「そうだ、その調子!どんどん前進!」と。
 家庭における直接の抑圧者(両親はいずれにせよ子どもに対する抑圧者である)という役割は、いつだって私にとって不本意なものだった。未だ小さい彼女の手をひきながら「早く大きくなって腕を組んで歩こうね。そしていろんなお話を、お友だちみたいにするのよ」と語りかけた。今、子どもはすくすくと伸びて、私に抗いながら、同時にそっと私の腕をとる。彼女が、そんなふうに自然に優しく私と肩を並べられるようになったのは、明星学園における"先生との関わり"が、強い影響をあたえていると私は思う。
 まどかが編入学した第一日目、教卓の前でなにかのノートをとっていた担任の一瀬先生の背中は、ぶらさがる子どもたちで鈴なりの樹のようだった。子どもたちは、先生を「いちのせ」と呼ぶ、先生は笑顔でふりかえる。彼のこの優しい笑顔に裏打ちされた自信はすばらしい。そのうえ、子どもたちは、いついかなる時にも彼を「いちのせエ!」と呼ぶわけではない。学校の外へ出かけたり、外部の人が多勢いる場合には、「先生」と呼ぶのだそうだ。なぜなら、彼らに言わせればそれが先生に対する「礼儀」だから。
 12月、クリスマスパーティーの時、先生めがけて最後のクラッカーを打ち、「先生、来年は死ねェ!」と叫んだ男の子の話を私が聞きとがめると、まどかはひどく不審そうに私の顔をみつめてこう言った。「だって、××くんは先生が大好きなのよ。だからことばは"死ねェ!"と言ったんだけど、ほんとうは"先生だいすき!"と言ったのよね。わたしたちみんな、そんなことすぐわかったわ。ママにはわからないの?ほんとうに?!」。
 子どもたちは、愛されたいせつに思われていることを全身で受けとめる。ほとんど肉体的に受けとめる。そこで空疎なことばは、地に墜ちる。"点数のない教育""子どもを序列化しない教育"とひとくちには言えても、それを担ってゆく人びとの努力と苦労は、おそらく筆舌に尽くしがたい。
小さな難破船のように
 そして一方では、公立小学校や厳しい受験体制を組んだ私立小学校から、小さな難破船のように、傷ついた鳥のように、たくさんの子どもたちが続々とこの学校に到着する。私は、この学校を知ってから、自分たちの体験をけっして特殊なものとは考えなくなった。明星学園はある意味で、こうした子どもたちの"緊急避難場所"になっている。傷つき、ときには自殺にさえ至る子どもたちを相手に、悠長に日本の教育状況の改革などを語るわけにはゆかない。げんに血を流している幼い彼らを救えるのは、具体的な空間だからだ。
 かつて傷ついたまどかの手をひいて明星学園への編入を決心した時、「明星学園にだって"いじわる"はあるだろう。公立小学校でいじわるをされたから明星学園へ逃げるというのでは、再度逃げたい場合、その逃げる空間がみつからなかったらどうするのか?まどかちゃんの内部でそれは敗北主義として植えつけられてしまうのではないか?」と心配してくれた人がいた。むろん、どんな子どもの集団にも、"いじわる"はあると思う。しかし、それがその集団の中でどんな性質を持ち、どう解決されてゆくか、という問題を抜きにしてしまうと、私たちは子どもたちを前に恐ろしい虚無や相対主義に陥ってしまう。
 むろん、明星学園の中にだって、さまざまな"いじわる"が生まれることはある。しかし、まどかを含めて他の場所で"いじわる"によって傷ついた子どもたちは、ここで(親の眼からみれば)"奇蹟的に"蘇生している。時に"いじわるもしてしまうが、子どもたちは同時に仲間に対してほんとうに優しい。なによりも彼らは、"人間はひとりひとりその個性が異なること"や、"その個性の違いを越えて関わる術"を知っている。
 まどか自身は、明星学園によって救われたと私は思う。しかし、そう思うたびに私の胸に鮮やかにうかびあがることばもある。フェミニズムの運動に関わりながら知り合った女性は、教育に関して語り合いながら私にこう言った。「わたし、明星学園みたいな学校は大キライなのよ。それじゃあ、あなた、明星学園に入れない圧倒的多数の"傷ついている子どもたち"はどうするのさ?」。今も私自身の中には、彼女の問いに対するいかなる答もない。
教育とは"未来"
 そしてその明星学園の教育ですら、私の子どもの話をハッピーエンドで飾るほど安泰な場にあるわけではない。「点数のない教育」とは、じつは突きつめてゆけば現在の社会システムを根底的にゆるがすほどラディカルな思想に基づいていると私は思う。それが教育という方法で語られ実践される時、"教育"以外のファクターによってどれだけの抵抗をもって迎えられるか・・・。
