流民烈伝-風のなかの旅人たち 著者 朝倉俊博 白川書院

1977125日 0036-7702-3114

流民列伝のカバー画像

流民のあしあと-序文    森崎和江

 海風が電車通りを吹きぬける小倉の町なかに、公民館に風呂屋がくっついているような安直な温泉センターがある。ござを敷きつめた板張りに、足をなげだした女たちが、湯あがりすがたで、菓子をつまんだり、盃をかたむけたりしながら、舞台をみている。わたしがのぞいたときには、男客は幾人もいなかった。常連のおばあさんが、舞台のすぐそばで、芝居を見上げていた。
 旅まわりの一座のなかでも、五郎ちゃんのいる、歌と芝居と踊りの一座は人気があって、わけても五郎ちゃんには、五十女の奇妙に黄色いこえがとんだ。
「五郎ちゃん、よかおとこ!」
「色おとこ!ひゃあ、よかよう」
ふとった女がのこのこ舞台へよっていき、「五郎ちゃん」といいながら、はだけた着物の衿に、びら、と、千円札をヘアピンでとめてやった。五郎ちゃんが鼻に白粉をぬったかおをかたむけて、にっこりわらった。
「たまらんねえ」
おおきなこえで、女らが嘆息した。
 この五郎ちゃんの一座を、そののち、中国山脈のなかのさみしい部落でみかけた。明治のころ、八幡製鉄所ができたとき、この山おくから働きに出た人がいて、その生家をたずねあるいていたときだった。
 その家は山を刻った谷川を、川上へ川上へといったところにあった。数軒の家がそこここにひっそりとしていた。斜面の木をはらって、野菜をつくっていた。
 この村には、かつてたたら師として砂鉄を追って山を渡っていた人の、子や孫たちがいた。砂鉄から和鉄をつくりだすしごとが、洋式製鉄に追われたので、ここに住みついた。
 その兄や弟が八幡製鉄所の募集人にさそわれて山を出ていたのだった。製鉄ばかりでなく、八幡に近い筑豊の炭坑にも、いくらも出ていた。
 それでも筑豊の炭坑もなくなって、大阪などへ、また移っていった。大阪のすし屋には、炭坑夫の子弟がすくなくない。
 いつぞや、そのひとりがおもしろい話をした。梅田の駅で、まだ町にふなれなので、キップを買うのに手間どった。もたもたしていて、うしろの客からどなられた。
 彼は、どなったちんぴらを駅の片すみに呼んだ。
「おれをなめるとか。大阪にゃ、おれがひとこえかけりゃ、すぐ集る川筋もんが何百人もおるとぞ。うそとおもうなら、ついてこい」
 わたしはわらった。彼も大きな口をあけてわらった。そして、つけ加えた。
「京都にも、なんぼもおる。あんた、京都に行ったら丸山公園のすぐそばのスナックへ行きない。おれの友だちがおるけん」
わたしも彼へいった。
「銀座のクラブに、ひろちゃんがいるのよ。ママは熊本の女よ。ほら、あの……」
「そうな。みんな元気でやりよるばいね。
 ああ、ほんなこと、だれか、ひとこえかけんかねえ。なんもかんもほうたらかして鉄砲もって集るがねえ」
 とおくをみるその目。
 また、あるとき、わたしは越後の高田から、タクシーで三つ四つ、山を越した。幾曲りしていったその谷あいに、幾百年のむかしから、百戸ほどの家が、ふえもせずへりもしないで今に及んでいる、と、車の運転車がいったからである。それで、予定をかえて、そちらへむかった。
 山道をいくとき、この雪国の運転手は、むじなとりの話をした。冬になれば、屋根をこえて雪が降る。吹き降る雪で視界がきかなくなる。その雪が、ふっとやむ。
 すると狩犬をつれて、かたい雪のうえを歩く。むじなを穴に追いつめる。
 が、その手なれた狩で食えなくなり、彼も最近まで都市にいた。妹も働きにでて、九州の男とむすばれた。去年、マイ・カーによる新婚の旅の道すがら、高田へ寄ろうとした。が、とうとう途中で引きかえした。
 「九州の雪と、あんまり様子がちがうので腰ぬかしとるんですよ。これが雪か。滝か霧か雲かわからん、と、手紙が来ました」
 と、微笑した。
 谷あいの百戸の村についた。老いた女が、糸繰り工場の話をした。山の背を越して、とおくの糸屋へ奉公にいっていた、という。その山の背のむこうから、くすり売りも反物やも来ていたという。
 百戸の家は、この老女のような家つき娘が長男をのこして、みんなどこかへでていっていた。代々、そうだった。のこった者は、山の木を切り、畑をつくって生きのびてきた。
 そのように村に居ついて、親から子へ、子から孫へとくらしのこころを伝えつづける、根のふかいしあわせとおなじように、旅まわりの親子や、しごとからしごとと流れわたる次三男も、その渡世のなかで、仲間や子らへ伝えてきたものがある。このふたつの伝統が、わたしのなかで、ことことと音をたてているのを感ずる。
 流民の歴史やそのくらしは、いまはまだほとんど知られていない。定住した人びとの文化ばかりが表にでているからである。
 それでも里の祭りに、旅から旅へあきなう人の、露店が並ぶように、わたしらの文化には、流民たちが伝えてきた独自な発想や感性もまた、ふかぶかとしみとおっているのである。
 朝倉俊博さんの写真にも文章にも、その味わいがつよくにじんでいる。

