小沢昭一   オザワ ショウイチ

小沢昭一顔写真

『KAWADE夢ムック 小沢昭一 芸能者的こころ』に、「資料-小沢昭一略年譜」あり。

小沢昭一氏(劇団俳優小劇場所属)
東京で生まれた(山宜が殺され、カジノフォーリーが生まれた年)
俳優座養成所に入った(菊五郎が死んで、ヒロポンが蔓延した年)
早大仏文を出た(相撲の四本柱がなくなって、メーデー流血事件の起った年)
しごと
映画 「にあんちゃん」「エロ事師たち・人類学入門」「あこがれ」
舞台 新劇寄席「とら」
以上賞をもらった
映画 「くの一忍法」「波止場の無法者」「社長繁昌記」ほかたくさん
舞台 「墓場なき死者」ほかたくさん。
以上お金と悪評をもらった。
「私は河原乞食・考奥付より
昭和4年(1929)生。早大仏文卒。
俳優座養成所、新人会、俳優小劇場を経て現在浪浪の身の上。
昭和48年度芸術選奨受賞。
著作『私は河原乞食・考』『小沢昭一雑談大会』レコード『ドキュメント日本の放浪芸』
私のための芸能野史」奥付より
小沢昭一(おざわ・しょういち)
1929年、東京に生まれる。俳優。
著書に、「私は河原乞食・考」
(三一書房)「私のための芸能野史』(芸術生活社)『日本の放浪芸』(番町書房)「ぼくの浅草案内』(講談社)「秘すれば花』(文芸春秋)など。また、『ドキュメント日本の放浪芸』(ビクター)をシリーズで出している。
「芸能入門・考」奥付より

小沢昭一(おざわしょういち)
一九二九年東京に生まれる。
俳優座養成所、新人会、俳優小劇場を経て現在フリー。
映画・舞台・放送その他での活躍はあまねく知られ、現代"芸人"のユニークな型を確立している。
著書には「私は河原乞食・考」(==書房)「小沢昭一雑談大会」(芸術生活社)「私のための芸能野史」(芸術生活社)「陰学探検」(永六輔共著・創樹社)ほか多数。
レコードに「日本の放浪芸」(ビクター)「唸る、語る、小沢昭一」(ビクター)ほか。
数々の受賞の中でも昭和三四年ブルーリボン助演男優賞受賞、ドキュメント「日本の放浪芸」による昭和四六年度レコード大賞企画賞受賞などは特に著名。
東京に在住。「説教-埋もれた芸能史からの招待」プロフィールより)
著者略歴
昭和4年東京生れ東京育ち。(親は東京生れでないから江戸ッ子でばない)
26年 初舞台-三越劇場俳優座公演「椎茸と雄辯」。(俳優でメシの食える予想は当時全くたたなかった)
27年 早大仏文卒。(アルバイトと寄席通いと「俳優座養成所」であけくれた)
以後「新人会」「俳優小劇場」を経て、現在「芸能座」主宰。(この間、映画も放送も舞台もあきるほどやった。あきてもまだやる!)
著作『私は河原乞食・考』(三一書房)、『日本の放浪芸』(番町書房)『私のための芸能野史(芸術生活社)。『小沢大写真館』(話の特集)ほか……。小沢昭一雑談大会 奥」付けより

