寺島珠雄  てらしま たまお

寺島珠雄写真

1925年東京生、労働と放浪を反覆しながら詩や雑文を書いてきた。
61年以降ほぼ釜ケ崎暮らし。
詩集「わがテロル考」76VAN書房、「労務者渡世」76年風媒社、「私の大阪地図」77年たいまつ社などがあり、詩集「情況と感傷」がVAN書房から近刊されるほか、小野十三郎全詩集、岡本潤全詩集の年譜の作成など。
釜ヶ崎資料センターのホームページに「寺島珠雄の部屋」があります。

釜ヶ崎語彙集 1972-1973   寺島珠雄編著   新宿書房  2013年8月刊

釜ヶ崎-旅の宿りの長いまち  寺島珠雄 著  プレイガイドジャーナル社 1978年4月

寺島珠雄略歴=「釜ヶ崎語彙集」前田年昭氏)作成によるものです
[生年月日]1925年8月5日
[没年月日」1999年7月22
アナキズム詩人。東京府北豊島郡(現・豊島区)西巣鴨町3214番地に、巡査だった父操と母ゆきの二男として生まれる。本名・大木一治(かつはる)。千葉県東金町東金小学校卒業、成東中学校から転校した千葉県私立関東中学校を二年で中途退学。1940年、手刷りの第一詩集『道標のない地帯』刊。ダダイスト辻潤に心酔し、岡本潤に親しむ。書店、工場、炭鉱と職を転々とし、労働と放浪を反復しながら詩や雑文を書きつづける。
42年に海軍志願兵、44年4月逃亡、後、逮捕され横須賀海軍刑務所に服役。45年8月、日本の敗戦により釈放。翌月九十九里鉄道入社。兄静雄とガリ版誌『ぶらつく』創刊。労組を転々とし、48年7月、詩集『ぽうふらのうた』(武良徒久社)刊。その後、土工、鉄筋工など肉体労働をしながら東京・山谷などを流動するが、66年以降、大阪・釜ヶ崎に。68年2月以降、商業紙誌などが日雇労働者をことさらに「労務者」と呼ぶことに異議を申し立て、全港湾や釜共闘の運動に影響を与えた(74年3月、大阪市は「労務者」を差別用語と認めた)
69年に竹中労と会い、終世の友となる。同年8月、詩集『まだ生きている』(釜ヶ崎通信別冊)刊。翌年1月、文芸誌『鯤』創刊。3月、自伝『どぶねずみの歌 廻転し、廻転する者の記録』(三一書房)刊。「労働者という言い換えよりも労務者との自己確認が必要」として7412月創刊の『労務者渡世』に参加(「おれたちは労務者渡世「労働者」を捨てた者の反転の論理」『朝日ジャーナル』751121日号)。寺島を評して竹中労は「狂疾」といい、小沢信男は「正眼の人」としたが、謙虚で、若い活動家に対しても優しく、仕事の世話などもして慕われた。
76年5月、詩集『わがテロル考』(VAN書房)刊。78年尼崎に移る。85年6月、選詩集『寺島珠雄詩集』(石野覚個人発行)1990年、第二次『低人通信』一号発行(終刊は99年5月の42)。アナキズム詩史に通じ、岡本潤、小野十三郎ら詩誌『赤と黒』同人の研究、文献の博捜と綿密な考証で知られ、『小野十三郎著作集』全三巻(90年~91年、筑摩書房)の編集・編註・年譜を担当。95年、阪神大震災で被災するが、習慣の朝風呂途上で身体は無事だった。99年6月、肝臓および食道のガンで入院し、7月22日死去。『南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』(99年9月、皓星社)は絶筆となった。
著書に『私の大阪地図』(たいまつ社、77)『釜ヶ崎旅の宿りの長いまち』(プレイガイドジャーナル社、78)、『断崖のある風景 小野十三郎ノート』(同、80)、『アナキズムのうちそとでわが 詩人考』(編集工房ノア、83)、『神戸備忘記 詩集』(浮游社、88)ほか。(文責・前田年昭)