 げんに、"点数がとれなければ、大学進学もあやうい"という論議は、飽きもせずに明星教育の足元から繰り返される。毎日の授業内容を伝える学級通信を読み、授業参観に出ていれば、そして、なによりも子どもの日々の成長をみていれば、どれほど深く強靭な""の樹木が、彼らの内部に育ちつつあるか明らかなのに、漢字の書き取りや算数の計算をもっとふやしてほしいという父母からの要望はあとを絶たない。親たちを、学習の細部にわたってこれほどの不安に陥れているものはなんだろう?むろん、ほとんどすべての学校をあげての受験競争、あらゆる場所での点取り合戦、これほど熾烈な競争主義社会に生きて、その影響からまったく逃れるなどということは夢のまた夢という根強い絶望感に違いない。
 そしてそうした現実を背景にして、私はまたしても子どもたちをうすぐらい場所へ追いたてる、たくさんのことばにであうのである。「愉しい愉しいで終わってしまう授業は不安だ」と言う人がいる。「苦しみを通さずに得るものは少ない」と考える人もいる。「こんな"自由"は、せいぜい低学年まで。それ以上は…」と不安がる人もいる。学校におけるさまざまな"荒廃〃ですら、社会の縮図ととらえ、「いずれ社会に出た時に、適応できなくなるから」そこで生き残る力をつけるべきだという人もいる。
 "幸福な子どもたち"はひよわだろうか?"幸福な時間""幸福な空間""幸福な関係"は、現実に拮抗する力をつけないという考えは、どこから生まれて来るのだろう。そうしたおそろしく陳腐な通説(苦しみのみが成功へ至る道というような)が、まかりとおることこそが、"逆境"にある子どもたちを一方で現実の中に放置するテコ"になっているのではないだろうか。
 愛され、たいせつにされ、自らを解放してゆく場に恵まれた子どもたちのしなやかな心と体はとてもしたたかで、彼らが貯えている力は、どんな困難にであってもそれを乗り越えてゆくことのできる強靭な知性に裏打ちされていると私は思う。見知らぬ文化の中に投げこまれた幼いまどかを、しっかりと受けとめて育ててくれたなつかしい人びとがいつも言ったように「教育とは"未来"であり、現在に生きる私たちは、忍耐強く勇気をもってそれを続けてゆくほかはない」のだ。
 私たちの、なによりもたいせつな子どもたちのために。

あとがき

 もしも私たちが、小さな娘を連れずにメヒコでの二年間を過ごしたとしたら、長期にわたる"旅行者"としての生活を経験したに過ぎなかっただろう。そしてそれは、傷つくことも少なければ、また得ることも少ない""になったことだろう。子どもを連れていたことで、私たちは"生活者"としての、さまざまな役割を果たさなければならず、そしてそこには予期しなかったほど豊かな出会いがあった。
 子どもはまるで輝く隧道のように、本来なら閉ざされていると思われた領域まで私たちを連れていった。山深い田舎町の崩れた石段にうずくまる老人までが、子どもを見たとたん微笑むのだ。稚い声がスペイン語を話し出すと、外側の人間にはとりつくしまもないようにみえた態度は、みるみるうちに消え去った。
 まどかが、あれほど愛したメヒコとメヒコ人を、どうして私たちが同じように愛さないでいられただろうか。
 陽気で素朴なメヒコ人、というのは観光ブームに乗って一般的にバラまかれたイメージだが-そして、この陽気で素朴な、というイメージには、掘り起こせばもっと複雑な差別や偏見が含まれているのではないかと思うのだが-彼らは、実は非常に屈折した心情の持ち主である。それは、幾世紀にもわたって彼らがこうむってきた搾取や抑圧の歴史をみれば、たやすく理解できるはずだ。そうした歴史のらち外にあった者には、おそらくメヒコ人の"ほんとうの顔"は、けっして視ることができないのではないだろうか。それでもなお、彼らの中に確固として在る賢さ、優しさ、暖かさ、したたかさは、彼らの精神を支える原形質であり、さまざまな出会いを繰り返し、心を分かちあっているうちに、モザイク状に私たちの眼にも視えてくる。そして私たちは、そこから眼がはなせなくなるのだ。
 今年の7月から8月末まで約40日間、私たちは、再びメヒコを訪れた。帰国から2年間、"またメヒコへ帰る"ことは、まどかの夢だったからだ。