木暮サーカス支配人

山上重雄さん(62)はキグレサーカスの支配人である。札幌の公園にテントをはっていた一座を訪ねると、何処からともなく夏みかんのにおいがただよって来た。

筑豊のチョビヒゲ紙芝居

都会の子供達に紙芝居の話を聞いても、幼稚園やテレビの中でしか知らないだろう。黄金バヅトは今やブラウン管の中にしかいない。ここに戦前戦後の激動期を、筑豊で紙芝居ひとすじに36六年間生きて来た人がいた。吉住信男さん(60)である。

大部屋にいた恍惚の大女優

往年の大女優岡田嘉子さんが36年振りにソビエトから帰国して話題を呼んでいるが、東映京都撮影所には、往年の大スター岡嶋艶子さん(63)が大部屋女優として元気に活躍していた。

望郷のリュックサック

根室の街は日差しの強さにくらべて、ひどく灰色である。この街の雪と雨はけっして上から降らず横から吹きつけてくるのだという。少しまがった背にチビたリュヅクをしょって北千島を追われた別所二郎蔵さん(68)は今日も灰色の街を歩いていた。

神主予想屋繁盛記

戦後、生活苦にあえいだ京都市比賣神社の神主、森本武夫さん(69)はひょんなことから競輪の予想屋になった、今では〃神社の予想、一本書きの森本〃といえば知らない人はいないという。

飛騨の八里飛脚

一日八里の道を歩いて43年間、1万5千4百日、12万4千里。実に地球を12周以上も歩いて来た人がいる。たった一人だけ残っている岐阜県は飛騨の飛脚(歩荷)千原吉郎さん(68)である。

バスを待つ幇間

花の吉原も今ではトルコの吉原になってしまった。タヌキと呼ばれ、吉原にはなくてはならなかった幇間も、松廼家喜久平さん(69)と喜代作さんの二人だけとなった。

鬼ガワラの上のヴァイオリン弾き

ジャン・パルジャン風かつエドモン・ダンテス流の生きザマを旗印にしたおかしな「音楽床屋」が代々木にある。笠井栄一さん(74)はバイオリン弾き弾き予備校生たちの髪を刈っている。

笹神村のはぐれ瞽女

この世からすっかり姿を消そうとしている越後瞽女の一人に会った。つらい過去については、あまり話したがらない小林はるさん(74)だったが、娘時代の楽しかった思い出には、思わずほおを赤めていた。

杣夫の秋

屈斜路湖のほとりにちっぽけな温泉宿があった。そこからわき出る豊かなお湯は、中川勝次郎さん(72)が人生の秋にたどりついた生命の湯でもあったのだ。

井戸掘り屋呑夢庵

井戸堀りの夢捨てがたく、北海道は釧路の山奥で温泉を掘り続けている人がいた。石黒秀一さん(74)は穴は掘ってみなきゃわからない、科学的調査なぞクソくらえだと言っていた。

