永井萠二    ながい ほうじ

永井萠二写真

1920年東京に生まれる。1944年早稲田大学文学部卒業。敗戦後、46年朝日新聞社入社。以後、『文芸朝日』副編集長、「朝日新聞」編集委員を歴任。日本ペンクラブ会員。現在、聖徳学園短大で児童文学を講義している。おもな著書に『キムチの匂う街』(太平出版社刊)、『雑草の歌』『焼け跡は遠くなったか』などのほか、児童書に『ささぶね船長』『サンアンツンの孤児』などがある。

春風のなかの子ども ルポルタージュ 永井萠二 著  太平出版社  1979年11月

見知らぬ人見知らぬ町-国境の町から火の国へ 永井萠二 太平出版社 1980年12月刊

26 わたしが歩いた時代-あとがきにかえて(「見知らぬ人見知らぬ町」より)

もう、とおいむかしの話である。
 早稲田大学に、童話を書く学生の集まり、「早大童話会童話会」というグループがあった。現在も「少年文学会」と名をかえてつづいているが、わたしは、1940(昭和15)年から43年末にかけて、会員のひとりとして、純粋なきもちで児童文学の創作にうちこんだことがある。そのころの日本は、戦争にむかってばく進する黒い列車のように、どこにも自由はなかった。が、この童話会の会室には、いつものびのびとした空気がただよっていた。四年間の大学生時代に、よき師と同じ道を志す友をえて、わたしの人生の素地がつくられたような気がする。-
 もともと、わたしは中学生時代から、詩や童話をかくのがすきだった。わたしは五人姉弟の末っ子で、父は英文学者だった。家庭にはいくらか知的な雰囲気がただよっていた。わたしの小学生時代、女子大生の長姉がとっていた『赤い鳥』の影響をおおいにうけた。
  『赤い鳥』というのは、「大正」時代、鈴木三重吉という作家が芸術性のたかい童話や童謡を創作する最初の運動をおこし、そのために刊行した子どものための月刊誌である。-
だから、わたしのかよった東京府()立六中(現新宿高校)の軍国主義教育の鋳型にはどうしてもはまらず、すっかり自信をなくしたものである。六中は当時、有名な進学校で、同級生は秀才ぞろい。海軍兵学校や陸軍士官学校といった軍人への道を選ぶ友も多く、わたしのような文学ずきの少年は異例といえた。この中学校は、朝礼のとき、「明治天皇」の御製を生徒に奉唱させる。わたしは、「天皇の歌に生活があるかよ。石川啄木の歌でも、教えりゃいいのにさ」と放言し、それが体操の教師に知れて、足ばらいをくわされたことがある。-
 それだけに、「早大童話会」は、わたしがやっとたどりついた心のオアシスであった。早稲田での最初のクラス会の自己紹介で、「わたしは童話作家になる。が、坪田譲治のようなヘタクソな童話は書かない」と、心にもない大ミエをきったら、となりの同級生がびっくりした顔をむけた。それが坪田先生の二男坊の善男くんだということが、あとでわかり、大汗をかく一幕があった。当時、坪田譲治といえば流行作家で、「朝日新聞」に連載した『風の中の子供』は映画化され、大評判だった。
 これが縁で、「早大童話会」のなかま、前川康男くんといっしょに、よく坪田譲治先生のお宅にうかがったものであった。先生は、善男くんからわたしの失言についてきいておられたのだろう。ある日、「君は芸術の快男児なり」と、色紙に書いてくださった。
  つい最近、東京でもたれた「坪田譲治先生誕生90年、びわの実学校100号祝賀会」では、先生のにこやかな笑顔と「早大童話会」のなかまとの談笑に時のたつのも忘れるほどであった。『びわの実学校』は、坪田先生がわかい作家を育てようと、私費を投じて、17年間つづける童話雑誌である。
 なかまはつぎつぎに兵隊にいったが、そのたびに、「お別れ創作研究会」をやった。日本の子どものためにのこす遺書のつもりで書く作品に、軍国主義賛美などひとかけらもなかった。『たのしい仲間』『町の子村の子』という童話集をみんなで出版したら、今西祐行くんの朝鮮人の子に愛情をそそいだ『ハコちゃん』という作品がひっかかり、幹事のわたしが警視庁に呼ばれ、思想係の刑事におキュウをすえられたことがある。いまの韓国・北朝鮮は、そのころ日本が支配していたのである。足を机の上になげだした係官は、「けっ、人類愛……、笑わせるな。いま日本は、アメリカをあいてに血みどろで戦っているんだ!」。