 しかし、8年間続いた「自由学校-トラウィカ学園」は、すでに閉鎖されていた。2年ぶりのメヒコは、信じられないほどの物価高で、会う人ごとに、「庶民はそのうち生きられなくなるだろう」ということばをきいた。エドワルドとロシータは、この国のインフレに抵抗し、80人の子どもたちを守ることがついにできなかったのである。クエルナバーカに到着した夜、私たちは彼らの家でアルバムをめくりながら、夥しい数の子どもたちの写真に見入った。「なんとか切り抜けようと力を尽くしたの。でもダメだったわ……」とロシータは言った。
 子どもたちは、市内の「フレイネル」や「インナミキ」といった他の自由学校に移籍した。ことに「フレイネル」にはほとんどの子がまとまって転校した。「バラバラになるのはイヤだと彼らが言ったのです」。そう言ったロシータの眼に涙がにじんだ。
 しかし、それでも「トラウィカの仲間たち」は健在で、8月4日のまどかの誕生日には、たくさんのクラスメイトがかけつけてくれた。私たちは、以前住みなれたコンドミニオの別荘を一軒借りることができたので、彼らが手に手にプレゼントを持ってやって来ると、なにもかも"昔のまま"という気がした。
 2年間の空白などは、この国の人びとにはそれほどのことでもないらしく、「きみたちがいなかった2年間なんてまるでなかったみたいだなあ」と、みんなが口々に言う。ドクトル・フェロはじめ近所の人たちが開いてくれた"歓迎パーティー"は、時間がするすると逆戻りしてゆくような感動をあたえてくれた。
 エドワルド、ロシータ、ラケールと私たちは、一日、テポストランへ登山を試みた。険しい山径を下りながら、若者たちのラジカセの騒音に腹をたてたエドワルドは、道いっぽいに両手を拡げて流行歌手の真似をして歌をうたった。愉しい一日だった。
 校長先生をやめたロシータは、ヒューマン・コミュニケーションを研究するために大学生になっていたし、エドワルドは、"ニカラグア人民のための栄養学のパンフレット20種類以上も作成し、「ニカラグア紀行」をまとめつつあった。州立保育園の先生になったマリアエレーナは、全州をゆるがした教員闘争の中で闘っていた。彼女はエドワルドと一緒に、「モレーロス州の教員闘争に関するパンフレット」を作った。州政府は、あらゆる報道機関を駆使してこの闘争を叩きつぶそうとしており、悪質なキャンペーンをはった地元紙を、リウス・マンガのキャラクターが「オレたちゃ、あの新聞を、ここんとこずっとトイレットペーパーに使ってんのョ」とからかっていた。
 マグァとミゲルは子どもを連れて、ミゲルの故郷バルセロナに去っていた。外国人の"過激な運動家"であるミゲルは、さまざまな圧力を受け、クエルナバーカを去ることを余儀なくされた、と伝えきいた。「マリアー人民解放」のイレーネは、ついにシルビエンタのためのコミュニティーを作った。家を一軒借り、農村から流れてくる身寄りのない少女たちのために一時の宿を提供し、識字教育をはじめとするさまざまな教育を考え、最低賃金の確立や有給休暇の獲得のために闘っていた。コミュニティーには、シルビエンタとして働く母親たちのために無料の保育所も開かれていた。
 まどかが言ったように、「なにも変わらないようでいながら、ほんとうはなにもかも変わって」いた。友人たちはみんな、この国の厳しい状況の中で、自分の持ち場で精一杯に生きていた。
 まどかの母校、トラウィカ学園は、今はもうない。しかし、そこで植えられた種子は、確実にひとつ、日本で芽吹き健やかに育ちつつあると、私は彼らに伝えたい。
 その構造がむき出しで攻撃的なものかどうかをべつにすれば、差別も抑圧も日本とメヒコにどれだけの差があるだろう。まどかが知らなかった、日本における不平等も貧困も、ただふだん人びとの眼から遠ざけられているだけだ。さまざまな矛盾の中に身を置いて、自分のいる位置や変革への可能性をさぐること-それがトラウィカ学園が私たちに教えてくれた、一番すばらしいことではなかっただろうか。彼らにならい、私もまた子どもを育てる母親として、ひとりの女として、精一杯に自らの場所で生きたいと思う。
 最後に、忙しい時間をさいて、この本のためにイラストを描いてくれたエドワルド、いつくしみ育てたまどかを今も忘れず、遠いメヒコから見守ってくれるロシータやマリアエレーナをはじめとするトラウィカ学園の先生たち、そして怠け者の私を一年間も励ましつつ、一冊の本になるまで遅々として進まぬ原稿を待って下さった編集部の太田雅子さんに、心からの感謝を捧げたい。
1981年9月30日  山崎満喜子