ユンボギの日記-あの空にも悲しみが   イー・ユンボギ(李潤福) 塚本勲 訳 太平出版社

1965630日第1刷発行  1979220日通算第70刷発行

編集製作=崔容徳 さし絵=渡辺学(新制作協会) 題字・シンボルマークー=粟津潔 装憤=山本義信

ユンボギの日記表紙画像

目 次

ユンボギの日記を読むまえに

Ⅰ お母さんは いまどこに

ぼくはチューインガム売り/新しい部屋にひっこして/スンナの家出/ひもじさをこらえて

Ⅱ くらい真夏

お父さんの病気/ふたたび学校へ/薬(やつ)きょうひろい/軍人兄さん たよりもなく/あきカンをさげて/シンマイくつみがき/きょうは解放の日です/もののねだんはずんずん上がり/二学期/お父さんともわかれて/コレラ/ランプによせあう小さな顔

Ⅲ 明かるさをとりもどして

あたたかい金(キム)先生/ノランシャツ ツイスト/ナマ傷/国会選挙/先生のベント/新聞にでて/だっそう/お母さんがなつかしい

Ⅳ スンナ もどっておいで

ハトになってお母さんとスンナをさがしたい/あの空にも悲しみが/新年のゆめ/金(キム)先生のけっこん式

注と解説/訳者あとがき/ユンボギのその後


ユンボギの日記あの空にも悲しみが-をお読みになるまえに

☆この日記は、南朝鮮=韓国の李潤福(イーユンボギ)(大邸-テグ-明徳国民()学校4年、10)少年が、1963(昭和38年6月から64年1月までつづった日記を翻訳したものです(原書名は『あの空にも悲しみが』)
☆ひと……ユンボギ少年のフルネームは李潤福-イーユンボク-(I Yun-bok)ですが、ふつうユンボギ(Yun-bogi)と、愛称でよばれているので、この日記では、いっかんしてユンボギとよぶことにしました。
ユンボギのきょうだいについて書くと、つぎのようになります。
ユンボギ(潤福)本人10才国民()学校4年
スンナ(明順)8才国民()学校2
ユンシギ(潤植)6
テスニ(泰順)5
☆とき……この日記がつづられた時期は朴正煕(パクチョンヒ)大統領が、軍事クーデターを終えて、軍政から「民政」に「移行」するために大統領選挙と国会議員の選挙をおこなった「転換」の時期にあたり、冷害と水害、農作物の凶作、とめどない物価の値上がりが、あいついだ時期にあたります。
☆ところ……大邱は、朝鮮の東南方にあり、慶尚北道(キョンサンプクト)の道庁所在地(日本の県庁所在地にあたる)で、産業や文化の中心地であり、とくに古くから漢方薬の市がたつことでも有名です。市内には、洛東江(ナクトンガン)の支流琴湖江(クムホガン)が流れ、風光明眉な山紫水明の地です。ユンボギ少年は、その郊外にあるアメリカ空軍基地の近くから、市内の学校にかよっているわけです。
☆さいごに、この大邸は、東京から直線距離でわずか一千キロの地点にあり、東京から下関・博多までと同じ距離、大阪から札幌までと同じ距離にしかあたらない地点にあることを念頭において、お読みくださいますよう-
196712月『ユンボギの日記』児童・生徒版発行にあたって太平出版社編集部)

