中山千夏 なかやまちなつ

中山千夏と榎本健一の画像  中山千夏画像

「千夏千記-私の人間食べ歩き」より

運命を変えた幼稚園

 私は、昭和23年熊本に生まれた。ものこころついたころには、宮崎に住んでいた。四つの時に大阪へ出て、両親は薬局を開業し、翌年私は近所の平和幼稚園というところへ通い始めた。両親がこの、のどかな名前の幼稚園を選んでくれたために、私の人生はヤクザな方向へ決定してしまったのである。
 私の知り得る限りでは、私の血筋に芸能関係の人は一人もいない。母方の祖父は小学校の先生で、その父は台湾で新聞社を経営したそうで、その出身は福井の多額納税者なんだそうだ。母方の祖母は平凡な主婦、その父は地主百姓、その嫁は西南の役の時、本陣になったサムライの家の娘である。私の父は薬剤師で、その父は小学教員、母も教員、その父はどこやらの村長、という具合で、やみくもにお堅い。もっとも、この場合の私の父というのは血のつながらぬ養父であるが、生みの父の事はよく知らないのではぶく。
 とにかく私のような軟派が出る要素はほとんどなかった。
-それがこんな事になったのは、平和幼稚園のせいである。平和幼稚園の福尾先生という、ちょっと三日月さんみたいな顔をした、小柄な女性のせいである。この人が、めっぽう歌や芝居の好きな人で、私は彼女お気に入りの、歌手であり役者であった。お遊戯会には主役で赤ずきんちゃんの大ミュージカルをやった。彼女の指導で毎日放送の音楽コンクールにも入賞した

芸能生活への第一歩

 昭和304月、関西における標準語の権威だと言われていた泉田行夫氏が、大阪で初めて児童劇団をつくるといううわさを、幼稚園の福尾先生が聞きつけた。そして熱心に私の母を説得したのである。
-母が私に劇団へ入るかどうかたずねると、私は、劇団とはいかなることをする所か、と反問し、母が、幼稚園のお遊戯会でやった赤ずきんちゃんみたいなのをする所だと答えると、私は、入る、と答えたそうである。なにしろ当時六つであった。しかし、17年という芸能生活の第一歩を、自ら踏み出したことは認めなければならぬ。
 劇団の名は"劇団ともだち劇場"という。創立者泉田行夫氏の目的は、子供に標準語を教え、児童劇をさせてへき地の学校などを慰問する、というものであった。当時まだ民放TVも始まっていなかったし、子役貸し業など想像の外だったのである。規定は小学校三年以上だったが、福尾先生のキモ入りと、入試一番の成績のおかげで、一年生の四月から毎日曜日、私は劇団へ通うことになった。
入団して三ヵ月目に、はやくもマスコミの仕事をするはめになる。TBSラジオの「人情夜話」というラジナドラマを、大阪で録音することになった。

花登筐氏との出会い

OTV開局前夜祭の番組に出演したのが、私とTVとのぞもなれそめであった。手品の番組で、種はわかっていたけれど、いわれたとおり、私はあっと驚いてみせた。昭和31年、小学校二年生の時である。
 以後、三年生で児童劇団を卒業するまでに、TVやラジオの仕事は段々ふえていった。卒業と同時に、TVで何度か一緒の仕事をしたことのあるシナリオライターから、新しく結成するタレントの会に入ることをすすめられた。-背の高いベレーをかぶったシナリオライターは花登筐氏である。
 その後、波の会から現東宝社長松岡辰郎氏の大宝芸能にひき抜かれたとき、子供にはわけのわからぬいざこざがあって、花登氏は松岡氏や私の母に対して激怒され、それは十年近く続いた。私が舞台から再びTVへ戻った昭和45年、フジTVの「五代家の嫁」で再会したとき、-私はもう二十一になっていたのである。

本格的商業演劇へ

昭和34年の1月末、四年生の私は梅田コマ劇場に呼ばれた。-三益愛子氏の娘として、川口松太郎作演出「母」に出演したのである。
これが本格的な商業演劇(というのも何か変だが)にふれた最初であった。-「母」での私は評判は良かったようである。自分でつくった舞台を見ながら川口氏がポロポロ泣いて「あの子、うまいね」といったという話を、後から聞いた。

菊田一夫氏と共に

昭和342月公演の「母」が終わった後、松岡辰郎氏の熱心な勧めに従って、私は波の会から大宝芸能に移籍した。-
その年の8月、梅田コマ劇易の「たけくらべ」に出演が決まった。その前の舞台で私に目を止めた菊山一夫氏が、私のために役をひとつ書いてくださったのである。-

子役この不自然なるもの

 昭和34年9月、私と母は台風と共に上京した。そして、今はもう半ば伝説化している芸術座の「がめつい奴」に出演し、東宝演劇部の最年少契約者となり、11月には銀座泰明小学校に転校した。

舞台世界との別離

 昭和43年の5月に東宝から離れるまでの9年間、私は舞台を主にやって来た。私は芝居が好きだった。
 私が最も熱心な役者だったのは、昭和3510月から翌年の3月にかけて、芸術座で「がしんたれ」をやっていたころである。作者菊田一夫の少年時代を演じ、全三幕の内、真ん中の一幕の主役であった。
 このときほど、演ずることが楽しく、客を泣かせたり笑わせたりすることが面白かったことはかつてなかったし、今後もないだろうと思う。
-ところが、そう見込み通りゆかないのが世の常である。結局私は舞台女優にはならなかったし、今では芝居がきらいだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
-しかし、私が東宝を出て一匹になった最大の原因はひとところに定まらぬ私の性格ゆえなのだろう。

千夏千記-私の人間食べ歩き  中山千夏 著   大和書房  1972年9月刊

千夏一記 -でなおします  中山千夏 著  大和書房  19741210日発行

男たちよ!    中山千夏 責任編集   話の特集   1977年2月刊