浪花芸人横丁のご隠居

芸人が何時の間にか芸術家になっちまう時代である。良い意味での芸人気質と芸は、やはりこんな横丁からしか生れないのではないだろうか。松鶴家団之助さん(73)はひたすらそう思い続けて生きてきた。
八ツァン熊さん、それに与太郎、そんな連中が相談ごとに行くところといえば、横丁のご隠居さんのところにきまっている。
通天閣のある新世界から、ジャンジャン横丁のホルモン焼のにおいをかぎながら、飛田の方へ歩いて行くと山王町へ出る。
たしかこのあたりだったはずだが、と酒屋の若奥さんに聞いてみると「サー、ここらにそんな所あったんかいナー。そういうたら、ときどきやけど、平和ラッパさんが歩いてはりまんナ」とたよりない。
芸人横丁はどう行けばいいんですか、なんて聞いた方が悪いのだから仕方がない。そんな住所があって地図にのっているわけもないのだし、だいいち、芸人なんて言葉すらあまり通じなくなっているこのごろである。
電話帳をしらべてかけてみる。「そりゃあんたはん、郵便局のマウラでんがな」という返事。なんのことはない、ひと筋むこうのかどだった。
-現在、この天王寺村に住んでいる芸人さんたちは、およそ80人、平均年齢は60を超えている。

芸人さん写真  お地蔵さん写真 

左 本所収の写真(1972~3年)  右 2013年撮影。お地蔵さんはあるが、団之助芸能社の看板はない。(紹介者の余計なつけたし)

東西屋は新内流しに御座居

チンチンドンドン、チンドンドン、と遠くから太鼓と鉦の音が聞えてくると子供達はワッとかけ出して、チンドン屋のうしろに行列をつくったものだった。小嶋鶴松さん(71)は昼はチンドン、夜は新内流し、という変った東西屋さんである。

蝮の鎮魂曲(リクイエム)鼠の輪舞(ロンド)

八丈島に渡辺倉平さん(73)という蝮取りの名人がいる、と聞いて会いに出かけた。しかし、八丈島の蝮共は鼬に食われつくされ、ほとんど全滅という状態であった。

丹後下世屋藤布御婆婆

藤のツルを何ケ月もかけて繊維にし、それを紡いで布を織る。いわゆる藤布の技法は幻の布などと呼ばれ、丹後半島でも梅本スガさん(81)のほか、四、五人しか受けつがれていない。

西海のガウディ

長崎県五島の福江に奇妙な観音堂を二十年間も、たった一人で建て続けている掛塚留吉さん(75)は、これが建たないと、自分の一生はまるで意味を失うとくり返しくり返し語っていた。

 輪タク屋「富士屋」車夫

雪深い越後の山奥から、十八歳で浅草へ出て来た相沢清吉さん(70)は、来る日も来る日も馬道の芸者衆を車に乗せて、ハッと気がついたら五十二年が過ってしまっていた。

 新版球根栽培法

世界大蒜(にんにく)革命を主張する大分県宇佐市の坂本適蔵さん(91)は彼の手になる「命泉」さえ服用すれば、人皆健康になり人皆平和になると説く。

先斗町手拭浄瑠璃

京都先斗町の芸妓さん橘田政蔵さん(77)は、苦しい生活の中から手拭折っての人形浄瑠璃という芸を編み出した。しかし、それとて一代限りの芸で誰も受継ぐ人なく終りそうだ。

知床名物海馬博士

知床半島の羅臼に海馬(トド)をとって食わせる店があり、主人の高橋一さん(49)は日本一の海馬の権威でもある。ハンターは獲物に似てくると言われるが、どうやら彼も海馬のボスにどことなく似てきたようである。

キザでニヒルな総会屋

総会屋といえば、一方の悪人の旗頭のように言われているが、中島義昭さん(44)はそんなイメージからほど遠い、文学好きでジャズ狂といったオカシナ、オカシナ総会屋さんである。

アレグロ・アバッショーナータ

終楽章は、アレグロ・アパッショナータでなければならぬ。オーケストラが、そういう具合に、炎となって燃え上るのは何時の日なのだろうか。名古屋フイルハーモニー・オーケストラの事務局長、松木章伍さん(42)はそんな「ある日」を夢見ている。

尼崎外連(ケレン)物一代記

外連というのは芝居などで正法を破り、怪談物やなにかで早変りや宙乗りをやったりすることを言うのだが、尼崎で観た沢村章太郎さん(45)の外連は実に感動的であった。

越後手毬のてまり唄

赤い手毬が真白な雪の上にポトリと落ちた。越後の一之貝に手毬をつくるバサマがいた。名児耶チハルさん(56)の手毬には魔法のガラス玉のように、越後の四季が美しい音楽をかなでていた。

