余白の春 瀬戸内晴美(寂聴) 中央公論社

表紙絵及びカット 藤松 博  ブック・デザイン 小池玲子1972630日初版  19729123版  0093-010472-4622

余白の春表紙画像

 金子文子と朴烈が、やはり保護検束の名目で世田谷の警察署に逮捕されたのは、大正1293日のことであった。
 保護検束というのは、行政法第一条の「救護ヲ要スト認ムル者二対シ必要ナル検束ヲ加フ」という規定の適用だったが、この場合は、震災直後に起った自警団の朝鮮人狩りの危険から保護検束をするというのが表向きの名目だった。けれども、自警団の朝鮮人狩りという狂気じみた暴動の元はといえば、政府が意識的に捏造して流した朝鮮人暴動のデマを人々が鵜呑みに信じて起ったことなのだった。
 自分たちで作った朝鮮人暴動のデマで自警団を踊らせ、それを理由に朝鮮人を保護検束するというのは、実に手のこんだ陰謀だったが、そうしなければならないほど当時の政府が朝鮮人たちの蹶起を心底から怖れていたということにもなる。
 震災に先だつ4年前、1919(大正8)31日に、京城、平壌などから起り、たちまち全朝鮮に拡大して人民蜂起した独立運動、所謂三・一運動の記憶はまだなまなましかった。それは突然のろしのように打ちあげられた独立宣君に始まり、朝鮮のあらゆる階層、あらゆる職業の老若男女が、口々に独立万歳を叫んで示威行進を行ったのである。武器を何ひとつ身に帯びず、只ひたすら、独立万歳を叫ぶだけの民衆の示威運動の熱気は、全朝鮮に枯草に火を放ったように燃えひろがっていく。
 当時の原敬内閣は軍隊をおびただしく派遣して武力弾圧を強行した。身に寸鉄を帯びない示威行進に向って、砲火を集中させた。残虐のかぎりをつくした上で、一応武力鎮定したものの、朝鮮二千万民族の心に根深く沈潜していった反日感情を見逃しているわけではなかった。その時の経験で、朝鮮の民衆たちがどれほど日本に敵意と憎悪を抱き、殺されても拷問されても、独立のため抵抗した根強さを認めていた。それだけに、それ以後というものはいっそう、独立運動に神経過敏になっていた。更にその上、在日朝鮮人の革命分子たちは折から日本に高まってきた社会主義者たちと手を組んで、互いに革命の日を狙っているという。政府としては、折あらば、その両方を一挙に弾圧する機会を狙っていたのである。震災は政府にとってはそれを実行する何よりの好機になった。
 金子文子と朴烈は、その頃、東京府下豊多摩の代々幡町(現在渋谷区富ヶ谷)に住んで、「不逞社」という結社を組織し、「太い鮮人」という名のパンフレットを発行していた。最初は「不逞鮮人」という名前だったが、名前が不穏だと警察から注意されたので、語呂をあわせた「太い鮮人」というのに変えた。題名の示す通り、雑誌発行の目的は、朝鮮独立運動のための示威的発行だった。
 朴烈は、前々から朝鮮独立運動の闘士として警察のブラックリストに載っていたから、この際、検束されたのは当然の成行だった。警察は、ふたりを検束するとすぐ、二人に家を貸していた大家の所へ行き、朴烈、文子の夫妻は、もうこの家には帰らない、たぶん永久に帰らないだろうから、早く処分してしまって新しい借家人に貸した方がいいだろうとすすめている。
 たまたま、朝鮮人狩りが野火のように拡がっている時だったので大家はすっかり脅えてしまい、警察のいいなりに従った。荷物なども警察官立会の上で勝手に処分しろと警察にいわれてその通りにしてしまった。そのため朴烈夫妻は94日から一方的に住居を失ってしまった。そうしておいて警察は、二人を警察犯処罰令の「一定ノ住居又ハ生産ナクシテ諸方ニ俳徊スル者」の該当者に適用してしまい、拘留29日に即決し、その日から、引きつづき世田谷警察署へ留置してしまった。如何にも恩きせがましい保護検束こそ、狼がかぶった羊の皮だったのだ。
 彼等が1020日の拘留満期までの間には、大杉夫妻はじめ社会主義者や朝鮮人たちが次々、多数虐殺されているが、朴烈夫妻に加えられたこの陰謀も、虐殺に劣らない悪辣さだった。
 拘留期間満了と同時に、今度は引きつづき治安警察法違反被告として、市ケ谷刑務所に起訴収容されたのだった。
 朴準植とは朴烈のことで、この時、朴烈は数え年25歳、丈子は20歳だった。今なら文子はまだティーンエイジャーの未成年だったのだ。他の同志たちもすべて、223歳の若者たちばかりであった。
 朴烈たちが保護検束を受ける以前は、警察官は始終公然と朴烈の不逞社を訪れている上、彼等の会合にも出席していた。ということは、それまで不逞社を秘密結社とは認めていなかった証拠であった。ところが一度、捕えられたとなると、次第に適用させる罪状を重くさせるため、次々起訴事実が追加されていく。
 明けて大正13年の215日、捕えられて半年後になると、治安警察法違反の上に加えて、更に爆発物取締規則違反というのが追加されて起訴されている。それが更に大逆事件へと天井知らずにエスカレートしていく。
 
