湯かげんいかが 森崎和江著 東書選書82 東京書籍

装幀 勝井三男 19821215日 第一刷発行0339-599082-5313

湯かげんいかが表紙画像
湯に心を遊ばせる
入浴今昔話
ふろというごく身近な習慣を、文学の世界ではミソギに片寄らせて説き、世上ではのぞき見の対象にしてしまう。
なぜ生活者の心身から遠くなるのか、水を湯にしてきた細道を辿り直す。
心をとき放ち、あたたかな湯に浸る。
思いわずらうことも、ぬくもっていく心身とともに遠去かり、無欲な若さでも立ちかえるのか、やわらかな思いがひろがる。
湯にこもるこのやさしさは、日常の生活の中でわたしたち庶民がはぐくみ、手渡して来た文化である。
精神のふるさとを求める著者が、共同ぶろ、もらいぶろ、呼びぶろ、銭湯、温泉、行水、みそぎ……と、時間と空間の旅をしながら、聞こえてくるいのちのひびきを読者に伝える書き下ろしエッセイ。(-以上、帯より)
かつての町の湯の、ふろ焚きと、三助は東北や北陸からの出稼ぎであった。つまり、すべての湯は、それを沸かす者の働きでもって湯となった。共同ぶろの初期には誰もみなそのことを知っていた。そのぬくもりを味わい合った。日本人の集団性や共同体をここで強調したいわけではない。そのような生活を基盤としているのに、そのふろを文字化するとき湯が水のごとく文字の表にあらわれて誰も疑わない。具象界と抽象界とが別々の論理で展開していくのである。その両者をきっかりと結びつける地点を思考の核にしようとはしない。その思いが、ふろの湯の旅をつづけると一層深くなっていくのだった。(本文より)

序 ゆげのむこうの

 ことさら入浴好きというわけでもないが、子どもたちがひとり立ちしてしまうと、湯かげんや着替えやと気働きをすることもないせいか、入浴というなんでもない風習さえ、あざやかに見えてくる。そしてのんびりと湯を味わう。あたたかな湯に浸っているときの、無心の境地がこころよい。思いわずらうこともぬくもっていく心身とともに遠去かり、無欲な若さでも立ちかえるのか、やわらかな思いがひろがる。こうして心機一転することをよろこび、最近はストレスが溜った日など時間かまわず湯を沸かす。屈折した思いもさっぱりと消えてしまう。
遠い昔、まだわたしが十四のころ、ながく病床にいる母を、父がふろにいれたことがあった。
湯上りの母がにっこりして言った。
「ああいい気持ち、とてもしあわせ。もういつ死んでもいいわ」-
 湯にはさまざまな人生模様が浮き、かざりけのない素裸の者が、埃や汚れを落とすひとときなので、たあいないがいかにも明日を信じようと生きるかに思えて、その風習がかなしい。母はあのあと一度も入浴することなく、家族や看護人の手でからだをぬぐい髪を梳かれつつ逝ったが、その当時わたしたちが使っていたのは五右衛門ぶろであった。大人ふたりがからだを沈めることができるふろの、そのまわりはセメントでつるつると塗り固められ、ふろの底に丸い敷板を踏み沈めつつ入る。これは幼い者にはむずかしかった。湯の表面で平均をとりつつ沈めねばならない。ふろ釜の底を燃やしているので敷板なしに入ると熱い。いい湯かげんは、ふろ釜に背をもたせかけ、しんしんとあったかいころだな、と、わたしは思っていた。その湯かげんを見るのは大切な仕事で、火を燃やしている最中の五右衛門ぶろには入りにくい。焚口(たきぐち)近くは熱くて背をもたせかけて安らぐことは無理だったから。洗い場には木の簀の子が敷き込んであった。
 翌朝ふろの湯を流したあと、庭の日だまりに、敷板と賓の子とふろ蓋とが干される。秋も深くなり冬の風が吹き氷が張り出すと、わたしが暮らしていた旧植民地の朝鮮は急速に冷え、湯上りに縁側などでタオルをぱんぱんとはらって広げると、そのまま長四角に、ぴんと凍った。もし、しぼったまま置き忘れると、ねじった飴のように固まっていた。しみとおるその冷気を、当地生まれのわたしは湯上りの肌にたのしみ、父母はかぜをひくとやかましく叱った。和式の建物の中に朝鮮伝来のオンドルの部屋があり、ここはこたつの部屋よりもずっとあたたかだった。床下に煙道が通っていて、焚口から火を燃やし終日あたたまっていたからである。
 ところで、ふろの話をわたしの身辺に即しつつはじめたいと思ったのは、このめずらしくもない風習が、こうして旧植民地でも、顔を洗うように何げなくつづいていたのに、ふりかえってみるとその地の人びとである朝鮮人にはそのような習慣があったとは思われないことに気付いたからだった。そしてまた、思い返すのも気重いことだが、わたしが肩までからだを浸し、母や妹たちとあたたまり、唄をうたい、たわむれ遊んだふろの湯は、ほとんどの場合、家で働いてくれた朝鮮の娘の手で沸かされたものだったからである。-
 ところで敗戦のずっとのちのこと、韓国から知人が来日してわたしの家にも泊って行った。わたしは食事をととのえ、ふろをたて、入浴をすすめた。春先だった。
「熱い湯に入る習慣がないから、ふろはいいです」
「熱くはありません。ちょうどいい湯かげんです。もし熱かったら水道の蛇口をひねってください。うんとぬるくなさっていいんです、お好きなかげんにしてお入りください」
「いや、いい。水しか入らないから」
「水?水ぶろがお好きなの。ごめんなさい。でもまあ日本の庶民のふろにも一度入ってみて。ほんとにチャチなもんです。一日の疲れをこれで癒すと言っているんですよ」
どうぞどうぞと無理強いした。客は湯殿に行き、やがてさっぱりした顔で戻って来た。
「湯かげんいかがでした?」
「いや、水を使ったからわからない」
あらまあ、とわたしは言い、そしてあらためて過日をふりかえった。わたしは十七年ものあいだその地でじゃまをしながら、彼らの入浴の習慣について何も知らなかったのだ。-
 今でもわたしにはわからない。陽気だったあのオモニや、働いてくれた娘たちが、湯舟の中に入り、ときにはひりっと熱い湯をたのしんだものか、どうか。ひょっとしたら彼女たちは首まで漬かる五右衛門ぶろの湯を、いかにも気味わるい風習と思って、つい湯の中に落とした石鹸をそのままにしたのかもしれないのである。