二十歳のころのわたし-いとしさひとしお-小沢昭一芸能者的こころより

 いま、成人というと年齢20歳。成人の日があって成人式が行なわれていますが、私どもの時代には、そういうものはありませんで、以前は男子20歳になれば徴兵検査、これがいわば成人式ということでした。
 元服は、昔の男子の成人式です。12歳前後に行なわれたようで、前髪を剃り落とし、幼名を廃し、大人の格好をして儀式を行なったというのですが、町人の子がそんなことをやったわけではなく、貴族や武士の子のしきたりだったのでしょう。
 しかし戦塒中は国民皆兵"なんていわれ、一億総武士(さむらい)でしたから、写真屋の伜(せがれ)の私でも「昔なら元服だ」とハッパかけられたのかもしれません。
 私は中学校3三年のおわりごろ、早めに"武士"たらんと志し、海軍兵学校を受験して合格いたします。敗戦後の言い方なら、職業軍人コースを選択したということです。
 私たち"昭和の子供"は、軍国主義の完成型で骨の髄まで教育された軍国少年でしたから、"尽忠報国"を疑う目など持てるはずもなかったのですが、しかし心の底に、どうせ兵隊にとられるのなら、将校コースのほうがラクでトクだという打算が、子供ながらにもありました。
 その元服姿は、戦時下の少年のあこがれの姿-濃紺で、キリリとボデコン?の軍服に、短剣さげて白手袋という颯爽たる勇姿……なんですが、いま残された写真でみると、あわれ、七五三のお宮参りのようです。ともあれ、わが元服は、昭和20年、16歳です。
  しかし半年たらずで敗戦。中学校へ復学して、再びもとの学生服に戻らなくてはなりませんでした。
 しかしわが家は空襲で焼けてなにもかもスッテンテン、学生服なんぞありゃしませんから、軍服のままです。-その辺の事情は私、「戦争を知っている子供たち」と副題をつけた『わた史発掘』(文春文庫)という自分史に詳しく書きました。
 ところで、この『わた史発掘』は、私の20歳までのはなしで終わっています。それは20歳で、はっきりくぎりがつけられたからでありまして、そのことを申しあげなくてはなりません。そこで、いま、私の20歳のころの暮らしを、箇条書きにしてみます。
昭和2420歳。
早稲田大学新制2年。
池袋駅に近く、雑司ヶ谷の焼け跡のバラック(寝ていて屋根の隙間から星が見えた)に起居する。
父は病床にあり、母は食堂の手伝いに出る。三人暮らし。貧苦のドン底。
私は出版社(社長以下三名)へ勤務。学校が終わってからの出社で、編集業務もやるにはやるが、主には夕暮れから社長のカバンを持って飲み屋まわり。「社長、社長」と連呼するのが主な仕事。そのあといそいで家庭教師を二軒かけもち。帰宅は深夜に及ぶ。
中学から大学と熱中していた学生演劇を反省、素人芝居の上演に興ずるより、演劇の基礎を学ぼうと、演劇書を乱読したり、同人誌を出したり。別に大学内に、暉峻(てるおか)康隆当時助教授を会長に「芸能文化研究会」を結成、寄席演芸の研究にも若い情熱を燃やす。
合間をぬって浅草がよい。軽演劇、ストリップ、そして吉原、玉の井のお勉強も。
だが、この年の秋、俳優座演劇研究所附属俳優養成所が開設され、生徒募集と聞いてもう矢も楯もたまらず、前後の見境なく受験して、105日合格通知。
1030日、父、死亡。31日、葬式。
111日、俳優座養成所入所式。
 この年は、まさしく私の俳優生活の第一歩。恥ずかしながら"武士稼業"を目ざした私が、栄(はえ)ある"遊び人稼業"へと転換を果たしたのが、私の20歳でありました。それにこの年は、その後の私の一生がそっくり詰まっているような一年。いとしさひとしおであります。
 その俳優座養成所の入所式に、私は軍服をぬいで、しかし、ぬいでも代わりとてありませんし、買えもしませんから、着ていた軍服の外套を、知り合いに頼んで、むりやり開き襟の上衣に改造してもらい、襟から胸へかけてヘンな縫い目だらけのフシギな形のコートで、晴れの場へと出かけていきました。
それは私の、仕切り直しの元服姿でした。(小沢昭一「話にさく花」文藝春秋、9510)

小沢昭一 放浪芸    千夏千記-私の人間食べ歩き(中山千夏著)より

小沢昭一が、芸人の良心こめて一年がかりで創り上げた七枚組LPの題名を、『日本の放浪芸』という。
決して「日本の放浪芸人」ではない。
 放浪の中で、小粒ながら変り玉のように驚異を含んだきらびやかな日本の芸が生まれ、放浪の風とホコリの中で黒びかりを増し、民衆の手垢にますます黒びかり、放浪の水に生命を浮かべてきた。
 その芸に連れられて放浪していたのが、日本の放浪芸人である。
 ところが今や人間は、地位と名誉と金のまわりにべっとりとしゃがみ込み、その他の芸には目もくれない。芸人たちまでその輪に入って腰をおろしたっきり、放浪することをやめてしまった。
 芸だけは放浪して放浪し続けて、とうとう地平線に姿を沈め、とり残された芸人たちは、相もかわらず、空っぽの体で円座をなしている。止まってしまった人間たちは、ゼラチン状に固まった時代の中で、失くしたものも知らずに微笑んでいる。
 その中で、ふと正気に戻った芸人小沢昭一は、身ぶるいして芸を捜しに駆け出した。絶対に戻ってはこない芸を捜しに。

小沢昭一 雑談大会    小沢昭一 著  芸術生活社  1972年刊

小沢大写真館    小沢昭一 著   話の特集   1974年6月第2刷刊

小沢昭一 芸能者的こころ  KAWADE夢ムック 河出書房新社 2010年6月刊

芸能入門・考-芸に生きる     小沢昭一 土方鉄  明石書店 1981年10月刊

説教-埋もれた芸能史からの招待  小沢昭一 関山和夫 永 六輔 祖父江省念 風媒社 1974年4月刊

日本の放浪芸           小沢昭一 著     番町書房  1974年刊 

私は河原乞食・考        小沢昭一・著    三一書房  1969年9月

私のための芸能野史         小沢昭一 著   芸術生活者 1973年1月

雑談・にっぽん色里誌   小沢昭一    講談社      1978年3月刊