訳者あとがきーこの、さいしょの翻訳を、亡き母に捧げる

○わたくしが、この本を翻訳したのは、11才の少年のぞぼくな目で、南朝鮮の一断面が、うきぽりにされていると思ったからです。この現実を、おおくの日本人に知ってもらいたかったからです。
○日本人は、あまりにも、この隣国のことを知らなすぎる-いつも、こうつぶやきながら、私は、朝鮮語や朝鮮の文化を学んできました。なん千年もの昔から、日本と密接な関係をつづけてきたこの国が、海のむこうの、地球のうらがわの国ぐによりも、はるかに知られていないのが残念だったのです。新聞やテレビでは、まいにちのように、この国のことが、論じられ、報道されています。にもかかわらず、わたくしたち日本人は、朝鮮や朝鮮人については、あまりにも無知であるということです。その原因については、いろいろ考えられますが、日本人が、かつての古い朝鮮観からぬけきれず、新しい朝鮮の現実を、正しくみようとしないからだといえましょう。
○朝鮮民族には、なん千年もの歴史をもつ、すばらしい文化があります。かつて、わたくしたちの祖先は、その文化をたくさん吸収してきました。いま、わたくしがここに書きつづっている漢字も、朝鮮の学者がもたらしたものでした。わたくしたちの祖先が、学びもとめてきた文化を、いまわたくしたちが、なぜ無視したり、ときには、さげすまなければならないのでしょうか。
○この日記のさいこの一か月半の時期は、ちょうど、わたくしが、大邸とソウルに滞在していた時期にあたります。わたくしが、ゆめにまでみた朝鮮の土をはじめてふんだのは、ユンボギが新聞にでて、えらい人たちにほめられながら、その晩はまた希望園(少年院)にひっぱられていく12月4日だったのです。私は、ソウルでも大邱でも、ユンボギのような少年をたくさんみかけました。大邱には15日間もいましたから、どこかでユンボギにあっていたかもしれません。わたくしも、喫茶店などで、いれかわりたちかわり、しつようにコムサイソ(ガム買ってください)とせがむ少年に、はじめは同情してはいましたが、ついにはへいこうして、アンサンダ!(買わない)といった客の一人です。終戦直後の日本のような、くつみがきやガム売りの少年の群れは、わたくしにはショックでした。この日記を訳しながら、そのときの自分が、いまさらのように、はずかしくなりました。
○この日記の原文は、そうとうにくせのある大邸の方言がつかわれています。原文でよむと、はらをかかえて笑うような表現が、ユンボギの日記の魅力の一つとなっていますが、日本ふうの方言にうつしかえることは、かえって作為をかんじさせるおそれがあるので、やめました。さらに、朝鮮では、めうえの人に、いちいち、ていねいに敬語をつかいますが、この翻訳では、おおはばにけずりました。また、日本語は、朝鮮語に、おおくの単語を輸出しました。それも、あまり名誉ある単語ではなく、過去の両国の関係をおもわせるような、くらいものがおおいのですが(ワイロ、スリなど)、これは原文どおり活用しました。
○わたくしが、朝鮮語を学びはじめたのは、日本語の起源に興味をいだいていたからです。先生も参考書も、ろくすっぽありませんでしたので、在日朝鮮人のなかにはいりこみ、耳をとぎすまし、唇をにらみつけて、文字どおり「独学」したものです。本屋にたちよって、英語やドイッ語の辞書、参考書の山をまえにしたり、テレビの英会話をみては、どうして、隣の国のことばを勉強するのに、こんなにムダなエネルギーをつかわなければならないのかと、なんどため息をついたかわかりません。
○わたくしの母は、そんなわたくしを理解できず、「おまえのチョウセン・ドウラクにはかてん」と、よくなげいていました。その母もこの翻訳の最中になくなりました。母の死の悲しみをかみしめるようにして翻訳につとめましたが、ユンボギがおかあさんによびかけるところなどは、なんども身につまされました。母が生きていたら、「チョウセン・ドウラクの親不孝もの」も、ささやかなしごとをしたと、だれよりも喜んでくれたことでしょう。つつしんで、この本を母の霊前にささげたいと思います。
大阪外大研究室にて塚本勲

日本版刊行者から

わたくしたちが、『ユンボギの日記』の原書に接したときは、すでに最初の出版物を発行する直前だったのですが、その進行をとめて、きゅうきょ、この『ユンボギの日記』を、わたくしたち太卒平版社の最初の出版-処女出版とすることに、決意しました。『ユンボギの日記』は、たんに一人のユンボギの日記にとどまるものではなく、なん千、なん万にもおよぶ不幸な韓国の-、いや日本やベトナムをもふくめて、そこにはアジア・アフリカの、なん千万にもおよぶ不幸な少年少女日ユンボギと、その不幸な家庭の姿が、なんのいつわりもなく、つづられていると考えます。この不幸な少年少女たち=ユンボギたちに、あらためて世界の目をむけさせたい、と思います。
・ユンボギは、そのとしから逆算すると、ちょうど朝鮮戦争(195053)のさなかに生まれていることがわかります。(1)ユンボギの祖国が二つに分断されていること、(2)ユンボギの同胞が、まだ戦争の惨禍からぬけきれないままでいること。ここに、ユンボギの悲しみと不幸の原因をみることは、むりでしょうか。
・さいごに、翻訳にあたられた塚本さんは、重病のなかにあるおかあさんに65日もつきっきりで看病をつづけながら、そして、ついになくなられていくおかあさんを送りだしながら、この『ユンボギの日記-あの空にも悲しみが-』の翻訳を完成されたこと、しかもこの翻訳が、朝鮮の本を、日本人が日本語に翻訳しておおやけに刊行する最初の本であることを、おつたえしたいとおもいます。
太平出版社編集部


第Ⅳ章の注
に、 (1)『にあんちゃん』は、韓国で『雲はながれても』という題で翻訳出版された。と、ありました。