1 罪のない顔

 わたしはこの小文を自分の生活の中から外へひろげるように書きすすめていきたいと思った。さもないと、ふろという卑近な日常性をとりあげる意味も半減するだろうから。というわけでわたしが生きている今日のことから書きはじめて、そして過去へさかのぼることにする。そう思っていた折も折、わたしは自分の同時代の認識がたいそう狭いことを知らされるはめとなった。とある知人と話していたときのことである。話がふろに及んだときに彼が言った。
 「ふろは庶民のあこがれでしょうね。家にふろを持つというのは。そろそろ湯殿に金かけるかと言いますからね」
 え、と思わずわたしは問い返してしまった。それはどこの話でしょう、とたずねた。彼は、ぼくの郷里では湯殿に金かけるか、と言う言葉は、画期的な変化を内にふくむかのように使いますね、と言った。いよいよあそこも湯殿に金かけた、と言ったりする。そしてそのような家が次第にふえて来た。それは昭和三十年代以降のことだと語った。
 わたしは衝撃を受け、いい表現ですね、と言いつつ心でその言葉をつぶやいてみた。ふろ以前の生活がついそこまでつづいていたのを感じた。
 「すばらしいことをご存じなのですね」
 わたしはしげしげと彼をさしのぞく思いになった。わたしたち庶民の生活はふろを家の中に持つかどうかで何かが大きく変化していたのだ。小金を溜めたかどうかと言う経済上のことだけではなく。
 それ以来、心がけてふろの話を聞くようになった。
 「今考えるとほんとうにけっさくなんですけどね」
 ある女性が笑いつつ語った。
 福岡市郊外の山間の村に住む親せきの家に、すばらしいふろが出来たと連絡が入った。戦後十数年たったころのことである。彼女たちは家族連れだってその湯をもらいに行った。電車に乗り、バスに乗りつぎ、共同ぶろしか知らぬ彼女たちはようやく山の村まで来た。そしてぎょっとする大きなふろを見たのだ。
 「たまがったとですよ、家ちゃ百姓家で納屋のごとしとるとですもんね。崩れそうにしとる。その百姓家にくっつけてふろは総硝子(ガラス)張りですよ。太いのなんの、湯舟の中であたし泳ぎましたよ。十畳くらいあるとですもんね。ばかじゃろか、って言うくらい大きいの。洗い場も十畳くらいある。
 なんぼなんでもあきれた。それでもさんざん考えて建てたって言いました。百姓ももう自分たちの代で終るかしれん。金の始末してもどうなるかわからんし、家を建て直すより湯に入って庭木でも眺めたがよか。水も山の水を引いて只だし、焚きものも自分の山になんぼでもある、どうせ隠居するならふろをたのしもう、て夫婦で話しあって総硝子張りのふろを建てとるとですよ。昭和三十四、五年でしたかねえ」
 ふろに浸って眺める予定の庭はまだ出来ていなかったとのこと。
 湯に漬かって庭園を眺めるのは野外の露天ぶろから野面(のづら)を眺める趣向とはいささか趣がちがうだろう。またこのふろは特別でもある。が、節約が美徳であり、共同が生活規範だった農村で、村道からまる見えのこの巨大な家族ぶろが戦後十余年たって隠居夫妻によって建てられたというのは、やはり画期的なことに思える。そしてこれほどのことではなくとも、共同ぶろや行水で暮らしていた村々が、それぞれ家庭ぶろを設けて、くつろぐことや心身のよみがえりを計ることを、家の中にかかえいれたことを思いみるのである。