 新宿三丁目の小茶

新宿歌舞伎町三番街に「小茶」という小さな飲み屋がある。これほど熱烈なフアンの多いママもいないであろう。本名が栗間フジさん(57)。小茶のおばちゃん、と言えば泣く子もだまる飲み屋の中の飲み屋のババーなのだ。

人情飴風船

飴細工をする人は東京に三人、関西に一人しか残っていない。そのためか篠木奏一さん(59)の仕事も、お祭や縁日ばかりでなくホテルで開かれるいろいろなパーティによくたのまれたりするのだ。 

さすらいのパチンコ・ピエロ

現在残っている見世物小屋は十三本、サーカスは四本、オートバイサーカスが三本、お化け屋敷は数知れず……という。いつ会っても楽しくにぎやかな「蛇姫御殿」の名物吹込み小島チビさん(53)はかつてサーカスの人気道化師だった。

骨接村女赤髭譚

岐阜県下呂町に骨接の名医がいると聞いていた。飛騨川に沿ってしばらく走り、やがて右の方へ山を登ると立派な旧家が見えてくる。奥田房子さん(56)は、そこで三代の奥田又右衛門につかえて生きて来た。 

四天王寺覗絡繰

覗絡繰をやる人は大阪の黒田種一さん(54)だけになってしまった。彼岸の日、四天王寺の境内に引導鐘の音のあい間をぬって、のぞき節は秋風に舞っていた。

 大駱駝艦のはぐれ鳥

広島での胎内被爆児が、どういう世のめぐりあわせからか、キャバレーまわりのショーダンサーになった。そして大須賀勇さん(29)は今度は東京都知事に立候補するといっている。 

九月になれば

のこ・いのこ(25)という変テコな名前の唄歌いがいた。ギターかかえてフォーク風ソングを歌う彼女は今われわれの周囲で最も〃歌心〃を持った女である。

三人だけのコクラジェンヌ

玖珠川竜子(くすがわりゆうこ)、右京由美(うきようゆみ)、紫都(むらさきみやこ)、-なるほど名前からすれば少女歌劇そのものだ。九州の小倉で生まれて勝山閣少女歌劇団も二年前に解散し、今ではかつてのコクラジェンヌが三人だけ舞踊団と名を変えて踊っていた

怪獣たちの午後

することもなくテレビの子供番組をみていると、どこをまわしても変身モノ怪獣モノばかりだ。ひとつあの怪獣達の中味と酒でも飲もうか、と〃仮面ライダー〃の中味、中村文弥さん(27)に会ってみた。

蝋人形師の呪咀

人間に似れば似るほど、人形は恐ろしい存在としてこの世に現れる。そして、蝋人形ほど人間の形に近いものはあるまい。日本でただ一人の蝋人形師、松崎二郎さん(30)はオレは蝋人間師になりたいと言う。

女三十五歳逆海老固め

柳みゆきさん(35)は現役では日本最古参の女子プロレスラーだ。埼玉県所沢の百姓の娘が十五でこの道にとび込み、旅から旅を続けているうちに二十年が経っていた。

土方才三風河馬書記長

光文社三労組の闘いは実に三年五ケ月におよんでいる。あるシンパの女性は「あんなにも、人々に勇気とやさしさを与える闘争はない」と涙ぐむ。河馬さんこと川本武さん(35)はそんな組合の書記長である。

ホルマリンづけの桃色映画

ピンク映画界も十年になった。一時は年間三百本近くの製作数を誇ったこの世界も、ピンク洋画と日活ポルノに追いまくられ、非常なピンチに立たされている。女一人で雑誌「成人映画」を八年間続けて来た川島のぶ子さん(37)もすっかり考え込んでしまっていた。

ABCC病理渉外課員

佐々木寅夫さん(35)は広島ABCC(原爆傷害調査委員会)の病理渉外課の主任である。主な仕事は、亡くなった被爆者の遺体を遺族から提供してもらうことだ。

音魂につかれた男

世の中、ものすごいステレオブームである。年間、数百万台は売れるという。ここに音に愚かれ、音に狂った一人の男がいる。森川忠勇さん(38)だ。彼は〃音魂が棲むか棲まないかは機械そのものよりも、それを持つ人間の心が問題なのだという。