(文子は)金重漢との件の共謀はあくまで否認したが、最後には朴烈と同量の刑を受けて死ぬことを希望し、朴への愛を高らかに歌って手記を結んだ。
「私は朴を知っている。朴を愛している。彼におけるすべての過失とすべての欠点を越えて、私は朴を愛する。私は今、朴が私の上に及ぼした過誤のすべてを無条件に認める。そして朴の仲間に対しては言おう。この事件が莫迦げて見えるのなら、どうか二人を嘲ってくれ。それは二人の事なのだ。そしてお役人に対しては言おう。どうか二人を一緒にギロチンに抛り上げてくれ。朴と共に死ぬるなら私は満足しよう。そして朴には言おう。よしんばお役人の宣言が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせては置かないつもりです、と」
 文子は予審のはじめから、いつでも積極的に自分が朴烈と同罪にされるよう、むしろ、罪をつくりあげるような発言ばかりしてきた。捕われた最初から丈子はむしろ死を需め、死を急いだような言動ばかりしてきた。尚その上、予審調書を通じて、朴烈にも自分の考えを訴えかけ、死に誘ったとも思えないこともない。
 その上でなお、この最後の大舞台で、文子は朴烈に、面とむかって自分の心中の意志と覚悟を堂々と訴えたのであった。
 この時、文子のもっとも恐れていたものは、朴烈ひとりが死刑になり、自分の刑が朴烈と差別されて軽くなり、生き残ることであった。この時すでに文子は死刑にならない場合は、自殺することを覚悟していたと見える。
文子は板倉受命判事に喋った最後にいっている。
「-即ち『生を否定する』という事は哲学的に成り立たない。何となれば生のみが一切現象の根本である。生を肯定してのみすべては定義を持ち得るから。さよう。生を否定した時それはすべてが無義である。否定から否定は生れない。より強い肯定にのみ、より強い否定は生れる。即ちより強く生を肯定してこそそこにより強い生の否定と叛逆とは生れるのである。だから私は生を肯定する。より強く肯定する。そして生を肯定するが故に、生を脅かそうとする一切の力に対して奮然と叛逆する。
 そしてそれ故に私の行為は正しい-と。
 こういったらお役人さま方は、じゃなぜ自分の生を破壊しようとするような真似をしたのだ?というだろう。私は答える-生きるとはただ動くという事じゃない。自分の意志で動くという事である。即ち行動は生きる事の全部ではない。そして単に生きるという事には何の意味もない。行為があって初めて生きて居ると言える。したがって自分の意志で動いた時、それがよし肉体を破滅に導こうとそれは生の否定ではない。肯定である-と」
 文子は少なくとも感傷的に死に憧れ、朴烈との心中を図ったのではなく、冷静に哲学的に覚めた意識で死を選びとっていたといえる。死を選ぶことによって自分の思想を生かそうとした積極的な意志がそこに働いていた。
小原検事は刑法73条後段および爆発物取締規則違反として、朴烈、丈子の死刑の求刑をした。
-刑法73条と、爆発物取締規則3条に当るというので死刑が判決されたのであった。
この日は朴烈は白綸子の朝鮮服をつけ、文子は銘仙の袷にメリンスの羽織を着、朝鮮風にまとめた束髪をいく分頬にほつれさせ、上気してやや興奮状態だった。
 裁判長の判決言渡しが終ったとたん、文子は高い声をはりあげ、
「万歳!」
と叫んだ。朴烈も負けずに、
「裁判長、御苦労さま」
 とどなった。
「私はね、寧ろ死んで飽くまで自分の裡に終止します」と、地裁で読みあげた手記の中にも述べていた文子の願望はここに実を結んだ形になった。震災のどさくさに捕えられて以来、足かけ4年、獄中生活をする間に、文子は前途に死刑しか見ることが出来なくなっていた。
この判決が法務大臣江木翼に報じられると、若槻内閣は、臨時国会を開いて政策上減刑することに決めて、恩赦を天皇に奏請し、受諾された。
 判決から早くも10日がすぎた45日、朴烈と文子は、市ヶ谷刑務所の所長室に呼び出された。
 幸徳秋水事件では判決から6日目の124日と5日に処刑があり、難波大助事件は、判決の翌日、処刑されている。
 文子は判決の日から毎日処刑の呼出しが来るのを待ち望んでいたから、愈々その日が来たと思った。