2 わたしのふろ/5 村の湯 町の湯 温泉/4 水を湯にする/5 桶とかめと手織り木綿/川でふろして/7 湯水のように/8 ふろふき大根/


9
 ひびいてくるいのち

 貧乏ひまなし、とわたしたちは言って笑う。ひまがないのはしあわせだ、と挨拶する。働きたくて働くのは幸福だからである。けれども働きたくないときも、めったに緊張をとくことはない。日本には芸道とか武道とかというように、道を極めることを尊ぶ思想があり、それは今だに衰えることはなく、社会倫理のように機能しているせいだろう。家を出れば七人の敵、などと攻撃的に生きるのを美徳ともし、くつろぐのは家庭だけと言う。家庭もまたくつろぎの場でないと、家族サービスに疲れたり、歓楽地に緊張の解放をゆだねたりする。そして文筆をはじめ研究や表現の対象となるものの大半は、緊張して生きるわたしたちのこの活動の分野である。
 おそらくわたしたちの社会は緊張した心身が生み出すものを文化の表街道とし、それをとき放って無心無欲な姿勢がつくり出すものを裏街道としているのだろう。そしてわたしたちがなじんできたふろはその後者の一風俗なのだ。表街道からみればそれは何も生み出してはいない習俗にすぎないだろう。けれども攻撃精神や道を極める緊張的対決法だけが文化を形作るものではない。まして昨今の諸公害は人間のありようの一面ばかりを評価して来た結果だと言えなくはない。緊張をとき放ったからだと心とは、その生態のあるがままに自然と親和する。湯の中で、湯の助けを借りて緊張をといた肉体が、訓練を重ねて機能を回復させるように、リラックスした心身が生み出すものを体験の消えるままにまかせることなく、もっと大切に目を注いでもいいのではあるまいか。日本人はくつろぎが下手だと言う。くつろぎたくて遊びながら遊ぶことに緊張してしまう。
 裏街道には、やわらかになり無心になり肌を近寄せつつようやく聞こえ出す声々に満ちている。またそのことを体験的に知っている人びとの志が流れている。それは必ずしも弱者の声ではない。新陳代謝する生命のありのままの姿の一面である。わたしたちの存在は多面的だ。それをまるごと生かしたいと願うのはごく自然な生存の欲求だろう。わたしは今日の公害に腹を立ててこの稿を起こしたというよりも、もっとなまな声として、代謝作用をする存在の息の根をとめられたくなくて、ふろに寄りそった。新陳代謝しつつ生々発展するのは赤ん坊だけではない。生きるとはそのようなことだと思い、表街道で価値あることだけが存在理由ではないからである。わたしはそこに自分を閉ざされたくない。またほんとうに、無心に湯に浸る人びとのからだは美しい表情をしているからである。
 この小著を書いているのは五十七年の夏である。開け放っているへやに近くの家々から子どもがふろばで遊んでいる声がひびいてくる。真夏の昼まを、やはりこの子どもたちも湯水とたわむれるのだと、ほほえましい。きょうだいがせいいっぱいの声をあげて、あきることなく毎日ふろばを占領しているのだ。時に泣声がひびく。頭を洗うのが大嫌いな子だな、とそのうちわかってくる。夢中になって遊んでいるその機嫌のいいときに、母親がだましだまし頭を洗っているのだ。折々合唱や楽器の音がまじったりする家もある。あと二、三年もすればその声も聞こえなくなるだろう。ふろの湯が友達ではなくなるのだから。
そしてまた、ふろの湯が友達となるときが来る。