オウムを飼う殺し屋

殺し屋にとりつかれ続けて来た男が〃ピンク色の殺し屋〃をやめた。鸚鵡(オウム)を愛し、船の清掃夫になってはじめて山本昌平さん(35)の眼には、ほのかに〃鉄色(くろがね)の殺し屋〃が見えて来た。

あとがき

ただ、ゴーゴーと吹き荒ぶ風の中にじっと身をさらしていたい、そう思って旅に出ただけだったのかも知れない。
実に様々な人々に逢って、酒をくらい、夜道を歩いた。
からだの中に風が吹いている人がいる、そんな想いが自分の何処かでハラハラ音を立て始めてからどのくらい時が経ったのか、もうすっかり忘れてしまったが、随分と昔のようでもありつい先日のようでもあったりする。おかしな話だか「青春」だの「愛」だのという言葉を唐突にぶつけられるとひどく気恥しく、年甲斐もなく顔を赤らめたりしてしまう。そんな「歳頃」になってしまっているのだ。 けれども、単語を失うというは不便なもので、かと言ってそれにとって変わるウマい言葉を見つけるでもなしになんとなくイライラしている三十男にとって「風」はきわめて有難い手掛りになってくれた事には違いなかったのである。
 旅に出かける有力な口実がひとつ出来たと言ってもよい。人恋しさを他人から見破られずにすむと思う。身勝手な誤解が実に心地良かったのである。それは今でも変ってはいないばかりか、「風」への想いは募るばかりなのである。
 「流民烈伝」の流民は、いわば私にとって風とほぼ同義語であって、生活様式の具体性よりも、心情とか心根とか精神といった、きわめて理屈に合わない部分の方により多くの比重があり、まさか「からだの中に風が吹いている人々」とも言う訳にもいかず、多少カッコをつけて「流民烈伝」とし、1972年の11月から73年の12月まで50回に渡って「アサヒグラフ」に連載したものである。乱暴にもさしたる確証もなしに夜汽車に飛び乗ってしまったのだ。
 日記ではなく、週記とか年記とか十日記というものがあったとすれば、「流民烈伝」は風にうつつをぬかし、風に身をさらしたがってばかりいた男の七日記だったのかも知れない。ゲラ刷に慣れない手つきでおっかなびっくり赤鉛筆を走らせていると、三年前、四年前の様々な出来事が妙に生々しく深夜の部屋の中におし寄せて来て、たまらず茶ワン酒ならぬ酒ワンウィウスキーをガブガブ飲みほすていたらく。
 日記というものは脳軟化症一歩手前あたりで読み返すものばかりと思っていたものだから、せめても擬似脳軟化症にでもならなければとてもはかどる作業ではない。
 もののはずみとは怖しいもので、アサヒグラフの誌面がきっかけで、TVのショー番組に何度も引っぱり出された方やフィルム番組に登場せざるを得なくなった方、映画の大役をつかんだ方、雑誌にいろいろ紹介されるハメになった方、ファン?に自宅までおしかけられるようになってしまった方、等々、その後日譚騒々しい限りであった。それからというもの、仕事で旅に出かけるたびに近くにまだ、〃流民がお住いならばかならずお邪魔させていただくようになってしまっている。けれども、すでに、他界された方数名。
 窓を全開にする。まだ明けやらぬ12月の空は深い鉛色のままであった。ほてった顔に一気にぶつかって来た冬の風にはすでに遠い南の国のほのかなかほりが漂っていた。
 いつか、何処かで出逢った何人かの人々のからだの中に、冬の夜にはゴーゴーと、夏の夕暮れにはサワサワと、春の宵には花のように、秋の朝には霧のように、確かに風は吹いていたのであった。
 この本がまとまるまでに多くの方々の御世話になりました。ここで改めてお礼を申し上げさせていただきたいと思います。
 アサヒグラフ連載中には、前編集長の伊藤道人さん、前デスクの小西孝道さんをはじめスタッフの皆様に、出版にあたっては白川書院の米沢慧さん田辺肇さんとスタッフの皆様に、序文を寄せて下さった森崎和江さん、それに心良く取材に応じて下さった〃流民の皆様方に、心から感謝いたします。有難う御座居ました。