 このとき、わたしは、日本にはなんとバカがおおぜいいるのかと思い、すくわれないきもちになったが、また、ふしぎに自信をふかめたこともおぼえている。
 1943(昭和18)12月、学徒出陣で神奈川県川崎市の東部六二部隊に入営した。この部隊は、硫黄島で玉砕して犠牲者を多数だしたが、わたしは初年兵教育係の班長として生きながらえた。
 1945年の8月末、わたしは二年間の兵営生活から復員、東京の焼け跡と飢餓地獄から逃れるように、すしづめの汽車を乗りついでいた。わたしの父母は、島根県広瀬町という山間の城下町に疎開していた。
 おとなりの武家屋敷に、父がわかいころ英語教師をしていた松江の中学校のころの教え子、井上魁先生が、ぐうぜん東京から疎開しておられた。敗戦までの文部省の国定教科書「サクラ読本」の生みの親である。
 わたしは、翌46年の一月上京、朝日新聞社に入社したが、この町で近隣の百姓仕事をてつだってくらした、あの四か月間を、いまでもときおりなつかしむ。兵隊生活で乾ききった心をみたし、いのちながらえてきた喜びとともに、井上先生によって、平和な民主主義の新しい時代に生きるわかものの意義を教えられたような気がするからである。
 かけだし記者時代は、『週刊朝日』の、のちの名編集長扇谷正造氏から徹底的にしごかれ、現実を直視するきびしさと姿勢をたたきこまれた。はげしい世相のなかでルポを書きつづけているうちに、あっというまに10年たった。
 ある日、ふとふりかえると、むかし知りあった浮浪児の姿が宿題のように心にのこっていた。「なんとか、かれらを主人公にして、子どもに贈る小説が書けないだろうか」。アメリカ兵の前に空カンをつきだし、めしやチューインガムをねだっていた、かなしい日本の子どもの姿が、わたしの胸をかすめた。あの子どもたちこそ、戦争のほんとうの犠牲者だった。もっとも弱い者が、もっとも悲惨な運命を強いられるのだ。わたしは、街で知りあったたくさんの浮浪児のなかから、三人の少年少女を選んだ。あのどん底から、強くけなげに生きぬいてきた、春雄・算吉・牧子の三人を主人公にして、わたしは1954(昭和29)年、長編創作『ささぶね船長』(新潮社。のちに理論社)を書いた。
 坪田譲治先生は、「フレーフレー、ナガイ」と、はがきをくださり、むかしのなかまもとても喜んでくれた。わたしは、この作品によってサンケイ児童出版文化賞を受賞した。
 さて、1976(昭和51)年に朝日新聞社を定年退職するまで何百、何千の人とインタヴューしてきたことだろう。昨年、書庫に年代順にならべてある33年間の約1,600冊におよぶ『週刊朝日』のなかから、わたしの署名入りの記事を全部ぬきだして、『キムチの匂う街』『春風のなかの子ども』(いずれも太平出版社刊)の二冊のルポルタージュ集をだした。この二冊は、本書とあわせて「戦後庶民の歩み」のシリーズをなすものである-
 いそがしい生活をおくっていると、かならず坪田譲治先生から電話がかかってくる。「永井さん。げんきですか。まじめに正直に生きていますか」。「たまには、童話をお書きなさい」といわれて、わたしは30年間の記者生活のあいだに、かれこれ40冊ほど、子どもの本を書いてきた。
 人間の運命というのは、つくづくおもしろいものだと思う。記者と児童文学の二筋道を歩いてきたために、わたしは新聞社退職後の第二の人生を、千葉県松戸市にある聖徳学園女子短大の教壇に立っている。保育科・初等教育科1,100人の学生に、アンデルセン、グリム、新美南吉、宮沢賢治などの講義をするのはたのしいことである。中学時代の親友、森茂くんの弟、昌二くんが、いまこの学校の教授になっていたからだ。-