あとがきにかえて

 ふるさとがあるというだけではなく、それを根深く持つことの重さを、強みとしつつ瓢然とした軽みの味へと結晶させている常田(ときた・富士男)さんの演技が、常々私の意識にひっかかっている。それの論理化の硬直さが一向に先をひらかせない一般的な情況が気になるので、いっそう心にとまるのかもしれない。私は御夫妻の、たまたまの帰省の折をたずねたのだが、その山のひとところが目も鮮やかなくぬぎ林だったのである。そしてこのむらには九十度を越える温泉が谷川の岩のあいだに湧き流れていた。
 私はこの小著にこだわりつつ歩いていたとき、しばしば、なぜ今ごろふろのことなどを、と問われた。うまく答えられなかった。ただ私には、くぬぎ林の秋の色を見て声が絶えるような私の反応の、その根を埋めたい思いが、口ごもるたびにうずいた。日本人ならふろなど誰でも知っていて面白くもおかしくもないのに、と重ねて言われると、でもとてもふしぎで面白いですよ、と言うほかにないのだった。なんとも説得力のないことである。が、私は説得したいのではなく、あ、と一瞬びっくりして空を見てすぐに見失う昼の星か何かのように、そこにそれがあることを感じとってほしいのだった。
 私は書く作業とともに、もっと論理が見えなくなる形でそれを他の人びとに知らせたいと思った。RKB毎日放送の木村栄文さんをたずねて、こんな話、テレビではむりかしら、と聞いてもらった。いつも木村さんは直観的に聞きとってくれるのでとても助かる。これまで幾本かのテレビ・ドキュメントをご一緒して来て心にしむ作品に仕上げてくださっている。コーヒーを飲みつつ、その場で、やろうやろうということになった。ドキュメントというより映像によるエッセイにしたいと私は言った。栄文さんも、ここらで手法を替えたいところだからとよろこんでくれた。作品ごとに賞状を受けている彼は優等生じゃしょうがないのだろうと私も一人がてんをした。教養主義はいやですよ、と私は言い、大丈夫森崎さんがふろに入る話だと説得するから、と笑った。こういう出発は助かるのである。
 私はこの小著を書き終え、なおあちらこちらと湯を訪れている。木村栄文さんをはじめRKBの幾人ものディレクターと出かけている。カメラの木村光徳さん、音声の遠藤裕己さんはいつも一緒でたのしい旅だ。そして常田富士男さんに仲間に加わっていただいた。が、偶然というのか、当然だといえばいいのか、まるでうってつけのように、彼のふるさとにくぬぎ林の秋と湯けむりが立つ露天の湯があったのだ。常田さんが、私のたどたどしいふろ話を聞いたあと、偶然のようでありながら人間の歩みの中には必然性があるのでしょうね、と笑った。
 私は安直なロマンみたいに、陽に輝く黄色い林の中を常田さんと肩をならべて隣村へ消えて行くシーンをラストにしてほしい、と、スタッフにたのんだ。オーケーと、一同を乗せて車が走った。-
 ここでたのしい話を聞いた。共同湯の湯舟には端から端へと一本の丸木をわたしかけてあるのだが、この丸木に頭をのせ、足先を湯舟にかけてぷかぷかと浮寝をする話である。ほんとうにそうやって一晩眠るのだという。あたたかいし、連れはあるし、親に叱られるとここにやって来て眠っていた、と、うそのような話なのだった。
 この田の原むらの山向こうの里には湯が出ない。人びとは山道を提灯をさげてもらい湯に来ていたとのこと。湯に入ってもどこか遠慮がちに、すこし身をずらして会釈して入っていた。湯があるというだけで豊かな思いをしたものだったと常田さんは話してくれた。その隣村にここ数年前のこと、夢を見た人がいて、夢のお告げで湯が出ると知った。そこでお告げの地面を掘り、見事温泉を掘り当てた。当人は夢の湯と名付けて、バスが通う山道に、手書きの木札を立てた。それは色づいている山道に赤い矢じるしをともなって幾本も立っていた。田の原むらを通りすぎた峠のあたりにも、夢の湯と書き、黄金色の落葉をはらはら浴びながら地面に低く突き刺さっているのだった。
1982115日     森崎和江