 文子が所長室に入っていくと、すでに朴烈がそこにいて、文子を見て笑った。
 ここで死刑執行の申し渡しがあるのかと思った文子は、机の前から立ち上った秋山要所長の方をきっと見た。所長は二人の方へ進んでくると、緊張した表情で、今日、陛下のかたじけない御仁慈により恩赦が下ったとつげ、二人を並べて起立させた前で、うやうやしく特赦状を読みあげた。
 「特典ヲ以テ死刑囚ヲ無期懲役二減刑セラル」
 という文章を読みあげ、秋山所長がまず朴烈に特赦状を手渡した。朴烈はふんと、鼻先で冷笑してそれを無造作に受けとった。秋山所長は残る一枚を文子にさしだした。それまで黙って、睨みつけるように秋山所長の行動を見守っていた文子は特赦状を手にするや否や、いきなりそれをべりっとひきさき、あっというまもなく、またしてもべりべりっとそれをひき破ってしまった。
『人の命を勝手に殺したり生かしたりして玩具にして、何が特赦なものか。私はあんたたちの勝手になんかさせるものか」
 と、どなった。秋山所長は仰天して、とっさに朴烈の手から、特赦状を奪いかえした。朴烈にも破られたら手のほどこしようもないと恐怖したからである。
 いやしくも天皇の特赦状を破り棄てるというような行為は所長にとっては想像の外の事件だった。秋山所長は色を失った。これが外へもれると、内閣はつぶれるだろう。自分をはじめ関係者すべては総辞職せねばおさまらない。大体、この事件では、法廷以来、悔俊の色が全くない傲岸不遜の二人に対して、恩赦を奏請するということ自体が誤っているという世評も強いのである。
 秋山所長の外に、その部屋に立ちあっていたのは教講師と戒護主任だけだった。ふたりとも息をのんで声もない。
 秋山所長は朴烈と文子を引きとらせたあとでこのことを他言しないことを教講師と戒護主任に強く申し渡し、上司の泉二行刑局長だけに事件の報告をし、他には一切口外しないことに決めた。詰めかけていた新聞記者にも、二人は感涙にむせんで有難く受けとったと発表した。
 幸徳秋水たちの大逆事件でもそうだったが、この事件は実行行為がない上、幸徳事件以上に、予備陰謀にも不確かな点が多いので、死刑執行というのは極刑にすぎていた。
 文子があれほど切望していた朴烈と共に死刑台に上るという夢は、ここに破られてしまった。その後朴烈は千葉刑務所に、文子は宇都宮刑務所栃木女囚支所に移されて無期刑に服役することになった。.
 この思いがけなく与えられた無期刑の歳月が、文子にとってはむしろ屈辱と拷問でしかなかったことは察するに余りがある。生きていても、もはや朴烈とは文通も許されず永久に相逢うことは出来ない。
 栃木女囚刑務所の独房で暮した四ヶ月の日々を文子は敗北感と悔恨と絶望の中に過していただろうか。文子が一切の作業を拒否し、食事さえ次第に拒みはじめたのは、敗北からではなく、自由を奪われた文子の捨て身の抵抗と挑戦ではなかっただろうか。
 国家権力に抵抗することによって得た死刑は、文子の思想が選びとったものであった。その栄光を奪われた文子が、国家権力によって与えられた生を否定し、自殺するしか自分の思想を貫く方法はないと判断し決意したのは、丈子の日頃の揚言から見ればむしろ当然の結果であった。
 決して感傷的に絶望的に、あるいは、錯乱して発作的な死をとげたのではないことは、それまでずっと拒否しつづけていた作業を、自分から申し出て、縊死死するための縄をつくる材料として、マニラ麻の配給を受けていることでも知れよう。文子は722日にもらったマニラ麻で縄を編みはじめ、23日真夏の朝日の、明るく強く射しこむ独房の窓ぎわで、縊死体となって下ったのだ。文子は死の瞬間まで冷静な判断力を失わず、自分の意志で死を選びとったのであろう。文子の選んだ死刑は文子の魂の生であった。しかし、与えられた無期刑の生はむしろ文子にとっては魂の死であった。文子はこの死に挑戦して、ふたたび自分の意志で死を選び獲ることによって、永遠の生を掴み獲ろうと図ったのである。
 その死は、だからこそ、赫々とした生命そのものの夏の朝陽に向って遂げられたのであろう。

