早野寿郎    はやのとしろう

演出家。一九二七年生。俳優座養成所第二期生。
小沢昭一とともに俳優座スタジオ劇団新人会を設立。
俳優小劇場を設立し、数々の名演出・名構成をなしたが、特に「新劇寄席」「オイディプス王」(ソフォクレス)「カチカチ山」(太宰治)の演出は絶賛を博す。
昭和四一年度 芸術祭奨励賞受賞。
昭和四六年度 紀伊国屋演劇賞受賞。
東京に在住。「説教-埋もれた芸能史からの招待プロフィールより

●わが畏友 早野寿郎  「小沢昭一雑談大会より紹介

あの戦争が、日に日に熾烈(しれつ)さを加えていた頃、沖縄から一人の秀才少年が、未だ見ぬ「内地」に還ってきました。
彼には、目にするものすべてが珍しく、意外な発見の連続でした。空気の味がはっきり違うことからしてまず驚きでした。彼は、木々の紅葉する風景を初めて見ました。話には聞いていた、雪というものを、初めて手に取り、なめてみました。-
彼は、医者になるための「理乙」から、次第に芸術への関心が湧いて「仏文」へ、そして、いつのまにか「俳優」たらんと、俳優座の養成所開設を待って入学しました。この彼こそ、わが畏友-早野寿郎。
昭和二四年十一月、麻布の霞町に、俳優座の附属俳優養成所が開かれて、試験に選ばれた喜びと誇りを、胸に一杯秘めて、私たちは集まりました。そこは和気あいあいの温室でありましたが、やはり普通の学校とは異った、「競争」が、あたりに瀕っていました。皆それぞれの個性を無意識のうちに主張するなかで、雑談好きの私は、私の周りに人を集めて、猥なるサゲで御機嫌を伺うオソマツ。ふと見れば、こなたより一段とあなたに人を集めて、湧かせているのは、誰あろう早野寿郎の、高尚にして愉快なる芝居談義です。すでにこの時、早くも勝負はついて、機をみるに敏なる吾が中小企業は、店をたたんで早野大資本の傘下に参じます。-
養成所在籍中に、先輩たちにまじって俳優座の公演の舞台を踏むことが、当時の私たちの最大の願いであったわけですが、彼が一番多くそのチャンスを掴んでいました。そして千田演出に触れる度毎の、彼の「驚き」。それは「驚く」彼の人生の最も重大なる「驚き」であったのです。この「驚き」は、やがて尊敬の念に変わり、その千田崇拝が、自らを演出志望の方向へ変化させていったように思われます。今でも、千田先生に対する彼程の真剣な思慕を私は他の新劇人の中に見ません。
先年、彼は脱疽という難病に取り愚かれ、医者の不注意から、文字通り、生死の境をさまよいました。
-左足を失うことで、俳優と演出の二足のわらじの、俳優の方のわらじをはくことが出来なくなりましたが、演出一筋にほぞの固まった彼は、前にも増して、芝居への情熱を燃やしはじめたのです。
さて彼は、今でも常に「驚き」続けています。沖縄から上陸以来の、彼の「内地」に対する「驚き」は未だに跡を断たず、私たちが「内地」に安住して、「内地」を見慣れ、見過ごし、見くびっている中で、彼は、キザにいうなら-永遠のエトラソゼ-として「内地」を見据え、先入観なしの、白紙の好奇心と思考で、物を捉えて放しません。こうした素朴で、しかも、ユニークな「驚き」-発見の感動がたまりたまって、彼の演出に於ける豊富なイマジネイショソの源泉となっているようです。
彼が昨年一年間に演出した芝居は、『黒人たち』『トロイアの女』をはじめ、再演、試演、大小合わせて十本を越え、しかもその一つ一つが、念入りでかつ新しい試みに温れていました。こっちが「驚か」ざるを得ません。
彼の愛称は「カソペイ」です。たんに、早野-勘平だけで付けられた渾名ですが、-
「悲劇喜劇」(昭和423)
追記 養戊所卒業後、すぐ「カンペイ」さんとはじめた「新人会」を一緒に逃げだして「俳優小劇場」を作り、その「俳小」も昭和四十六年十一月、解散した。みんなバラバラになって、さぞ彼も「憾平」だと思う。-。

説教-埋もれた芸能史からの招待  小沢昭一 関山和夫 永 六輔 祖父江省念 風媒社 1974年4月刊