 

 1972117日の朝、私は小林常二郎氏と、同乗した車を栃木へ走らせていた。
 小林氏は、私には未知の方であったが、私が週刊誌に出した金子文子について知らしてほしいという記事を見られて、お手紙を下さった方であった。
「金子丈子の死去はもう四十余年の昔になりますので記憶も大分薄れましたが、何かの参考になれば辛甚と御知らせします。
 私の十七、八歳位の丁度、六~七月頃か、当時の栃木にはまだ自勘車はありませんでした。私は当時栃木で俥宿をしていた家の業を手伝って居たので計らずも知った訳でした。
 合戦場(かつせんば)街道の「二つ橋」の先までと、俥を何台も依頼され、他の多勢の俥夫と一緒に、晃陽館(旅館)へ集合したのは暁前だったので、こんな時刻に、こんなにたくさんの俥を呼ぶのはどういうわけかと不審な想いに駆られたのは覚えています。
 現場は栃木の北方で下都賀郡家中村との境界近く、日光、鹿沼街道から栃木より日光への進行方向に向って約五十米くらい左へ入った所でした。
 そこが刑務所墓地と知ったのは、後のことですが、砂地のところで、私も掘るのを手伝った覚えがあります。掘り進むと砂地にもう水が滲み出てきました。まだ僅かに棺の一部しか地中からあらわれない時、赤いギラギラした水が出てきて、血か、とぎょっとしました。それを見て、ルパシカを着た長髪の人達や、馬島僴さん、布施辰治さん達(後で知った)が色めき立ってきました。
 棺の蓋を開いた時、喉のあたりが変だったのでしょう。大分慎重に見て居られましたが納得されたのか、問題にはならなかったようです。
 ギラギラした赤い水は血液ではなく、防腐剤が水に溶解したものと判明しました。
 掘り出された棺を運搬する者がなく、私は栃木刑務所へ荷車を取りに行ったと思います。自転車は刑務所の看守さんのものだったでしょうか。刑務所では簡単に荷車を出してくれました。万町三丁目角の交番の前も通る時わけを話すと、何ともとがめられず通してくれました。夜の白々明ける頃、荷車に棺をのせて当時の今泉街道の火葬場に運ばれ、茶毘に付された訳です。
 以上が私の記憶にある当時の情況です-